第五話 街の裏側
十一月四日。
午前七時十二分。
湊は、澪の家を出た。
昨夜のことを、二人はほとんど話さなかった。
玄関にあった白いスニーカーは、母親が片付けたらしい。澪に尋ねても、母親は「そんな靴は知らない」と言っただけだった。
写真も残っている。
誰もいない部屋。
午前六時三十九分の時刻。
玄関に立つ二人の後ろ姿。
消そうとは思わなかった。
消したところで、なかったことにはならない。
「湊」
駅へ向かう途中、澪が呼んだ。
「今日、学校終わったら時間ある?」
「あるよ」
「少し遠くまで行ってみたい」
「どこに?」
「昨日の写真に写ってた場所」
湊は、あの夜景の写真を思い出した。
ビルの最上階にあった、黒い窓。
「場所、わかったの?」
「雑誌のバックナンバーを調べたの。撮影場所が書いてあった」
「どこ?」
「中央区の旧市街。駅から少し歩いたところ」
「わかった。行こう」
澪は頷いた。
午後四時三十分。
灰都中央区。
駅を出ると、巨大なビル群が視界を埋めた。
ガラス張りの高層ビル。
道路の上を走る高架線。
地下へ続く階段。
人の流れが絶えない交差点。
この街では、立ち止まる人の方が少ない。
二人は雑誌に載っていた地図を頼りに、旧市街へ向かった。
「この辺りだと思う」
澪がスマートフォンを見せる。
再開発から取り残されたような一角だった。
新しい商業施設の裏に、古い雑居ビルが並んでいる。細い路地には飲食店の看板が重なり、電線が空を横切っていた。
雑誌の写真と同じ場所を探す。
角を曲がったところで、湊が足を止めた。
「あれじゃない?」
道路の向こうに、一棟のビルがあった。
外壁は薄い灰色で、窓の数が多い。
雑誌の写真に写っていたものとよく似ている。
「たぶん、ここだね」
澪は写真を開いた。
二人はビルを見上げた。
最上階。
右端から三つ目の窓。
そこだけが、周囲の窓より暗かった。
「……あった」
湊が言った。
澪も同じ場所を見ている。
黒い窓は、昼間なのに何も映していなかった。
空も、向かいのビルも、そこだけは映らない。
「中、誰か住んでるのかな」
「オフィスビルじゃない?」
「でも、明かりがないね」
澪はスマートフォンを構えた。
シャッター音が鳴る。
撮影した写真を確認する。
黒い窓は、写っていなかった。
その場所には、普通の窓があった。
「湊、これ」
湊も自分のスマートフォンで撮影した。
結果は同じだった。
目の前には黒い窓がある。
写真の中には、普通の窓がある。
湊はもう一度、ビルを見上げた。
黒い窓の向こうに、何かが動いた。
人影ではなかった。
部屋の中の暗闇が、ゆっくりと横にずれたように見えた。
湊は目を細めた。
もう何も動いていない。
「帰ろうか」
澪が言った。
「うん」
二人はその場を離れた。
午後五時二十分。
旧市街を抜ける途中、澪が古い掲示板を見つけた。
「これ、見て」
掲示板には、地域の案内や工事のお知らせが貼られている。
その中に、一枚だけ古びた紙があった。
紙の端は黄ばんでいる。
印刷された文字は薄く、日付も読み取れない。
ただ、中央に大きく書かれた案内だけは読めた。
**灰都地下連絡通路**
「地下通路?」
「この辺にあるのかな」
湊は周囲を見回した。
近くに地下鉄の入口はある。
だが、案内板にそんな名前はない。
「古い案内じゃない?」
「そうかも」
澪は紙を撮影した。
そのとき、背後を通り過ぎた男性が、何気ない様子で言った。
「そこ、通れますよ」
二人は振り返った。
男性は歩きながら、続けた。
「昔からありますから」
「ありがとうございます」
澪が答える。
男性はそのまま人混みに消えた。
「知ってる人がいるんだね」
湊が言った。
「うん。でも、どこにあるんだろう」
掲示板の周囲を探してみる。
地下へ続く階段は見当たらなかった。
午後六時。
二人は地下鉄の駅に入った。
ホームへ降りるエスカレーターの途中で、湊は壁に貼られた案内図を見つけた。
灰都の地下鉄路線図だった。
路線は複雑に入り組み、複数の路線が中央駅で交差している。
その一番下。
通常の路線から少し離れたところに、小さな駅名があった。
湊は足を止めた。
「澪」
「うん」
澪も見ていた。
そこには、駅名が書かれていた。
第零地下駅。
ただし、今まで見たものとは違う。
駅名の下に、路線番号が記載されていた。
その横には、小さな文字でこう書かれている。
**乗換案内はございません。**
「これ、前にも見たやつ?」
「違う」
湊は案内図に近づいた。
駅名の周囲には、他の駅と同じように丸い印がある。
しかし、その駅へ向かう線路はどこにもつながっていなかった。
駅だけが、路線図の中に置かれている。
「どういうこと?」
澪が尋ねた。
「わからない」
湊は案内図を撮影した。
今度は写真にも残った。
その直後、エスカレーターの上から人が降りてきた。
二人は通路の端に避けた。
人の流れが途切れるまで待ち、再び案内図を見た。
第零地下駅は、なくなっていた。
その場所には、何も書かれていない空白があった。
「また消えた」
澪が言った。
湊は撮影した写真を確認した。
写真には、まだ駅名が残っていた。
午後六時四十七分。
ホームに列車が到着した。
人々が降り、乗り込んでいく。
二人は列車に乗らず、ホームの端にあるベンチに座った。
「さっきの地下通路、探してみない?」
澪が言った。
「今から?」
「うん。まだ時間あるし」
「駅の人に聞いてみるか」
澪は頷いた。
ホームの反対側に駅員がいた。
湊が近づいて声をかける。
「すみません」
「はい」
「この近くに、地下連絡通路ってありますか?」
駅員は少し考えた。
「地下連絡通路ですか」
「はい。灰都地下連絡通路っていう」
駅員は笑顔で頷いた。
「ございますよ」
「どこにありますか?」
「この駅の地下です」
湊は澪を見た。
「この駅の地下?」
「はい」
駅員は改札の方を指した。
「改札を出て、右手に進んでください」
「ありがとうございます」
二人は駅員に礼を言い、改札を出た。
右手には、地下商店街へ続く通路がある。
飲食店や衣料品店が並ぶ、いつもの地下街だった。
しかし、通路の奥に見慣れない階段があった。
壁と壁の間に、下へ続く階段がある。
案内板はない。
照明も暗い。
「ここかな」
澪が言った。
「たぶん」
二人は階段の前に立った。
下から、空調の音が聞こえてくる。
湊は一段目に足を置いた。
そのとき、後ろから人が通り過ぎた。
買い物袋を持った女性だった。
女性は二人の横を通り、何の迷いもなく階段を下りていった。
足音が遠ざかる。
二人は顔を見合わせた。
「普通に使われてるんだね」
「そうみたいだ」
湊はスマートフォンを取り出した。
時刻は午後七時二分。
階段の先を撮影する。
画面には、階段が写っていた。
ただ、写真の中では、階段が上へ続いていた。
湊は画面を見つめた。
実際の階段は下へ伸びている。
写真の中では、上へ伸びている。
もう一度撮影する。
今度も同じだった。
澪が画面を覗き込んだ。
「これ、どうなってるの?」
「わからない」
そのとき、階段の下から女性の声が聞こえた。
「すみません」
二人は顔を上げた。
先ほど階段を下りていった女性が、途中に立っていた。
買い物袋を持ったまま、こちらを見上げている。
「そこ、通れますよ」
女性はそう言った。
湊は何も答えなかった。
女性は少しだけ首を傾けた。
そして、再び階段を下りていった。
足音が消える。
澪が湊の袖をつかんだ。
「行かない方がいい」
「うん」
二人は階段から離れた。
午後七時三十分。
地下鉄に乗り、帰路についた。
車内は混雑していた。
向かいの席では、学生がスマートフォンを見ている。
隣には、仕事帰りの男性が座っていた。
誰もが、いつもどおりだった。
湊は撮影した写真を整理していた。
黒い窓。
地下鉄の案内図。
階段。
どれも、現実と少しだけ違っている。
「湊」
澪が小さく呼んだ。
「何?」
「これ、見て」
澪のスマートフォンには、地下連絡通路の写真が表示されていた。
湊が撮ったものとは別の写真だ。
「いつ撮った?」
「さっき。階段のところ」
写真には、階段が写っている。
その奥に、通路が続いていた。
床は白く、壁は灰色。
天井には、等間隔に照明が並んでいる。
そして、通路の一番奥に、扉があった。
扉の上には、黒い文字で駅名が書かれている。
第零地下駅。
「こんな扉、あった?」
「なかった」
湊は写真を拡大した。
扉の前には、人が一人立っている。
背中を向けている。
白いコートを着ていた。
湊は写真から目を離した。
向かいの窓に、車内の様子が映っている。
座席。
吊り革。
広告。
その奥に、白いコートの人物が立っていた。
車内には、そんな人物はいない。
湊は窓を見たまま動かなかった。
列車が次の駅に到着する。
ドアが開く。
乗客が降りていく。
誰も、その人物を見ていない。
澪も窓を見ていた。
彼女はスマートフォンを握りしめた。
列車のドアが閉まる。
発車の揺れ。
窓の向こうの白いコートは、まだ立っていた。
やがて、車内の照明が一度だけ瞬いた。
次に窓を見たとき、そこには何も映っていなかった。
午後八時十五分。
湊は自宅に戻った。
夕食を済ませ、部屋でスマートフォンを開く。
澪からメッセージが届いていた。
『今日の写真、送っておくね』
添付された画像を開く。
地下連絡通路の写真だった。
湊は拡大した。
白いコートの人物は、扉の前に立っている。
その足元に、何かがある。
小さな黒い四角。
湊は画面を拡大した。
それは、靴だった。
白いスニーカー。
澪の家の玄関にあったものと同じ形だった。
湊は画像を保存した。
そのあと、写真の撮影時刻を確認する。
午後七時二分。
階段の前で撮影した時刻と同じだった。
湊は澪にメッセージを送った。
『この写真、もう一度見て』
すぐに既読がついた。
『見てる』
『靴が写ってる』
『うん』
『あの靴と同じだよな』
返信はなかった。
しばらくして、澪から一通だけ届いた。
『湊』
『何?』
『私、今日あの階段を撮ったとき』
続きが来る。
『後ろに誰かいた気がする』
湊は画面を見つめた。
『誰?』
澪からの返信は、なかなか届かなかった。
やがて、短い文章が表示された。
『わからない』
それだけだった。
午後十一時五十九分。
湊はスマートフォンを充電器につないだ。
部屋の明かりを消す。
窓の外には、灰都の夜景が広がっていた。
高層ビルの窓が、無数の光を並べている。
湊は目を閉じた。
そのとき、スマートフォンの画面が点灯した。
通知はない。
画面が勝手に点いたようだった。
湊はベッドから手を伸ばし、画面を確認した。
写真アプリが開いている。
見覚えのない画像が一枚。
撮影時刻は、午前零時十三分。
写真には、地下鉄のホームが写っていた。
ホームには誰もいない。
向かいの線路の先は暗く、照明も届いていない。
壁には、駅名標がある。
そこには、こう書かれていた。
第零地下駅。
湊は写真を閉じようとした。
そのとき、画面の端に小さな文字が見えた。
写真の右下。
撮影場所の表示。
湊は目を近づけた。
そこには、現在地の住所が表示されていた。
自宅の住所だった。
湊はスマートフォンを伏せた。
窓の外では、車が一台通り過ぎていった。
街は静かだった。
そして、時計の針が午前零時十三分を指した。




