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第三話 いつからそこにいた




 午前六時四十二分。


 神谷湊は目を覚ました。


 カーテンの隙間から、灰色の光が差し込んでいる。


 雨は降っていない。


 向かいのビルの窓には、いくつもの明かりが灯っていた。道路を走る車の音が、遠くから聞こえてくる。


 いつもの朝だった。


 湊はベッドから起き上がり、枕元のスマートフォンを手に取った。


 澪からメッセージが届いていた。


『おはよう』


 その下に、もう一通。


『今日、学校の前に少し話せる?』


 湊は返信した。


『いいよ』


 それから机の上に置いてあるノートを見た。


 第零地下駅。


 昨日までに起きたことが、短い言葉で書き残されている。


 湊はページを開き、しばらく眺めた。


 昨日の夜、何かを見た気がする。


 そう思ったが、何を見たのかは思い出せなかった。


 考えるのをやめ、ノートを閉じた。



 駅前で澪と合流した。


「おはよう」


「おはよう」


 澪は少し眠そうだった。


「昨日、ちゃんと寝られた?」


「うん。湊は?」


「普通」


 少し歩いてから、澪が口を開いた。


「昨日のことなんだけど」


「うん」


「写真、まだ残ってる?」


「ああ。消してないよ」


「私も」


 澪はスマートフォンを取り出した。


 昨日撮ったホームの写真を開く。


 二人は画面を覗き込んだ。


 黒いプレートは写っている。


 そこに書かれた文字も、はっきりと残っていた。


 第零地下駅。


「やっぱりあるね」


「うん」


「でも、これだけじゃ何もわからない」


 湊は写真を拡大した。


 プレートの周囲には、壁の汚れや広告の跡が写っている。


 その端に、小さなものが見えた。


「これ、何だ?」


「どれ?」


「右下」


 澪が画面を拡大する。


 そこには、黒い線が一本伸びていた。


 壁にできた傷のようにも見える。


 ただ、その先端は不自然に曲がっていた。


「文字かな」


「わからない」


「もう一度、同じ場所を見に行こう」


「放課後にね」


 二人はスマートフォンをしまい、駅へ向かった。



 その日の学校は、普段どおりに始まった。


 授業があり、休み時間には友人たちが騒ぎ、昼休みには弁当を食べた。


 湊もいつもどおりに過ごしていた。


 ただ、三時間目の終わりに、一つだけ妙なことがあった。


 教師が黒板に日付を書いていた。


「今日は十一月二日。明日は祝日だから、宿題は少し多めに出しておく」


 教室のあちこちから不満の声が上がる。


 湊はノートを閉じた。


 そのとき、後ろの席から声がした。


「今日は十一月二日か」


 振り返ると、クラスメイトの男子が窓の外を見ていた。


「そうだけど」


「そっか。明日は祝日か」


 男子は頷いた。


 そして、数秒後にもう一度言った。


「今日は十一月二日か」


「……さっき聞いたぞ」


「え?」


「いや、何でもない」


 男子は不思議そうに湊を見た。


 そのまま前を向き、ノートを開く。


 湊は少しだけ気になったが、授業が始まったのでそれ以上は聞かなかった。



 放課後。


 湊と澪は、昨日の写真を撮ったホームへ向かった。


 夕方の駅は混雑していた。


 会社員、学生、買い物帰りの人々。


 人の流れに逆らいながら、二人は壁の前まで歩いた。


「ここだよね」


「ああ」


 昨日、黒いプレートが写っていた場所。


 壁には広告が貼られ、その隅が少し剥がれている。


 プレートはない。


 湊は写真を見ながら、壁と見比べた。


「位置は合ってる」


「でも、何もないね」


「もう少し近くで見てみよう」


 二人は壁に近づいた。


 そのとき、澪が足を止めた。


「湊」


「ん?」


「これ」


 澪が指差した先には、広告の端があった。


 その下に、細い黒い線が見える。


 湊は広告の端を少しだけ持ち上げた。


 壁には、小さな文字が刻まれていた。


 文字というより、何かを削って作った跡だった。


 読めない。


 ただ、最後の一文字だけはわかった。


 人。


「誰かのいたずらかな」


 澪が言った。


「そうかもしれない」


 湊は手を離した。


 そのとき、背後から声がした。


「何をしているんですか?」


 二人が振り返る。


 駅員が立っていた。


「壁を見ていただけです」


 湊が答える。


 駅員は二人の顔を見て、それから壁を見た。


「そうですか」


 それだけ言って、歩き出した。


 湊は少し安心した。


 しかし、駅員は数歩進んだところで立ち止まった。


 そして、こちらを向いた。


「何をしているんですか?」


 同じ声だった。


 同じ表情だった。


 湊は答えなかった。


 駅員は数秒間、二人を見つめていた。


「何をしているんですか?」


 また同じ言葉。


 澪が湊の袖をつかんだ。


「行こう」


 二人はその場を離れた。


 駅員は追ってこなかった。



 駅を出ると、街は夕暮れに染まっていた。


 道路には車が流れ、ビルの窓には夕日が映っている。


「今の、何だったんだろう」


 澪が言った。


「わからない」


「同じこと、三回言ったよね」


「ああ」


「私たちを見てたのに、何も聞いてないみたいだった」


 湊は返事をしなかった。


 駅員の目が、まだ頭から離れない。


 あの目は、二人を見ていた。


 けれど、そこに二人を認識している人間の気配がなかった。



 帰り道、二人はコンビニに立ち寄った。


 澪が飲み物を選んでいる間、湊は雑誌の棚の前に立っていた。


 店内には、ゆったりとした音楽が流れている。


 レジでは店員が客に頭を下げていた。


「ありがとうございました」


 客が出ていく。


 次の客が商品を置く。


「ありがとうございました」


 店員が言った。


 まだ会計は始まっていない。


 店員は何事もなかったように商品のバーコードを読み取った。


「袋はご利用ですか?」


 客が答える。


「お願いします」


「ありがとうございました」


 また同じ言葉。


 湊は店員を見た。


 店員は笑顔だった。


 何もおかしくない。


 客も普通に袋を受け取っている。


 湊は視線を戻した。


 雑誌の表紙に、灰都の夜景が載っていた。


 大きな道路。

 高層ビル。

 地下鉄の入口。


 その写真の隅に、小さな人影が写っていた。


 湊は目を細めた。


 その人影は、こちらを向いていた。


 雑誌を手に取る。


 人影の顔は見えない。


 だが、顔があるはずの場所だけ、周囲より黒くなっている。


「湊?」


 澪が戻ってきた。


「どうしたの?」


「これ」


 湊は雑誌を見せた。


 澪は写真を覗き込んだ。


「普通の夜景じゃない?」


「ここに人がいる」


「どこ?」


 湊が指を差す。


 澪はしばらく見つめた。


「……本当だ」


 人影は、写真の中でこちらを向いていた。


 澪が雑誌を少し傾ける。


 その瞬間、人影の頭がわずかに動いた。


 二人は同時に手を離した。


 雑誌が棚に落ちる。


 店員がこちらを見た。


「大丈夫ですか?」


 湊は店員を見た。


「この写真、何か変じゃないですか」


 店員は雑誌を拾い上げた。


「いえ。特に問題ありませんよ」


「人の顔が」


「いえ。特に問題ありませんよ」


 店員は笑顔のままだった。


 湊は澪の手を取った。


 二人は何も買わずに店を出た。



 外はすっかり暗くなっていた。


 しばらく歩いてから、澪が口を開いた。


「ねえ」


「何?」


「さっきの店員さん、怖かった」


「俺も」


「どうしてあんなに普通にしていられるんだろう」


「普通だと思ってるからじゃないか」


 湊はそう答えた。


 澪は黙った。


「ねえ、湊」


「うん」


「私たち、これからどうする?」


 湊は少し考えた。


「記録を続けよう。いつ、どこで、何が起きたのか」


「それだけ?」


「今は、それしかできない」


「誰かに相談するのは?」


「何て説明するんだよ」


 澪は答えなかった。


 確かに、説明できない。


 説明したところで、信じてもらえるとも思えなかった。


「じゃあ、二人で調べよう」


 澪が言った。


「一人よりはいいでしょ」


「そうだな」


 二人は歩き続けた。



 澪の家の近くまで来たとき、湊はふと足を止めた。


 道路の向こうに、一人の女性が立っていた。


 白いコートを着ている。


 年齢はわからない。


 女性は街灯の下で、じっとこちらを見ていた。


「澪」


「何?」


「あそこ」


 澪が振り返る。


 女性はまだ立っていた。


 目が合った。


 女性は、ゆっくりと口を開いた。


 声は聞こえない。


 それでも、何かを言っているのはわかった。


 湊は女性の口元を見つめた。


 女性の唇が動く。


 一度。


 二度。


 三度。


 同じ言葉を繰り返している。


 澪が小さく呟いた。


「……帰って」


 湊は澪を見た。


「え?」


「今、そう言った」


 女性の口が、もう一度動いた。


 帰って。


 その瞬間、街灯が消えた。


 再び点灯したとき、女性はいなくなっていた。


 道路の向こうには、誰もいない。


 ただ、白いコートの裾のようなものが、遠くの建物の角に一瞬だけ見えた。


 湊は澪の手を離さなかった。


「今日はもう帰ろう」


「うん」


 二人はそれぞれの家へ向かった。



 午後十一時四十七分。


 湊はベッドに横になっていた。


 今日の出来事を思い返す。


 駅員。

 店員。

 雑誌の写真。

 白いコートの女性。


 どれも、普通の人間に見えた。


 ただ、何かが違う。


 その違いを、うまく言葉にできない。


 スマートフォンが震えた。


 澪からだった。


『まだ起きてる?』


『起きてる』


『今日のことなんだけど』


『うん』


 返信が来るまで、少し時間があった。


 やがて画面に文字が表示された。


『さっき、お母さんに話したの』


『何を?』


『今日見たもの』


 湊は画面を見つめた。


『信じてくれた?』


 既読がついた。


 返信はすぐには来なかった。


 数十秒後、ようやく届いた。


『ううん』


『何て言われた?』


 また、しばらく間が空いた。


『そんな人はいなかったって』


 湊は画面を見つめた。


『一緒にいたのに?』


『うん』


 次のメッセージが届く。


『それでね』


『何?』


『お母さん、私が話し終わる前に言ったの』


 湊は指を止めた。


『何て?』


 澪からの返信が届いた。


『今日は十一月二日だよ、って』


 湊は時計を見た。


 日付は十一月二日。


 何もおかしくない。


 けれど、なぜかその言葉が頭から離れなかった。


 今日、学校でも聞いた。


 駅でも、コンビニでも。


 誰かが同じ言葉を繰り返していた。


 湊は返信を打った。


『明日、直接話そう』


 澪から返事が来る。


『うん』


 そのあと、もう一通。


『湊』


『何?』


『私たち、ちゃんと同じものを見てるよね』


 湊はすぐには答えられなかった。


 窓の外では、灰都の明かりが静かに瞬いている。


 どこかの部屋で、誰かが笑っている。


 道路を車が通り過ぎる。


 街は眠っていない。


 湊はようやく返信した。


『見てるよ』


 送信した直後、画面が暗くなった。


 スマートフォンの黒い画面に、自分の顔が映る。


 その背後に、もう一つ顔が映っていた。


 湊は振り返らなかった。


 振り返る必要はないと思った。


 画面の中の顔は、湊と同じ顔をしていた。


 ただ、目だけが違った。


 画面の中の自分は、笑っていた。


 湊はスマートフォンを伏せた。


 部屋の明かりは消えている。


 窓の外には、いつもの街が広がっている。


 そして、どこか遠くで。


 誰かが、同じ言葉を繰り返していた。



 今日は十一月二日。

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