ep.25 Orphan Protocol
時は、Unreal USBが全ランカーへ配布された六月十日に遡る。
「準完成個体――キリル・ザイツォフ」
「はい、所長」
「お前に与えられたUSB――DIMENSION。それを使い、レッドラボの完成個体......いや、ロシアの反逆者に成り果てた第1位――エフゲニー・カルポフを抹殺せよ」
「了解しました。すべては祖国のために」
俺はDIMENSIONを発動し、時間軸へ干渉した。標的であるエフゲニーの足取りを追うため、意識は過去へと沈んでいった。
十八年前。
当時五歳だった俺は、孤児院で暮らしていた。
ある日、三歳から七歳までの孤児だけが選別され、一つの施設へ移送された。窓のない輸送車の中、他の孤児院から来たという子供たちと肩を並べる。車は数時間、揺れ続けた。
その施設こそ、単独で一国家のインフラを完全に崩壊させるだけの技術力を持つサイバー工作員を育成するために設立された極秘機関――レッドラボだった。敵国との情報戦および電子戦において圧倒的優位を築くことを目的に、ロシア政府が極秘裏に始動させた国家機密計画。その理念は人材育成ではなく、戦略兵器の製造そのものだった。
被験体は高度な情報工学はもちろん、サイバー空間での情報収集・分析、心理操作、潜入技術まで徹底的に叩き込まれた。単独で敵国の国家インフラを崩壊させ得る完成個体を生み出すこと。それこそが、レッドラボ設立の目的だった。
集められた孤児は、千人を超えていた。コンクリートの壁に囲まれた寮舎には窓がほとんどなく、灰色の制服に身を包んだ子供たちは、名前ではなく番号で呼ばれていた。午前七時に起床し、午後十一時に就寝するまでの十六時間。食事、排泄、衛生管理に必要な時間を除いた、そのすべてがカリキュラムに費やされる。
毎月末には適性検査が実施され、規定点に届かなかった子供は一人残らず、文字通り処理される。脱走を企てた者も例外ではなく、捕まればその日を最後に姿を消した。
精神が壊れていく子供を、何人も見てきた。壁に何度も頭を打ちつけ、自ら命を絶った者。フォークで頸動脈を突き刺した者。便器へ頭を押し込み、窒息死を図った者――俺の同室者も、そのうちの一人だった。
ある朝、目を覚ますと、そいつは洗面台の蛇口に長袖シャツの両袖を固く結びつけ、その輪に首を通したまま息絶えていた。膝を折り、体重を預けるように上体が傾いた姿勢のまま固まっている。物音一つしない部屋に、蛇口から落ちる水滴だけが一定の間隔で床を打ち続けていた。
五年が経ち、十歳になった頃には、千人以上いた孤児は三十五人まで減っていた。俺がこの地獄のような環境を生き延びられた理由は、一つしかない。狂気と呼ばれても構わないほどの、祖国への忠誠。それだけが、俺を壊さずに支え続けた。
俺の父は、ロシア軍の将校だった。国境地帯で武装勢力との戦闘が勃発した際、部隊を撤退させるため自ら最後尾に残った。仲間を生かす代償として、父は戦場へ散った。
棺に納められた軍帽を胸に抱き締めながら、母は涙をこらえ、幼い俺へ何度も語り聞かせた。
「あなたのお父さんは、祖国を守るために命を捧げた英雄なのよ」
その言葉は、幼かった俺の胸に深く刻み込まれた。
父を失ってから、母は昼夜を問わず働き続けた。朝早くに家を出て、夜遅くに帰宅する生活が続くうち、頬は日に日にこけ、笑顔は少しずつ消えていった。食卓に並ぶのは、黒パンと温かいスープだけ。それでも母は、一度たりとも国を恨まなかった。
「国は悪くないわ。悪いのは、争いを生み出す人たちよ」
それが母の口癖だった。
やがて過労と病に蝕まれた母は病床に伏し、自力で起き上がることすらできなくなった。最期の日。病室に差し込む夕日に照らされながら、母は震える手で俺の手を包み込み、かすれた声で微笑んだ。
「お父さんのように......強く生きて。この国を......守れる人になって......」
その言葉を最後に、母の指先から力が抜けていく。握り返しても、温もりは少しずつ失われていった。幼かった俺には、それが永遠の別れなのだと、まだ理解できなかった。
父は祖国のために命を捧げ、母は最期の瞬間まで父を誇り、祖国を信じ続けた。だからこそ俺もまた、この国のために生きる。それが父と母に報いる唯一の道であり、俺に残された使命だと信じていた。その信念だけは、レッドラボでどれほど過酷なカリキュラムを課されようとも、一度たりとも揺らぐことはなかった。
そして、俺は準完成個体と呼ばれるほどの技術力を身につけた。
*
昼食をとっていると、一人の男が向かいの席へ腰を下ろした。
「やあ。君が準完成個体――キリル・ザイツォフか」
顔を上げた瞬間、雪のように白い髪と、左右で色の異なる瞳が目に入った。右は淡い青、左は深い赤。その特徴だけで、相手が誰なのかを悟る。適性検査で常に首位を維持し続ける、レッドラボの完成個体――エフゲニー・カルポフ。
「何の用だ」
俺が短く返すと、彼は肩をすくめ、小さく笑う。
「一つ聞かせてくれ」
スプーンを置き、真っ直ぐ俺を見据える。
「もし明日、レッドラボが消え去って、君が自由になれたとしたら......その先で何を望む?」
くだらない。
そんな仮定に意味はない。レッドラボは国家のために存在し、俺もまた国家のために生きる。それ以外の未来など、考えたこともなかった。
俺は答えることなく席を立ち、食器を返却棚へ運んだ。背後から、彼の静かな声が聞こえる。
「......国家のために生きることしか知らないんだな」
振り返ることはなかった。彼もそれ以上は何も言わず、静かに踵を返した。
あれが、彼と交わした最後の会話だった。
その一週間後、レッドラボは炎に包まれ、エフゲニー・カルポフは姿を消した。




