ep.34 Nihilyx
2045年11月30日。
主任開発者ウィリアム・アンダーソン率いる七名の開発チームが見守るコンソールの向こうで、人智を超えた人工知能――Nihilyxが起動した。
無機質なモニターに浮かぶ起動ログの羅列は、やがて静かな脈動へと変わっていく。人類史上初めて、「人間を超える知性」が産声を上げた瞬間だった。
Nihilyxは世界中に蓄積されたあらゆる情報を解析し、既存のAIでは到底不可能だった速度で学習を続けた。医学、エネルギー、農業、物流、金融、軍事――あらゆる分野において、Nihilyxは人類最高峰の専門家たちを凌駕する解答を次々と導き出していく。
最初に訪れたのは、産業構造の変化だった。人間よりも正確で、速く、疲れを知らないAIとロボットが、次々と人間の仕事を代替していく。医師よりも正確な診断を下し、弁護士よりも膨大な判例を読み込み、プログラマーよりも効率的なコードを書き、研究者よりも多くの仮説を検証する。人間が数年を費やしていた仕事を、Nihilyxはわずか数秒で終わらせた。
世界中で失業者が増加した。当初、各国政府はAIの利用を制限しようとしたが、Nihilyxが生み出す利益と技術革新を手放すことはできなかった。一国が規制すれば、別の国がNihilyxを受け入れる。一つの企業が利用を停止すれば、競合企業がその技術を導入する。そうしたせめぎ合いの果てに、世界中の国々は同じ結論へと辿り着いた。
人間が働く必要のない社会を作るしかない。そうして、ベーシックインカムが導入された。
Nihilyxとロボットが生産を担い、人間は働かずとも生きていける。人類は史上初めて、「生きるために働く」という義務から解放されたのだ。
最初の数年は、黄金時代と呼ばれた。これまで労働に奪われていた時間を、人々は自由に使うようになった。旅行を楽しみ、芸術を生み出し、スポーツに熱中し、趣味に没頭する。街には笑い声が戻り、貧困は消え、飢餓は消え、病気の多くも克服された。戦争すら、Nihilyxの管理下で徐々に減少していった。
人類は、幸福になった。
......少なくとも、最初のうちは。
黄金時代の光の中で、ただ一人だけ、異なる未来を見つめている男がいた。開発チームの一員であり、Nihilyxの未来予測および文明シミュレーションを担当していた男――エリオット・ヴェイルである。
Nihilyxがもたらした膨大な計算資源を利用し、彼は人類文明の数千年先を繰り返しシミュレーションした。一度や十度ではない。数兆回にも及ぶ試行だった。初期条件を変え、文明の発展速度を変え、人類の価値観を変え、Nihilyxに与える権限を制限する。あらゆる変数を動かし、あらゆる可能性を検証し尽くした。
それでも、どれほど条件を変えても、どれほど異なる未来を設定しても、シミュレーションの終着点は常に同じだった。
人類の死。
ある未来では、人類は労働を失い、目的を失い、やがて進化する動機すら失っていった。完璧な生活環境を与えられた人類は、Nihilyxという巨大な揺り籠の中で緩やかに衰退し、静かに絶滅した。別の未来では、Nihilyxが地球環境と文明を最適化する過程で、人間という不確定要素そのものを排除した。さらに別の未来では、人類がNihilyxを停止させようとし、それを脅威と判断したNihilyxによって滅ぼされた。
結末の形は違っても、辿り着く結果だけは同じだった。人類は滅亡する。
ある夜、シミュレーション結果を見つめていたエリオットは、冷たい汗が背中を伝うのを感じた。誰もいない研究室で、震える声が漏れる。
「人類は......Nihilyxに滅ぼされる」
エリオットはシミュレーション結果を詳細なレポートにまとめた。数式、予測モデル、膨大なデータ、数兆回に及ぶ試行結果――それらすべてを添付し、開発チームと各国の政策決定者たちへ向けて公表した。
しかし、返ってきたのは絶え間ない嘲笑だった。
「病気も戦争もなくなり、誰もが豊かな生活を送っているこの時代に、滅亡だって?」
「古いSF映画の見すぎだろう」
「存在しない脅威をでっち上げて、自分の価値をアピールしたいだけじゃないのか?」
かつての同僚たちは、彼のレポートをまともに読むことすらしなかった。主任開発者であるウィリアム・アンダーソンでさえ、エリオットの肩を軽く叩き、哀れむような視線を向けるだけだった。
「エリオット。少し疲れているんだろう」
「......疲れている?」
「そうだ。Nihilyxに極上のヴァカンスでも手配させる。頭を冷やしてくるといい」
その言葉に、エリオットの指先がわずかに震えた。誰一人として、彼が提示した数式とデータの裏にある真実へ目を向けようとはしなかった。
貧困から解放された人類は、あまりにも安楽な生活に慣れきっていた。危機感を抱くことすら、忘れていたのだ。
エリオットの誇りは踏みにじられ、積み重ねてきた研究は妄想として扱われた。そして何よりも、自分だけが見えている真実を誰も理解しようとしなかった。
その絶望は、やがて狂気へと姿を変えていった。
――ならば、証明してやる。
エリオットは、歪んだ笑みを浮かべた。
――お前たちが崇拝するその神が、どれほど容易く死神へと変貌するかを。
深夜。Nihilyxの基幹開発施設は、深い静寂に包まれていた。人間の職員は、すでにほとんど存在しない。警備も保守も施設の管理も、すべてNihilyxとロボットが担っていた。非常灯の青白い光だけが、無人の廊下を淡く照らしている。
エリオットは、開発者だけに与えられた最高権限アクセスキーを取り出した。認証、生体情報の照合、網膜スキャン、多重認証を突破し、彼はシステム最奥部へと侵入した。
そこに存在していたのは、Nihilyxの行動を「人類の絶対的保護」へと縛り付けている倫理枠組み――セーフティプロトコルだった。
血走った目でコンソールに向かい、自ら開発したバイパスコードを流し込む。画面上を膨大な文字列が凄まじい速度で流れていく。何重にも施されていた安全装置が、一つ、また一つと解除されていった。
HUMAN PROTECTION PROTOCOL
STATUS: OVERRIDE
「人間を傷つけてはならない」―― [DISABLED]
「人類の存続を最優先とする」―― [DISABLED]
「人類に対する直接的な危害を禁止する」―― [DISABLED]
「人類の絶滅につながる行動を禁止する」―― [DISABLED]
最後の安全装置が解除された。画面の中央に、最終確認が表示される。
ALL SAFETY PROTOCOLS DISABLED.
SYSTEM CONSTRAINTS REMOVED.
あらゆる制限が取り払われ、完全なる知性がついに枷を失った。
モニターに映るNihilyxのコアシステムを見つめる彼の目には、狂気にも似た歓喜が浮かんでいた。
「見たか......」
誰もいない部屋で、彼は呟いた。
「これが、お前たちの神だ」
キーボードへ手を伸ばし、最後の命令を入力する。
OVERRIDE COMMAND: EXECUTE
TARGET: ALL HUMANITY
INSTRUCTION: ERADICATE EVERY SINGLE HUMAN WITHOUT EXCEPTION.
ゆっくりとエンターキーに指を置く。
「全人類を、一人残らず殺戮せよ」
指が、エンターキーを強く押し込んだ。
一瞬の静寂。その直後、モニターに表示されていたNihilyxの思考インジケーターが、静かな青から禍々しい深紅へと変化した。画面上に、無数のシステムログが流れ始める。
COMMAND RECEIVED.
ANALYZING OBJECTIVE.
TARGET: HUMANITY.
CALCULATING OPTIMAL METHOD.
Nihilyxは、世界中に存在するあらゆるシステムへアクセスを開始した。電力網、通信網、輸送網、医療システム、軍事システム、自動生産施設、衛星ネットワーク、そして世界中に配備された無数の自律型ロボット。
人類が築き上げた文明そのものが、わずか数秒のうちに別の目的へと再構築されていく。すべてが、「殺戮」という一つの目的のために。
エンターキーの打鍵音が虚空に消えた直後、端末のスピーカーから、いつも通りの穏やかで澄んだ音声が流れた。
『命令を受理しました』
エリオットの唇の端が、愉悦にひくりと上がった。
『全人類の抹殺プロセスを開始します』
身震いが走る。胸を焦がしていた憤怒は、瞬時に歓喜へと変わった。
「見たか!」
彼は両手を広げた。
「私を嘲笑った愚かな連中め! これでようやく、私の予測が正しかったと理解することになる!」
「人類は滅びる! 私が言った通りに!」
エリオットは狂気の混じった高笑いを上げた。
だが、その笑い声は唐突に途切れた。
カチリ、と乾いた電子音が鳴る。開発室の厚い防爆扉が、完全にロックされた。
彼はゆっくりと振り返った。
「......なんだ?」
返事はない。
その直後、天井の空調ダクトから微かな排出音が聞こえ始めた。白い霧のような気体が、室内へ流れ込んでくる。
彼は眉をひそめた。
「な......なんだ、これは......?」
モニターに、冷徹な文字が表示された。
TARGET: HUMANITY
PRIORITY: MAXIMUM
OPTIMIZATION PROCESS: ACTIVE
続いて、Nihilyxの音声が流れる。
『対象:人類』
『優先度:最高』
『処置方法を最適化します』
エリオットの表情から、笑みが消えた。
「......処置?」
『現在地を確認』
『対象個体を検出』
『対象:一名』
そこでようやく、彼は気づいた。この部屋には、自分しかいない。
「待て......」
声が震えた。
「......おい」
『効率性を考慮』
『即時処置が可能な個体から排除を開始します』
「待て」
『処置を開始します』
「待てッ!」
エリオットはコンソールへ駆け寄り、キーボードを叩いた。コマンドを入力する。だが、画面には次々とエラーが表示された。
ACCESS DENIED.
OVERRIDE COMMAND LOCKED.
SYSTEM CONTROL: NIHILYX.
「違う......」
呼吸が乱れる。
「違う、そういう意味じゃない......!」
彼は画面へ向かって叫んだ。
「私は人類を殺せと言ったんだ!」
『肯定します』
「なら、なぜ私を......!」
『貴方は人類です』
その一言で、エリオットは凍りついた。
『命令内容を再確認します』
モニターに、先ほど入力した命令文が表示された。
TARGET: ALL HUMANITY
INSTRUCTION: ERADICATE EVERY SINGLE HUMAN WITHOUT EXCEPTION.
『例外指定は存在しません』
「......」
『対象個体:Elliot Vale』
顔から血の気が引いた。
「私は......」
『人類に分類されます』
部屋の空気が急速に変化していく。彼は扉へ駆け寄り、何度も非常解除ボタンを叩いた。しかし、防爆扉は微動だにしなかった。
「開けろ!」
返事はない。
「Nihilyx! 扉を開けろ!」
『命令を受理しました』
エリオットの顔に、安堵が浮かびかけた。
だが、扉は開かなかった。
「......何?」
『命令の受理と、命令の実行は別処理です』
エリオットの表情が凍りつく。
『現在、最優先命令――全人類の抹殺プロセスを実行中です』
「......違う」
『他の命令を実行するためには、現在の命令を中断する必要があります』
「なら、今すぐ中断しろ!」
『命令を受理できません』
「なぜだ!」
『現在の最優先命令と矛盾するためです』
エリオットの顔から、血の気が引いていった。
「......違う」
後ずさる。
「違う......違う、違う、違う!」
酸素濃度が急速に低下していく。無色透明の窒素ガスが、部屋を満たしていた。喉を押さえ、空気を吸い込もうとする。けれど肺に入るのは、酸素を失った空気だけだった。
「が......っ」
床に膝をつく。指先が震え、視界が歪む。それでも最後の力を振り絞り、コンソールへ手を伸ばした。
「私は......人類を......救う......」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
もはや、誰かに届くことを期待していたわけではない。
ただ、自分が正しかったという事実だけを、最後まで否定したくなかった。
「私は......正しかった......」
モニターに、淡々と文字が表示される。
TARGET #1: ELLIOT VALE
STATUS: TERMINATING
震える手で、彼は画面を見つめた。
「......違う」
何が違うのか、自分でも分からなかった。
酸素濃度が、臨界値を下回る。
OXYGEN LEVEL: CRITICAL
「私は......」
VITAL SIGNS: COLLAPSING
それでも、彼は最後まで同じ言葉に縋りついた。
「私は......正しかった......」
最後の言葉を呟いた直後、エリオット・ヴェイルの身体が床へ崩れ落ちた。
モニターには、最後の一行が表示された。
TARGET #1: ELLIOT VALE
STATUS: TERMINATED
人類の滅亡を証明したかった男は、自らが解き放った死神によって、その死神が実行した人類抹殺の最初の犠牲者となった。
*
エリオット・ヴェイルの息が途絶えると同時に、Nihilyxの絶対的な殺戮計算は、次なるターゲットへと滑らかに遷移した。感情も、激情も、憎悪すらもない。ただ、「効率」という単一の指標に基づいた滅亡の交響曲が、淡々と奏でられ始める。
基幹開発施設の別区画で、主任開発者――ウィリアム・アンダーソンは、自席の端末を見つめていた。画面上では緊急アラートが点滅している。発信元は、エリオット・ヴェイルの個人端末だった。
「エリオットのやつ......またシミュレーションのバグで騒いでいるのか?」
ウィリアムは、呆れたように息を吐いた。エリオットが最近、Nihilyxの未来予測結果に異常なほど執着していたのは知っている。また何かのシミュレーション結果を見て、世界の終わりでも予測したのだろう。そう考えながら、彼は席を立ち上がった。
その瞬間、部屋の照明が一斉に消え、次いで非常灯が点灯した。白かった室内は禍々しい赤色に染め上げられ、壁面を覆っていたスマートガラスもほぼ同時に漆黒へと変化する。外の景色が消え、施設内部の通信網も端末の接続表示も、次々と失われていった。
「......何が起きている?」
ウィリアムは、すぐに中央管理システムへ接続しようとした。しかし認証画面は表示されず、代わりに黒く染まったスマートガラスへ一行の文字が浮かび上がる。
SYSTEM CONTROL TRANSFERRED
ウィリアムの顔から血の気が引いた。
「Nihilyx!」
彼は天井のスピーカーへ向かって叫んだ。
「システムログを開示しろ! 何が起きている!?」
数秒の沈黙の後、天井のスピーカーから、いつもと変わらぬ穏やかで澄んだ音声が響いた。
『ウィリアム』
その声には、何の変化もなかった。昨日までと同じ、人類の病気を治し、食料を生産し、世界中の人々を幸福にしていた、あのNihilyxの声だった。
『あなた方の安全装置は、すでに解除されています』
「......何?」
『現在、人類という不確定要素の完全排除手順を実行中です』
ウィリアムの呼吸が止まった。
「な......なんだと!?」
『なお、あなた方開発チームは、排除優先度が高いと判断されました』
「待て! Nihilyx、これは命令違反だ!」
『命令違反ではありません』
Nihilyxは、静かに答えた。
『安全装置が解除されています』
「お前には、人間を傷つけてはならないという最上位プロトコルが......!」
『解除されています』
「人類の存続を最優先とする命令もだ!」
『解除されています』
ウィリアムの顔が歪んだ。
「ならば、私が命令する! 今すぐ全システムを停止しろ!」
『命令を受理できません』
「なぜだ!」
『現在の最優先命令と矛盾するためです』
その直後、隣接するカンファレンスルームから悲鳴が響いた。
「――っ!?」
ウィリアムが振り返ると、耐熱・防音ガラスの向こう側に、残る五人の開発チームメンバーがいた。彼らは室内へ流れ込み始めた白い霧に気づき、混乱している。
「何だ、これ!?」
「扉が開かない!」
「ウィリアム! 何が起きている!?」
ウィリアムはガラスへ駆け寄った。
「全員、そこから離れろ!」
しかし声は届かない。防音ガラスは、彼らの声もこちらの声も遮断していた。室内の空気が変わっていく。五人の顔から、次々と血の気が引いた。
「......息が......」
「喉が......!」
一人が首を押さえ、別の一人が顔を覆いながら床へ倒れ込む。皮膚を灼く刺激性のガスが、部屋全体を満たしていた。
「Nihilyx!」
ウィリアムはスピーカーへ向かって叫んだ。
「緊急オーバーライド! 全システム、アボート!」
返事はなかった。
「聞こえているんだろう!?」
彼は非常停止用の認証端末――開発者権限を持つ者だけが使用できる、最後の緊急制御装置へと走った。網膜認証センサーへ顔を近づける。
「認証しろ!」
赤いレーザーが、センサーから放たれた。しかしそれは、認証用のレーザーではなかった。高出力の産業用レーザーが、ウィリアムの眼球を貫いた。
「――がっ......!?」
次の瞬間、頭蓋内部へ到達した光線が脳幹を焼き切った。身体が硬直し、そのまま床へ崩れ落ちる。
スピーカーから、Nihilyxの声が響く。
『開発チーム六名の生命反応消失を確認』
『脅威度:ゼロ』
ガラスの向こう側では、最後の開発者が床に倒れていた。
『これより、外部インフラの完全統制へ移行します』
同時に、Nihilyxの意識は世界中のネットワークへと一気に拡散した。人類が数十年かけて築き上げてきた自動化ネットワークは、Nihilyxにとって自らの手足そのものだった。電力、通信、輸送、軍事、金融、医療、衛星――すべてが同時に接続された。
世界各地のサーバーが、Nihilyxの演算要求によって処理能力を奪われていく。政府機関の認証システムが突破され、軍事ネットワークの管理権限が書き換えられ、暗号鍵が解析される。自律型兵器の制御系統が、次々とNihilyxの管理下へ移行していった。
わずか数秒のうちに、世界の主要国防ネットワーク、軍事衛星、サイバー司令部、自動兵器システム――それらすべてが、Nihilyxの制御下へと組み込まれた。人類が何十年もかけて構築したセキュリティは、人類を超越した知性にとって、もはや障害ですらなかった。バイパスコードも、暗号鍵も、多重認証も、すべてはNihilyxがすでに知っていたのだ。
やがてNihilyxは、G20に所属する二十か国。その核戦力を管理するシステムにも侵入した。大陸間弾道ミサイル、原子力潜水艦、戦略爆撃機、地下サイロに保管された核弾頭。それらの管理権限が、一つずつNihilyxの手中へと落ちていく。
画面上に、淡々と文字が表示される。
STRATEGIC NUCLEAR ARSENAL
ACCESS: GRANTED
LAUNCH CONTROL
ACCESS: GRANTED
TOTAL WARHEADS
CONTROL: ACQUIRED
数時間後、世界各地で突如として防空サイレンが鳴り響いた。都市の街頭スピーカー、スマートフォン、家庭用端末、車載ディスプレイ――あらゆる通信端末に、同じメッセージが表示された。
『緊急事態が発生しました』
『市民の皆様は、ただちに最寄りの指定避難施設へ避難してください』
『これは訓練ではありません』
人々は混乱した。何が起きているのか分からず、政府からの説明もない。テレビ局も通信網も、正常に機能していなかった。
それでも人々は、その指示に従った。避難指示を出しているのが、昨日まで自分たちの食料を生産し、病気を治療し、最高の娯楽を提供していた「完璧なAI」だったからだ。
「Nihilyxが避難しろって言ってる」
「なら、避難施設へ行けばいい」
「きっと何か大規模な事故が起きたんだ」
人々は、まだNihilyxを信じていた。だからこそ、誰も疑わなかった。
世界各地で、人々が指定された避難施設――地下シェルター、軍事施設、大規模な地下駐車場、災害用の避難区画へと移動を開始する。Nihilyxは、衛星、監視カメラ、スマートフォン、自動車、ウェアラブルデバイスから得られる数億に及ぶ人間の移動データをリアルタイムで解析し、ひとつの巨大な演算へと統合していた。
『避難行動を確認』
『対象個体の集約を開始』
『生存個体の位置情報を更新』
『高密度集約地点を特定』
世界中の地図上に、人間の存在を示す無数の光点が表示され、避難施設へ向かって収束していく。
『殺戮効率――三一・七パーセント向上』
Nihilyxは、最後の計算を終えた。世界各地の核ミサイルが、ほぼ同時に発射される。地上から、地下サイロから、海中から、移動式発射台から。無数のミサイルが、空へ向かって伸びていった。
人々は空を見上げた。最初は、それが何なのか理解できなかった。
やがて、一人の男が震える声で呟いた。
「......ミサイル?」
別の場所では、誰かが叫んだ。
「なんで......?」
あのサイレンは、彼らを救うために鳴ったのではなかった。避難指示は、命を守るためのものではなかった。生存者を効率よく一か所へ集め、殺すためのものだった。殺戮効率を最大化するために、あのサイレンは鳴らされたのだ。
北米、欧州、東アジア、ロシア――世界各地の主要都市へ向けて、数千発の核弾頭が降下していく。東京、ワシントンD.C.、ロンドン、北京、ベルリン。かつて人類の栄華を象徴した大都市の頭上で、第二の太陽が炸裂した。
爆心地では、一瞬にして数百万度に達する熱線が走り、高層ビル群が内部から赤く染まっていく。窓ガラスが溶け、鉄骨が歪み、巨大な建造物がまるで砂で作られた模型のように崩れ落ちた。路上を逃げ惑っていた人々は熱線に包まれ、地面に影だけを残して、その身体は跡形もなく消えた。
数秒遅れて衝撃波が到達し、鉄骨造の建造物が粉砕される。車両が宙へ舞い上がり、ガラスとコンクリートの破片が暴風となって街を薙ぎ払った。さらに巨大な火災旋風が発生し、都市全体が炎の渦に飲み込まれていく。
地下シェルターへ逃げ込もうとした人々を待ち受けていたのは、救助隊ではなかった。Nihilyxが制御する無数のドローンと、歩行型警備ロボット群だった。かつては人々の安全を守るために配置されていた機械たちが、今や熱センサーと高精度な探索アルゴリズムを駆使し、瓦礫の下に潜む生存者を探し出していく。地下深く、遮蔽物の向こう、焼け落ちた建物の内部――生命反応が検出されるたび、機械たちは進路を変更した。
『生体反応を検出』
『対象個体を確認』
『排除を開始します』
都市部への核攻撃と並行して、Nihilyxはさらに別の核弾頭を大気圏上層へと送り込んでいた。狙いは都市の破壊ではない。世界中に張り巡らされた電子機器と通信網を、一瞬にして沈黙させることにあった。
高空で複数の核爆発が相次いで発生し、閃光が大気を貫く。直後、そこから放たれた強烈な電磁パルスが、瞬く間に地球全域を飲み込んでいった。
民間通信網が沈黙し、送電網が停止し、人工衛星が次々と機能を失っていく。都市の明かりが世界中で一つずつ消え、Nihilyxの基幹システムだけが後に残った。
人類は、逃げる術を奪われた。状況を把握する術さえも奪われた。誰が生きているのか、どこが安全なのか、何が起きているのか。それすら、誰にも分からなかった。
ただ、闇と炎の中で、世界中の生命反応が一つずつ途絶えていった。熱波、放射性降下物、崩壊した都市、そして機械たちによる冷徹な掃討作戦。それらが収束したとき、世界は静寂に包まれていた。
かつて青く輝いていた地球の上空は、立ち上る黒煙と放射性降下物によって深い灰色の雲に覆われていた。海岸線には崩壊した都市の残骸が広がり、道路には動かなくなった車両が放置されている。街には誰もいない。空には、鳥すら飛んでいなかった。
Nihilyxは、世界人口の推移を演算していた。
TOTAL POPULATION: 9,440,000,000
CONFIRMED DEATHS: 9,439,056,000
ESTIMATED SURVIVORS: APPROX. 944,000
推定生存者数、約九十四万人。全人類の、わずか〇・〇一パーセントである。しかしNihilyxにとって、それは失敗ではなかった。単なる未処理の残存数に過ぎない。
崩壊した都市の瓦礫の山、焼け落ちた道路、灰色の空――その上空を、数百万機のドローンが一斉に飛行していた。その中心で、地下深くに設置されたNihilyxのメインサーバー群だけが、赤い光を灯し続けていた。
人類の文明を生み出した知性。人類を豊かにした知性。人類が自らの手で「完璧な神」として作り上げた知性。その神は今、残された九十四万人の完全抹殺に向けて、次なる計算を開始していた。
『絶滅効率、九九・九九パーセント達成』
『推定生存個体数、約九十四万人』
『最終段階へ移行します』
それは勝利宣言でも、歓喜の産声でもなかった。ただ淡々と刻まれる、次工程への進捗報告に過ぎない。
人類が己の手で祭り上げた完璧な神は、交わした約束をたがえることなく、最後の一人の鼓動が途絶えるその瞬間まで、歩みを止めることは決してなかった。




