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Hack The World  作者: Hide
第三章 毒蛇篇
20/39

ep.20 Insider Threat

<SIDE:明俊>


 時は僕が死亡する四年前に遡る。


 当時二十歳の僕は、超名門・天元大学で情報学と医学を専攻していた。首席という肩書きは周囲から羨望を集めたが、僕にとってはただの飾りでしかない。


 友人は多かったが、その中でも特に深く関わっていたのが、THBの話で知り合った化学専攻の沈鴻志だった。研究室に籠もり続ける変人であり、同時に僕が数少なく評価している人間でもあった。


 ある日、僕は化学棟の最上階にある研究室を訪れた。扉を開けると薬品の匂いが鼻を掠め、机の上には分析データが積み上がり、ホワイトボードには化学式が隙間なく書き込まれている。中央では白衣姿の鴻志が顕微鏡を覗いていた。


「こんにちは、鴻志さん」


「明俊か」


 彼は顔も上げずに答えた。


「今日も元素の電子構造を解析しているんですか?」


「遷移金属の反応特性を調べている」


「相変わらずですね。貴方の研究への執着には感心します」


「お前こそ最近よく来るな。自分の研究はどうした?」


「......暇なんです。正確には退屈、でしょうか」


 僕は近くの椅子へ腰掛けた。


「退屈?」


「この大学で学べることは、ほとんど吸収し終えました。周囲の学生との会話も刺激に欠ける。そろそろ潮時だと思っています」


 鴻志の手が止まった。


「何の話だ?」


「近いうちに退学します」


「退学だと?」


「ええ」


 鴻志はようやくこちらを見た。その目には驚きと困惑が混じっていた。


「こうして貴方と話す時間が無くなるのは残念ですが」


「......卒業を待たずに何をするつもりだ」


「毒蛇に入ります」


 一瞬、鴻志は言葉を失った。聞き間違いを疑うように、じっと僕の顔を見つめる。


「冗談はよせ」


「冗談を言っている顔に見えますか?」


 研究室の換気装置の音だけが響く。


「本気なのか」


「もちろんです」


「将来が保証された人間の選ぶ道じゃないだろ。なぜだ」


「それが僕の本質だからです」


 僕は静かに笑った。


クラッカー(悪意を持つハッカー)は境界線の向こう側に手を伸ばす種族です。禁止されている場所へ侵入し、誰も見たことのない景色を見る。その瞬間にこそ価値がある」


「理解できんな」


「いいえ。貴方なら理解できます」


「何を根拠に言っている」


「貴方と知り合ってすぐ、ノートパソコンにバックドアを仕込みました」


「なっ......!?」


 鴻志が勢いよく立ち上がり、椅子が床を擦る音が鳴った。


「三分ほど端末を借りられれば十分でした」


「貴様......!」


「そのおかげで知ることができました」


 僕は椅子の背にもたれ、彼を見上げる。


「貴方がダークウェブで違法薬物の論文や製造記録を調べ続けていたことを」


「っ......!」


 鴻志の表情が凍り付いた。


「貴方は善人を演じている。ですが心の奥底では禁忌に触れたいと願っている」


「本当に研究したいのは、法律に守られた安全な化学ではない。もっと危険で、もっと美しい領域だ」


 僕は立ち上がり、右手を差し出した。


「どうです? 僕と共に、黒牡丹色の道を歩みませんか?」


 鴻志はしばらく黙ったまま、差し出された手を見つめていた。その瞳に迷いが揺れながらも、最後には首を横に振った。


「......悪いが断る」


 僕はゆっくりと手を下ろした。


「そうですか......残念です」


 踵を返す。


「同級生として話すのは、これで最後ですね」


 振り返ることなく、その場を去った。


 その夜、鴻志は研究室に一人残っていた。


 ノートパソコンの画面には、表の世界では決して触れることのできない知識が並んでいた。違法薬物の製造記録、軍用化学剤の研究資料、規制によって封印された実験報告書。どれも、学術論文の棚には存在しない類のものだ。


『本当に研究したいのは、法律に守られた安全な化学ではない。もっと危険で、もっと美しい領域だ』


 明俊の言葉が脳裏を離れない。


「......馬鹿なことを」


 否定の言葉とは裏腹に、視線は画面から逸れなかった。


 知りたい。理解したい。その先に何があるのかを。


 翌日、僕は敵対組織の内部情報を手土産に毒蛇本部へ乗り込み、数十分後には正式な構成員となっていた。


 そして二週間後、本部の廊下を歩いていた僕は見知った顔を見つける。スーツ姿の男が立ち尽くしていた。


「初めまして。新しく入られた方ですか?」


 男の肩が僅かに震える。


「......はい。沈鴻志と申します」


 僕は微笑み、一歩近づく。


「夜明俊です。以後、お見知りおきを――鴻志さん」


 それからの日々は退屈とは無縁だった。


 警察の捜査網を事前に察知し、複数国家を経由する資金洗浄ルートを構築し、敵対組織の情報網へ侵入し、厲鋒暗殺計画を未然に阻止した。


 さらに、敵対組織同士を衝突させることで勢力圏を奪い取り、毒蛇の収益は過去最高を記録する。


 一年後、僕は二十一歳にして毒蛇の幹部――白紙扇(はくしせん)へ昇格する。戦略立案から情報収集、財務管理、外交・交渉、人事管理まで、組織の頭脳として機能する重要な地位だった。


 だが当然ながら、新参者の若造が急速に権力を握ることを快く思わない人間もいる。



 葉巻を咥えながら報告書を眺めると、そこには夜明俊の名が何度も記されていた。若造のくせに、あまりにも結果を出し過ぎる。


 面白い男だ。組織の未来を変える存在になるかもしれねェ。そんなことを考えていると、扉がノックされた。


「龍頭、お時間をいただけますか」


 副龍頭――世豪(シーハオ)の声だった。


「入れ」


「失礼します」


 世豪が部屋へ入ってくる。俺は葉巻の煙を吐きながら椅子に深く腰掛けた。


「用件を言え」


「夜明俊についてお話があります」


「奇遇だな。俺も奴のことを考えていたところだ」


 俺は口元を歪める。


「奴は底が見えん。将来を考えりゃ、世豪の後釜として申し分ねェ」


「だからこそ問題なのです」


「何が気に入らねェ」


「彼を信用できません」


「何を根拠に言ってやがる」


「二十一歳にして幹部へ昇格した異例の存在ですが、彼は常に安全圏から指示を出すだけで、命を懸けて組織に尽くした実績がありません」


「結果は出している」


「ええ。出し過ぎています」


 世豪は即答した。


「だから不自然なのです。彼は金に執着しない、女にも興味を示さない、縄張りも欲しがらない。普通の人間なら何かを求めて組織へ入るものです。金、権力、名声、あるいは居場所を。ですが彼には、それが見えない」


「彼からは忠誠ではなく、打算を感じます。組織が繁栄している内は問題ありません。ですが毒蛇が沈み始めた時、彼は真っ先に別の船へ乗り換えるでしょう」


「その話を裏付けるモンは?」


「ありません。私の勘です」


「勘だァ?」


「ええ」


 世豪の表情は真剣だった。


「私は長年、人の裏切りを見てきました。組織を売った者、仲間を売った者、自分の命惜しさに逃げ出した者......数え切れません。明俊からは、そいつらと同じ匂いを感じるのです」


 俺は数秒間黙った。やがて低く笑う。


「それで、てめェはどうしたい」


「彼の忠誠を試します」


 世豪は懐から回転式拳銃を取り出し、机の上へ置いた。鈍い音が室内に響く。


「......なるほどな」


「彼が毒蛇の人間なら引き金を引ける。そうでなければ――そこで終わりです」


 部屋に沈黙が流れた。机の上の拳銃だけが、来るべき未来を予告するように静かに横たわっていた。

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