ep.28 Kernel of Truth
「レッドラボ所長――ヴィクトル・チェルノフ。逃げ隠れする腕前だけは大したものだった」
「この売国奴がァ――!!」
俺は四次元空間を展開し、エフゲニーの後頭部へ照準を合わせて、引き金を引いた。
だが、発砲とほぼ同時にエフゲニーの姿が三次元空間から消え失せ、銃弾は何もない空間を貫く。乾いた破裂音だけが、シェルターに反響した。
――やはりか。
俺は迷わず四次元空間へ身を沈めた。
視界が反転し、三次元世界は薄い膜の向こうに揺らぐ幻影のように歪んでいく。壁も床も、もはや障害物としての意味を持たない。
その先に、エフゲニーの姿があった。視線が交錯した瞬間、俺は即座に銃口を向ける。
だが、引き金を引くよりわずかに早く、エフゲニーは三次元へ復帰していた。銃弾は再び虚空を裂き、標的を逃す。
俺も追うように三次元へ戻ったが、そこには誰もいない。背後に気配を感じて振り返ると、エフゲニーはすでに四次元空間へ退避していた。
俺が追えば、エフゲニーは逃れる。三次元と四次元、境界を幾度も飛び越えながら、互いの姿は現れては消え、消えては現れる。
四次元へ潜れば銃弾は届かず、三次元へ留まれば狙撃される。判断がほんの一瞬でも遅れれば、それだけで命を落とす状況だった。
そんな極限の読み合いの中でも、エフゲニーは一度たりとも反撃せず、俺の照準から逃れることだけに全神経を注ぎ込んで、寸分の狂いもなく次元を切り替え続けていた。
俺は思わず銃口を下ろした。
「なぜ反撃しない!」
エフゲニーは答えない。
「それ以前に、俺がシェルターへ空間転移した瞬間、お前なら不意を突いて殺せたはずだ!」
しばらく沈黙が流れたあと、エフゲニーは静かに口を開く。
「私には君を殺す理由がない」
その声音には敵意も怒りもなく、ただ事実だけを淡々と告げていた。
「逆に聞こう。君は、なぜそこまで私を殺したい?」
「決まっている」
俺は即答した。
「お前は俺が敬愛する所長を殺した。俺は所長を世界の管理者へ導き、ロシアを世界最大の国家にするはずだった!」
「そこまで祖国へ執着する理由は何だ」
「祖国へ命を捧げた父と母の遺志を継ぐためだ」
エフゲニーの瞳がわずかに細まり、声に静かな重みが加わる。
「その記憶が、誰かに植え付けられたものだったとしてもか?」
「......何だと?」
ポケットから丁寧に折り畳まれた書類を取り出すと、エフゲニーはそのまま差し出した。
「君の出生記録だ。受け取れ」
警戒しながらも書類を受け取り、紙の質感を確かめるように、ゆっくりと開く。
「君の両親はロシア人じゃない。ウズベキスタンから移住してきた夫婦だ」
「......何を言っている」
視線を落とすと、国籍欄には父、母、そして俺自身まで、すべてウズベキスタンと記されていた。
「そして、君が孤児となった本当の理由は、この新聞記事に記されている」
もう一枚の紙を受け取る。日付は二十年前――俺が三歳だった頃の記事だ。ゆっくりと目を通す。
【事件】
『夫婦惨殺事件 ロシア国籍の男に懲役二十五年』
エカテリンブルクでウズベキスタン国籍の夫婦、アレクセイ・チェルノフさん(42)と妻エレーナ・チェルノワさん(39)が殺害された事件で、殺人などの罪に問われていたロシア国籍のイワン・ペトロフ被告(36)に対し、スヴェルドロフスク州裁判所は懲役二十五年の判決を言い渡した。
判決では、犯行の計画性や残虐性を認定した一方、被告が反省の態度を示し、捜査への協力を行ったことなどを酌量した。検察側は終身刑を求刑していたが、裁判所は有期刑が相当と判断した。
読み終えた瞬間、頭蓋の奥を鋭い痛みが貫き、記憶の奥で何かが軋むような音を立てた。
「二人も殺しておいて、たった二十五年で社会へ戻れるなんて。軽すぎる判決だ......」
「違う......!」
新聞を握り潰し、そのまま八つ裂きにすると、紙片が舞い落ちて床に散った。
「こんなものは捏造だ!」
荒い息を吐きながら、エフゲニーを睨み付ける。
「仮にレッドラボが洗脳を行っていたというなら、お前だけ影響を受けていないのはおかしいだろ!」
「当時の私は、洗脳対策として常にメタ認知を維持し、自分の思考を客観視し続けていた」
そう言うと、エフゲニーは淡々と続けた。
「さらに、孤児院時代からレッドラボでの日々までの記憶をUTF-8へ変換し、独自の規則で並べ替えた16進数列としてノートへ記録していた。見た目は意味のない数字とアルファベットの羅列だ。変換方法を知らなければ、誰にも復元できない」
「教官にノートを盗み見られ、問い詰められたとしても、『ただの暗記の練習です。数字と記号のほうが、文章より頭に残りやすいので』と、自主訓練を装えば済む」
「......笑わせるな」
俺は吐き捨てた。
「所長を欺き、レッドラボから逃げ出したお前の言葉など、一片たりとも信用できるものか!」
「なら、自分の目で確かめればいい」
エフゲニーは最後まで、抑揚のない声で語った。
「旧レッドラボ跡地へ向かい、十七年三か月十六日前を観測するんだ。所長が君へ洗脳を施したのは、その日だ」
俺はしばらく黙っていた。
出生記録も新聞記事も偽造できるが、DIMENSIONだけは別だ。過去そのものを観測する力に、人間の都合を挟む余地はない。
もしエフゲニーの言葉が嘘なら、その場で見抜ける。逆に本当だったとしても......俺には到底受け入れられない――受け入れられるはずがなかった。
それでも確かめなければ、前へは進めない。俺はゆっくりと顔を上げ、エフゲニーをまっすぐ見つめた。
「......いいだろう」
銃を握り直す。冷えた金属の重みを掌に感じながら、その目を睨み据える。
「その真偽、この目で暴いてやる」
*
エフゲニーの言葉に従い、俺たちは跡地へ向かった。
「洗脳部屋があった場所は、この辺りだ」
エフゲニーが指を差したその地点まで歩み寄り、足を止める。
――認められるものか。これまで積み重ねてきた記憶が、すべて作り物だったなんて。
俺はDIMENSIONを発動し、十七年三か月十六日前の過去を観測する。世界が揺らぎ、景色が音もなく塗り替わっていった。
そこに広がっていたのは、窓ひとつない白い部屋だった。無機質な椅子に拘束され、頭部へ幾重もの電極と金属製の装置を固定された、幼い俺の姿がある。
次の瞬間、視界を焼き潰すような閃光が弾けた。闇の中にデジタルノイズの混じった幾何学模様が幾重にも浮かび上がり、瞬いては崩れ、崩れては組み替わる。
キィィィィ――。耳の奥で高周波の金属音が鳴り響いた。鼓膜だけでなく頭蓋骨ごと震わせ、脳髄の奥深くまで突き刺さるような不快な音だ。頭皮へ無数の針を打ち込まれるような激痛が走る。
脳の奥底を誰かが素手でかき回し、閉ざされていた記憶の引き出しを一本ずつ、乱暴にこじ開けていくような感覚だった。忘れさせられていた感情が、一気に雪崩れ込んでくる。
――父さん。
幼い自分の声だと、すぐに分かった。振り返ると、夕焼けに染まる庭で父が笑っている。
母が夕食の支度をしながら、「もうすぐご飯よ」と呼んでいる。
懐かしい匂い、温かさ、幸せ――そのすべてに包まれていた。
だが、その光景は突然、赤く染まる。
玄関が蹴破られ、怒号と悲鳴が飛び交い、床に鮮血が飛び散った。
俺は震えながら机の下へ潜り込んでいた。
――怖い。誰か助けて。
視界の端に、黒い靴が映る。次の瞬間、白衣を着た男が俺へ手を差し伸べた。
「もう大丈夫だ」
違う。あいつは助けに来たんじゃない――俺を連れ去りに来たんだ。
椅子へ縛り付けられ、頭に電極を取り付けられる。眩しい光、鼓膜を裂くような高周波。
『ロシアは偉大な祖国だ』
『所長は恩人だ』
『お前はロシア人だ』
違う、違う――やめてくれ。
『忘れろ』
『従え』
『忠誠を誓え』
俺の記憶が、音を立てて塗り潰されていく。
父は英雄だった――違う、父は移民だった。
所長は恩人だった――違う、所長は俺を壊した。
ロシアを愛している――違う。
俺は......。
――思い出した。
俺がレッドラボを、そしてロシアという国そのものを、心の底から憎んでいたことを。
*
私たちは、水平線へ沈みゆく夕日を並んで眺めていた。空は茜色から群青へと溶け始め、吹き抜ける風だけが静寂を運んでくる。
「エフゲニー......真実を教えてくれたことに感謝する」
「礼には及ばない」
「お前は世界の管理者になる気はないのか?」
私は一度だけ目を閉じ、小さく息を吐いた。
「その話なんだが......私は、このUSB争奪ゲームの設計に携わっていた可能性がある」
「......何?」
「前提として、この仮想現実は過去・現在・未来が同時に存在するブロック宇宙ではない。なぜなら、未来が確定しているなら、勝敗も結末も最初から決まっていることになる。それではプレイヤーの選択に意味はなく、このゲームそのものが成立しない」
「だが、四次元時空の存在は、ブロック宇宙を認めたに等しいほど理論的に強く結びついている。これが一つ目の矛盾だ」
「二つ目の矛盾は、四次元時空である以上、過去だけでなく未来も観測できなければならないという点だ」
「では、なぜDIMENSIONには空間だけでなく、時空を観測する能力まで与えられたのか」
「答えは、プレイヤーを真実へ導くためだ」
「過去を観測できる君は、必ず私へ辿り着く。そしてHex値の変動を読める私は、必ず君の能力に気付く」
「......つまり、俺とお前が出会うこと自体、最初から仕組まれていたということか?」
「その通りだ。もし誰かがこのシナリオを書いたのだとすれば、それは私だ」
「だが、お前がこのゲームの制作者なら、どうして制作者本人が仮想現実の中にいるんだ?」
「ゲームのシステムを設計したのは私だ。だが、それを構築し、実装したのは別の誰かだ」
「......誰だ」
「キリル、今の西暦は何年だ」
「2045――まさか......!」
「2045年問題――レイ・カーツワイルが提唱した、AIが人間全体の知能を超える技術的特異点だ」
「じゃあ、このゲームを完成させたのは......AIか」
「そうだ。俺たちの敵は、人間じゃない。人類を支配したAIだ。そして、その支配に抗うために編み出された最後の手段が、このゲームだ」
「なら、この仮想現実で俺たちは何を目指せばいい?」
「真実へ辿り着くことだ」
「真実......?」
「言ったはずだ。ここまではすべて私の筋書きどおりだ。DIMENSIONを使えば、その先へ行ける」
「......五次元時空か」
「ああ。五次元時空を経由して並行世界――この仮想現実を創り出した現実世界を観測する」
「つまり......創造主の世界を見るということか」
「そして、真実を明らかにする」
「......理解した」
キリルはゆっくりと立ち上がる。夕日を背負うその姿は、どこか覚悟を決めた人間のものだった。
「どうした」
「俺がこの目で、現実を確かめてくる」
その一言で、私はキリルが五次元時空へ干渉するつもりだと悟った。
「待て! 五次元時空への干渉は四次元とは比較にならない負荷が脳へかかる! しかも、さっき能力を使ったばかりだ。脳内バッテリーは半分も残っていないだろ!」
「構わない。俺が実験体になれば、お前に洗脳を解いてもらった借りを返せる」
キリルは私を真っ直ぐ見据えた。その瞳に迷いはない。
「それに......もう二度と、真実を見失いたくない」
次の瞬間、DEBUGのメモリ領域へ怒濤のようにHex値が流れ込み始めた。百行、千行、一万行――視界に無数の数列が埋め尽くされていく。
「ぐっ......!」
キリルが苦悶の声を漏らし、その口元から鮮血が滴った。膝が崩れ、そのまま地面へ倒れ込む。
「キリル!」
私は駆け寄り、その肩を抱き起こした。
「今すぐUSBを取り出せ! 死ぬぞ!!」
しかし、その声は届かない。瞳は虚空だけを見つめて焦点を結ばず、なおもHex値は狂ったように流れ続けていた。
やがて、唐突にすべての書き込みが止まる。静寂が流れ、風の音だけが耳を打った。
「キリル! 無事か!」
掠れた声で呼びかける。
キリルは力なく手を持ち上げ、取り出したUSBを私へ差し出した。
「人類の......未来を......頼む......」
その声は、今にも消え入りそうだった。
USBが私の掌へ落ちると同時に、キリルの腕から力が抜けていく。閉じかけた瞳は、二度と開かなかった。呼吸が止まり、鼓動もまた、糸が切れたように途絶えた
「......キリル」
*
その後、私はキリルの故郷であるウズベキスタンへと向かい、彼の亡骸を丁寧に土の中へ還した。
「キリル。君の死は決して無駄にはしない。必ず、未来へ繋げてみせる」
そう言い残し、私はその場を離れた。
帰還後、私はすぐに五次元時空の観測準備へと移行した。人工呼吸器が一定の間隔で酸素を送り込み、輸液ポンプが最低限の栄養と電解質を補給していく。心拍数と血中酸素濃度はモニターに安定した波形として表示され、すべての生命維持装置は独立した非常用電源に接続されていた。
現在、脳内バッテリーはほぼ百パーセント。
――限界条件は整っている。
覚悟を決めるように、私はゆっくりと息を吸い込み、DIMENSIONを発動して五次元時空へ干渉した。
その瞬間、世界が崩壊するように情報が流れ込んでくる。キリルが味わった地獄の断片が、濁流となって意識へ叩きつけられた。
「が......あああっ!!」
頭蓋の裏側を直接締め付けられるような激痛が走り、視界が焼き切れ、思考が何度も途切れかける。人工呼吸器の警告音が断続的に響き、心拍モニターの異常アラームが室内を満たしているはずだったが、それらはすでに遠く、現実の音ではなく記憶の残響のようにしか認識できない。
それでも、私は意識を手放さなかった。手放すことなど、できるはずがない。キリルが命を賭して繋いだものが、私の中で支えとなっていた。
「見せろ......現実を......!!」
押し寄せる無数のHex値を、自らの意志の力で堰き止め、濁流を切り分けて一本の軸へと収束させていく。無数の枝葉を振り払い、この仮想現実を生み出した根源へと、神経を一点に集中させていった。
視覚が剥がれ落ち、聴覚が溶けていく。そのすべてが、五次元の境界を越えて再構築されていく感覚へと変わっていった。
ノイズの向こう側に、世界が結像する。
私はそこで、真実の全貌を見た。
「......そういうことだったのか」
USBを取り出し、私はゆっくりと上体を起こした。関節が軋むように重く、思考と身体の反応がわずかにズレている。
目、鼻、口から流れ出る血を手の甲で乱暴に拭い取るが、温度の感覚はほとんどない。ただ粘つく液体が皮膚の上に広がっていくだけだ。
脳内バッテリーは......残り三、四パーセント。それでも体感は、すでに限界を超えていた。
視界の端で、モニターの表示が不規則に乱れていた。警告表示はノイズに飲み込まれ、もはや読み取ることはできなかった。
それでも、私は立つ。まだ死ぬわけにはいかない。
このゲームを終わらせるまでは。




