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Hack The World  作者: Hide
第四章 RED LAB篇
26/39

ep.26 False Signal

 レッドラボに収容されてから五年が経った。数えきれない実験と訓練を重ねた末、私はこの施設の最高傑作――完成個体の称号を与えられていた。


 だが、その肩書きに価値はない。国家のためだけに生きる戦略兵器になる気など、最初から私にはなかった。


 だからこそ、私はこの牢獄から抜け出すための脱走計画を誰にも知られることなく着々と進めていた。


 就寝時間になると、私は教官と共に、消灯間際の薄暗い廊下を抜けて自室へ向かった。


「今日一日、顔色が優れていませんでしたが......何かありましたか?」


 私は廊下の防犯マイクへ拾われないよう、喉を震わせる程度のかすかな声で問いかけた。


「......お前には関係ない。黙ってろ」


 自室の前に着き、私は中へ入った。教官が施錠しようとした、その瞬間。


「被検体だけでなく、教官も処分対象に含まれていることは、ご存知でしょうか」


 鍵に伸びていた教官の手が止まった。


「......何が言いたい」


「期限の迫った任務を抱えているのではありませんか」


 教官の眉がわずかに動いた。


「......何故そう思う」


「ここ数日、睡眠不足でしょう。目の充血も隠せていません」


 教官は無意識に目元へ手をやりかけ、すぐにその動きを止めた。


「私なら、その任務を一時間以内に終わらせられます」


「被検体を利用したと知られれば、極刑だ」


「期限を過ぎても、同じではありませんか」


 教官は沈黙した。


「私は......これ以上、誰にも処分されてほしくありません。たとえ、それが貴方であっても」


 長い沈黙の末、教官は小さく息を吐いた。


「......今回だけだ。すぐ戻る」


 そう言うと、教官は足早に立ち去り、数分後には戻ってきた。


 この部屋の監視カメラはドアの真上に設置されている。レンズの放つ微かな駆動音だけが、無音の室内に存在を主張していた。内開きのドアを直角まで開けば、その裏側に数十センチほどの死角が生まれる。


 教官はあえてその角度でドアを固定し、廊下側からその死角へ向け、ジャケットに隠していた薄型ノートパソコンを音もなく滑り込ませた。


 私は物音一つ立てずにベッドを抜け出し、ドアの陰でそれを受け取る。


「来月分のカリキュラムの策定と改訂だ。三十分で終わらせろ」


「お任せを」


 教官は喉をわずかに震わせるだけの、唇すらほとんど動かさない声でそれだけ囁くと、その場を離れた。


 私は再び布団へ潜り込み、画面のバックライトを最小まで落とすと、毛布の闇に包まれた狭い空間で、指先だけが機械のような正確さでキーボードを叩き続けた。


 三十分後、教官が再び部屋を訪れた。巡回用の書類ファイルを落としたように見せかけ、それを拾い上げる一瞬の動作。その死角に紛れ、ノートパソコンは再び教官のジャケットの内側へと収まる。


「終わりました、教官」


 換気扇の低い駆動音に重ね、マイクのノイズへ溶け込む程度の音量で、私は声を届けた。


「この短時間でこれだけの量を片付けるとは......完成個体の名は伊達じゃないな......」


「ありがとうございます。期限の迫った任務があれば、またいつでもお声がけください」


 あれから、教官は幾度となく私に任務を託すようになった。


 日々の書類やデータ処理を片付ける傍ら、私は教官のノートパソコンを用いてレッドラボの内部情報を少しずつ拾い集め、断片をひとつずつ繋ぎ合わせるようにして、その全貌を暴いていった。


 施設の構造、警備体制、監視網、職員の行動パターン......脱走に必要な情報は、夜ごとの作業を重ねるたびに、確実に私の中へ蓄積されていった。


 やがて、必要な準備はすべて整った。ついに、脱走計画を実行へ移す日が訪れる。



 午前零時を少し過ぎた頃だった。


「所長! 一大事です!」


「何事だ」


「この動画を......」


 部下が差し出したタブレットの画面で、動画が再生される。


 映し出されたのは、被検体用の服を着た一人の子供だった。顔には粗いモザイクが施され、声もノイズで歪められている。


『突然、この動画が皆様のタイムラインに表示され、困惑されていることでしょう。それでも、ワタシはこの真実を一人でも多くの方に届けなければなりません』


『ワタシは五歳の頃、レッドラボと呼ばれる、人間を戦略兵器へ作り替える施設に収容されました』


 画面には、施設内部の映像や実験記録、被検体の管理データが次々と映し出される。


『ここでは千人を超える身寄りのない孤児が集められ、基準に達しなかった子供は次々と処分――殺されています。ワタシも、その一人になるかもしれません』


『施設の位置座標は68.742381°N、34.913764°Eです。どうか......ワタシたちをこの地獄から救ってください!!』


 画面が暗転し、動画は終わった。


 わたしは即座に受話器を取り、何度も大統領へ連絡を入れたが、応答はない。手から滑り落ちた受話器が、乾いた音を立てて床に転がった。


「......政府は、我々を切り捨てたか」


 その直後、施設中に火災報知機の音が鳴り響き、フェイルセーフの作動と共に、すべての扉のロックが一斉に解錠された。


「被検体を全員回収しろ! 政府がこの施設を消しに来る。即刻退避しろ!」


「了解しました!」


 ノートパソコンを開き、GPSトラッキング画面を表示した。こんな芸当ができるのは、奴しかいない。


 予想どおり、完成個体――エフゲニー・カルポフのGPS信号は、遺伝子サンプルを永久保存する設備、極低温保存室を指し示していた。逃走を阻むために、左手の甲の皮下へ埋め込んでおいたGPSチップが、ようやくその真価を発揮した。


「極低温保存室に完成個体がいる! 直ちに確保しろ!」


 マイク越しに施設全域へ命令を飛ばす。政府の手が回る前に、すべてを終わらせねばならない。


 その時、スマホの着信音が鳴った。


「どうした」


『現在、六名で保存室内を捜索していますが、発見できません!』


「......何だと」


 再びトラッキング画面へ視線を落とすと、GPS信号は保存室東側の壁面内部から発せられている。その瞬間、奴の狙いを見抜いた。


「完成個体は東側の換気口へ向かっている。三人は内部から追跡し、残る三人は屋外の排出口で待ち伏せろ。絶対に逃がすな」


『了解!』


 退路は断った。お前は袋のネズミだ。


 数分後、信号は確実に排出口へと近づいていった。


「まもなく出てくる。テーザー銃を構えろ」


 ほどなく、GPS信号が出口を通過した。


『し、所長......!』


「何をしている! すぐに確保しろ!」


『換気口から現れたのは、清掃ロボットに載せられた左手だけでした......!』


「......左手だと?」



 私は手始めに、レッドラボの告発動画をSNSへアップロードする。同時に、各SNSのレコメンドシステムへ侵入し、動画を優先表示させた。世界中のタイムラインは瞬く間に告発動画で埋め尽くされていく。


 数分後、施設内すべての監視カメラを即座にシャットダウンする。


 そして、フェイルセーフを実行した直後、私は極低温保存室へ駆け込み、霜に覆われた冷却配管へ手を伸ばし、バルブを勢いよくひねった。


 凄まじい噴射音が響き渡り、白煙とともにマイナス百九十六度の液体窒素が激しく溢れ出した。


 歯を食いしばり、GPSチップが埋め込まれた左手を、手首まで深く極低温の液体へ突き入れる。


 脳が焼き切れるような激痛が全身を貫いたが、それも一瞬だった。神経は瞬く間に凍りつき、狂気じみた痛みは急速に遠ざかっていく。


 左腕を引き上げると、血の気を完全に失った左手首が露わになった。大理石を削り出した彫刻のように白く変色し、表面には空気中の水分が瞬時に凍りついて霜が幾重にも張り付いている。もはや、自分の肉体には見えなかった。


 ポケットから、自室のベッドフレームから密かに抜き取っておいた鉄製の太いボルトを取り出す。実験机に左手首を載せると、ボルトの頭を何度も叩きつけた。


 乾いた破砕音が響くたび、凍結した骨と関節は少しずつ砕け、やがて左手が鈍い音を立てて床へ転がり落ちた。


 断面は完全に凍結し、傷口から血が溢れることはなかった。


「......これで、追えないはずだ」


 切り離した左手を拾い上げ、待機させていた清掃ロボットの上へ載せると、そのまま東側の換気口へ送り込み、GPSの位置情報を偽装した。


 白く凍りついた傷口を衣服で固く縛ると、西側の換気口から屋外へ脱出する。


 駐車場へ辿り着くと、停車していた電気自動車へビークルハッキングを仕掛ける。ドアロックが解除され、システムが起動した。


 運転席へ滑り込み、片手でハンドルを握る。そのままアクセルを踏み込み、俺はレッドラボを後にした。


 目指す先は、冷戦時代の遺物である核シェルターだ。



 その頃、エフゲニーの捜索が続く一方で、大量の軍用ヘリが編隊を成し、レッドラボへ接近していた。


 施設の存在が白日の下に晒されれば、政府の関与は隠しきれず、国際社会を揺るがす大問題へと発展する。


 それを阻止するため、大統領は防衛大臣へ命じた。施設内の子供たちを回収した後、レッドラボを跡形もなく焼き払え、と。


『所長! 軍用ヘリが目前まで迫っています!』


「......やむを得ん。全員、速やかに撤収しろ」


『了解!』


 通信が途切れる。


 大統領は、祖国のために尽くしてきたわたしを切り捨て、己の保身を優先したのだ。


 ......いいだろう。


 この代償は、必ず払わせる。


 新たなレッドラボを築き上げ、完成個体――エフゲニー・カルポフすら凌駕する戦略兵器を生み出してみせる。


 エフゲニーを始末し、大統領もその玉座から引きずり下ろす。最後にこの国の頂点へ立つのは、わたしだ。


 わたしが新たなロシアを築き、この国を世界最大の国家へ導いてみせる。

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