↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/6

第一話 いつもと同じ



午前六時四十二分。


灰都の朝は、空が明るくなるよりも先に始まっていた。


窓の向こうには、いくつもの高層ビルが並んでいる。ガラス張りの外壁には朝焼けが薄く映り、遠くの建設現場からは金属を打ちつける音が聞こえていた。


道路にはすでに車が流れ、歩道を行き交う人々の姿も増え始めている。


この街では、朝と夜の境目が曖昧だった。


深夜まで営業している店があり、夜明け前から動き出す電車がある。眠らない街、と誰かが言っていた。けれど、実際に住んでいる人間にとって、それは特別なことでもなかった。


神谷湊は、枕元のスマートフォンを手に取った。


画面には六時四十二分と表示されている。


「……あと五分」


誰に聞かせるでもなく呟き、再び目を閉じる。


五分後、アラームが鳴った。


湊は今度こそ身体を起こした。寝癖のついた髪を手で押さえながら、カーテンを開ける。


見慣れた景色だった。


向かいのマンション。交差点。高架を走る電車。遠くに見える、街の中心部を覆うようなビル群。


そのどれもが、昨日と変わらずそこにあった。


洗面所で顔を洗い、制服に着替える。朝食を済ませ、鞄の中身を確認してから玄関を出た。


エレベーターは七階から一階まで、途中で三度止まった。


乗ってきたのは、スーツ姿の男性と、小さな子どもを連れた女性だった。男性は画面を見つめ、女性は子どもの手を握っている。


誰も話さない。


一階に着くと、湊は軽く会釈をして外へ出た。


空は薄い灰色だった。


*


最寄り駅までは歩いて八分ほど。


駅前の交差点には、すでに多くの人が集まっていた。信号が青に変わると、歩行者たちは一斉に動き出す。


その流れに混ざりながら、湊はスマートフォンを確認した。


メッセージが一件届いている。


『駅に着いたよ』


送り主は白石澪だった。


湊は短く返信する。


『今向かってる』


改札を抜け、地下へ続く階段を下りる。


灰都の地下鉄は複雑だ。路線は十数本あり、主要駅では複数の路線が交差している。地下街と駅がつながっている場所も多く、慣れていない人間は地上に出るだけでも迷うことがある。


それでも、ここで暮らす人々は迷わない。


彼らは案内板を見ることもなく、決まった方向へ歩いていく。


「湊」


改札近くの柱のそばで、澪が手を上げた。


「おはよう」


「おはよう。早いね」


「いつもこのくらいだよ」


澪はそう言って、手に持っていた小さな紙袋を差し出した。


「これ、昨日言ってたやつ」


「ああ、ありがとう」


「忘れそうだったから」


「俺が?」


「うん」


湊は紙袋を受け取った。中には、昨日話していた文房具が入っていた。


二人は幼い頃から同じ街で過ごしてきた。家も近く、通っている学校も同じ。気づけば一緒にいることが当たり前になっていた。


付き合い始めたのは、ほんの少し前のことだ。


それまでと何かが大きく変わったわけではない。


ただ、隣を歩く距離が少し近くなったり、目が合ったときに以前より意識したりする。そんな小さな変化が、二人の間に残っていた。


「今日、数学の小テストだっけ」


「そう」


「勉強した?」


「一応」


「一応って、どれくらい?」


「昨日の夜に少し」


「それ、勉強したって言うのかな」


「湊は?」


「……同じくらい」


澪は小さく笑った。


電車の到着を知らせるアナウンスが流れる。


二人はホームへ向かった。


*


午前七時二十一分。


電車は定刻通りに到着した。


扉が開くと、車内から人が降り、その後に乗客が流れ込む。湊と澪は車両の端に立った。


窓の外には、地下の壁が続いている。


車内広告では新しく開業する商業施設の宣伝が流れ、天井近くのモニターには今日のニュースが表示されていた。


『中央区の再開発計画、来月より本格着工へ』


『昨夜、南区で発生した停電は復旧』


『週末の市内イベントに約十万人の来場見込み』


どれも、いつものニュースだった。


「週末、これ行く?」


澪がモニターを見ながら尋ねた。


「どれ?」


「中央区のイベント。屋台とか出るらしいよ」


「人多そう」


「多いと思う」


「じゃあ、やめる?」


「……湊が嫌なら」


「いや、行きたくないわけじゃないよ」


「じゃあ行こう」


澪はそう決めると、スマートフォンに予定を入力した。


電車が次の駅に停車する。


人が入れ替わり、車内の空気が少し変わった。誰かの香水の匂いと、濡れた傘の匂いが混ざる。


湊は何気なく路線図を見上げた。


現在地から学校の最寄り駅までは、あと四駅。


路線図には、見慣れた駅名が並んでいる。


中央区。東区。北区。


その先に、灰都の主要駅がいくつも続いていた。


湊は視線を戻した。


特に気になることはなかった。


*


学校での一日は、いつも通りに過ぎた。


数学の小テストは思っていたより難しく、湊は最後の問題を空欄のまま提出した。


昼休みには友人と週末の話をし、午後の授業では窓の外を眺めているうちに教師に名前を呼ばれた。


澪とは、休み時間に少し話した。


それだけだった。


放課後、二人は駅までの道を一緒に歩いた。


学校の周辺には、古い商店と新しいビルが混在している。小さな弁当屋の隣には大手企業のオフィスビルが建ち、その向かいには昔からある喫茶店が残っていた。


街は常に変わっていく。


新しい建物ができる一方で、長く営業していた店が突然閉まることもある。昨日まであった看板がなくなり、知らない名前の店が入っている。


灰都では珍しいことではなかった。


「そういえば」


澪が言った。


「昨日、変な夢を見た」


「どんな?」


「駅の夢」


「駅?」


「うん。知らない駅にいて、ずっと電車を待ってるの」


「電車は来た?」


「来なかった」


「それだけ?」


「それだけ」


澪は少し考えるように視線を上げた。


「でも、駅名がなかったんだよね」


「駅名?」


「看板が真っ白だった」


「変な夢だな」


「うん」


澪はそれ以上話さなかった。


湊も、特に気に留めなかった。


夢の内容など、翌日には忘れてしまうものだ。


*


午後六時十三分。


二人は中央区へ向かう地下鉄に乗っていた。


帰宅する人々で車内は混雑していたが、朝ほどではない。湊は吊り革につかまり、澪はその隣に立っていた。


車内のモニターには、次の停車駅が表示されている。


その下には、路線図が小さく映し出されていた。


湊は何気なく目を向けた。


見慣れた路線図だった。


中央区から北区へ向かう線。南区へ伸びる線。複数の路線が交わる大きな駅。


そして、その一番下。


路線図の端に、見覚えのない文字があった。


第零地下駅。


湊は瞬きをした。


文字は、確かにそこにあった。


灰色の線の先に、小さな白い丸。その横に、黒い文字で駅名が表示されている。


けれど、そんな駅を聞いたことがない。


「……何これ」


「どうしたの?」


澪がこちらを見た。


「いや、あれ」


湊はモニターを指さした。


「駅名。第零地下駅って」


澪は顔を上げた。


「どこ?」


「路線図の一番下」


澪は数秒ほど画面を見つめた。


「何もないよ」


「え?」


「普通の路線図だけど」


湊はもう一度モニターを見た。


そこには、いつも通りの路線図が表示されていた。


白い丸も、灰色の線も、見慣れた駅名もある。


しかし、第零地下駅という文字だけがなかった。


「……見間違いかな」


「疲れてるんじゃない?」


「かもな」


電車が駅に到着した。


扉が開き、人々が降りていく。


湊はもう一度だけモニターを見上げた。


何も変わっていなかった。


*


午後十一時四十七分。


湊はベッドに横になりながら、スマートフォンを操作していた。


週末のイベントについて調べていると、澪からメッセージが届いた。


『今日はありがとう』


『こちらこそ』


『おやすみ』


『おやすみ』


画面を閉じ、スマートフォンを枕元に置く。


部屋の明かりを消すと、窓の外の街明かりがカーテンの隙間から差し込んでいた。


遠くでは、まだ車が走っている。


灰都の夜は長い。


湊は目を閉じた。


その日のことを、もう一度思い出す。


数学の小テスト。放課後の会話。澪が見たという夢。


そして、地下鉄の路線図。


第零地下駅。


そんな名前の駅が、本当にあるのだろうか。


スマートフォンを手に取ろうとしたが、やめた。


明日、駅で確認すればいい。


そう考えて、湊は眠りについた。


その頃、灰都の地下では、最終電車がいくつもの駅を通過していた。


乗客のいない車両が、暗いトンネルを進んでいく。


車内の案内表示は、次の停車駅を示していた。


第零地下駅。


電車は速度を落とさなかった。


ホームの明かりも、駅名標も、そこにはなかった。


ただ、トンネルの壁だけが、途切れることなく続いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。