ep.23 Dead Flag
僕が透と初めて顔を合わせた時、これまでの戦闘の影響で透の脳内バッテリーは七割ほど消耗していると判断した。
かつて無能な部下に、一分ごとに対象のオブジェクトを一か月経過させるループ命令を書き込んだTIMEのUSBを無理やり差し込んだことがあった。
二十八分後、男は突然鼻血を流した。二十九分後には激しい動悸と呼吸困難を訴え、その場に膝をついた。そして三十分後――耳、鼻、口、眼球。体中のあらゆる開口部から血を噴き出し、絶命した。脳が処理能力の限界を超えた結果だった。
この実験で得た知見は多い。人体から分離された歯や骨ですら、USBにとっては人体の一部であり続けることもその一つだった。
透もまた、構成員との戦闘に加えて鴻志との交戦で脳内CPUを酷使している。実際、奴は鼻血を流していた。脳内バッテリーは限界へ近づいており、残された余力は三割程度といったところだろう。
ならば取るべき戦略は一つだ。長引かせる必要はない。短期決戦で三人まとめて始末する。
*
ボクは気を失った彩子を例の場所――明俊の手術室へ運び込んだ。無機質な白い照明が室内を照らし、中央には手術台、その周囲には脳神経外科で使われる医療機器やモニターが整然と並んでいた。
彩子を手術台へ寝かせた後、ボクは壁にもたれながら明俊の到着を待った。
数十分後、自動ドアが静かに開き、明俊が姿を現した。白衣の裾を翻しながら近づいてきた彼は、気を失ったままの彩子へ視線を落とす。
「お疲れ様です。予定通りですね」
口調は穏やかだったが、その目はすでに次の工程へ向けられていた。
「いえ。それより、ここで何をなさるおつもりですか?」
「念には念を入れて、彩子さんの地下施設へ入って以降の記憶を消去します」
ボクは思わず彩子へ視線を向けた。記憶の消去......。
「2017年、ある科学者がカタツムリの脳から特定の記憶を消去することに成功し、論文を発表しています」
明俊は手術台の横へ移動しながら続ける。
「私はこの研究をさらに推し進め、記憶が神経回路だけでなく、その構造を維持するRNA(リボ核酸)にも刻まれていることを解明しました」
そう言いながら、薬剤が入った小型バイアルを取り出した。
「そして、そのRNAを選択的に破壊することで、任意の記憶だけを消去する『記憶維持RNA破壊薬』を完成させたのです」
「......なるほど」
相変わらず常識の外側を歩いている男だ。
「投与には脳組織への直接注入が必要です。そのため頭蓋骨に穿孔を施し、標的部位へ薬剤を注入します」
手術用顕微鏡の位置を調整しながら、明俊は淡々と言った。まるで日常業務を説明するような口調だった。
「では計画を次の段階へ移します」
明俊は机の引き出しを開け、数本の注射器を差し出した。
「静脈麻酔薬を携えて、砂漠の小屋へ向かっていてください」
ボクは注射器を受け取る。
「また、処置に集中したいので、手術を終えるまで義眼型カメラの電源を落としておきます」
「承知しました」
ボクは義眼型カメラの電源を切った。視界の片隅に映っていた映像が消え、渡された麻酔薬を懐へしまうと、静かに手術室を後にした。
自動ドアが閉まる直前。明俊はすでに顕微鏡の前へ腰を下ろし、彩子の頭部へ視線を向けていた。
*
一時間後、記憶を消去する手術は無事に終了した。だが、これで終わりではない。
僕は彩子の首筋へ小さな切開を加え、GPSチップと音声受信器を埋め込んだ。どちらも皮下組織へ固定し、術後に違和感が出ないよう慎重に縫合する。これで居場所の追跡と会話の傍受が可能になった。
続いて、僕は彩子の左手を持ち上げた。親指と人差し指の付け根――水かきの位置に、小さな縫合痕が残されている。一見しただけでは気づかないほど目立たない。だが、手術を行った人間であれば、そのわずかな違和感を見逃すことはない。
――何か隠していますね。
手術用顕微鏡を覗き込みながら、極小メスで皮膚を慎重に切開した。縫合糸を一本ずつ取り除き、組織を傷つけないよう剥離していくと、皮下組織の奥から異物が姿を現した。小型化された携帯電話。そして、それに接続された電気雷管。
――なるほど。即席爆発装置をSIZEで縮小させたものですか。
拘束や尋問を受けた際の自決装置か、あるいは敵ごと自爆するための保険だろう。用意周到な性格がよく表れている。
ピンセットで携帯電話を摘み上げ、TIMEで命令を書き込んだ。設定を終えると元の位置へ戻し、今度は顕微鏡越しに基板を確認する。配線を一本ずつ追い、着信信号ラインへ超小型の無線振動モーターを接続した。
回路に異常がないことを確認した後、切開部を縫合して消毒を終える。作業時間は十分にも満たなかった。外見上の変化は皆無。彩子自身でさえ、体内へ新たな細工が施されたことには気づかないだろう。
僕は顕微鏡から顔を上げ、白衣の袖を整えた。彩子を連れて、志遠の待つ砂漠の小屋へ向かった。
*
時は、透たちが交渉の場へ姿を現した頃へ移る。ボクは受信機から流れてくる明俊の言葉を、一言一句違えず透たちへ向けて復唱していた。そして、彩子をエレベーターへ乗せてそのまま透たちのもとへ送り届ける。
『明俊。隠し通路を使って地上へ出てください。ここから先は予定通りです』
受信機から流れた明俊の指示を聞き終えると、ボクは隠し通路を駆け抜けた。地下施設を脱出し、透との直接対決へ向かう。
だが、透は能力の欺瞞に気づいていた。明俊が仕掛けた罠も、勝利への布石も、その全てを見抜いていたのだ。
熱気が皮膚を焼き、視界が揺らぐ。燃え盛る炎の中、ボクはただ受信機へ耳を傾けていた。明俊なら、あのお方なら、きっと次の一手を示してくれる。そう信じて。
『志遠』
「ッ!」
全身が強張った。その名前は、ボクが捨てた名前だった。家族も、過去も、弱かった自分も。全てを捨てたはずだった。
『計画のために死んでください』
一瞬、思考が停止した。だが、不思議と驚きはなかった。最初から分かっていたはずだ。あのお方に肩を並べることなど、天地がひっくり返っても不可能だと。
ボクはただの凡人だった。だからこそ憧れた。だからこそ縋った。あのお方の理想に、あのお方の背中に、あのお方が創る未来に。だが、その結末がこれだ。利用価値があるから傍に置かれ、利用価値がなくなれば切り捨てられる。それだけのことだった。あのお方にとって、林志遠という人間は、最初から最後まで、ただの捨て駒に過ぎなかった。
炎が頬を舐める。焼けた空気を吸い込み、肺が軋んだ。涙は流れなかった。涙腺はすでに熱で焼け爛れていたからだ。それでも胸の奥だけは、どうしようもなく痛かった。
*
「オイ! 地下施設を襲った能力者どもの居場所はまだ掴めねェのか!」
怒号とともに厲鋒は椅子を蹴り飛ばした。金属製の椅子が床を転がり、壁へ激突する。部屋にいた構成員たちは肩を震わせた。
「も、申し訳ありません!」
「謝罪なんざ聞いてねェんだよ!」
拳で机を叩くと、鈍い衝撃音が室内に響いた。
「明俊はどうした! あいつは今どこにいる!」
地下施設が壊滅してから、能力者どもの足取りも、副龍頭の消息も、何一つ掴めていなかった。
その時、執務室の扉が勢いよく開いた。
「龍頭! ご報告があります!」
「何だァ!?」
「副龍頭が管理していた砂漠の小屋付近で白骨化した死体が発見されました......状況から見て、副龍頭本人の可能性が高いかと......」
室内が静まり返った。厲鋒は何も言わず、ただ険しい表情のまま報告を聞いていた。やがて口元が歪む。
「......やってくれるじゃねェか、能力者ァ」
低く唸るような声だった。
「ここまで俺をコケにした奴は久しぶりだぜ」
己の右腕を奪われたことへの、殺意にも似た感情が滲んでいた。
その時、別の構成員が慌ただしく駆け込んでくる。
「龍頭! 能力者どもの所在を特定しました!」
厲鋒の目が鋭く細まった。
「どこだァ! 今すぐ言え!」
「情報屋から翡翠宮酒店へ入る男女三名の画像を入手しました!」
構成員はタブレット端末を差し出す。
「そのうち二名の顔が、地下施設の監視カメラに映っていた能力者と酷似しています!」
画面に映る顔を見た瞬間、厲鋒の口元が獰猛に吊り上がった。
「見つけたぜェ......」
ギリ、と拳を握り締める。
「よォし、てめェら!」
立ち上がった厲鋒の眼には、怒りと殺意が燃え上がっていた。
「毒蛇を敵に回した代償――骨の髄まで叩き込んでやれ!!」
「「是ッ!!!」」
構成員たちの怒号が一斉に響く。こうして毒蛇は総力を挙げ、能力者たちの抹殺へ動き出した。
*
毒蛇と透たちの全面衝突。僕が仕掛けた全てのトリガーが、予定通り順番に発火していた。
僕が彩子の左手に埋め込まれていた爆発装置へTIMEで書き込んだ命令――それは、スマホから信号を送信して十秒後、爆発装置そのものを四週間前の状態へ巻き戻すというものだった。
この命令に辿り着いたきっかけは、志遠からTIMEを借り受けた直後に行った実験だった。時間を巻き戻せば、蛇の死体を蘇生できるのではないか――そう考えた僕は、さっそく検証を始めた。しかし、何度時間を巻き戻しても、蛇が息を吹き返すことはない。その原因を突き止めるため、僕は生前と死後のHex値を比較・分析した。
すると、一つだけ不自然な差異を発見した。末尾付近の特定アドレス。生存時は値が格納されているにもかかわらず、死亡時ではゼロになっていたのだ。その瞬間、僕は確信した。x86アセンブリにおけるゼロフラグやキャリーフラグのように、生死を判定するためのステータスフラグが存在すると。僕はそのフラグをデッドフラグと名付けた。
そして、スマホからの信号を受信した瞬間、ケージ内の蛇へ十秒で致死量に達する毒ガスを放出する装置をあらかじめ製作しておいた。もちろん、その蛇のベースアドレスは事前に取得済みだ。
蛇が死亡した瞬間、デッドフラグが立つ。そのフラグをトリガーとして、彩子の爆発装置へ書き込んだ命令が実行される。爆発装置は四週間前の状態へ復帰し、透がSIZEで縮小する以前の原寸大へ戻る。そして、信号送信から十秒後、再配線しておいた無線振動モーターを起動させる。電流が流れ、起爆装置が作動する。
一つの処理が次の処理を呼び起こし、最後の一つへ到達するまで止まらない。まるで、複数の条件分岐とトリガーを組み合わせたスクリプトのように、すべてが連鎖的に実行される。
僕は最後に、この命令群をTIME内部の発見されにくい下層アドレスへ隠蔽した。バックドアは完成した。あとは、トリガーが引かれる時を待つだけだ。
僕は、対象のオブジェクトへ色彩を与えることしかできない最弱のUSB――COLORを発動する。景色へ溶け込むように姿を隠し、静かにその時を待った。
; --- 蛇のデッドフラグ検証 ---
mov ebx, [SNAKE_BASE_ADDR] ; 蛇のベースアドレスを取得
mov al, byte [ebx + DEAD_OFFSET] ; 末尾のステータスアドレスの値をalに読み込む
test al, al ; 値を検証(生死の判定)
jnz .skip_time_rewind ; ゼロフラグが立っていない(生存)なら処理をスキップ
; --- デッドフラグ発動:爆発装置そのものを四週間前に巻き戻す ---
mov eax, [EXPLOSIVE_ADDR] ; 操作対象:彩子の左手の爆発装置アドレス
mov ecx, -2419200 ; パラメーター:マイナス2,419,200秒(四週間過去へ)
.skip_time_rewind:
; 続く処理......
*
そして、ついにその時が訪れた。彩子の体内へ埋め込まれている爆発装置を起動し、轟音と爆炎が周囲へ肉片と破片を撒き散らす。その直後、彩子の右手からSPEEDとTIMEのUSBが排出された。狙い通りだった。さらにGRAVITYを持つ女も透を庇って死に、そして今、僕の目の前には第2位――黒瀬透が跪いている。呼吸は荒く、血まみれで、もはや立ち上がることすらできない。勝負は決した。
僕はホルスターベルトから拳銃を抜き、ゆっくりと歩み寄って銃口を透の額へ向けた。透が顔を上げる。その目には、まだ諦めの色がなかった。だからこそ分かる。今、彼はこう考えている。放たれた弾丸を明俊の後頭部へ転移させれば殺せると。
ですが、それは叶いません。心の中でそう告げる。この弾丸は特殊製だ――素材は人の歯、人体の一部から加工されている。相手の人体をオブジェクトとして認識できないという制約によって、この弾丸はUSBの影響を一切受けない。転移も操作も、不可能。全ては想定通り、僕のシナリオ通りだ。
「さようなら」
引き金を引いた。乾いた銃声が響き、弾丸は透の額を撃ち抜いた。その体が力を失い、前方へ崩れ落ちる。直後、三つのUSBが右手から排出され、アスファルトの上を転がって僕の足元で静止した。
僕は屈み込み、一本ずつ拾い上げた。幾重もの布石の末に手にした力。指先でUSBを撫で、勝利を確かめるように眺めた後、体内へ取り込もうとした。
その時だった。不意に、ある思考が脳裏をよぎる。
――うまくいきすぎている。
極めて小さな違和感、無視できないノイズ。黒瀬透は第2位だ。これほど容易く、これほど都合よく、全てが終わるだろうか。
しかし、その疑問は最後まで形にならなかった。USBを体内へ取り込んだ瞬間、思考は霧散した。まるで強制終了されたプログラムのように。視界が暗転し、膝から力が抜ける。
そして、僕の生命活動は停止した。




