ep.27 Out of Bounds
数か月後、所長――ヴィクトル・チェルノフは地下に新たなレッドラボを設立した。
完成個体――エフゲニー・カルポフを凌駕する戦略兵器を生み出すため、新たな孤児たちが次々と集められ、薄暗い施設の奥へ被検体として収容されていった。
準完成個体である俺には、エフゲニーの所在を突き止める任務が与えられ、そのためにインターネットの使用だけは特別に許可された。
調査を続けるうち、俺は一人のランカーに目を留めた。エフゲニーが脱走した日を境にTry Hack Boxで急激に順位を伸ばし、瞬く間に第1位まで駆け上がったプレイヤー、albedo。ラテン語で「白さ」を意味するその名は、アルビノであるエフゲニーを連想させるには十分だった。
奴に違いない。そう確信した俺はTHBを始め、奴の背中を追いかけるように実力を磨き、第5位まで上り詰めた。
そして、2045年6月10日。俺はDIMENSIONの文字が刻まれたUnreal USBを授かった。与えられたのは、次元を操る能力だった。
最初は制御すらままならなかった。だが、命令を書き込み、試行錯誤を重ねるうちに徐々に扱えるようになっていった。三日後には、四次元空間と四次元時空、その両方へ干渉できるまで能力を引き出していた。
四次元空間への干渉は、自らを三次元の檻の外側へ押し出すような感覚に近い。三次元空間から完全に切り離されることで、壁や床といった障害物はもはや意味をなさず、世界そのものから姿を消せる。そして、切り離された身体は三次元空間の任意の座標へ再構築できる。空間転移も、その原理の延長に過ぎない。
対して、四次元時空への干渉は、時間軸に刻まれた過去の光景を覗き見る行為だ。ただし、観測できるのは自分を中心とした半径十メートル以内に限られる。
似た概念ではあるが、干渉する対象はまったく異なる。一方は空間を、もう一方は時間を相手にしている。
俺は、すでに更地となった旧レッドラボへ向かった。かつて研究施設が建っていた場所は、今では雑草の生い茂る空き地に変わっている。その地に立ち、四次元時空からエフゲニーが脱走した瞬間を追い、四次元空間に身を隠したまま、その足取りを一つずつ辿っていった。
時空への干渉は、空間への干渉とは比較にならないほど脳内CPUへ負荷をかける。脳内バッテリーの残量が半分を切るたびにレッドラボへ空間転移し、回復を挟みながら捜索を続けた。
そして――ついに、奴が身を潜める地下シェルターを突き止めた。
四次元空間を経由して内部を覗き込む。そこには、無数のモニターに囲まれ、黙々とキーボードを叩くエフゲニーの姿があった。
――完成個体。今、ここで終止符を打つ。
俺は四次元空間から奴の背後へ空間転移し、その後頭部へ拳銃を突きつけると、迷いなく引き金を引いた。
しかし、血飛沫は飛ばなかった。
「これは......!?」
エフゲニーの体は、銃弾を受けてゆっくりと崩れ落ちた。露わになった内部フレームを見て、ようやく俺は気づく。そいつはエフゲニーを精巧に模した一体のロボットだった。白い肌も、雪のような白髪も、右に青、左に赤という瞳の色までも忠実に再現されている。その完成度は、本物と見分けがつかないほどだった。
俺は即座に四次元空間へ退避し、シェルター全域を捜索した。だが、どこにも奴の姿はない。逃げたのか、それとも最初からここにいなかったのか。
手掛かりを求め、俺はシェルター内に刻まれた過去へ視線を向けた。四次元時空へ干渉し、この場所に残された時間の記録を観測する。
そこで俺は知った。エフゲニーの能力が、他者によって書き込まれた命令を格納するメモリ領域へ、新たな命令を上書きする能力――DEBUGであることを。
*
DEBUGのUSBを授かって以来、私は六時間ごとに半径五十キロメートル圏内のHex値を精査していた。
五日後、Hex値がわずかに揺らいだ。変動は一度きりではない。一定の間隔を保ちながら、ゆっくりと地下シェルターへ近づいてくる。誰かが、こちらへ向かっている。
そう判断し、進行方向一帯の監視カメラを確認したが、どの映像にも人影は映っていない。Hex値だけが存在を示し、肝心のランカーはどこにも見当たらなかった。
最初は、ランカーやUnreal USBの所在地を特定する能力だと考えていた。だが、それだけでは説明がつかない。姿そのものを認識させなくする能力も併せ持っている。
二つの現象を同時に実現できる能力......。
私は記録していたHex値の変動座標を地図へ書き写し、その地点を一本の線で結んだ。そこで違和感に気づく。その軌跡は、十三年前に私がレッドラボから脱走した経路と寸分違わず一致していた。
ランカーは、私が歩いた過去をなぞるように追跡している。あの日の逃走を知る者など、レッドラボ関係者以外にあり得ない。ならば、私を追うランカーの正体は一人しかいなかった。
第5位――rodina。祖国、あるいは愛国心を意味するその言葉をハンドルネームに選ぶ人間を、私は一人しか知らない。
準完成個体――キリル・ザイツォフ。
正体は判明した。だが、能力の輪郭だけが未だに見えてこない。
過去を観測できる能力なら、この追跡方法にも説明はつく。しかし、それでは姿を消せる理由がない。ならば、過去へ戻る能力か――私はすぐにその仮説を否定した。
キリルは一定距離を進むたび、必ず同じアドレスへ戻っている。そして数時間後、今度は先ほどまで進んでいた地点へ突然現れ、再び脱走経路をなぞり始める。時間遡行だけでは、この移動は説明できない。
空間転移。そして、過去の観測。まるで第2位のMOVEと、時間を扱う能力を一つへ統合したようなUnreal USB......。
「まさか......そんな高次元の能力が――」
その瞬間、頭の中で散らばっていた情報が一つに結び付いた。
次元......。
そうか。
姿が見えないのは、存在している空間そのものが異なるから。
過去を観測できるのは、時間軸を外側から俯瞰しているから。
空間、時間、そして時空。そのすべては、次元という概念の上に成り立っている。
「キリル......判ったよ。君の能力の正体が」
*
エフゲニーは俺の能力を解明していた。
俺がDIMENSIONへ命令を書き込む瞬間を狙い、脳内バッテリーの回復用に保存していたアドレスへ空間転移する命令をDEBUGで上書きしていたのだ。
ならば、奴が向かった先は一つしかない。その転移アドレス――レッドラボ内にある俺の部屋だ。
俺は即座に空間転移した。
見慣れた自室には、誰もいない。だが、部屋のドアだけが大きく開け放たれ、廊下から冷たい空気が流れ込んでいた。
「まさか......」
嫌な予感が背筋を駆け上がる。
俺は部屋を飛び出し、廊下を全力で駆け抜けた。突き当たりの所長室へ辿り着くと、勢いよく扉を押し開ける。
「ッ......!」
室内は、不気味なほど静まり返っていた。
エフゲニーがこちらへ背を向けるように立ち、その右手には黒い拳銃が握られている。所長は椅子に座ったまま微動だにせず、項垂れていた。額から流れる血だけが、静かな部屋でゆっくりと机へ滴り落ちている。
俺が息を呑んだその瞬間、エフゲニーはゆっくりと振り返り、何事もなかったかのように口元をわずかに緩めた。
「十三年ぶりだね、キリル」




