ep.20 Insider Threat
<SIDE:明俊>
時は僕が死亡する四年前に遡る。
当時二十歳の僕は、超名門・天元大学で情報学と医学を専攻していた。首席という肩書きは周囲から羨望を集めたが、僕にとってはただの飾りでしかない。
友人は多かったが、その中でも特に深く関わっていたのが、THBの話で知り合った化学専攻の沈鴻志だった。研究室に籠もり続ける変人であり、同時に僕が数少なく評価している人間でもあった。
ある日、僕は化学棟の最上階にある研究室を訪れた。扉を開けると薬品の匂いが鼻を掠め、机の上には分析データが積み上がり、ホワイトボードには化学式が隙間なく書き込まれている。中央では白衣姿の鴻志が顕微鏡を覗いていた。
「こんにちは、鴻志さん」
「明俊か」
彼は顔も上げずに答えた。
「今日も元素の電子構造を解析しているんですか?」
「遷移金属の反応特性を調べている」
「相変わらずですね。貴方の研究への執着には感心します」
「お前こそ最近よく来るな。自分の研究はどうした?」
「......暇なんです。正確には退屈、でしょうか」
僕は近くの椅子へ腰掛けた。
「退屈?」
「この大学で学べることは、ほとんど吸収し終えました。周囲の学生との会話も刺激に欠ける。そろそろ潮時だと思っています」
鴻志の手が止まった。
「何の話だ?」
「近いうちに退学します」
「退学だと?」
「ええ」
鴻志はようやくこちらを見た。その目には驚きと困惑が混じっていた。
「こうして貴方と話す時間が無くなるのは残念ですが」
「......卒業を待たずに何をするつもりだ」
「毒蛇に入ります」
一瞬、鴻志は言葉を失った。聞き間違いを疑うように、じっと僕の顔を見つめる。
「冗談はよせ」
「冗談を言っている顔に見えますか?」
研究室の換気装置の音だけが響く。
「本気なのか」
「もちろんです」
「将来が保証された人間の選ぶ道じゃないだろ。なぜだ」
「それが僕の本質だからです」
僕は静かに笑った。
「クラッカーは境界線の向こう側に手を伸ばす種族です。禁止されている場所へ侵入し、誰も見たことのない景色を見る。その瞬間にこそ価値がある」
「理解できんな」
「いいえ。貴方なら理解できます」
「何を根拠に言っている」
「貴方と知り合ってすぐ、ノートパソコンにバックドアを仕込みました」
「なっ......!?」
鴻志が勢いよく立ち上がり、椅子が床を擦る音が鳴った。
「三分ほど端末を借りられれば十分でした」
「貴様......!」
「そのおかげで知ることができました」
僕は椅子の背にもたれ、彼を見上げる。
「貴方がダークウェブで違法薬物の論文や製造記録を調べ続けていたことを」
「っ......!」
鴻志の表情が凍り付いた。
「貴方は善人を演じている。ですが心の奥底では禁忌に触れたいと願っている」
「本当に研究したいのは、法律に守られた安全な化学ではない。もっと危険で、もっと美しい領域だ」
僕は立ち上がり、右手を差し出した。
「どうです? 僕と共に、黒牡丹色の道を歩みませんか?」
鴻志はしばらく黙ったまま、差し出された手を見つめていた。その瞳に迷いが揺れながらも、最後には首を横に振った。
「......悪いが断る」
僕はゆっくりと手を下ろした。
「そうですか......残念です」
踵を返す。
「同級生として話すのは、これで最後ですね」
振り返ることなく、その場を去った。
その夜、鴻志は研究室に一人残っていた。
ノートパソコンの画面には、表の世界では決して触れることのできない知識が並んでいた。違法薬物の製造記録、軍用化学剤の研究資料、規制によって封印された実験報告書。どれも、学術論文の棚には存在しない類のものだ。
『本当に研究したいのは、法律に守られた安全な化学ではない。もっと危険で、もっと美しい領域だ』
明俊の言葉が脳裏を離れない。
「......馬鹿なことを」
否定の言葉とは裏腹に、視線は画面から逸れなかった。
知りたい。理解したい。その先に何があるのかを。
翌日、僕は敵対組織の内部情報を手土産に毒蛇本部へ乗り込み、数十分後には正式な構成員となっていた。
そして二週間後、本部の廊下を歩いていた僕は見知った顔を見つける。スーツ姿の男が立ち尽くしていた。
「初めまして。新しく入られた方ですか?」
男の肩が僅かに震える。
「......はい。沈鴻志と申します」
僕は微笑み、一歩近づく。
「夜明俊です。以後、お見知りおきを――鴻志さん」
それからの日々は退屈とは無縁だった。
警察の捜査網を事前に察知し、複数国家を経由する資金洗浄ルートを構築し、敵対組織の情報網へ侵入し、厲鋒暗殺計画を未然に阻止した。
さらに、敵対組織同士を衝突させることで勢力圏を奪い取り、毒蛇の収益は過去最高を記録する。
一年後、僕は二十一歳にして毒蛇の幹部――白紙扇へ昇格する。戦略立案から情報収集、財務管理、外交・交渉、人事管理まで、組織の頭脳として機能する重要な地位だった。
だが当然ながら、新参者の若造が急速に権力を握ることを快く思わない人間もいる。
*
葉巻を咥えながら報告書を眺めると、そこには夜明俊の名が何度も記されていた。若造のくせに、あまりにも結果を出し過ぎる。
面白い男だ。組織の未来を変える存在になるかもしれねェ。そんなことを考えていると、扉がノックされた。
「龍頭、お時間をいただけますか」
副龍頭――世豪の声だった。
「入れ」
「失礼します」
世豪が部屋へ入ってくる。俺は葉巻の煙を吐きながら椅子に深く腰掛けた。
「用件を言え」
「夜明俊についてお話があります」
「奇遇だな。俺も奴のことを考えていたところだ」
俺は口元を歪める。
「奴は底が見えん。将来を考えりゃ、世豪の後釜として申し分ねェ」
「だからこそ問題なのです」
「何が気に入らねェ」
「彼を信用できません」
「何を根拠に言ってやがる」
「二十一歳にして幹部へ昇格した異例の存在ですが、彼は常に安全圏から指示を出すだけで、命を懸けて組織に尽くした実績がありません」
「結果は出している」
「ええ。出し過ぎています」
世豪は即答した。
「だから不自然なのです。彼は金に執着しない、女にも興味を示さない、縄張りも欲しがらない。普通の人間なら何かを求めて組織へ入るものです。金、権力、名声、あるいは居場所を。ですが彼には、それが見えない」
「彼からは忠誠ではなく、打算を感じます。組織が繁栄している内は問題ありません。ですが毒蛇が沈み始めた時、彼は真っ先に別の船へ乗り換えるでしょう」
「その話を裏付けるモンは?」
「ありません。私の勘です」
「勘だァ?」
「ええ」
世豪の表情は真剣だった。
「私は長年、人の裏切りを見てきました。組織を売った者、仲間を売った者、自分の命惜しさに逃げ出した者......数え切れません。明俊からは、そいつらと同じ匂いを感じるのです」
俺は数秒間黙った。やがて低く笑う。
「それで、てめェはどうしたい」
「彼の忠誠を試します」
世豪は懐から回転式拳銃を取り出し、机の上へ置いた。鈍い音が室内に響く。
「......なるほどな」
「彼が毒蛇の人間なら引き金を引ける。そうでなければ――そこで終わりです」
部屋に沈黙が流れた。机の上の拳銃だけが、来るべき未来を予告するように静かに横たわっていた。




