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チートだったら神さまになれるって本当ですか?  作者: 上野史華
チートだったら略奪できるって本当ですか?
25/33

続かない今

アマミさんの乾杯の音頭でレセプションがスタートし、生徒会メンバーは各々来賓と歓談をしていた。

こう言う場が初めてだと言っていた彼女もエルネストに教え込まれたのかいつもの人懐っこい笑顔を隠し、品のある振る舞いをしていた。そんな彼女の周りには次々と来賓の方が訪れ、歓談を始める。

大丈夫そうね…。彼女の様子を見て少し胸を撫で下ろした。そうしていると見知った顔がこちらに向かってやってくる。

「アル。」

「マイ、お疲れ様。」

爽やかな笑顔に輝く金髪。幼馴染としてもその外見は好感を抱くもので、彼がプリンスと呼ばれるのも納得する成端さだと思う。特に幼い頃の彼はとても可愛らしく、使用人がこぞって過保護になるほどだった。

…確か、アマミさんも登校中に彼と会ってその笑顔に見惚れていた。その事を思い出すとなんだか胸にモヤがかかったように煩わしく感じる。その煩わしさに子供のように突っかかってしまう。

「特に疲れてないわ。」

「なんだよ。ご機嫌斜めな感じ?」

アルは眉毛を上げ呆れたように言葉を放つ。

「そんなんじゃないわ。ただ本当に疲れてないだけよ。」

「さすがだね。発足宣言の時あんなにアビリティ使っていたのに。」

発足宣言の演舞の最中、突然何者かに襲撃され、それを中央生徒会で収拾した。彼はおそらくその事を言っているのだろう。

「アマミさんに比べれば全然よ。」

「彼女と比べても仕方ないだろ。」

肩をすくませそう伝える彼に全くの嫌味も悪意も無い。ただ伝説の第一位、人類唯一のダブルアビリティと比べること自体が間違ってると言いたいのだろう。彼が言うことは間違っていない。ただ、私はそうでいたくなかった。彼女を“特別”に押し込めて一人にしていたくなかった。同意をしない私を観察するようにアルが見つめているのがわかった。

「私は副会長よ?生徒会長を支えないといけないのにそんなんじゃダメでしょう?」

アルがこの顔をすると大体ロクなことを言わない。先にこちらから先手を打っておく。その言葉にアルが含み笑いを浮かべながらそうだねと呟く。その笑い方に抗議をしたいところだが彼には先ほど助けてもらったばかりだった。

「さっきはありがとう。ルエダに絡まれてるアマミさん助けてくれて。」

アルは、ああ、と先ほどの出来事を思い出すように伏せ目がちに呟く。

「変な絡まれ方していたからね。」

「変な絡まれ方?」

その言葉に不快感と心配が滲み出る。彼女が何か変なことを言われていないだろうか。傷つけるようなことを言われてないだろうか。

「あぁ、マイがアマミさんと一緒にいるのはその能力に惹かれたからだって。アマミさん、それを聞いて少し寂しそうだったんだ。だから、一応マイはそんな子じゃないよって言っておいたけど。」

語尾が言い淀むのは自分の否定で彼女が納得しているか、それが不安なのだろう。

ルエダは何をしたいのだろう。無意味に彼女にちょっかいをかけて。私と彼女の関係を拗らせようとしているのか。それとも他に…。

考え込んでいるとアルがこちらを見つめていた。何の返事もなく考え込んでしまった私をまた観察していたのだろう。アルに何か言われる前に言葉を紡ぐ。

「ありがとう。私からも否定しておくわ。」

アルが何かを考えるようにその碧眼を床に這わせたあと、真剣な眼差しで私を見つめる。

「…マイはアマミさんをどう思っているんだい?」

人の事を散々観察しておいて、結局聞くのね。アルのその質問にため息がちに答える。

「どうって。中央生徒会長だと思ってるわ。」

自分でも酷い回答だと思う。アルが聞きたがってる質問の意図を全く捉えない回答。ただ、アルだったらこの拒否が伝わるはずだと逃げるように言葉を返した。


「そう言うことじゃない。アマミさん自身に対してどう言う感情を抱いてるかってきいているんだよ。」

珍しく少し不快そうに言い返す。いつもだったら仕方ないなと笑ってその拒否に従うのに。

その姿に疑問と驚きを感じ、眉間に皺を寄せジッと見つめてしまう。しばらくお互いの眉間のシワを向かい合わせながら沈黙したが、珍しく折れないアルを見て、降参するように言葉を紡ぐ。

「わからないわ…。最初は才能に溢れてて羨ましいとも、努力しなくてその立場に居れるのを妬ましいともおもったわ。でも、彼女を知っていくうちに、触れていくうちに才能じゃない彼女のしなやかさを感じていった。彼女を、支えたいのか、それに憧れているのか自分でもわからない。どう言う感情を抱いてるかなんてわからないのよ。」

私はいま、少し嘘をついた。本音を言うと、わかりたくない。わかってしまった時、辛くなるのは目に見えているから。アルがその言葉に目を伏せ、そうなんだとつぶやく。その瞳は少し揺れていた。なんの動揺なのか彼を見つめるが、その視線に気づいた彼はフッと爽やかな笑顔を浮かべそれを隠してしまった。

「不器用でマイらしいなぁ。」

揶揄うように笑うその姿はいつも通りの幼馴染だった。その言葉に目を細め抗議の目線を送るが彼は慣れてしまっているためものともしない。

そんなふざけたやり取りをしていると後ろから声をかけられた。

「マイ。」

幼い頃から何度もその落ち着いた声によばれてきた。振り返らずともその声と呼び方で誰かがわかる。

「お父さん。」

振り返ると“父”がいた。久しぶりに学外で会い、久しぶりの親子の会話をする。いや、3月にも“父”と話したから、比較的短スパンで再会していると思う。

父がアルを見て、柔らかく微笑む。

「アルバードも久々だね。」

「おじさん、お久しぶりです。」

アルも子供の頃のように笑顔を作る。父がアルに話しかける。

「いつも学校では頑張ってくれてるね。さっきウィリアムにも伝えたら嬉しそうに君の自慢話をし始めたよ。」

目尻の小皺を色濃くしながら笑う父に、アルが呆れるように言葉を返す。

「全く、あの人は…。親バカな所少し注意してください。」

「それだけ、アルバードの活躍が嬉しいだろう。許してやってくれ。」

旧友の姿を思い出しているのか楽しそうに言葉を紡ぐ父をジッと見つめてしまった。本当にこんな姿久々に見た。入学してからは、理事長のリーアス・フェルバークと関わることがほとんどで、笑っている姿を見るのなんて何年振りだろう。そんなことを考えていたら父がこちらを向き私に問いかける。

「マイ、ヴェメール家の皆さんには挨拶はしたのだろうか?」

「ルエダとは先ほど会ったけれど、義父様、義母様にはまだご挨拶できてないわ。」

小さい頃は当たり前だったこの口調も、入学してからかしこまるようになり今ではこの口調の方が違和感を覚えてしまう。その様子に校内では見せない柔らかい微笑みを浮かべ、ゆっくり口を開く。

「そうか。では挨拶に行くとしよう。アルバードまた学校で。」

「はい。」

アルは爽やかに微笑み、父はそれを満足そうに見つめ私を連れてヴェメール家を探しに歩く。

「ルエダ君とは上手くやれているかな?」

徐に父が問いかけてくる。その言葉に少し前を歩く父の顔をチラッと確認すると、ただまっすぐ前を向き、表情は読み取れなかった。

「ええ。結婚に支障は無いと思う。」

「…そうか。」

父が私の言葉を飲み込むように少し沈黙し、返事を返す。この話をすると父はいつも何か考えているようだった。ただ、それを聞くには父とあまりにも距離ができてしまった。久々に会う父はいつだって少し遠い。その距離を縮める方法を私は知らないのだった。

「アマミさんとは上手くやってるみたいだね。」

その声色でわかる。きっと父は笑っている。先ほどのように父の顔を見るとその瞳の横の皺を濃くしていた。

「上手くかはわからないけれど…そうね、彼女といると楽しいと思うわ。」

「そうか。」

先ほどとは違う、明るい返事だった。父は言葉を続けた。

「ユーリアルくんから報告を受けているよ。意外と上手くやっていると。」

「意外?」

その言葉に疑問に思い聞き返すと、父は笑いながら応えてくれる。

「あぁ、ユーリアルくんは心配してたんだよ。ずっとオルネラスで頑張り続けてきたマイが、急に出てきたアマミさんを受け入れられるだろうかって。マイのことだから拒絶はしないだろうけど、それでもストレスは溜まっていってしまうんじゃないかと。」

「イレア、そんなこと思ってたのね。」

確かにイレアの想像した事は私の中で起こったけれど、それはすぐに姿を消した。

彼女は才能に恵まれた。ただそれは全て彼女の望むものでなく、試練として降りかかっていた。彼女はそれに深く傷つけられ、今もなおその傷は塞がってない。それでも強くしなやかな彼女は前を向き、その優しさをあたたかさを自然と他人に向けていた。そんな強くしなやかな温もりを拒絶するほど私は強くなれてなかった。拒絶どころか縋ってしまうほど彼女に魅せられいた。

「ユーリアルくんが杞憂だったと言っていたよ。いつも仲良く話しているし、アマミさんは学校生活をマイと一緒にいれて楽しそうだと。」

その言葉に胸が解かされるように緩まる。イレアからみて楽しそうにしているなら本当なのだろう。彼女も私といるのが楽しいのか。独りよがりでなかった、その事がどうしようもなく嬉しかった。

「そう、よかったわ。」

声色がつい安堵と喜びをはらんでしまう。父がこちらを優しく見つめて微笑む。小さな頃から向けられていたその慈しみの瞳がなんだか今は恥ずかしかった。そんな父から逃げるように目線を逸らし、会場を見渡すと歓談を終えてそくささと人気のない場所へ移動している彼女を見つけた。おそらく初めての場に疲れてしまったのだろう。その姿がなんだか愛おしくおかしかった。

「マイ、いらっしゃったよ。」

向こうから、こちらに気がついてまっすぐこちらに向かってくる人たちがいた。ヴェメール家の皆さんだった。父が爽やかに微笑む。

「お久しぶりです。」

父の言葉に返したのはヴェメール家当主で現社長のヴェメール・ロンドだった。

「やめてくれ、リーアス。お前に爽やかに微笑みかけられて、敬語なんて使われたら気持ち悪い。」

眉間に皺を寄せジトーと父を見つめるロンドさんに対して、父は呆れたようにその目線をいなす。

「君に笑いかけたわけではないさ。バウスさんとルエダくんに向けてだよ。」

「なら良いが。」

父とロンドさんはオルネラスの同級生で友人同士だった。ただ、小さい頃からよく家に遊びにきていた、アルのお父さんウィリアムさんほど親しくなかったらしく、私が彼と会ったのは数回ほどしかない。

そんなやりとりを見ていると父がロンドの妻バウスさんとルエダと握手をして挨拶をし始めて、それに習うように私も義父と義母に挨拶をする。

「マイさん、屋敷での生活は不自由していないだろうか?」

ロンドさんが気遣うように聞いてくれる。その気遣いに微笑みで返しながら許婚として“正しい”言葉を放つ。

「ええ。使用人の方も気を遣ってくれますし、ルエダもいますので。」

その言葉にバウスさんが喜ばしい事のようにパッと顔を明るくする。

「まぁ、それは良かったです。ルエダは優しく賢い子ではあるのですがなにぶん、甘やかして育ててしまったので。気遣いのできる子になってくれてて良かったです。」

手を合わせて嬉しそうに微笑む彼女は、ルエダに酔狂していた。待望の長男で、自分に似た雰囲気の好青年。きっと彼女は彼を周りに褒められる事で居場所を見つけてきた。それだけ社交界での立ち位置を確立することは難しい。だからこそ、その居場所を作ってくれるルエダに彼女は依存している。

「バウス、褒めすぎだろう。」

呆れるながら言うロンドさんはきっとその立ち位置が揺らいだ経験がないのだろう。バウスさんを諌めるように言葉を紡ぐ。

「ルエダは次期社長候補だ。あまり甘やかしてはルエダのためにならない。」

「候補って…。ルエダ以外に社長候補なんてあるんですか?」

バウスが怪訝そうに聞き返すが、ロンドさんは場をわきまえなさいと収める。その姿にルエダがバウスさんの肩をそっと触れ落ち着いて?とニコリ微笑む。その微笑みはいつものコピーしたような微笑みだった。彼は親に対してもその笑顔の仮面を貼り付けるのか。


そんなことを思いながらバウスさんが落ち着くのを待っているとマチルダに連れられて会場を後にするアマミさんを見た。

胸がドキリと小さく跳ねる。どうしたのだろうか。まだリヒル・パトルシオが来たという連絡は無い。

他のことが…?

彼女たちが歩いてきた方向を見るとエルネストが痩せ型の男性と歓談している姿が見えた。彼が何かしたのか。そんなことを思いながら彼女の元に行こうか考えていたら、視界にイレアが入った。イレアがいつも冷静なその顔を焦りに変えて彼を見ていた。彼女の周りに群がっていた来賓をすみませんといなしながら会場を後にする。その姿に胸の鼓動が早くなるのを感じる。

アマミさんになにかあった。その確信に近い想像は私の胸をせき立てる。イレアの後をついて行きたい衝動に駆られながらも、会場に留まる。ここで私まで居なくなっては来賓から不評を買いかねない。

それに…。アマミさんが求めるのは私ではなくイレアのはず。

彼女が行ったなら大丈夫だろう。そう自分を安心させようと思い浮かんだ言葉に胸がガリッと引っ掻かれる。その痛みを感じながらイレアが去った後の扉を見つめる。


「マイ?聞いているのか?」

父の声が上から降り注いできた。あちらの出来事に気を取られ会話を聞いていなかった。

「申し訳ありません。少し気が抜けてしまって。」

「気をつけなさい。失礼ですよ。」

父に諌められ、素直に謝罪する。それをロイドさんがまぁまぁとなだめる。

「発足宣言もあったんだ。疲れてしまうのも無理はない。そんなに怒っているとマイさんに嫌われるぞ?」

「余計なお世話だ。」

父がジロリとロイドさんを睨み、ロイドさんは呆れたように肩をすくませる。ルエダがそれを見ながら説明するように言葉を放つ。

「今、僕とマイの結婚の時期について話してたんだ。大体2年後ぐらいでどうだろうと言う流れだったのだけれどマイはどう思う?」

ニコリと微笑むその顔は私に問いかけるようで、聴いてない。きっと反対なんてした日には何がなんでもその時期にやろうとムキになるのだろう。ならば私は確認作業をするだけだ。

「2年後と言うと私が高校を卒業したらと言う認識であっていますか?」

「あぁ、そうしたらちょうど僕も卒業だしね。」

高校の間は保証されるのか。結婚したからって何か変わるわけではない。この拘束が強まるけれど、彼との生活は今もしている。だけれど、ヴェメールの家に入る、その事実がまだ私には受け止めきれていない。それでも高校の間は、彼女と今も変わらずに過ごせる、それが保証される。その事で幾分か心に余裕ができる。

「ええ、私もその時期がいいと思います。」

その言葉に1番嬉しそうにしていたのはバウスさんだった。

「そうしたら式場やタキシードも選ばないと。2年なんてあっという間よ。」

「バウス、二人の式だからな?」

言い聞かせるようにロイドさんが伝える。そんなやりとりを横目で見ていたらマチルダが焦った表情でエルネストを呼びに行く。エルネストの耳元で何かを囁き、それを聞いたエルネストが何かを押し殺すように痩せ型の男性に目線を送りその場を去る。早足で会場を後にする。彼女の赤いドレスは目を引いたようでロイドさんが言葉を紡ぐ。

「あれは、クルーズグループの次期当主だね。」

「あぁ、生徒会の一員だね?」

父が確認するように私に問いかける。

「ええ、エルネストですね。光のアビリティ保持者のランクアルファです。」

その言葉にロイドさんがそうだったと感心している。

「確か彼女には優秀な兄が何人かいるんだが、そのアビリティと聡明さで次期社長に選ばれたんだったかな?若いのに優秀だって社交界ではいつも人気者だから話す機会がないんだよ。」

残念そうに言うロイドさんに父が呆れるように言葉を紡ぐ。

「ヴェメール社現社長が何を言ってるんだ。」

「いやいや、そのぐらい彼女は人気者なんだよ。それに彼女が社交界にちゃんと参加し始めたのは4年前だったかな?それ以前は顔を出しても気だるそうに佇むだけで、むしろそのお兄さんたちの影に隠れていようとしてたぐらいだったから。」

気だるそうに。それは私たちにお馴染みのエルネストだった。4年前に何かあったのだろうか。彼女を変えるなにか。

「そんな彼女と話せていたのは…うわ。大物だなぁ。」

ロイドさんが目を見開き痩せ型の男性を見つめる。

「彼は誰なんですか?」

私の問いかけに、彼に目線を奪われたまま言葉を返す。


「リヒル・パトルシオ。研究局局長だよ。」

その名前に胸が大きく跳ねた。アマミさんは彼と話していたのだ。それをおそらくエルネストが遮り、マチルダが彼女を遠ざけた。イレアは驚いたことだろう。まだきてないと思った彼がすでにアマミさんと会話していたのだから。

「リーアス、悪いけどご挨拶に行ってきてもいいかな?」

「あぁ、もちろん。」

そう言ってヴェメール家はリーアス局長の元に向かう。それを見送りながら、はやる気持ちを抑え父に断りを入れる。

「お父さん、ごめんなさい、ちょっと外れても…?」

「…何かあったんだろう?気を抜くなんて珍しい。行っておいで。」

先ほどの事を言っているのだろう。父は気に病むように硬い表情を浮かべながらリヒル・パトルシオを見つめる。その言葉に感謝しながらマチルダの元へ向かう。自分の鼓動が駆けているのがわかる。それに当てられるように小走りでマチルダに近づく。

「マチルダ。アマミさんは?」

マチルダがその言葉にこちらを向く。彼女の薄茶色い瞳が動揺に揺れてるのがわかった。私を写し、その動揺が少し落ち着きを見せる。

「マイさん、アマミさんは今客室に。局長と何か話してしまったみたいで、体調を崩してしまって…。今エルネストに治療してもらいに行ってますが…。」

いつも穏やかな表情をしているマチルダがひどく心配そうに眉間に皺をよせる。エルネストを呼びにくると言うことは相当体調を崩したのだろう。入学初日もパニックになり、イレアに縋り付いていたが、きっとそれどころでなくなっているのだ。

わからない、側に居れないこの状況がもどかしい。

…だけど、きっと、私が行っても何もできない。彼女元に向かってもただ会場に不信感を与えるだけの行為に過ぎない。それは結果として彼女の足を引っ張る事になる。

彼女を飲み込んだ扉を見つめ、下唇に歯を立てその衝動を押さえ込む。頭ではわかっていても気持ちが彼女の元へ行こうとしてしまう。

そんなこと久しぶりだった。いつもは効率と成果を考えて行動するようしていたのに、彼女が来てからそれを乱される。それだけ私の中で彼女は…。咄嗟にかぶりを振った。その理由を考えてしまうと後に戻れない気がした。

今は、何事もないように振る舞うのが優先だ。自分自身を納得させ、マチルダに目線をむける。

彼女はきっと私をずっと見ていたのだろう。心配そうにもどかしそうに私を写すその薄茶色の瞳とばっちり目があった。

「マイさん…。」

慰めるようなその声に、胸が締め付けられる。

なぜあなたは私を見てそんな悲しそうな顔をするの?わかりきってるその質問の答えに頬が緩まり、眉尻が下がる。マチルダも優しすぎるわね。呆れるようにひとりごちる。

「私達はレセプションに集中しましょう。イレアとエルネストがいれば大丈夫よ。」

大丈夫。そう自分に言い聞かせながらその言葉を紡いだ。マチルダが少し驚いたように目を開き、やがていつもの上品な笑顔を見せる。

「はい。そうですね!私たちは私たちがやらなきゃいけないことをしましょう!」

そう言って彼女は私から離れ、来賓との歓談を再開させにいく。私もそうしなくては…。ちらっとその黙り込んでいる扉を見つめ、振り切るようにそれに背を向け父の元へ戻る。



しばらくして、父と来賓と歓談しているとマチルダが私に駆け寄ってきた。失礼しますと断りを入れて私の耳元でマチルダが囁く。

「エルネストが客室に来て欲しいとのことです。」

端的に要件を伝え、行けそうかとその顔が伺う。その問いかけに頷き音もなく返事をする。父とその歓談相手に謝罪を述べる。

「申し訳ありません、急用ができまして席を外させていただきます。」

「お気になさらず。副会長さん、頑張ってくださいね。」

人の良さそうな微笑みを浮かべて快く承諾してもらい、父にも申し訳ありませんと告げ会場を後にする。

衝動を止める理由を失って、身体が勝手に動き出す。迎賓館。歴史と栄光の数々を抱く、その館を駆ける。マナーだとか、ルールだとかそれらはその衝動の前では小さすぎる歯止めだった。廊下を過ぎ、階段をかけて上がっている最中、一人の男性とすれ違った。細身の色白な男性。

今日、客室を使う来賓は居なかったはず…。つまり彼は、何かの用事で客室を訪れた。単に迷ってるという事もあるが、それにしては周りを見渡すこともなく堂々と歩いていた。

根拠はそれだけだった。それだけで十分だった。彼女に用があったかもしれない彼を覚えておくには。


客室の前に着くと自分の息が切れていることに気がついた。鼓動は激しく踊り、しっとりと汗が滲む。息を吐き、少し整え扉を開ける。

部屋に入ろうとした私を出迎えたのはエルネストの諌める声だった。

「だから少し待ちなさいっていってんのよ!」

その言葉に驚き動きが止まる。珍しく声を荒げ、険しい表情でイレアを見つめる。その手は引き留めるようにイレアの腕を掴んでいた。

「離して。これだけスイが傷つけられて黙ってられない。」

そう言うイレアの表情は酷く冷たく、その瞳は正反対に燃えるように揺らめいていた。

「わかったから、ちょっと冷静になりなさい。」

「冷静?スイが目の前で無意味に傷つけられて?冷静でいられるわけがないでしょう!」

イレアがこんなにも感情的になっている姿、初めてだった。そのいつも冷静な顔はひどくムラつき、その黄色い瞳を怒りで染め上げていた。エルネストがその表情をみて顔を歪ませる。苦しむように言葉を放つ。

「わかってるから。あんたがどれだけ怒ってるか。だから、余計に一人で行かせられない。今一人で行ったら誰もあんたを止められる人がいない。何しでかすかわからないあんたをあいつの元に行かせて、本当にこの子の側に居れなくなったりしたらどうすんのよ。」

その言葉にイレアが苦しそうに眉を顰め、唇の薄い皮膚に前歯を突き立てる。その様子にエルネストが力を緩める。

「私も一緒に行くから。待ってなさい。あんたがキレそうになったら止めてあげるわ。もう、あんたたちを2人だけにさせないわよ。」

その言葉にイレアが眉尻を下げエルネストに縋るように見つめる。その言葉を告げたエルネストの目線の先にはベットに横たわっているアマミさんがいた。胸の奥がざわつき、止めていたその手でドアを衝動的に開く。

勢いよく入ってきた私に二人の視線が集まるが、そんなことを気にしている余裕はなく、彼女の元へ駆け寄る。

目を瞑っている彼女は力無く、何かが抜けてしまったようないつもより白い顔をしていた。彼女の綺麗な銀髪がしっとりと濡れ、彼女の輪郭を撫でるように張り付き、彼女の焦りがまだ残っているようだった。

「マイ…。」

イレアが慰めるように名前を呼ぶ。彼女の衰弱した姿にただ言葉なくその胸の息苦しさを感じるのに精一杯だった。

「マイ・フェルバーグ。」

エルネストがこちらを真っ直ぐに見つめ、私の名前を呼ぶ。上手く反応ができず、ゆっくりと振り向きエルネストの瞳を見つめる。彼女の瞳はブレることなくこちらを貫いていた。

「今から私とイレアは会場に戻るわ。イレアがパトルシオに呼ばれて、私もついていくから。だから、その間、この子をお願い。」

その瞳は自分のすべき事がわかっているようで、ただまっすぐ私を写した。その瞳が羨ましかった。彼女にできることがある、それを知っている事が。胸が掴まれたように苦しく熱い。

「わかったわ。」

そのことを悟られないようにエルネストの瞳をまっすぐ見返す。エルネストは確認するようにこちらを見つめ、気が抜けたようにフッと微笑む。

「じゃあ頼んだわ。」

そう言ってエルネストは扉に向かう。イレアがアマミさんを心配そうに見つめ、その頬を指先が撫でる。傷ついたような表情をグッと押し殺し、私を見つめる。

「マイ、スイのそばに居てあげて。」

無理やり微笑むその姿はアマミさんに似ていた。きっとまたこの人はアマミさんを守れなかった自分を責めるんだろう。そんな彼女に安心して欲しくてええ、と頷く。イレアは苦しそうに微笑むとエルネストの後に続く様に部屋をあとにした。


彼女が休めるように部屋の電気を消す。たちまち部屋は闇に支配され、静寂がヒタリとその存在感を強くする。ベットの脇に椅子を持って行き、腰掛け静かに寝息を立てる彼女を見つめる。

目が慣れ始めたのだろう、月明かりが照らす数々の物を捉え、闇の濃淡を識別できるようになった。

その中で一際、光を放っていたのは月明かりに照らされた彼女だった。月明かりが彼女を労るように照らし、彼女の衰弱した身体を休ませるように光が包み込んでいた。月明かりにキラキラ光る銀髪は夜空を瞬く星のようで、その長いまつ毛も、柔らかな肌もまるで作り物のように整っていた。布団から出されている女の子にしては大きなその手のひらに触れる。

「冷たい。」

自分からこぼれ落ちた言葉は彼女に伝わることなく宙に漂う。

彼女の手はいつも温かった。アビリティチェックの後私の手を引いてくれた時も、先日の事件で血まみれになっていた時も、ルエダの件で戸惑わせてしまった時も、今日だって一緒に飛ぼうと掴んだその指先は優しい温もりを私に伝えてくれた。私はその温もりを感じるのが好きだ。彼女の強さを、しなやかさを、押し付けのない優しさを身体で感じれている。そんな気がしたから。

でも、今は温もりが奪われ、その指先は温度を感じられなかった。彼女にまとわりつく恐怖。それが彼女を脅かし、その温もりを奪い去る。

一体どれだけのことが6年間で行われたのだろう。彼女の口から出たその実験の数々は、その言葉だけでも恐怖するには充分だった。それでも、きっと言葉に収めてしまったその事柄を正しく理解することはできない。彼女がその時に感じた、匂い、温度、音、刺激、その風景すら私には想像がつかない。彼女のその傷はそれらによって深く傷つけられた。普段隠しているその傷を彼女は幾度か晒され、それを往々に抉られる。

それを支えるのはいつも私ではない。

彼女はイレアに縋り付く。いつも助けてくれた、守ろうとしてくれたイレアを求め、イレアもそれに応えようとする。

今日はエルネスト。エルネストがパトルシオから彼女を逃し、崩した体調を治した。

その事実が私の胸を甘く締め付け、その虚しさを存分に感じさせた。せめて、この手の温もりを取り戻せるように。その手を私の熱を放つ所に当てる。彼女の力ない指先を頬に当て、その感触を確かめる。皮膚を伝い彼女の冷えた指先へ頬の熱が移っていき、その温度がお互い同じくらいになる。

彼女はもっと温かい。そう思い、頬から首筋に手を這わす。彼女の大きな手が私の喉を軽々覆う。やがて再びお互いの温度が同じになる。そこでやっとわかった。私の熱をわけても彼女の温かさを取り戻す事はできない。暖かさで溢れている彼女と温度のない私とではあまりにも違いすぎる。その事実が胸を引っ掻き、痛めつける。

彼女にできることはないのか。諦めに近いその思いを抱きながら彼女の作り物のような顔を見つめるとそのもどかしさを強く感じた。

嫌だ。こんな思いした事ない。この感情をどう処理すればいいのかわからない。

そんな感情に苛まれていると彼女の長いまつ毛が震えた。ゆったりとまつ毛が持ち上げられ、透き通るエメラルドグリーンの瞳があらわになった。触れてる手の感触を確かめるようにゆっくり顔を傾けその瞳で私を写す。まだ意識がはっきりしていないのかただこちらを見つめる。ようやく理解したように目を細め、頬を緩めるように微笑む。月明かりに照らされたその微笑みはまるで天使みたいだとずいぶんロマンチックな例えが自然と出てきた。彼女の薄い唇がゆっくり開かれる。

「マイ、どうしたの?」

掠れた声で首筋に当てられてるその手の理由を聞いてくる。

「…手が、冷たかったから。」

自分の嫉妬心を彼女に隠すように言葉を返し、その後ろめたさから彼女から目を逸らす。そう、私はきっとイレアとエルネストに嫉妬している。彼女にできることがあるあの人たちと、できない私を比べて羨んでいた。そんなことしたって仕方ないと頭でわかっていても、気持ちがそれを理解しない。

「気持ちいい?」

「え?」

予想外の問いかけに彼女を見つめる。彼女はその天使のような微笑みを保ったままこちらを見つめていた。

「手がさ、冷たくて気持ちよかったかなって。いつもマイの手が冷たくて気持ちいいなぁって思ってたから。」

私は自分の温度が好きではなかった。元から他人と比べて冷たく、成長するに疲れて抜け落ちていく温度が、自分が冷酷な人間だと証明しているようで。

彼女はそう思っていたのか。彼女がそう言ってくれるなら自分の温度も嫌なものではないかもしれない、そんなふうに思えた。きっと彼女は深く考えていない。わかっていても私にかけてくれる言葉に救われ、心が軽くなる。

あぁ、私は、あなたが…。ずっと気づかないようにしていた言葉を浮かべてしまった。浮かべてしまったその言葉を見なかったことにして、すり潰す。それを紛らわすように言葉を紡ぐ。

「そうね。ちょうどよかったわ。」

「そっか。」

嬉しそうに優しく微笑み、身体を起こそうと手を立てる。まだ起きて間もないからかその動作はゆっくりと、ベットから体を引き剥がすように上半身を起き上がらせる。ふぅと息を吐き、私以外いないことを確認するようにチラッと周りを見渡す。

「みんなは?」

「まだ会場にいるわ。」

「…そっか。」

口元は微笑みを保ったまま、伏せ目がちに返事をする彼女は寂しそうだった。彼女の手は張り付いた汗を拭うように首元を撫でる。

暑いのか。そう思って窓を開けようと立ち上がる。

彼女の瞳が私を追いかけるように向けられ、その表情はどこに行くのかと問いかけていた。

「窓を開けるわ。」

「ん、ありがとう。」

無言の問いかけに説明するように答えると、申し訳なさそうに眉尻を垂らす。

ベランダの窓ガラスを開けると風が待っていたかのように部屋に入り込む。髪の毛が風に煽られ、もてあそばれ、それを宥めるように髪の毛を押さえる。月明かりの強さを感じ、空を見上げる。

今日は満月だったのか。遥か彼方に浮かぶその優しく輝く小さな丸を見つめ、同じ色の髪をした彼女へ目線を送る。

目線がぶつかり、驚きに目を見開く。目線があったことに驚いたわけではなかった。彼女の透き通るその瞳からポロポロと流れるようにして、水滴が落ちていく。月明かりによって照らされたその涙は宝石のように煌めいていた。

「…アマミさん。」

涙を流す彼女は状況が理解できないように動揺していた。その水滴に手を叩かれ、確かめるように涙の伝う頬を触り、自分が涙しているのに気がついたようだった。涙のついた自らの指先を擦るようにしてその事実を確かめ、それが理解できたらしい。嘲るように笑い、膝を抱き寄せる。

ただ事じゃない様子に、彼女にできることを考えるが、わからなかった。私は彼女のことを知らないのだ。今彼女が何を思って、どうして笑ったのか。その涙の意味も、彼女が求める言葉もわからない。

それを知ってるのは私でなかった。知りたい。私はもっと彼女を知っていたい。そう思っても、今はその時じゃない。今は、彼女の求める人を連れてこよう。それは私が知ってる数少ない彼女のことだった。

「イレアを呼んでくるわ。」

そう言って扉へ歩みを進める。

「行かないで…!」

切迫したその声と縋り付くようにその指が私の腕に絡みつく。その手はいつものように優しく包み込むものではなく、弱々しく求めるような手だった。

「…マイ、お願い。行かないで。」

絞り出すように紡がれたその言葉にただ足を止めることしかできない。俯き、震えるその頭を見つめていると、ポタポタと布団に次々と水滴のシミができていく。

涙が止まらないのね。どうすればいいか正解がわからない。でも、震える彼女を、縋るその手を安心させたかった。その手に触れると怯えるようにビクッと強張り、私の腕を強く握りしめる。鈍い痛みが腕に響く。

「ごめっ…!」

慌てて謝り、その手をバッと離す彼女の指を絡めとる。その指が驚いたように硬直する。こちらを恐る恐る覗き込む彼女の瞳にはいっぱいの涙が溜まっていた。

こんなにも彼女を弱らせること。一体何を言われ、何が起きたのか。わからない。それでもあなたが行かないでというなら私はここにいる。

その手を離さないように指を曲げ、握りしめる。

「…私でいいの?」

彼女の瞳に映る私の顔は自信なさそうに彼女を見つめていた。縋りつくように引き止めたのは彼女なのに、まるで私が彼女を求めているようだった。きっとそれは間違いじゃない。

「…マイにいてほしい。」

彼女の隣にいてもいい。それを彼女自身の許しが得れる。それが嬉しかった。

ベットに腰掛け彼女の隣に座る。ベットがギシっと唸り、布団に深い皺ができ影が溜まる。

彼女の柔らかい髪が私の肩に触れ、寄りかかるように私の肩に頭を預ける。触れる柔らかいその腕の感触を皮膚を伝って感じる。風が彼女を慰めるように吹き抜ける。

そうしてしばらく私は何も言わずにその月明かりに照らされ空を見上げていた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

何か心地いい感覚を感じて目を開ける。そこには見覚えのない天井が広がっていた。その微かな温もりを探るように目線を送る。ラベンダー色のドレスが視界に入る。

あぁ、綺麗な人だなぁ。目の前に映るその人をただ瞳に映していた。どんどん意識がはっきりしていき、私の手を首元に当ててるのがマイだと気がついた。あぁ、マイがそばにいてくれたんだ。ただそれだけの事に安心と喜びが胸の中にじわっと広がり、頬が緩む。

よく見ると彼女は困っているような思い詰めてるような顔をしていた。何か困っているの…?このぐらいは聞いて良いのかな…?そう思い口を開く。

「マイ、どうしたの?」

「…手が、冷たかったから。」

マイはそう言って目を逸らした。その返答に、何かを隠すようなその仕草に、これ以上踏み込んではいけないと思った。そうしたら私は気づかないふりをするしない。マイとの会話を続けるように返事をする。

「気持ちいい?」

「え?」

驚いたように目を丸めるマイについ頬が緩む。大丈夫だよ、踏み込まないから。

「手がさ、冷たくて気持ちよかったかなって。いつもマイの手が冷たくて気持ちいいなぁって思ってたから。」

困った時に引いてくれるその手はいつも冷たかった。戸惑ってる私を冷静にしてくれるようで、上がってしまった温度を引き取ってくれるようで安心した。私はマイのその温度がその手が好きだった。

私の言葉にパチクリと瞬き、やがて何か考えるように伏せ目がちに微笑む。その微笑みがあまりにも優しくて少しだけ驚いた。だってマイはいつも温度が少ないから。それは悪い意味じゃない。彼女の温度は安心する。冷たいけど、心地いい冷たさ。なんとなく、月に温度があったらこのぐらいだろうなとそんなことを思っていた。それがマイの温度だった。

そんなことを思いながらマイを見つめているとその優しい微笑みが影を見せ、いつもの淡々とした様子で言葉を紡ぐ。

「そうね。ちょうどよかったわ。」

「そっか。」

その陰りを気づかないふりをして、微笑みを作る。ちょうどよかったなら何より。そう伝えるように。身体を起こそうと手を立て、重い上半身を起き上がらせる。

エルネストに癒してもらったとはいえ、色々あったから流石に疲れてるなぁ。そうだ…。二人は?気を失う前酷く慌てたイレアとエルネストの姿を見ていた。イレアのことだからきっとまた自分を責めてるんだろう。大丈夫って伝えないと。エルネストも怒ってくれたり心配してくれた。実験の話も気になるけど、ありがとうって言いたい。暗い部屋を見渡すとマイ以外に人影はいなかった。

「みんなは?」

「まだ会場にいるわ。」

「…そっか。」

私が寝ている間もみんなは生徒会として活動していた。それが申し訳なくて、情けなくて、みんなを少し遠くに感じる。私だけこの部屋に置いて行かれたみたいだ。思い込みだろうとすぐわかるその被害妄想に自分の弱さをありありと感じる。体にベットリまとわりつく物を拭えば、その孤独感もなくなる気がした。手を首に這わすとうっすらと張り付いていた水滴が指にたまる。マイが立ち上がりどこかに行こうとしていた。置いていかれたくなくてつい縋るように見つめてしまった。それを感じたのだろうか、マイがこちらを見つめ淡々と言葉を紡ぐ。

「窓を開けるわ。」

「ん、ありがとう。」

何を慌てているんだろう。みんな会場にいるだけで本当に置いていったりしないのに。マイに変な気を遣わせてしまって申し訳なく感じる。

マイの細い指が窓ガラスを押し開ける。風が外から入り込み、冷たい風が頬を撫でる。


風に煽られマイの髪がサラサラと揺れる。窓を開けたことで月の明かりがより強くマイを照らす。月を見上げる彼女に目を奪われた。

その月明かりを反射するような白い肌も、夜空に馴染む黒髪も、瞬くそのラベンダー色の瞳も、彼女を構成する全てが特別に思えた。凛としていて、でも儚い。月に似た彼女が今、目の前に居る。どうか今を切り取って永遠にできないものか。そんな馬鹿げた事を考えている間にもその“今”が過ぎ去っていく。それが怖かった。

さっきもそうだ。マイを呼びにベランダに出た時も。今見ているその風景が、過去になる。それを感じて立ち止まってしまった。

私は今をいつまで続けられるのだろうか。一度日常を取り上げられたそのトラウマは私の中にしっかり息づき、今日また彼らによってそのかさぶたは引き剥がされた。彼らはいつでも今を取り上げられる。それがずっと先のことなのか、遠くない未来なのか、明日なのかそれは私にはわからない。だから今、この瞬間が尊くて、幸せで、恐ろしい。

「…アマミさん。」

マイが戸惑うようにゆっくり目を見開き、私の名前を呼ぶ。何に驚いているのだろう。窓ガラスに反射する自分の顔に何かが伝うのを見た。頬を触れ、生暖かい何かを堰き止める。ああ、多分涙か。指先に触れたその水滴をすりつぶすように親指と人差し指で触れる。あぁ、私は弱いなぁ。ずっとあったその危険を忘れたように過ごして、思い出したら動揺して手がつけられないぐらいパニックになる。過去から逃げて、今に縋って、未来に怯える。弱すぎて嫌になる。自分を嘲るように笑いが出る。自分をみくびる事で紛らわそうとした、黒く重たい不安が腹の底に沈むのを感じる。その不安に怯えるように膝を抱える。


「イレアを呼んでくるわ。」


その言葉に咄嗟に顔を上げる。マイがその風景から居なくなってしまう。まるで“今”の終わりを告げるようだった。黒く重たいその感情が体全体を飲み込み、黒より濃い闇がひたひたと歩み寄ってくる。逃げるようにマイに縋り付く。

「行かないで…!」

取り繕うなんてことはできなかった。いつものように笑顔で大丈夫なんて、気にしないでなんて言えない。追い詰められ落ちないようにその白く細い腕に縋る。

「…マイ、お願い。行かないで。」

胸の底から絞り出されたその言葉は、あまりにも弱く、無様で、不恰好な本音だった。もう、どうしてしまったんだろう。いつもだったら、大丈夫だよって言えるのに。久々にパトルシオ室長とビートにいじめられたからかな?いや、研究室だってこんなにならなかった。きっとあの時は日常を取られたあとだったから。すでに失われていたから。今、自由があって、みんなと一緒に過ごせる。再び手に入れたその日常が、その幸せがそれだけ恐怖に変わったんだ。


私はこれからこの幸せと恐怖と一緒に生きていくのか。どこか冷静な自分が冷ややかに絶望する。気づいてしまった絶望に打ちひしがれ掴んだその腕を見ることはできない。ポタポタと布団のの上に濃いシミを作っていく。そのシミが広がっていくのをただ他人事のように見つめるだけだった。

突然縋りついていたその手が触れられる。拒絶される。振り解かれる。どこかに行ってしまう。すぐに悪い想像が雪崩のように降り注ぐ。恐怖に身体が反応し、引き止めるように咄嗟に力がこもる。その細い腕に、柔らかな皮膚に、自分の指が食い込むのを感じる。その時、やっと自分のしていることを客観的に見れた。

私は、何を、この子に…。

「ごめっ…!」

この子まで、私に縛りつけてはいけない。その理性の放つ喚起に胸を切りつけられながら、慌ててその手を離し、私から解放する。逃げるように引いた手を、細く白い指が絡める。その冷たい温度に戸惑いながら、縋りたい気持ちを抑え込む。何が起きてるのか、どうしたのか彼女のラベンダー色の瞳を覗き込む。

その瞳は迷子の子供のように不安にいっぱいにさせた私を映していた。目を細め、眉尻を垂らしながら私を見つめるマイは、まるでその不安が移ってしまったようだった。縋るように恐る恐るその指を曲げ、離れないように私の手を握りめる。

「…私でいいの?」

薄桃色の唇から紡がれた言葉は不安そうに私の耳に入ってくる。なんでそんなことを聞くんだろう。私は、今、この風景からマイがいなくなるのが怖い。あなたでなければいけないのに。

「…マイにいてほしい。」

そう呟くとマイが眉間に皺を寄せ苦しそうに微笑む。ベットに腰掛け彼女が隣に座ってくれる。ベットが沈み、彼女の存在を証明しているようだった。今もそこに居てくれる、その存在をもっと感じられるように彼女の肩に頭を預ける。マイの香りがした。柔らかいサボンの香り。目を閉じて、夜風を感じる。瞼の裏が熱くなるのを感じながらゆっくり目を開く。月明かりを辿るように月を見上げ、再び溢れた涙を止めることなく流し続ける。取り繕うとせず、ただ弱い所を曝け出す。それだけで、力を入れすぎて縮こまってた心のシワが伸びていくようだった。


マイは何も言わずに、ただ空を見上げて隣にいてくれた。



しばらくして、無数の話し声と足音が遠くに聞こえた。

「レセプション、終わったんだ。」

「そうみたいね。」

呟くように会話をして、その帰路に着く音を聞いていた。その音がだんだんと小さくなってくのを聞きながら、この時間の終わりを感じていた。そろそろみんな戻ってくる頃か。優しく照らし続けてくれた月を見上げてその姿を目に焼き付ける。瞼を閉じてその面影を感じられるか確認する。

…うん。大丈夫。

そう思って瞼を開く。頭を持ち上げ、今まで支えてくれていたその人に目を向ける。肩の重みが無くなったことに目を向けていた彼女が私の顔を覗き込む。その瞳は探るようにゆらめいて居た。その瞳に自分の姿がしっかりと映っていてなんだか嬉しく思った。

「マイ、ありがと。なんだか、恥ずかしい所見せちゃったね。」

あまりにも曝け出しすぎてしまった気がする。こんなに誰かに素直に縋ることなんてなかった。恥ずかしさを隠すように笑って誤魔化す。

「そんなことないわ。」

そう言うラベンダーの瞳はまだ私の様子を探っていた。その様子にもう大丈夫だと笑顔を作る。ジッと見つめるマイの瞳が思わしげに下に向けられ、そうと呟く。

ベットから立ち上がり、電気をつけに行く。みんなが帰ってきて暗かったらびっくりするだろうから。


ドアの近くのスイッチを押しに行き、部屋に明かりをつけると近づいてくる足音に気がついた。やがて、ドアの前で足音が停まり、ドアノブがゆっくり回るのを見つめる。様子を伺うように開かれた扉から、顔を強張らせたイレアが入ってくる。ベットに私がいないことに気がつき、マイに問いかける。

「マイ、スイは?」

怯えと緊張の孕んだ言葉は客室によく響いた。どうやら開いた扉に私が隠れてしまったらしい。続けてエルネスト、マチルダが入ってくる。マイが身体を捻らせイレアの問いかけに、指をさし答える。

「そこに。」

淡々と紡がれた言葉に反応するよう、イレアの顔がこちらに向けられる。その瞳は心配を表すようにゆらめいていた。私の姿を見つけ、眉尻を垂らす。

あぁ、また、こんなに心配かけてしまった。その申し訳なさに胸を締め付けられながら、これ以上心配をかけないように微笑む。

「イレア、心配…」

言葉を紡いでる最中にイレアの腕が私の首に回る。怯えるように抱きしめるその腕が私をそっと包み込み、存在を確かめるように顔を首元に擦り付ける。何も言わないイレアの腰に腕を回しやさしく抱きしめる。

「イレア、心配かけてごめんね。それと、すぐ来てくれてありがとう。」

その言葉にゆっくり顔をあげ、私をその瞳に捉えようと回された腕が解かれる。罪悪感がチロチロ揺れてるその黄色の瞳を情けなく見つめる。何かを言いたげにこちらを見つめるが、言葉をグッと飲み込み、選ぶように言葉を紡ぐ。

「スイ、大丈夫なの?」

「うん、マイがずっとそばにいてくれたから。」

ねっ、とマイに目線を送ると、突然話をふられて少し驚いたように目を丸くしていた。マイは私の目線から逃げるように目を逸らし口を開く。

「…私は居ただけよ。何もしてない。」

「そんなことない。居てくれるだけで安心したよ。」

その言葉に黙ってしまったマイを見つめるが、返事は返ってきそうになかった。なんとなくどうすれば良いのかわからずに、イレアを見ると、その黄色い瞳がまじまじと私の目を見つめていた。視線が正面衝突して少し動揺する。

「イレア?」

私の呼びかけにハッとして目を逸らし、言葉を紡ぐ。

「なんでもないわ。」

その様子に違和感を感じながら見つめていると突然緑の光が視界を遮る。

「あんた大丈夫って。目、真っ赤よ。」

この優しい光はエルネストのものだった。イレアの表情を隠すように放たれてるその緑の光を受け入れるように目を閉じる。ずっとマイの肩で泣いていたから、そう言われるとそうなのだろう。

「やっぱりかぁ。」

「やっぱりかぁじゃないわよ。」

呆れるようなその声はいつも通りでなんだかホッとした。

その緑の光が消えて、瞼をゆっくりと開く。なんだか視界がいつもよりはっきりしてる気がする。

「いつやってもらっても感動するね。エルネストのアビリティ。」

「そろそろ慣れても良い頃でしょ。」

「いやいや、慣れるのもどうかと思うよ。どんだけ癒しを求めてるのって感じじゃん。」

「…それもそうね。」

そう言ってエルネストと見つめ合っていたら自然と笑いが溢れてきた。エルネストと笑い合っているとマチルダが安心したように微笑みながら歩み寄ってくる。

「よかったです。スイさん、落ち着いたようで。」

「うん。マチルダも心配かけてごめんね。助けてくれてありがとう。」

「いえ、私は…。エルがスイさんに気がついて指示を出してくれて。私はそれに従っただけです。」

マチルダは困ったように微笑みながら返事をする。助けてくれたのは本当なのにそんな顔をしないでほしい。マチルダの謙遜を否定するように言葉を発する。

「それでも、優しく笑ってくれて、手を引いてくれて。安心したよ。ありがとうマチルダ。」

少し驚いたように目を丸め、優しく微笑みを浮かべる。

「…とんでもない。お役に立てて嬉しいです。」

その上品な微笑みにつられて頬が引き上がる。

「ちょっと、うちの子にちょっかい出すのは許さないわよ。」

和やかな雰囲気を一刀両断するのはもちろんエルネストだった。不服そうに言葉を紡いだ彼女を呆れるように見つめる。この人も意外と独占欲つよいよなぁ。

「はいはい、ごめんて。そう言えばフィルマンとマリウスは?」

「お二人は着替えて外で待ってるとのことです。流石に女子部屋に入れないので…。」

マチルダが気まずそうに教えてくれ、そりゃそうだと納得する。

「そしたら、早く着替えて行かないと。」

「そうですね。」

マチルダが優しく同意してくれて各々着替えを始めた。全員が着替えを済まし、館の外に出るとフィルマンとマリウスが待っていてくれた。こちらに気がつくとフィルマンが珍しく深刻そうな表情で駆け寄ってきた。

「エンジェル…!大丈夫だったか?」

小走りにゆれる青の短髪が、駆け寄る犬を連想させ、なんだか愛おしく思えた。そんな思いと反対に彼のその表情は張り詰めており、いつものおちゃらけた雰囲気はなかった。その様子に、本当に心配していたのがこちらまで伝わってくる。近くまで来てくれたフィルマンは少し息切れしながらも心配に染まった瞳を私に真っ直ぐ向ける。その愛しさと優しさにに頬を緩め、近寄ってきたフィルマンの頭を撫でる。ただフィルマンは身長が高いから少し背伸びをしなきゃいけない。

「心配かけてごめんね。大丈夫だよ。」

「…!!」

フィルマンは眼球が飛び出るんじゃないかと思うほど、目を見開き、息を呑む。みるみるうちに赤面していき、顔を隠すように下を向く。距離を取るように手を前に突き出し、私から離れていく。

「ちょ…、たんま。」

「え?」

「今のはあんたがいけないわね。」

エルネストが呆れるように呟き、珍しく同情するようにフィルマンを見つめる。保護者のマリウスに隠れるように後ろに下がり、両手で顔を覆っている。

え?あまりにも本気じゃないの。いやいつも本気なんだろうけど。フィルマンの様子に少し驚きながら目を瞬きながら見つめる。

そんな事気にする様子もなくマリウスがこちらを見つめる。

「スイ、悪かった。気づいてやれなくて。」

真っ直ぐな謝罪の言葉に少し戸惑ってしまう。あまりにも真っ直ぐに投げかけられたその言葉を受け取るには、素直さと傲慢さが足りなかった。マリウスから目を逸らし、曖昧な微笑みを浮かべながら言葉を紡ぐ。

「ううん。私の方こそ迷惑かけてごめん。最後の方は全然いなかったし、みんなに任せっきりで。」

その言葉にすぐに反応したのはマリウスに隠れていたフィルマンだった。

「迷惑じゃない!!」

はっきりとした否定を、その優しさを真正面から受け、その量に熱に驚き二人を見つめる。

フィルマンの言葉を受け継ぐようにマリウスが言葉を紡ぐ。

「あぁ、謝る必要はない。スイは悪い事をしてるわけじゃないんだ。仲間として困ったら頼ってくれたほうが嬉しい。」

そう言うマリウスの表情は心なしか柔らかく、子供をあやすような表情だった。

「そうだぜぇ。エンジェルに比べるとよわっちぃくて、頼りないかもしれないけど、俺らだってエンジェルを守りたいと思ってるわけよ。」

フィルマンの気の抜けた微笑みが眩しい。まっすぐな優しさを向けてくれるこの二人に胸がいっぱいになる。胸が弾けてしまいそうで、口元に変な力が入ってしまう。その様子を見たマリウスが頬を緩ませ、大きな手のひらを私の頭に乗っける。

「スイ、お前は俺らを頼っていいんだ。俺らは仲間だから。そのことに迷惑なんてない。」

低く、心地いいその声が耳の中に優しく響く。いっぱいになった胸がもう処理できないと言わんばかりに熱をはらむ。

まっすぐ投げかけてくれるその優しさに応えるように、二人を瞳に映す。

この熱を、この嬉しさを、あなた達に届けたい。ただそう思った。

「二人とも。ありがとう。」

紡いだ言葉は彼らに届いたようで、彼らの表情が緩まり幼い笑顔を見せる。

「そろそろ帰るわよ。」

やり取りを見守ってくれていたイレアが優しく言葉を投げかける。さっきまでの出来事が嘘のようだった。優しく心強い人たちに囲まれながら自然と微笑みが生まれる。

「うん!」



家に帰るとすぐイレアにメディカルチェックをしてもらった。イレア曰く精神的にストレスがかかりすぎると数値に出てくるからとのことだった。慣れた手順で装置に入ったり、機械を付けたり、私はいつも通り行なっていったが、イレアの画面を見る目はいつもに増して真剣そのものだった。検査を終えて、分析をしているイレアを残し、いつものように自室のシャワーを浴びに行く。シャンプーの香りを纏いながら湯気と一緒にお風呂から出て、下着をつける。身体に薄くついた湿気に抵抗されながらもそれを身に纏う。リビングにいってもまだイレアの姿はなかった。いつもならもうリビングでビジョンを酷使しているのに。

何か数値に異常があったのかな…。ざわざわと不安が小さく蠢く。頭に被ったタオルをキュッと握りしめる。

異常値。それが出たらきっと研究室で詳しく調べることになるだろう。このマンションに入っている機械では日常的な検査は受けれても、詳細はわからないと前にイレアが言っていた。イレアは私の体を気にして早く数値を見たかったんだろう。それが良くないとわかっていても、悪い数値を見つけたくなかった。特に今日は。

胸のざわめきが大きなっていくのを感じる。ふと灯りのついてない寝室に月明かりが入り込んでいるのに気がついた。

その光の中に入るように、寝室の窓に近づく。先程より少し遠くに行ってしまったような、白銀の球体を見つめる。

綺麗だと思った。小さくなったその円に少し寂しさを感じながら、変わらず輝きを放つその姿に安心する。縋るように窓に手をつき、その光を体に受ける。大丈夫、今はここにある。独り、安心させるように呟く言葉は胸の中で虚しく反響するだけだった。


「スイ?」

振り返るとビジョンを片手にイレアがこちらを見つめていた。もう見慣れてしまったその心配の眼差し。それをいつものように微笑みで返す。

「イレア、お疲れ様。数値どうだった?」

「…多少いつもより低いものもあったけれど、特筆するものは無かったわ。色々あったから疲れが出たと言うぐらいね。」

「そっか。良かった。」

安心の表情をイレアに見せる。本当に安心したのもそうだけれど、彼女に心配をかけさせたくない。少し誇大に表情を和らげる。

イレアは何か言いたげにこちらを見つめ、隠すように目線を逸らす。私はイレアの言葉を待った。それが紡がれても、紡がれなくともいい。イレアがそう判断したなら私は踏み込まない。

イレアは何か決めたようにこちらを見つめ、眉尻を下げながら言葉を紡ぐ。

「…ご飯にしましょう。」

「…うん!」

何も気がついてないように微笑み、イレアの提案に笑顔で返事をする。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

メディカルチェックを終えてスイを先に部屋に返した。次々と結果が出るその数値を見ながらすぐにいつもと大きく変わらない事がわかった。それでも念のため詳細値を細かく見る。ビジョンの光に当てられながらその数値を見ても、特別悪いものはなかった。安堵からふぅと溜まった空気を肺から吐き出す。


スイは極端にストレスが溜まると体調を崩しやすい。今日の出来事はスイの体調が崩れるぐらいには、色々なことが起きすぎた。実際、パトルシオ室長と話したスイは嘔吐をし、エルネストが来なければあのまま脱水症状を起こしていただろうし、ビートの言葉に気を失った。

自然と硬く握られていた自分の指先を見る。この拳はあの二人に対する怒りなのか、自分の不甲斐なさなのか、考えても思考は整理されない。


それでも。

いま目の前の数値は、スイの平均値と変わらない。いつもならブレているはずなのに、スイの身体に異常は見られない。間違いなく私はそれに安堵した。ただ、自分の中の汚い感情が胸の中で息づいてるのも気がついた。

この汚い感情は、異常値が何故出ていないのかと思考を巡らせると汚れが広がるように滲み出る。


スイが気を失った後、パトルシオ室長に呼ばれてエルネストと一緒に会場に向かった。エルネストに助けられながら室長との会話を終え、無事レセプションを終了することができた。あの子はまだ寝ているのか、マイに心配かけないようにまた笑顔を取り繕っているのか。そんなことを考えて心配に煽られながら、スイのいる客室に急いで戻った。

予想はどちらも外れていた。スイのいつもと変わらない姿を見た時、心配が安堵にガラリと変わり、思わずスイを抱きしめてその存在を確認した。スイに大丈夫かと聞くとうん、と答えた。その答えはいつもと変わらなかったが、明らかにいつもと違った。


あの時スイは取り繕ってなかった。

無理に微笑んでなかった。

嘘をついていなかった。

瞳を見ると目が赤く充血し、その長いまつ毛はしっとりと濡れていた。マイの前でこの子は涙を流したんだ。いつもは強がって、弱い姿を誰かに見せようとしないこの子が。

その様子に少し戸惑ってしまった。それをスイからエルネストが隠してくれた。スイはエルネストとマチルダといつものように会話をして、フィルマン、マリウスに頼っていいと言われて嬉しそうに感謝していた。

この子の世界は優しく広がり始めた。

その確信を嬉しく思い、愛しい存在をその想いのまま見つめることができた。ただ、私の中の戸惑いが汚い感情だと気づくのにもそんなに時間はいらなかった。

私には見せない姿を、弱さをスイはマイの前で曝け出した。それによって落ち着きを取り戻し、無理に取り繕わずに済んだ。自分を守ってくれる人に囲まれて柔らかく微笑むスイを思い出す。この子にとっていい変化だった。


ただ。


滲み出るその汚い感情は理性の制止を効かず次々と言葉になっていった。

私の前では強がるのに。無理を押して微笑みを作るのに。私には見せない弱さをあったばかりのマイには見せるのに。エルネストとマチルダを見て取り繕わず微笑むのに。フィルマンとマリウスの言葉に嬉しそうにするのに。

頭ではスイが良ければそれでいいと考えているのに、その身勝手な感情を拭い去ることはできない。大切なものを心から大切にしたいのに、汚い感情がそれを妨げる。心の底から自分の性格の悪さが嫌になる。

その汚れを吐き出すようにため息が出る。やめよう。またループに入り込んでしまった。


スイの体に異常は無かった。ならそれで良いはずだ。そう言い聞かせて思考を止める。不安を押し込むようにビジョンを閉じ、スイのいる部屋に戻る。


スイの部屋のドアを開け、やけに静かなのに気がつく。

シャワーかしら…。リビングのドアを開けるとシャンプーの香りと微かな湿気を感じた。ふとお風呂場に目をやると電気が消されていて、人がいないのがわかった。

どこに…。胸の奥にしまったはずの不安が蠢きだす。リビングの奥に進むとその姿を捉えることができた。

月明かりに包まれ、白銀の惑星を見つめるその姿は汚い人間に囚われた天使のようだった。

その姿に胸がドキンと悲鳴をあげる。激しく締め付けられたような痛みが身体に走る。


この子を捕らえようとしてる汚い人間は、私。


胸の奥から声が聞こえた。自尊心がそれを必死に否定する。そんなはずはないと数々の言葉が頭の中に浮かんではその胸の声をムキになって言い返す。

ただ、私はわかってしまっている。この必死の否定はこの子と向き合う度に、自分の弱さを感じる度に、何度も繰り返し行ってきた。何度もやっていくうちに客観的に考えられるようになっていた。そしてわかってきたのだった。頭で考えるその言葉は事実じゃないと。この子と一緒にいる為の、自分を肯定する為の言葉。自分に都合がいいようにするためだけの言葉だった。

きっと胸の中で囁かれたその言葉が事実。そしてそれを囁いたのもその事実に気がついたのも私だった。


「スイ?」

呼び止めないとこの子がどこかに行ってしまう気がした。私の声が届いたのかゆっくりとこちらに振り返る。そのエメラルドグリーンの透き通る瞳は真っ直ぐこちらを射抜いていた。どこまでも覗き込めそうなその瞳に見つめられると、自分の汚い部分が見透かされるのではないかと不安になる。


…あなたも、ビートも勘違いしている。スイが私にこだわってるんじゃない。私がスイにこだわっている。

室長が私をあなたから外すと言ったこと。それはこの6年で何度も打診された。その度に異動を断ったのも、感情を押し殺してスイの研究に加担したのも、スイの側にいたかったから。弱っていく彼女を支えたかった。震える体を抱きしめたかった。花のように綻ぶ笑顔を見たかった。

最初は同情だった。いつしか年相応に笑うこの子をみて愛おしいと思った。もっとたくさんの表情を見たいと思った。怯えや悲しみではない、同世代の子がしてるように笑い合ったり、ふざけ合ったり、普通のやり取りの中で普通を手に入れて欲しいと思った。

それが叶ってきているのに、独占欲がそれを邪魔しようとしていた。


スイはいつものように何も気づいていないように微笑む。きっと私の中にある渦巻く感情を感じ取ってる。それを気づかないふりして微笑むのがスイのいつもどおりだった。

「イレア、お疲れ様。数値どうだった?」

「…多少いつもより低いものもあったけれど、特筆するものは無かったわ。色々あったから疲れが出たと言うぐらいね。」

「そっか。良かった。」

安心したように微笑むスイに胸を掴まれるようだった。スイに対する後ろめたさが私の中で息づいている。

ごめんなさいと謝りたかった。きっとそうしたらスイは良いんだよと許してくれる。

私以外に頼らないでというと、わかったと言ってくれる。

あまりにも自惚れに近いその想像はきっと間違っていない。スイは私を大切に思っている。自分が辛くなっても私を優先してくれる。私はその優しさを散々利用してきたのだから。


もう、やめなければいけない。自分の汚い所を隠すように言葉を飲み込み、微笑みかける。いつもスイがやってきてくれたように。

「…ご飯にしましょう。」

「…うん!」

スイはいつもの微笑みで返事をするだけだった。気がついている何かに触れないように。


晩御飯を食べ、報告を終わらせてスイを見る。スイはテレビを観ながらウトウトしていた。発足宣言からレセプションまであれだけのことが起きたら仕方ない。眠気を押さえてテレビを見る子供のような姿に愛おしさが溢れ、頬が緩まる。

「スイ、もう寝たら?」

その言葉に、下がりたがってる瞼を無理やり押し上げてこちらを見つめる。そのおかしな顔にプッと笑いが出てしまった。抗議する気力も無いようにこちらを見つめて言葉を放つ。

「イレアはもう報告終わったの?」

「ええ。もしかして終わるの待っていたの?」

「うん…。」

スイは目を擦り、眠気を剥がし取ろうするが思うように取れないようで、今にも眠気に負けてしまいそうな目でこちらを見つめていた。可愛らしいその姿に口角が上がる。

「そうだったの。先に寝てしまって良かったのに。」

「でも、私の事やってくれてるから…。」

とうとう欠伸まで出てしまっていた。悪いことをしてしまった。眠かったら寝てしまって良いのに、この子は気を使いすぎる。

「気にしなくて良いのよ。じゃあ私は帰るわね。」

ソファーの後ろに立ちスイの柔らかな髪に触れて、子供をあやすように撫でる。愛おしさを存分に表現しながら、白銀の髪を弄ぶ。黙って撫でられていたスイの指が頭に乗せている私の手におずおずと触れる。どうしたのかと撫でる手を止める。

「イレア、あのさ。」

申し訳なさそうに紡がれるその言葉に、胸がざわつく。改まった声に動揺し、続く言葉を聞きたくないと思った。この子は察しのいい子だからもう寝なさいと言えばこの思いをわかってくれる。また汚い感情が頭を埋め尽くしていく。


…もうやめようと決めたのよ。この子の優しさをもう利用しちゃいけない。そのざわつきを隠すように精一杯優しい声で聞き返す。

「ん?」

ここからだとお互いの表情が見えない。それは良いのか悪いのか。ちゃんと感情を隠せていないだろうから、良かったのかもしれないわね。そんなことを考えながらスイの言葉を待つ。

「今日、一緒に寝てくれない…?」

「え?」

想定外言葉に戸惑いが素直に出てしまった。その言葉に慌てたように振り返りスイが言葉を続ける。

「あ、いや、やる事あるんなら良いんだ!ただ、その…。」

その目は逃げるように下を向く。言い淀んでいるその姿を見つめ、次の言葉を待つ。ポツリポツリと言葉を紡ぎ始めた。

「今日さ、ビートに色々言われちゃったから…。不安になっちゃった。」

眉尻を垂らし困ったように微笑むスイはいつもの何かを隠す笑顔だった。

「ビートが言ったこと、私もイレアに対して後ろめたく思ってた事だったから。イレアはちゃんと否定してくれだけど、それでも、きっと、事実もあって。あの夜イレアが違うって言ってくれてるのに、不安になっても仕方ないってわかってるんだけどさぁ。」

スイの言葉は自分に呆れたようにため息混じりに紡がれる。スイは再び前を向き、その表情を隠す。

「今日はイレアにそばに居て欲しいなぁって。」

テレビにはスイのよく見ているバライティが流れていて、画面の中では芸人が大勢を笑わせている。いつもは楽しそうに見ているその番組も、きっと内容が入ってきていないのだろう。笑うことなくただそちらの方向を向いているだけだった。

その背中はなんだかいつもより華奢に見えた。いつも、ね…。いつから変わったんだろう。研究室のこの子のいつもはこっちだった。一人で恐怖と孤独に耐えて、それでも誰かを責めることで逃げようとしない。弱々しいのに、強い。

私がこの子を一人にして行くのは、ありえない。6年間、そうしてきたように。

スイの細い首に、間違っても痛みを与えないようにゆっくり腕を回す。スイの柔らかな髪が頬を掠め、心地いい体温が肌を伝って感じられる。スイの長い指が私の腕を優しくそれでいて強く握りしめる。その指は私を引き留めるようだった。その力の強さに頬が緩まる。

この子は、まったく…。スイ、あなたが望むなら私はあなたの側にいるわ。誰に何を言われても、私からあなたの側を去ることは無い。でも、何を言っても、あなたはまた不安になるんでしょう?恐らくあなたは私のそばにいる自信が無い。私と同じように、その自信のなさから不安になる。意外と似たもの同士なのね、私たち。

「イレア?」

スイが私の名前を呼ぶ。返事が無くて不安になっているのだろう。私の反応を待っている。長いこと考え事をしてしまった。安心させられるように言葉を紡ぐ。

「大丈夫よ。今日はこっちに泊まるわ。」

その言葉にスイは安心したように息を吐きながら呟く。

「…良かった。断られるかと思った。」

「断らないわよ。そんなに冷たい人間だと思ったの?」

「そういう意味じゃなくて、なんか、目が覚めてから様子が変だったから。」

やっぱり。気が付いてたのね。なんて言おうか考えているとスイが言葉を続ける。

「それに、なんだか、私よりエルネストの方がイレアの事わかってそうだったから。」

「なんでエルネストが出てくるのよ?」

私の問いかけにスイが口を突き立てるような仕草をする。時々、この子がわからない。この6年間で大体は表情でわかるようになったと思っていたけど、日に日にこの自信が削がれていく。きっと今拗ねているんだろうけれど、何に拗ねたのか…。

「…だって、エルネスト、私からイレアを隠そうとしたり、私が知らないこと知ってるみたいなんだもん…。」

「だからってなんで拗ねてるのよ。」

「…拗ねては…ない。という、か、ね。」

「嘘じゃない。」

「…むぅ。」

頬まで膨らみ完全に拗ねている。その横顔がおかしくって指先でちょんちょんそのハムスターみたいに膨らんだ頬をつつく。あぁ、きっと、あれね。

「久々の独占欲?」

その言葉にビクッと肩をゆらし、観念したように突き出た唇からぷすぅーと空気が漏れる。

「そうだよ。だって、イレアよそよそしくて…。ビートに呼ばれた時もついてっちゃおうとしてたし…。」

スイが甘えるように私の腕に頬を擦り付ける。あぁ、あの時…。

「あの時は、スイがビートに怯えてたから。早く帰らせようと思って着いて行こうとしたのよ。」

「…そうだったんだ。」

スイは安心したように呟く。きっとよほど動揺したのね。あんなにも強く興奮しながら抱き寄せられて私も驚いたけれど。もとは、スイを傷つけないようにとついていこうと思ったけれど逆効果だった。あの男はスイを希少価値の高いモルモットと呼んだ。思い出すだけでも腹の底からプスプスと不完全燃焼してるような熱が渦巻く。

縋り付くスイを見てビートは息をするように暴言を吐き続けた。ビートは研究室でもそうだった。だからこそ早くこの子から遠ざけたかったのに…。それに言い返してくれたのはエルネストだった。彼女は“あの日”からずっとこの子の事を想ってくれてる。それがどれだけ心強いか。ソメヤさんにエルネスト。それだけじゃない。マイやマリウス、フィルマンも。

そう。心強い。私がスイに対する独占欲を引っ張り出している場合じゃない。何せ、この子を傷つけるのは社会なのだから。人類の進歩という正義なのだから。

「イレア?」

いつのまにか腕に力がこもっていたらしい。スイが心配そうにこちらを向いている。その透き通る瞳に心配の色を落としたくない。この子にはどうか無邪気に笑って欲しいと思う。その時の笑顔がまるで花が綻ぶようで、心の底から綺麗だと思うから。

その瞳に微笑みかけ、頭を撫でる。

「なんでもないわ。そろそろ寝ましょうか。」

「うん。」

柔らかく微笑むこの子を優しく見つめ、腕を解く。


ベットに入ると、甘えるように胸元に顔を擦り付け、腕を背中に回し強く抱きしめてくる。よっぽど不安だったのね。頭を撫でているとすぐにスースーと寝息が聞こえた。あんなに眠そうにしていたもの。その寝顔に頬が緩む。

思い返せば、スイが直接頼ってきたのは初めてかもしれない。傷ついて、その傷を私に晒す事を避けてきた子だった。成長したのね。きっと外に出てあの子たちに助けてもらって、優しさを向けられて変わった。

どうか、私の中の独占欲が理性を侵さない事を願う。この子の幸せはどんどん広がっていってるのだから。

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