第二話 名前のない場所
翌朝、神谷湊はいつもより少し早く目を覚ました。
枕元の時計は六時三十八分を示している。
昨日の夜、あの駅名を見たことを思い出す。
第零地下駅。
夢だったのではないか。そう考えてみたが、あの文字の形も、路線図のどの位置に表示されていたかも、妙にはっきり覚えていた。
スマートフォンを手に取り、検索欄に文字を打ち込む。
『第零地下駅』
検索結果はなかった。
念のため、漢字を変えて検索してみる。ひらがなでも試した。灰都の地下鉄の路線図も開いてみた。
やはり、何も出てこない。
「……そりゃそうか」
湊はスマートフォンを伏せた。
考えすぎだ。
そう自分に言い聞かせ、制服に着替えた。
駅までの道は、いつもと同じだった。
交差点では通勤客が信号を待ち、コンビニの前には配送トラックが停まっている。歩道を走る自転車のベルが鳴り、ビルの大型画面では朝のニュースが流れていた。
灰都は今日も動いている。
「おはよう」
駅の入口で澪が待っていた。
「おはよう。早いな」
「湊が遅いだけ」
「まだ約束の時間前だけど」
「そういうところだよ」
澪は小さく笑った。
その表情を見て、湊は少し安心した。
昨日のことを話そうか迷ったが、結局やめた。自分でも説明できないことを話しても、困らせるだけだと思ったからだ。
二人は改札を通り、ホームへ向かった。
ホームには、すでに多くの人が並んでいた。
電車の到着を知らせるアナウンスが流れる。
『まもなく、二番線に電車が到着します。黄色い線の内側までお下がりください』
いつも聞いている声だった。
湊は何となく、ホームの向かい側にある路線図を見上げた。
昨日と同じ路線図。
駅名が並び、乗り換えの線が複雑に交差している。
当然、第零地下駅はない。
「何見てるの?」
「いや、別に」
「昨日のこと?」
澪の言葉に、湊は顔を向けた。
「……覚えてたんだ」
「忘れるわけないでしょ」
「やっぱり、見えなかった?」
「うん。何回見てもなかったよ」
電車がホームに入ってくる。
風が吹き、澪の髪が少し揺れた。
「ねえ、湊」
「ん?」
「昨日、変なこと言ってたよね」
「変なこと?」
「駅の名前を見たとき。『また増えた』って」
湊は眉を寄せた。
「俺、そんなこと言った?」
「言ったよ」
「……覚えてないな」
「そっか」
澪はそれ以上、何も言わなかった。
電車の扉が開く。
二人は人の流れに押されるように車内へ入った。
学校では、特に変わったことはなかった。
朝のホームルーム。数学の授業。昼休みの騒がしい教室。
友人たちは週末の予定について話し、誰かが動画を見せて笑いを取っていた。
湊も普段どおりに過ごした。
ただ、昼休みに一度だけ、奇妙なことがあった。
「なあ、昨日の夜さ」
隣の席の男子が、弁当を食べながら言った。
「地下鉄、止まってなかった?」
「何線?」
「知らない。なんか、駅と駅の間で止まったらしい」
「よくあるだろ」
「いや、そうじゃなくてさ。乗ってた人が言ってたんだけど、車内アナウンスが変だったらしいんだよ」
「どんな?」
「次は、名前のない駅です、って」
男子は笑った。
「そんなわけないよな」
周りの友人も笑う。
湊は箸を止めた。
「それ、どこの路線?」
「知らねえって。SNSで見ただけ」
「その投稿は?」
「もう消えてた」
男子は何でもないことのように、弁当の続きを食べ始めた。
湊はそれ以上、聞かなかった。
放課後。
澪と一緒に駅へ向かう途中、湊は昼休みの話をした。
「名前のない駅って、聞いたことある?」
「ないよ」
「昨日の駅のことなんだけど」
「第零地下駅?」
「そう」
澪は少し考えるように視線を落とした。
「ねえ。昨日、夢を見たって話したよね」
「ああ」
「もう一度、同じ夢を見た」
「どんな?」
「駅にいたの」
澪は歩きながら話した。
「ホームに誰もいなくて、電車も来ない。案内板には駅名が表示されてるはずなのに、そこだけ何も書いてなかった」
「昨日と同じ夢?」
「ううん。昨日より、少しだけ違った」
「何が?」
「駅の向こう側に、階段があったの」
「階段?」
「下に続いてた。ずっと」
澪はそこで言葉を切った。
「でも、降りなかった」
「なんで?」
「誰かが、上から見てたから」
湊は足を止めかけた。
「誰かって?」
「わからない。顔も見えなかった」
駅前の大型ビジョンから、広告の音楽が流れている。
周囲の人々は、誰も二人の会話を気にしていなかった。
「夢だよ」
澪はそう言った。
「そうだな」
湊も頷いた。
それ以上、話すことはなかった。
午後六時を過ぎると、駅は帰宅する人々で混雑し始めた。
二人は改札を抜け、ホームへ降りた。
電車を待つ間、湊は向かい側の壁を見ていた。
そこには、古い広告の跡が残っている。
広告が剥がされた部分だけ、周囲より少し白い。
その隣に、小さな黒いプレートが取り付けられていた。
駅の設備を示すものだろうか。
湊は目を細めた。
プレートには、白い文字が一行だけ書かれていた。
――第零地下駅。
「……またか」
声が漏れた。
「どうしたの?」
澪が隣から覗き込む。
湊はプレートを指差した。
「あれ」
「どれ?」
「黒いプレート。あそこに駅名が書いてある」
澪は壁を見た。
数秒ほど眺めたあと、首を横に振る。
「何もないよ」
「いや、あるだろ」
「白い壁だけ」
湊はもう一度、プレートを見た。
確かにそこにある。
昨日の路線図と同じ文字。
間違いようがない。
そのとき、電車の到着を知らせる音が鳴った。
ホームに風が吹き込む。
湊が一瞬だけ目を閉じ、再び壁を見たときには、プレートは消えていた。
そこには、古い広告の跡が残っているだけだった。
「……見間違いか」
「そうかもね」
澪はそう答えた。
けれど、その声には、いつもの柔らかさがなかった。
その夜。
湊は自室の机に座り、ノートを開いていた。
授業の復習をするつもりだったが、ページの端に別のことを書き始めていた。
第零地下駅。
昨日見た場所。
今日見た場所。
昼休みに聞いた話。
澪の夢。
関係があるのかはわからない。
ただ、偶然にしては重なりすぎている。
湊はスマートフォンを取り、地下鉄の公式サイトを開いた。
路線図を拡大する。
駅の数を数え、路線を追い、乗り換え案内も確認した。
どこにも存在しない。
検索を終えようとしたとき、画面の下に小さな通知が表示された。
『地下鉄運行情報』
湊は通知を開いた。
新しい情報は何もない。
だが、画面の一番下に、見慣れない一文があった。
『本日の運行は、すべて正常に終了しました』
その下に、もう一行。
『未到着列車については、引き続き確認を行っております』
湊は画面を見つめた。
未到着列車。
そんな情報が、なぜ運行終了のお知らせに載っているのだろう。
更新時刻は、午前零時十三分。
今はまだ、午後十一時四十七分だった。
湊はページを更新した。
その一文は消えていた。
何度更新しても、もう表示されない。
しばらく画面を見つめていたが、やがてスマートフォンを机に置いた。
疲れているのかもしれない。
今日はもう寝よう。
部屋の明かりを消し、ベッドに入る。
窓の向こうには、灰都の夜景が広がっていた。
遠くの高層ビルの窓に、無数の光が浮かんでいる。
その下を、地下鉄が走っているはずだった。
湊は目を閉じた。
午前零時十三分。
灰都の地下鉄は、すべての運行を終了していた。
最後の電車が車庫へ向かう。
車内には誰もいない。
運転席にも、誰もいない。
それでも電車は、決められた速度を保ったまま、暗いトンネルの中を進んでいた。
車内の案内表示が切り替わる。
次の停車駅。
その文字が表示されるまで、数秒の空白があった。
やがて、白い文字が浮かび上がる。
――第零地下駅。
電車は速度を落とさなかった。
トンネルの先に、ホームが見える。
ホームには人影が並んでいた。
誰も動かない。
誰も電車を待っていない。
電車はその横を通り過ぎていく。
ホームの壁に、駅名が書かれていた。
ただし、その文字を読むことができる者は、そこにはいなかった。
電車は暗闇の奥へ進んでいく。
その先に線路が続いているのかどうかは、わからない。
やがて、車内の照明が一つずつ消えた。
最後に残った案内表示も、静かに消えた。




