第一話 いつもと同じ
午前六時四十二分。
灰都の朝は、空が明るくなるよりも先に始まっていた。
窓の向こうには、いくつもの高層ビルが並んでいる。ガラス張りの外壁には朝焼けが薄く映り、遠くの建設現場からは金属を打ちつける音が聞こえていた。
道路にはすでに車が流れ、歩道を行き交う人々の姿も増え始めている。
この街では、朝と夜の境目が曖昧だった。
深夜まで営業している店があり、夜明け前から動き出す電車がある。眠らない街、と誰かが言っていた。けれど、実際に住んでいる人間にとって、それは特別なことでもなかった。
神谷湊は、枕元のスマートフォンを手に取った。
画面には六時四十二分と表示されている。
「……あと五分」
誰に聞かせるでもなく呟き、再び目を閉じる。
五分後、アラームが鳴った。
湊は今度こそ身体を起こした。寝癖のついた髪を手で押さえながら、カーテンを開ける。
見慣れた景色だった。
向かいのマンション。交差点。高架を走る電車。遠くに見える、街の中心部を覆うようなビル群。
そのどれもが、昨日と変わらずそこにあった。
洗面所で顔を洗い、制服に着替える。朝食を済ませ、鞄の中身を確認してから玄関を出た。
エレベーターは七階から一階まで、途中で三度止まった。
乗ってきたのは、スーツ姿の男性と、小さな子どもを連れた女性だった。男性は画面を見つめ、女性は子どもの手を握っている。
誰も話さない。
一階に着くと、湊は軽く会釈をして外へ出た。
空は薄い灰色だった。
*
最寄り駅までは歩いて八分ほど。
駅前の交差点には、すでに多くの人が集まっていた。信号が青に変わると、歩行者たちは一斉に動き出す。
その流れに混ざりながら、湊はスマートフォンを確認した。
メッセージが一件届いている。
『駅に着いたよ』
送り主は白石澪だった。
湊は短く返信する。
『今向かってる』
改札を抜け、地下へ続く階段を下りる。
灰都の地下鉄は複雑だ。路線は十数本あり、主要駅では複数の路線が交差している。地下街と駅がつながっている場所も多く、慣れていない人間は地上に出るだけでも迷うことがある。
それでも、ここで暮らす人々は迷わない。
彼らは案内板を見ることもなく、決まった方向へ歩いていく。
「湊」
改札近くの柱のそばで、澪が手を上げた。
「おはよう」
「おはよう。早いね」
「いつもこのくらいだよ」
澪はそう言って、手に持っていた小さな紙袋を差し出した。
「これ、昨日言ってたやつ」
「ああ、ありがとう」
「忘れそうだったから」
「俺が?」
「うん」
湊は紙袋を受け取った。中には、昨日話していた文房具が入っていた。
二人は幼い頃から同じ街で過ごしてきた。家も近く、通っている学校も同じ。気づけば一緒にいることが当たり前になっていた。
付き合い始めたのは、ほんの少し前のことだ。
それまでと何かが大きく変わったわけではない。
ただ、隣を歩く距離が少し近くなったり、目が合ったときに以前より意識したりする。そんな小さな変化が、二人の間に残っていた。
「今日、数学の小テストだっけ」
「そう」
「勉強した?」
「一応」
「一応って、どれくらい?」
「昨日の夜に少し」
「それ、勉強したって言うのかな」
「湊は?」
「……同じくらい」
澪は小さく笑った。
電車の到着を知らせるアナウンスが流れる。
二人はホームへ向かった。
*
午前七時二十一分。
電車は定刻通りに到着した。
扉が開くと、車内から人が降り、その後に乗客が流れ込む。湊と澪は車両の端に立った。
窓の外には、地下の壁が続いている。
車内広告では新しく開業する商業施設の宣伝が流れ、天井近くのモニターには今日のニュースが表示されていた。
『中央区の再開発計画、来月より本格着工へ』
『昨夜、南区で発生した停電は復旧』
『週末の市内イベントに約十万人の来場見込み』
どれも、いつものニュースだった。
「週末、これ行く?」
澪がモニターを見ながら尋ねた。
「どれ?」
「中央区のイベント。屋台とか出るらしいよ」
「人多そう」
「多いと思う」
「じゃあ、やめる?」
「……湊が嫌なら」
「いや、行きたくないわけじゃないよ」
「じゃあ行こう」
澪はそう決めると、スマートフォンに予定を入力した。
電車が次の駅に停車する。
人が入れ替わり、車内の空気が少し変わった。誰かの香水の匂いと、濡れた傘の匂いが混ざる。
湊は何気なく路線図を見上げた。
現在地から学校の最寄り駅までは、あと四駅。
路線図には、見慣れた駅名が並んでいる。
中央区。東区。北区。
その先に、灰都の主要駅がいくつも続いていた。
湊は視線を戻した。
特に気になることはなかった。
*
学校での一日は、いつも通りに過ぎた。
数学の小テストは思っていたより難しく、湊は最後の問題を空欄のまま提出した。
昼休みには友人と週末の話をし、午後の授業では窓の外を眺めているうちに教師に名前を呼ばれた。
澪とは、休み時間に少し話した。
それだけだった。
放課後、二人は駅までの道を一緒に歩いた。
学校の周辺には、古い商店と新しいビルが混在している。小さな弁当屋の隣には大手企業のオフィスビルが建ち、その向かいには昔からある喫茶店が残っていた。
街は常に変わっていく。
新しい建物ができる一方で、長く営業していた店が突然閉まることもある。昨日まであった看板がなくなり、知らない名前の店が入っている。
灰都では珍しいことではなかった。
「そういえば」
澪が言った。
「昨日、変な夢を見た」
「どんな?」
「駅の夢」
「駅?」
「うん。知らない駅にいて、ずっと電車を待ってるの」
「電車は来た?」
「来なかった」
「それだけ?」
「それだけ」
澪は少し考えるように視線を上げた。
「でも、駅名がなかったんだよね」
「駅名?」
「看板が真っ白だった」
「変な夢だな」
「うん」
澪はそれ以上話さなかった。
湊も、特に気に留めなかった。
夢の内容など、翌日には忘れてしまうものだ。
*
午後六時十三分。
二人は中央区へ向かう地下鉄に乗っていた。
帰宅する人々で車内は混雑していたが、朝ほどではない。湊は吊り革につかまり、澪はその隣に立っていた。
車内のモニターには、次の停車駅が表示されている。
その下には、路線図が小さく映し出されていた。
湊は何気なく目を向けた。
見慣れた路線図だった。
中央区から北区へ向かう線。南区へ伸びる線。複数の路線が交わる大きな駅。
そして、その一番下。
路線図の端に、見覚えのない文字があった。
第零地下駅。
湊は瞬きをした。
文字は、確かにそこにあった。
灰色の線の先に、小さな白い丸。その横に、黒い文字で駅名が表示されている。
けれど、そんな駅を聞いたことがない。
「……何これ」
「どうしたの?」
澪がこちらを見た。
「いや、あれ」
湊はモニターを指さした。
「駅名。第零地下駅って」
澪は顔を上げた。
「どこ?」
「路線図の一番下」
澪は数秒ほど画面を見つめた。
「何もないよ」
「え?」
「普通の路線図だけど」
湊はもう一度モニターを見た。
そこには、いつも通りの路線図が表示されていた。
白い丸も、灰色の線も、見慣れた駅名もある。
しかし、第零地下駅という文字だけがなかった。
「……見間違いかな」
「疲れてるんじゃない?」
「かもな」
電車が駅に到着した。
扉が開き、人々が降りていく。
湊はもう一度だけモニターを見上げた。
何も変わっていなかった。
*
午後十一時四十七分。
湊はベッドに横になりながら、スマートフォンを操作していた。
週末のイベントについて調べていると、澪からメッセージが届いた。
『今日はありがとう』
『こちらこそ』
『おやすみ』
『おやすみ』
画面を閉じ、スマートフォンを枕元に置く。
部屋の明かりを消すと、窓の外の街明かりがカーテンの隙間から差し込んでいた。
遠くでは、まだ車が走っている。
灰都の夜は長い。
湊は目を閉じた。
その日のことを、もう一度思い出す。
数学の小テスト。放課後の会話。澪が見たという夢。
そして、地下鉄の路線図。
第零地下駅。
そんな名前の駅が、本当にあるのだろうか。
スマートフォンを手に取ろうとしたが、やめた。
明日、駅で確認すればいい。
そう考えて、湊は眠りについた。
その頃、灰都の地下では、最終電車がいくつもの駅を通過していた。
乗客のいない車両が、暗いトンネルを進んでいく。
車内の案内表示は、次の停車駅を示していた。
第零地下駅。
電車は速度を落とさなかった。
ホームの明かりも、駅名標も、そこにはなかった。
ただ、トンネルの壁だけが、途切れることなく続いていた。




