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第四話 写真に残らない夜


 十一月三日。

 灰都の空は、朝から白く濁っていた。

 湊は駅前の時計を見上げた。

 午前八時十七分。

 いつもなら、この時間には通勤客と学生で歩道が埋まっている。今日も人の流れは変わらない。

 昨日の夜に見たものを、湊はまだ考えていた。

 白いコートの女。

 街灯の下に立っていた、あの人影。

 澪も同じものを見ていた。

 それだけは確かだった。

 スマートフォンが震えた。

『今日、うちに来ない?』

 澪からだった。

『何か調べるの?』

『昨日の写真を見直したい』

 湊は短く返信した。

『わかった』

 午後六時。

 澪の家に着くと、彼女は玄関まで出てきた。

「いらっしゃい」

「お邪魔します」

 玄関には、母親の靴がなかった。

「お母さんは?」

「今日も遅いって」

「そっか」

「夕飯は用意してくれてるよ」

 澪はそう言って、湊の鞄を受け取った。

 部屋に入ると、机の上にはノートとタブレットが置かれていた。

 その隣に、二人が撮った写真が印刷されている。

「結構調べたんだな」

「気になっちゃって」

 澪は少し笑った。

「今日、泊まっていってもいいって」

「お母さんが?」

「うん。明日休みだし、二人で調べるならって」

 湊は頷いた。

 付き合い始めてから、こうして二人きりで長い時間を過ごすのは初めてだった。

 何を話せばいいのか、少しだけわからなくなる。

「とりあえず、ご飯にしよ」

「そうだな」

 午後七時半。

 二人は食事を済ませ、澪の部屋に戻った。

 机の上に、写真を並べる。

 駅の壁。

 黒いプレート。

 雑誌に載っていた夜景。

 何度見ても、写真の中のものは同じだった。

「これ、撮ったときは気づかなかったんだよね」

 澪が雑誌の写真を指した。

「人影か」

「うん。印刷した方がわかりやすいね」

 湊は写真を手に取った。

 夜景の中に、小さな人影がある。

 その周囲には、ビルの窓が並んでいる。

 どの窓にも、明かりが灯っていた。

 ただ、一つだけ。

 写真の中央にある高層ビルの、最上階の窓。

 そこだけが、黒く塗りつぶされたようになっている。

「ここ、何だろう」

「窓じゃない?」

「他の窓と違う」

 澪は写真を覗き込んだ。

「本当だ」

 二人はしばらく見つめていた。

 やがて澪が写真を裏返した。

「撮影した場所、調べられるかな」

「元の雑誌を見ればわかるかも」

「明日、探してみよう」

 湊は頷いた。

 午後九時。

 調べものは一段落した。

 澪はベッドの端に座り、湊は床に敷いたクッションに腰を下ろしていた。

 テレビでは、深夜番組の再放送が流れている。

 画面の中では、芸人が笑っていた。

「ねえ」

「ん?」

「こういう夜って、なんか変な感じ」

「泊まるのが?」

「それもあるけど」

 澪はテレビを見たまま言った。

「付き合う前は、普通に一緒に帰ってたのにね」

「今も普通だろ」

「そうかな」

 少し間が空いた。

「湊は緊張しないの?」

「してない」

「嘘」

「……少しは」

 澪が笑った。

 その笑い声は、いつもと変わらなかった。

 湊は少し安心した。

 午後十時四十六分。

 澪は先に風呂に入った。

 湊は一人で部屋に残り、スマートフォンを眺めていた。

 何気なく、写真フォルダを開く。

 今日撮った写真が数枚並んでいる。

 机の上のノート。

 夕食の皿。

 澪が飲んでいたコップ。

 最後の一枚を見て、指が止まった。

 見覚えのない写真だった。

 画面いっぱいに、澪の部屋が写っている。

 机。

 ベッド。

 カーテン。

 床に置かれたクッション。

 湊は顔を上げた。

 今いる部屋と同じだった。

 写真の撮影時刻を確認する。

 午後十時三十一分。

 その時間、湊はスマートフォンを触っていた。

 写真を撮った覚えはない。

 それに、撮影位置がおかしい。

 写真は、部屋の入口から撮影されたように見えた。

 湊はドアを見た。

 ドアは閉まっている。

 写真を拡大する。

 ベッドの上に、澪の姿があった。

 風呂に入っているはずの澪が。

 布団をかけ、壁の方を向いて横になっている。

 湊は画面を閉じた。

 もう一度開く。

 写真は変わらない。

 そのとき、浴室のドアが開く音がした。

「湊、お風呂空いたよ」

 澪の声だった。

 湊はスマートフォンを伏せた。

「うん」

 返事をして、立ち上がった。

 午後十一時二十分。

 風呂から戻ると、澪は机に向かっていた。

「何してるの?」

「写真を整理してた」

「そっか」

 湊はスマートフォンを手に取った。

 先ほどの写真を見せようとして、画面を開く。

 写真はなかった。

 最近削除した項目にもない。

「どうしたの?」

「いや、何でもない」

 湊はスマートフォンを置いた。

 見間違いだったのかもしれない。

 疲れているだけかもしれない。

 そう考えることにした。

 午前零時。

 二人は寝る準備を終えた。

 澪はベッドを使い、湊は床に布団を敷いた。

「寒くない?」

「大丈夫」

「毛布、もう一枚あるよ」

「平気」

 澪は部屋の明かりを消した。

 カーテンの隙間から、向かいのビルの明かりが見える。

「おやすみ」

「おやすみ」

 静かになった。

 湊は目を閉じた。

 午前一時十二分。

 湊は目を覚ました。

 何か音がした気がした。

 部屋の中は暗い。

 隣のベッドから、澪の寝息が聞こえる。

 湊は時計を確認した。

 午前一時十二分。

 もう一度目を閉じる。

 そのとき、廊下から小さな音がした。

 床が鳴る音だった。

 一度だけ。

 それから、何も聞こえなくなった。

 母親が帰ってきたのかもしれない。

 湊はそう思った。

 だが、玄関の開く音は聞いていない。

 しばらくして、再び床が鳴った。

 今度は、部屋の前だった。

 湊は目を開けた。

 ドアの下に、廊下の明かりが細く差し込んでいる。

 その光が、わずかに遮られた。

 誰かが立っている。

 湊は動かなかった。

 影はしばらくそこにあった。

 やがて、光が戻った。

 足音はしない。

 ドアノブも動かない。

 ただ、廊下の明かりだけが、ずっと同じ形で床に伸びていた。

 午前一時三十七分。

 湊は再び目を閉じた。

 眠れそうになかった。

 ベッドの方から、澪の声がした。

「湊」

「起きてるよ」

「さっき、廊下に誰かいた?」

 湊は上半身を起こした。

「見てたの?」

「ううん。音がしたから」

「俺も見た」

 澪はしばらく黙っていた。

「お母さんかな」

「わからない」

「明かり、ついてるよね」

「ああ」

「でも、帰ってきた音はしなかった」

 湊は返事をしなかった。

 二人はドアを見ていた。

 それ以上、何も起きなかった。

 午前六時四十分。

 カーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。

 湊は目を覚ました。

 澪はまだ寝ている。

 部屋の中は、昨夜と変わらない。

 机の上にはノートがあり、床には二人分の布団がある。

 湊はスマートフォンを確認した。

 写真フォルダを開く。

 昨夜の写真はなかった。

 だが、見慣れない画像が一枚あった。

 湊は画面を見つめた。

 写真には、澪の部屋が写っていた。

 昨日と同じ構図。

 ドアの外から撮影された写真。

 ただし、今度はベッドに澪がいない。

 床の布団にも、湊はいなかった。

 部屋には誰もいない。

 撮影時刻は、午前六時三十九分。

 湊は隣を見た。

 澪はベッドで眠っている。

 自分は今、床に座っている。

 写真の中の部屋だけが、空っぽだった。

 湊は写真を閉じた。

 それから、ドアを見た。

 ドアは閉まっている。

 昨夜と同じように。

 ただ、ドアの内側に、小さな傷がついていた。

 床から数センチの高さ。

 細い線が、横に一本。

 その下に、もう一本。

 湊は近づかなかった。

「……澪」

 呼ぶと、澪が目を開けた。

「おはよう」

「おはよう」

 湊はスマートフォンを見せた。

 澪は写真を確認した。

 しばらくして、画面を拡大する。

「これ、昨日の部屋?」

「ああ」

「撮った覚えある?」

「ない」

 澪は写真をもう一度見た。

「ねえ」

「何?」

「これ、時計が写ってる」

 写真の右端。

 机の上のデジタル時計が、小さく写っていた。

 表示は、午前六時四十分。

 撮影時刻より、一分先だった。

 澪はスマートフォンを置いた。

 部屋の時計を見る。

 午前六時四十分。

 写真の中の時計と、同じ時刻だった。

 午前七時十五分。

 二人は朝食を食べた。

 何も話さなかった。

 テレビからは、いつものニュースが流れている。

 灰都の交通情報。

 天気予報。

 新しい商業施設の開業。

 アナウンサーは笑顔で話していた。

 湊は食卓の端に置かれたスマートフォンを見た。

 写真はまだ残っている。

 何度見ても、部屋には誰もいない。

「湊」

 澪が言った。

「今日、帰る前に一つだけ確認したい」

「何を?」

「玄関の外」

 湊は箸を置いた。

「昨日、誰も帰ってきてないのに」

 澪は玄関の方を見た。

「靴が、増えてる」

 二人は食事を終え、玄関へ向かった。

 靴箱の前には、いつもの靴が並んでいる。

 澪の靴。

 母親の靴。

 湊の靴。

 その隣に、もう一足。

 白いスニーカーがあった。

 見覚えのある形だった。

 湊は昨夜、廊下で見た影を思い出した。

 澪は靴に触れなかった。ただ、靴の向きを見ていた。

 つま先は、玄関の外を向いていた。

 誰かが出ていくときの向きだった。

 湊は玄関の鍵を確認した。

 閉まっている。

 ドアチェーンもかかっている。

 澪が小さく言った。

「これ、誰の靴だろうね」

 湊は答えなかった。

 そのとき、部屋の奥からスマートフォンの通知音がした。

 澪が取りに戻る。

 画面には、写真が一枚届いていた。

 送信者は表示されていない。

 添付された写真を開く。

 そこには、玄関が写っていた。

 靴箱。

 ドア。

 並んだ靴。

 そして、二人の後ろ姿。

 写真の中の二人は、玄関に立っていた。

 今と同じ場所で。

 同じ姿勢で。

 ただ、写真の中の湊だけが、こちらを向いていた。

 澪は画面を伏せた。

 窓の外では、灰都の朝が始まっていた。

 道路を車が走り、駅へ向かう人々が歩いている。

 どこにも変わったところはない。

 湊は玄関の鍵を、もう一度確認した。

 閉まっていた。

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