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時層剥離 ── The Detachers ──  作者: 高槻全壱
CHAPTER 2 [ In Remains ]
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3

【極秘アーカイブ:クロイゾネキューブ解析報告書(要約)】


【1.概要と出土状況】


 惑星開拓基地〈ゴルド〉の地下約1,200メートル(第4掘進区)から幾何学的物体、通称「クロイゾネキューブ(七宝立方体)」が出土した。現段階において、その内部構造、構成材質、および外部に施された幾何学的意匠の文字コードは一切が不明である。なお、当該位置から南東方向には、同一の紋様が描かれた「古代船」と思われる物体も確認されており、現在発掘チームによる調査が進行している。


【2.年代測定および地質学的考察】


 キューブ表面を採取し、超高精度放射性炭素年代測定および量子スピン共鳴分析に掛けた結果、生成年代は約2万〜3万年前と算出された。これは出土した固有地層(後期ギレイン統)の堆積年代と完全に一致しており、本物体が人類入植より遥か昔から眠り続けていた「先住の遺物」であることは疑いようがない。しかし、この惑星上に知的生命体は確認されていない。


【3.生体反応および精神医学的測定】


 脳波計『バルムンシステム』を用いた電磁場パルス測定により、キューブの中心核から人間の深睡眠時に近い生体波形(不規則なδ波およびθ波)が明確に観測された。さらに、人間の音声質問や精神量子パルスに対して放射波形が激しく変調・反応を示したことから、本物体が単なる無機物ではなく、何らかの思考・代謝能力を有する「生命体の痕跡」であるという仮説が成立した。


【4.スーパーコンピューター〈ガイ〉による演算結果】


 全測定データを基にスパコン〈ガイ〉が包括的予測計算を行った結果、『当該七宝体は、超古代宇宙を支配し、後に滅亡した集団精神生命体ハイブマインド──群体統一意思の中核記憶化石、あるいは端末の一部である』という結論が出力された。

 この予測を受け入れることで、物体の質量増減、未知の超合金材質、反重力による静止・浮遊メカニズム、半永久的な内部動力の源泉など、現代科学を無視した怪現象のすべてに完璧な説明がつく。


【5.懸念および結論】


 超高度文明の支配者たる【ハイブマインド】の心臓が、なぜ辺境惑星ギレインの地下に埋まっていたのかは未だ狂気的な謎である。しかし、近年惑星全域で観測されている致死性の瘴気「マイアスマ」の異常な濃度上昇は、このキューブの「目覚め」に起因している可能性が極めて高い。

 地下最深部ではキューブと酷似した構造を持つ超古代の遺跡群も新たに発見されており、事態は一刻を争う。至急、本国中央政府および軍最高科学評議会での緊急検証を要請する。


──惑星ギレイン開拓基地〈ゴルド〉中央研究所

 最高研究責任者:スピリドン・ペトロフ   


 ***


 ギレイン開拓基地〈ゴルド〉の中央研究所は、剥き出しの自然科学に対する人類の最前線基地だった。生物多様性の調査、原生植物の遺伝子スクリーニング、未知のレアメタル鉱物の物性実験──各フロアは厳格なバイオセーフティレベルによって区分され、昼夜を問わず無機質な電子音と研究員たちの議論の声が飛び交っていた。


 サーシャの父親であるスピリドン・ペトロフ博士は、その中でも最深部に位置する「レベル5」の最高研究責任者として、特別選抜されたエリートチームを率いていた。彼らに与えられた絶対極秘の任務こそが、2年前に採掘場から偶然掘り起こされたあの物体──『クロイゾネキューブ』の解明だった。


 立方体でありながら、その表面には滑らかな円形や楕円の溝が幾重にも重なり合い、見る角度によって色彩を変える複雑極まる幾何学的構造物。それは超現代的な美術品のようでもあり、同時に冷徹な未知のテクノロジーの塊でもあった。


 研究が開始されてから、惑星時間で約2年。ゴルドの日常がいつも通りに摩耗していく中で、その「特異点」は唐突に訪れた。

 ちょうど、サーシャとヨハンが大人たちの目を盗み、小さなダートバギーポッドを盗み出して壁外の未踏森へと生物調査に出かけた、まさにその日の午後。レベル5の主実験室において、キューブに対する高エネルギー反物質照射実験を行っている最中のことだった。


 電子障壁の向こうで、浮遊するキューブへ向けて高密度粒子ビームが放たれた瞬間、室内の照明が一斉にどす黒い赤へと変色した。すべての計測コンソールが過負荷による警告音を鳴らし、スーパーコンピューター〈ガイ〉の音声がノイズで激しく歪む。

 その直後、実験室にいた全員の脳髄へ、直接冷たいピンを突き刺すような、悍ましい音波が叩き込まれた。


〈ドキサステ ラトリュエテ ケ フォヴァステ〉


「な、何だ!? いま、脳の中にノイズが……! テレパスコンタクトが検知されたぞ!」


 一般研究員たちが頭を抱え、鼻から鮮血を流しながらコンソールの上に崩れ落ちた。


「私にだけ……あの声が聞こえたのか……?」


 スピリドンは、自身の両眼が急速に充満していく異常な熱量に灼かれながら、狂ったように自転を始めたキューブを凝視していた。彼の意識は、その一瞬で未知の領域からの濁流に飲み込まれ、境界線を失いつつあった。

 そしてその直後、開拓基地〈ゴルド〉の全域が、前触れのない致命的な襲撃に晒された。


「なんだアレは……! 警報を鳴らせ!」


「空を見ろ! 空から何かが来るぞ!」


 外の居住区にいた人々が、空を埋め尽くした不気味な羽音に気づき、逃げ惑う時間は、文字通りほんの僅かの間しか残されていなかった。


 濁った瘴気の霧を割って、上空から弾丸のように飛来したのは、人間の頭部ほどの大きさを持つ、黄色い斑点模様に彩られた醜悪な半透明の飛行生物──プレデターの群れだった。

 奴らは逃げ惑う人間の背後から、あるいは正面から、その超人的な飛行速度のまま頭部を目掛けて正確に突っ込んだ。


「ギャアアアアッ! 離せ、頭から離れ──」


 悲鳴は一瞬で、肉を削ぐ濡れた音にかき消される。

 奴らは人間の頭頂部へと吸い付くように張り付き、ポジションを完全に固定。次の瞬間、虫の腹部から伸びたディスクグラインダー状の骨刃が、狂ったように回転しながら頭蓋骨を滑らかに円形に切り抜いていく。


 プシュー、と生々しい音がして、切り抜かれた骨の隙間から大量の強酸性消化液が頭蓋内へと直接押し込まれた。犠牲者の脳髄は生きたまま融解され、縮んでいく。空いた脳窩のスペースへ滑り込むようにして、虫は自らの神経束を宿主の中枢神経系へと容赦なく伸ばし、脳そのものとしてプラグインしていくのだ。


 あまりの超速度で行われるそのプロセスゆえに、犠牲者が自らの脳が融解する凄まじい痛みを感じた時には、もう全てが手遅れだった。その激痛のシグナルすらも虫の神経網にハッキングされ、悲鳴をあげることすら許されない。次の瞬間には、奴らはその人間の声帯、その人間の筋肉を完全に制御し、生前と変わらぬ足取りでその人に成り替わるのだ。


 人体の完全な支配権の強奪。

 頭部と身体を切り離され、虫と肉体が融合した新生物の軍勢は、次々に屋内の居住区やオフィスへと侵入を開始した。彼らは、まだ変異していない血生臭い生身の人間──かつての同僚、友人、家族──を冷酷な力で捕らえると、全く同じ寄生工程を瞬時に実行し、幾何級数的に仲間を増やしていった。ゴルドはわずか数時間で、生きた屍たちの巣窟へと変貌したのだ。


 その頃、最深部のラボで『クロイゾネキューブ』の間近にいたスピリドン博士だけは、なぜか虫たちの襲撃対象から外されていた。しかし、キューブから放射される桁外れの精神干渉波をダイレクトに浴び続けた彼の脳は、すでに回復不能なまでの錯乱状態に陥っていた。


「ふひ、ふひひひひひひ! ああ、素晴らしい! 神の領域に足を踏み入れた我々に対する、これは大いなる罰だよ、

福音だよ!」


 スピリドンは、ガラス障壁の向こうで自らの最優秀な部下たちが虫に頭部を貪られ、蹂躙され、生きた人形へと変えられていく凄惨な光景を、キューブの傍らで狂ったように笑いながら、ただ恍惚と見守っていた。彼の理性は、その瞬間に完全に崩壊した。


 ***


「パパがいる研究室は……この通路の先、あの重層セキュリティの向こうあたりよ」


 サーシャの微かに震える声が、ヘンリーの左眼のインプラントが拾う微弱なノイズに混ざった。

 メディカルセンターから中枢部への道すがら、俺の推測──街全体の異様な風化と時間のネジレ──を裏付けるように、研究所の内部も、どこもかしこも何十年も放置された廃墟のように荒れ果てていた。ここまでのセキュリティも全く無いに等しかった。ズタズタに引き裂かれた鋼鉄製の警備用ボット、壁のプラスチックパネルは黄色く変色してひび割れ、床には皺くちゃの書類や、かつて人間だったモノが着ていたと思われる衣服の繊維が、分厚い埃となって積もっている。

 サーシャの胸に、一抹の、いや、耐え難いほどの巨大な不安が過る。ついさっき別れたはずのパパが、この時間の墓場のような場所で、一体どうなっているのか。


「ここにまだ、あの寄生生物どもの残党が潜んでいるかもしれない。サーシャ、絶対に俺の背中から離れるな。気を抜くなよ」


 周囲の暗がりに左眼の視線を走らせる。空気中に漂う不快なマイアスマの臭気。だが、それ以上にこのフロアの最奥から、不気味な熱源と、微弱な空間の歪みが感知されていた。

 二人がレベル5の主実験室の自動ドアをこじ開けた瞬間、その視界に異常な光景が飛び込んできた。


 部屋の中央、かつて反物質照射装置が据え付けられていたはずのステージの上で、幾何学的な物体──『クロイゾネキューブ』が、物理法則を無視して宙に浮き上がっていた。それは周囲の埃まみれの廃墟とは一線を画す、恐ろしいほどの精密さを保ったまま、淡く、しかし禍々しい光を帯びてゆっくりと自転している。


「神が降臨された神が降臨された神が降臨された神が降臨された神が降臨された神が降臨された──」


 部屋の隅、ひっくり返ったスチールデスクの影から、壊れた蓄音機のように同じフレーズを高速で唱え続ける、掠れた悪魔のような声が聞こえた。


「ウヒ、ウヒヒヒヒヒヒ……!」


 気が触れて、自身の譫言の海におぼれている哀れな老人。


「パパ……?」


 サーシャが息を呑み、ショックウェーバーを握る手が激しく震えた。

 そこにいたのは、サーシャの記憶にある、知的で優しかったスピリドン博士の姿ではなかった。


 極限の恐怖と精神支配の中で頭を掻きむしり続けたのだろう。髪は頭皮部分から7割ほどが血塗れで剥がれ落ち、露出した皮膚は乾燥した蛇のようにひび割れている。極度に肉が落ち、骨の形が浮き出た顔、深く落ち込んだ眼窩、シミだらけの震える両手。その見た目は、どう見ても100歳は超えているであろう死の間際にある老人のそれだった。TDEの時空歪曲の渦に巻き込まれ、この部屋の中で気の遠くなるような孤独な時間を過ごした結果なのか、あるいはキューブによる精神汚染の副反応なのか。とても10代のサーシャの父親には見えなかった。


「生きて……いたんだな……」


 思わず低く呟いた。生物学的な死の一歩手前で、かろうじて肉体を維持しているその執念に戦慄すら覚える。サーシャはあまりの悲惨な父親の変貌ぶりに、涙すら枯れ果てたように言葉を失っていた。


「おい! 起きろ! あんたの娘──サーシャはここに生きて戻ってきたんだぞ! 正気に戻れ、博士!」


 ヘンリーは金属の脚を進め、老人の胸ぐらを掴んで強引に引き起こすと、その乾燥した頬を二、三発、鋭く打った。パチン、という乾いた音が静寂に響く。

 その衝撃で、老人の濁りきっていた瞳に、微かな、しかし確かな知性の光がパチパチと明滅した。ゆっくりと首を回し、サーシャの顔を見つめる。


「サーシャ……サーシャなのか……? 生きていたのか。お前は……あの頃のまま、まだそんなに若いままだな……」


 嗄れた、今にも消え入りそうな声が博士の喉から漏れる。


「パパ! パパ! 私よ、サーシャよ! ママが、家でママが……!」


「ああ……ヴァルヴァラかね。彼女はも来ているのか……」


「違うの! パパ、ママは……あの黄色い虫に頭を乗っ取られて、バケモノになっちゃったの!」


 感情の堤防が決壊したサーシャは、老いさらばえた博士の痩せ細った胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくっ

た。衣服についた乾いた血の匂いと、老人の放つ死臭が混ざり合う。

 俺は周囲の警戒を怠らないまま、冷静に問いかけた。


「感動の再会を邪魔して悪いが、博士。誰もここで起こっている決定的な惨劇を説明できないんだ。この開拓基地ゴルドに一体何が起こったのか、あんたが知っていることをすべて吐き出してくれ」


 スピリドンは、サーシャの頭を震える手で撫でながら、虚空を見つめて語り始めた。


「寄生生物による……不可避のバイオハザードだ。生物多様性、進化の歴史における宿命ではあるがね……ここまで効率的かつ極端な生態を持つ生命体は、人類の観測史上かつて存在しなかったであろう。だが、種族の侵略、そして生存圏の支配という観点から見れば、生物学上不自然な点は一つもないのだよ。ただ単に……我々人類よりも圧倒的に強い、高位の種たる生物が、この星を支配したという単純な事実に過ぎん」


 博士の目が、徐々に狂気の熱を帯びてギラつき始める。


「そして、その大いなるクロイゾネの威光が、このキューブを通して全宇宙へと伝播しているのだよ。彼は、いや、あのお方は……この広大な宇宙の中で、私にだけその大いなる御声を語りかけて下さったのだ! 偉大なる神よ、宇宙の真なる支配者よ!」


「パパ、何を言っているの……? やめて、お願いだから……」


 サーシャが怯えて身を引く。


「……すまないが博士、後半の神がどうとかいう話は完全に意味不明だ。俺たち兵士にもわかるように物理的な言語で話してくれ」


 アームの擬似神経をいつでも戦闘変形できるよう緊張させる。


「わからないかね!? そこにいらっしゃるだろう! ああ……私をお救い頂いて、大いなる知恵を授けていただき、本当にありがとうございます、ミューニュー様!!」


 博士が狂信者のように床に両手をつき、中央に浮かぶキューブに向かって深々と頭を垂れ、恭しく奉った。

 その瞬間、あたかも老人の妄執に呼応するかのように、中央のクロイゾネキューブが金属的な高周波を立てて激しく回転を始めた。


「……これが神か。想像していたよりも随分と小ぶりだな」


 戦闘モードに切り替えを行うためにシグナルを両腕に送った、その刹那だった。

 実験室の全空間の分子が、キィィィンという鼓膜を破壊するような不気味な合成声帯の振動音で満たされた。

 

〈アス ソスーン タ アステリア イ ソティリア プリシアジ〉


「ぐああああああッ!?」


 ヘンリーの脳に、レイグのニューロリンクを力任せに引き千切るような激痛が走った。

 それと同時に、目に見える現実[#「現実」に傍点]が崩壊を始めた。

 部屋の輪郭、超硬質スチールの壁、そして俺とサーシャの肉体が、顔の中心から外側にかけて、まるで目に見えない巨大なアリ地獄に吸い込まれるように、時空ごとグニャリと捩れて歪み、変形し始めたのだ。


「おい! 大丈夫か、サーシャ!?」


「何かがおかしいわ! 体が、感覚が──!」


「ぐぅぅぅぅ……、あ、頭が割れる……!」


「私たち、歪んでいる……! 視界が、真っ直ぐ見えない!」


「空間そのものが……歪曲しているんだ……っ!」


 叫び声すらも、歪んだ時空の中で引き伸ばされ、低く不気味な残響へと変わる。ピカソの立体主義の絵画や、カンディンスキーの抽象画のように、遠近感も解剖学的な構造も完全に無視され、ぐるぐると大きく渦巻いているお互いの顔や身体が、背景の壁やコントロールパネルの色彩とドロドロに溶け合い、境界線を失っていく。自己のゲシュタルト(存在)が、世界というキャンバスに無理やり塗り潰されていくような根源的な恐怖。

 その時、左眼が網膜の裏側でカチッ、と物理的なリレー音を立てて最大出力で共鳴を開始した。

 視界を覆うサイケデリックな歪みのノイズの向こうから、あの懐かしい声が、脳の最深部で弾ける。


『──効かな──いわ、こん─な小─細工』


 確かに、カサンドラの声だった。

 瞬間、左眼で眠るお姫様のディバイブが、その漆黒の触手の波動を内側から爆発させた。キューブの放つ位相幾何学的な干渉力を完全に反転させ中和する。ガラスが割れて再生するように、歪んでいた視界と二人の肉体が、一瞬にして元の三次元の形状へと弾け戻った。


「はぁ、はぁ、はぁっ……! 今のは……!」


 俺は膝をつき、金属の手で床を叩いた。生身の心臓が早鐘を打って爆発寸前だ。


「死ぬとかじゃなくて…なんかこう解けていく[#「解けていく」に傍点]っていう感覚だったわ……」


 しかし、元の形に戻れなかった者が一人いた。


「ああ……! なんてことを! なんて不埒なことをしてくれるのだ! もう少しで……もう少しで私は、神と一つに、高次元の存在になれたというのに!!」


 スピリドン博士が完全に理性を失った獣のような形相で言い終わると、俺に向かって突進を始めた。その痩せ細った体で干からびた拳を狂ったように打ちつけてきた。


「パパ! やめて! ヘンリーは私たちを助けてくれたのよ!」


 サーシャが必死に間に割って入ろうとするが、老人とは思えぬ狂気の力で乱暴に振り解かれる。


「邪魔をするなァァァ!」


 老人の指先がサーシャの顔をかすめる。


「キャァ!やめてぇ!」


 半狂乱に陥った生物を鎮める方法はただ一つしかない。


「下がれ、サーシャ!」


 右アームの先端から、一瞬だけ青白い高圧電流を放電させた。バチィッ!という鋭いスパークが博士の顔面に直撃する。


「がはっ……!」


 博士は白目を剥き、全身を激しく痙攣させながら、そのまま後ろの床へと倒れ込んだ。意識を失ったものの、かろうじて胸は上下している。


「サーシャ、すまない。こうするしかなかった」


「……いいの。わかってる。パパ、私がついてるからね……」


 サーシャは涙を拭い、倒れた父親の頭を優しく膝に抱え、その硬くなった手を握りしめた。

 だが、部屋の中央にあるクロイゾネキューブの煌めきは、カサンドラの抵抗をあざ笑うかのように、さらにその輝きを増していった。冷徹な、スーパーノヴァを想起させるような眩さ。


〈何故、下等生物の精神に支配が及ばない。その左眼だな……何を隠している〉

 

「……スピリットディバイナー達に守護してもらっている以外隠してることはないさ。ところでお前はその高尚なキューブの中に引き篭もってギターの練習でもしているのか?」


 言い終わると同時に、超人的なフットワークで踏み込み、左腕を鋭利なアームブレードへと変形させ、浮遊するキューブの質量中心目掛けて一閃した。金属の足が床を削り、火花を散らす。


 キィィィィィン!!


 手応えは、最悪だった。まるで鋼鉄の超高強度装甲に向かって、焼き立ての柔らかいアップルパイを全力で投げつけたかのような、完全な無抵抗のままエネルギーが霧散し、身体の方が凄まじい衝撃波で後方へと弾き返された。

 傷ひとつ、ついてない凄まじい硬度。


〈降伏せよ。光を与える寓話の実現は使徒の目的そのもの〉


 キューブの言葉と並行して、部屋の全方位から淡いレインボーカラーで構成された、神聖でありながら吐き気を催すほど禍々しい後光状の閃光が爆発的に照射され、主実験室のすべてを光の海で埋め尽くした。


 その光の中心、事象の地平線の向こう側に、何らかの巨大な神仏、あるいは千手観音を思わせる無数の触手を持つ超次元のシルエットが、渦を巻くようにして厳かに浮かび上がった。


「サーシャ……おい、サーシャ! お前にも、アレが見えているか……?」


 全身のナノマシンが死の恐怖で激しくエラーログを吐き出すのを感じながら叫んだ。


「ええ……何よこれ……嘘でしょう、神様なんて……!」


 先ほどとは比較にならない規模の、圧倒的な時空崩壊現象が巻き起こる。

 所々で完全に切断・分離した三次元空間のパーツが、それぞれ独自のベクトルで勝手に動き始め、エッシャーの錯視画を遠近感覚と重力方向を完全に無視して脳内に直接投影されているような、凄まじい精神的負荷が二人のニューロンを焼きにかかる。


〈旅立つのだ。イベントホライゾンの彼方、全ての個が融解するニルヴァーナへと到達する〉

 

「さっきから……抽象的な妄言ばかり……ほざきやがって……っ!」


 ヘンリーはブレードを構えて一歩前に出ようとするが、目に見えない絶対的な反重力場に阻まれ、近づくことすら叶わない。


「ねぇ、ヘンリー! 私たちの身体が……伸びているわ……!」


 焦り切ったサーシャの悲鳴が、渦巻く光の中に吸い込まれていく。

 見ると、彼女の右腕も、レイグのメタリックな四肢も、まるで熱した飴細工のように、あるいは一本一本の細い有機体の糸のように紐解かれ、うぞうぞと蠢きながら宙に向かって引き伸ばされていた。


 これまでの人生、記憶、アイデンティティが、肉体という器から一本の糸となって抜け出ていくような感覚。やがて存在の輪郭そのものが曖昧になり、絶対的な光と闇の濁流に包まれていく。これが、ブラックホールの潮汐力によって物質が極限まで引き伸ばされる恐怖の物理現象──スパゲッティフィケーションだった。


「パパ!! パパ、どこ!? 嫌よ、離したくない!!」


 サーシャは必死に手を伸ばすが、空間がねじ切られた世界では、自分がいま身体のどこのどの部分を、どの方角に動かしているのかすら完全に認識不可能だった。

 そして、その超次元の変質に、スピリドンの限界を迎えていた生身の肉体は耐えきれなかった。


 老人の姿をした彼の輪郭が、衣服ごとパキパキと音を立てて完全にスパゲティの束のように細く分解され、光の渦の中へと吸い込まれていく。抵抗する意志すら消え失せたかのように、彼の反応は完全に途絶えた。やがてその細い糸の一本一本が量子レベルまで分解され、どんどん細くなって、虚空の彼方へと完全に消滅してしまった。最愛の父の、あまりにも呆気なく、そして残酷な完全消滅。


「イベントホライゾン……」


 俺は極限の戦慄を隠せなかった。物理法則が完全に崩壊したこの神の領域の前では、どれだけ強化された軍事技術も、レイグの力も、ただのゴミクズに等しい。


(このままじゃ……二人ともあの狂った神のスープの中に溶かされて、スパゲティになっちまう……!)


 意識の光が、急速にブラックホールの中心へと引き摺り込まれていく。

 その時だった。


 ──ララララ〜♪ ラララ〜♪ ラララ〜ララ〜♪


 どこからか、あまりにも場違いな、しかし圧倒的に清澄な歌声が聞こえてきた。

 それは、どこか懐かしい遠い子供の頃、地球の片隅で聞いたことのあるような、哀愁を帯びた優しい子守唄のようだった。

 時空が引き千切られ、自己のゲシュタルトが崩壊しかけていたその極限状態の中で、俺の意識だけは、なぜかその歌声を中心にハッキリと正気を取り戻していく。


──ララ〜ララ〜♪ ラララララ〜♪


 透き通るような女性の声。それは約70BPMほどの、人間の静かな心拍数と同じ、極めて心地よいテンポを刻んでいた。


「カサンドラ……」


 彼女を認識した瞬間、その清らかな歌声の波動が、部屋を埋め尽くしていた禍々しいレインボーカラーの閃光を、物理的に掻き消すようにして急速に押し戻し始めた。

 引き延ばされていた空間がパチンと弾け、視界がゆっくりと、いつもの埃まみれの無機質な研究室の光景へと巻き戻っていく。

 俺とサーシャは床へと激しく叩きつけられ、実体を持つ己の肉体の重みを再び感じて激しく咳き込んだ。


「はぁっ! ゴホッ、ゴホッ……! 戻った……のか?」


 見上げると、宙で微振動を繰り返すクロイゾネキューブを取り囲むようにして、虚空からポツポツと、神聖な蒼白い光の輪──ハロが複数、立体的に顕現し始めていた。その光輪は、歌声のテンポに合わせて規則正しく明滅している。


〈……やはりこれは……サイコディバインの脈拍……形が違えど悠久を超えるか……〉


 キューブから聞こえる音声が、初めて明らかな動揺と安堵を孕んで歪んだ。

 蒼白い光輪が、浮遊する七宝体のすべてを完全に包み込んだかと思うと、一輪ずつその輪を小さく収縮させ、キューブの質量を内側へと強烈に圧縮し始めた。メキメキと、空間が押し潰される空間の悲鳴が聞こえる。


〈エイペックスルーラーであるこの私が……。しかし、因果律は……定められた……〉


──ラララ♪ ラララ♪ ララ〜ラ〜♪


 心地よいメロディーが最後の1小節を紡ぎ、完全に静まり返る頃。

 部屋の中央で圧倒的な質量を誇っていたクロイゾネキューブの姿は、どこにもなくなっていた。ただ、その場には、収縮の余波で生まれたと思われる一つの小さなプラズマボールが、仄かに青い輝きを放ちながら、床の上をチチチ……と静かに転がっているだけだった。


「何が……何が起こったの……?」


 サーシャが、父親が消滅した床を見つめたまま、虚脱した声で呟いた。もう、あの不気味な異次元の神の呼び声が脳内に響くことはなかった。


 イミテーションゴッドが完全に黙り込んだのを確認した瞬間、俺の身体から緊張の糸がぷつりと切れ、全身の毛穴から一気に冷や汗が流れ出した。ガタガタと四肢のフレームが震える。


「何だったんだ……。いまのは、カサンドラがまた助けてくれたのか……?」


 左眼のインプラントに瞼の上から手を当てたが、そこからはもう何のノイズも、歌声の残響も返ってこなかった。ただ、カサンドラの遺してくれた眼球だけが、静かに部屋の温度を測定し続けている。


「……因果律は定められたって、あのバケモノ、最後に何のことを言っていたのかしら」


 サーシャが膝を抱え、小さな声で言った。彼女の父親スピリドンは、文字通り跡形もなくこの世界から消滅してしまった。かけるべき言葉を、俺は持たなかった。いまの彼女を支えているのは、極限の絶望の果てに訪れた、麻痺のような静寂だけだった。


「わからない。だが、ここに長居するのは危険だ。ひとまず、安全な場所に避難して、アイの怪我の経過を見るためにも、一度メディカルセンターに戻ろう。態勢を立て直してから、この地獄の惑星ギレインから脱出する手立てと、俺の部隊の仲間と連絡を取る方法を考えなければならない」


「あなたが乗ってきた軍の船はどうしたの? そこから本隊に救助も呼んでおくべきじゃないかしら。軍の力があれば、この街の虫達を全滅させられるんじゃ……」縋るような目で、涙すら出ない虚ろな声で軍の船のことを尋ねた。父を失った悲しみは俺では計り知れないことだった。


 しかし直視してこそ得られる強さもある。ゆっくりと首を横に振って切り出した。


「……俺たちの乗艦していた船エリシオンは、外気圏上で敵の奇襲に捕まり、完全に撃沈されたよ。生き残ったのは、俺と、恐らくあと数人だけだ。それに……現状でのSOSの発信は絶対にダメだ。このゴルドで何が起こっているか、本国は何も知らないはずだ。もし迂闊に救助隊が派遣されて、何の情報もないまま着陸した兵士たちが、あの黄色いバケモノと虫どもの新たな苗床にされて、さらに被害規模が全宇宙へ拡大する恐れがある。そしてさっきの神もどきの件もある。報告をするにしても弾のない銃を見つけたって言うようなもんだ」


 どれだけ論理的に説明しようと今の彼女はそれで納得はしていないのがわかった。

 黙ったまま見つめ合っていると、床の上で静止していたプラズマボールの輝きが徐々に失われ、直径数センチほどの金属質なスフィアが、ただ無機質にそこに佇んでいた。キューブが圧縮された核なのだろうか。

 俺は直感的に、これが何か重要なもの、という確信を抱いた。


「これを回収しておくか……」


 金属の手を伸ばし、スフィアを拾い上げようと近づいた、その瞬間。

 スフィアは突如、目視できないほどの超高速で激しく振動を始めると、キィンという短い音と共に、まるで空間そのものからその存在のデータを完全にデリートされたかのように、その場から忽然と消え失せてしまった。


「逃げた……のか?」


 空を掴んだ手を凝視した。


「わからないわ。でも嫌な感じが消えた……消滅してしまったみたい」


 サーシャが周囲を見回すが、そこにはただの廃墟の空気が流れているだけだった。


「どいつもこいつも一筋縄ではいかないな。とにかく、俺の生体部位の過負荷も限界だ、一度回復しにホスピタルに戻ろう」


(オリガ、ヴァルター……無事でいてくれよ……)


 まだ見ぬ同僚たちの無事を心の中で強く願いながら、サーシャを促した。


──数十分後。

 途中、襲われることもなく命からがらメディカルセンターへと戻った。

 俺たちは、再び強固な電子ロックを施した治療室の静寂の中にいた。

 部屋の隅のポッドの中では、拾ってきたドッグライクな原生生物──アイリスの治療モニターが、規則正しいグリーンのサインを出しながら正常に駆動している。コイツが何者であるにせよ、今はまだ、静かに眠っている。


「俺たちも、少し休もう」


「そうね、疲れたわ……でも動けるようになったら生きてる人を探しましょう。同級生たちもまだ生きているかもしれないし」


「……そうだな」


 残酷な現実をこれ以上突きつけることは俺に出来なかった。

 言い終わると壁に背を預け、ずるずると床に座り込んだ。

 埃まみれの医療ポッドから漏れる微かな淡い灯りと、すべてが死に絶えた街の圧倒的な静寂。それが、地獄のような戦いを生き延びた後の仮初めの、しかし何よりも愛おしい、ひと時の安息を与えてくれた気がした。


 だが、左眼の網膜の最深部では、まだあの心地よい70BPMのテンポが、メトロノームのように静かに脈打ち続けていた。

 俺は薬品棚に転がる埃まみれのモルフィネイドのアンプルの先をピンッと飛ばし、薬液をそのままレイグに取り込ませる。

 ナノマシンで隅々まで運ばれた薬液が波及すると、強い眠気と共に欠損部位の冷たさもシグナルとして脳に運ばれてきた。


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