第六話 誰も知らない朝
十一月五日。
午前六時五十八分。
湊は、スマートフォンの画面を見つめていた。
昨夜、午前零時十三分に届いた写真。
地下鉄のホーム。
第零地下駅。
そして、撮影場所には自宅の住所。
何度見直しても、写真は変わらない。
湊は画像を保存し、澪に送った。
『これ、まだある?』
すぐに既読がついた。
『あるよ』
『撮影場所は?』
『私の家になってる』
湊は画面を見た。
澪の家と、自分の家。
離れた場所にある二つの住所が、同じ写真の撮影場所として記録されている。
『今日、会える?』
『うん』
それだけ返信して、湊は起き上がった。
午前八時二十分。
学校へ向かう電車は、いつもより混雑していた。
湊はドアの横に立ち、窓の外を眺めていた。
高架線の向こうに、灰都のビル群が流れていく。
昨日までと変わらない景色。
ただ、ある建物の屋上に目が止まった。
白いものが置かれている。
洗濯物かと思った。
しかし、建物が近づくにつれて、それが靴だとわかった。
一足だけではない。
屋上の端から端まで、白い靴が並んでいた。
すべて、つま先がこちらを向いている。
電車が通り過ぎる。
湊は振り返って、もう一度見ようとした。
屋上には何もなかった。
隣に立っていた男性が、新聞を畳んだ。
「次、中央駅だな」
独り言のようだった。
湊は返事をしなかった。
午前九時。
教室に入ると、澪が席に座っていた。
「おはよう」
「おはよう」
澪はスマートフォンを机の上に置いた。
「昨日の写真、見てた?」
「うん」
「私、ちょっと調べたんだけど」
澪は画面を見せた。
写真の詳細情報だった。
撮影時刻は午前零時十三分。
位置情報は澪の家。
湊の写真も同じだった。
「私の写真も、湊の家の住所になってる」
「どういうことだろうな」
「位置情報がおかしいだけなら、まだわかるけど」
澪は画面を閉じた。
「写真そのものは、二人とも同じものなの」
湊は自分のスマートフォンを取り出した。
二つの画面を並べる。
ホームの写真。
駅名標。
暗い線路。
細部まで同じだった。
ただ一つ、違うものがあった。
湊の写真には、ホームの端に小さな時計が写っている。
澪の写真には、時計がない。
「ここ」
湊が指を差した。
「時計?」
「そう」
澪は写真を拡大した。
しばらく見つめてから、顔を上げた。
「私の写真にもある」
「え?」
「最初はなかったのに」
湊は自分の画面を見た。
時計の針は、午前零時十三分を指していた。
昼休み。
湊は友人と食堂にいた。
いつもと同じ騒がしさ。
テーブルを囲む生徒たち。
注文を呼ぶ声。
食器の音。
友人が、スマートフォンを見ながら言った。
「そういえば、昨日さ。変な夢見たんだよ」
「どんな?」
「地下鉄の夢。駅に着いたら、ホームに誰もいなくてさ」
湊は箸を止めた。
「駅名は?」
「覚えてない」
友人は笑った。
「なんか、駅名がなかったんだよな」
湊は友人の顔を見た。
「それ、いつ見た?」
「昨日の夜」
「何時くらい?」
「知らねえよ。寝てたし」
友人はスマートフォンに視線を戻した。
「まあ、夢だしな」
それ以上、話は続かなかった。
湊は食事を続けた。
友人は何も覚えていないようだった。
だが、湊には気になっていることがあった。
友人は、地下鉄に乗る夢を見たと言った。
そして、駅名がなかったとも言った。
その二つだけを、何の違和感もなく話していた。
午後四時二十分。
放課後、湊と澪は中央駅へ向かった。
目的は、地下連絡通路だった。
昨日見つけた階段。
写真の中にだけ存在した扉。
二人は、もう一度確認することにした。
「今日は写真を撮るだけにしよう」
澪が言った。
「わかった」
地下街は、夕方の買い物客で混雑していた。
店の前には人が並び、通路を歩く人々は足早に行き交っている。
階段の場所に着く。
そこには、何もなかった。
壁があるだけだった。
「……ないね」
「ああ」
昨日、確かにあった。
階段も、照明も、下へ続く通路も。
写真には残っている。
しかし、現実にはない。
湊は壁に近づいた。
そこには、古い掲示板が取り付けられていた。
地域の案内。
工事のお知らせ。
イベントのポスター。
その中に、一枚だけ紙が貼られている。
灰都地下連絡通路。
昨日、旧市街で見たものと同じ案内だった。
湊は紙を見た。
その下には、小さく地図が印刷されている。
地図には、地下通路の入口が示されていた。
場所は、今いる場所だった。
「ここに入口があるってこと?」
澪が尋ねた。
「そう書いてある」
「でも、何もない」
湊は紙を剥がそうとした。
そのとき、後ろから声がした。
「それ、剥がさない方がいいですよ」
振り返ると、年配の女性が立っていた。
「どうしてですか?」
湊が尋ねる。
女性は掲示板を見た。
「昔から貼ってあるものですから」
「この通路、使えるんですか?」
「もちろん」
女性は微笑んだ。
「皆さん、毎日使っていますよ」
そう言って、女性は通路を歩いていった。
その背中は、人混みの中に消えた。
澪が掲示板を見つめている。
「毎日って……」
「わからない」
二人は、しばらくその場に立っていた。
午後五時三分。
駅の改札前。
人の流れが途切れない。
湊は掲示板の地図を撮影していた。
そのとき、澪が小さく言った。
「ねえ」
「何?」
「向こう」
澪の視線の先に、エスカレーターがあった。
そこを、一人の男が上っていく。
黒いコート。
短い髪。
片手に鞄を持っている。
どこにでもいる会社員に見えた。
ただ、湊はその男を見たことがあった。
昨日の写真。
地下連絡通路の奥に立っていた、白いコートの人物。
その人物と、同じ立ち方だった。
男はエスカレーターを上りきる。
改札の前で立ち止まった。
そして、こちらを向いた。
顔は見えない。
距離があるからではない。
顔の位置だけが、周囲の景色と同じ色になっていた。
湊は目を逸らした。
「澪」
「見えてる」
澪も同じ方向を見ていた。
男は改札を通らなかった。
そのまま、改札の前に立っている。
通勤客が男の横を通り過ぎる。
誰も避けない。
誰も振り返らない。
男の体を通り抜けるように、人々が歩いていく。
湊は、もう一度男を見た。
男は消えていた。
改札の前には、いつもの人の流れがあるだけだった。
午後六時四十分。
二人は駅を出た。
澪はずっと黙っていた。
「大丈夫?」
湊が尋ねる。
「うん」
「無理しなくていい」
「大丈夫。もう少しだけ調べたい」
澪はそう言って、スマートフォンを取り出した。
「今日の写真、送るね」
湊のスマートフォンが震える。
画像を開く。
改札前の写真だった。
男は写っていない。
ただ、改札の上にある案内表示に、見覚えのない文字があった。
湊は拡大した。
そこには、こう書かれていた。
**本日の最終列車は、すでに到着しております。**
湊は時刻を確認した。
午後六時四十分。
最終列車には早すぎる。
それに、案内表示は普通の運行情報を表示していたはずだった。
「澪」
「うん」
「これ、見て」
澪は画面を覗き込んだ。
しばらくして、首を傾げる。
「私の写真にはないよ」
湊は自分の画面を見た。
文字は残っている。
澪の写真には、何もない。
二人は同じ場所で、同じものを撮影した。
それなのに、写真の内容が違う。
湊は画像を保存した。
午後七時五十分。
自宅に戻った湊は、机の上にスマートフォンを置いた。
今日の写真を整理する。
地下連絡通路の案内。
改札前。
男の姿が消えた場所。
どの写真にも、何かが写っている。
ただ、それが何を意味するのかはわからない。
澪からメッセージが届いた。
『今日のこと、もう少し考えたい』
『俺も』
『明日、また会える?』
『うん』
そのあと、澪からもう一通届いた。
『ねえ、湊』
『何?』
『今日、駅で男の人を見たとき』
『うん』
『私、あの人の顔を見た気がする』
湊は画面を見つめた。
『どんな顔?』
既読がつく。
少し時間が空いた。
『湊だった』
湊は返信を打たなかった。
もう一度、メッセージを読む。
湊だった。
あの男の顔が、自分と同じだった。
湊は、今日撮影した写真を開いた。
改札前の写真。
男は写っていない。
だが、写真の右端に、ガラスの柱が映っていた。
その表面に、駅の風景が反射している。
人々。
改札。
案内表示。
そして、柱の反射の中に、一人だけ立っている人物がいた。
湊だった。
写真を撮ったとき、湊は柱の前にいなかった。
その人物は、カメラの方を向いていた。
顔は見えない。
ただ、手に持っているものだけは、はっきり写っていた。
スマートフォン。
その画面には、今、湊が見ている写真が表示されていた。
午後十一時五十八分。
湊はスマートフォンを伏せた。
部屋の明かりを消す。
窓の外には、いつもの灰都が広がっている。
道路を走る車。
高層ビルの明かり。
遠くの駅を出る列車。
すべてが、いつもどおりだった。
湊は布団に入った。
目を閉じる。
しばらくして、眠りに落ちた。
午前零時十三分。
灰都の地下深く。
ホームに列車が停車していた。
車内には、誰もいない。
ホームにも、誰もいない。
駅名標には、何も書かれていなかった。
ただ、ホームの壁に設置された時計だけが動いていた。
午前零時十三分。
その針が、一周した。
列車のドアが開いた。
誰も乗らなかった。
誰も降りなかった。
それでも、列車は発車した。
ホームの端に、二人分の影が残っていた。
影は、列車が見えなくなってからも動かなかった。




