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惑星ギレイン開拓基地〈ゴルド〉 ━━ それは、剥き出しの未開星系に打ち込まれた、人類の脆い楔のひとつだった。
中央の中枢区には、人類の生存を担保する「対獣マイアスマ電磁フィールド発生装置」とヘッドクォーターズ、原生生物研究所、そして無機質な輝きを放つ植物工場が鎮座する。そこを囲うようにして広がる小規模な入植街。さらにその外周を強固に閉ざすのは、高さ25メートル、厚さ10メートルの巨大な防御壁だった。
壁の足元に深く穿たれたトレンチが物理的な侵入を阻み、夜間になれば、致死性の惑星瘴気粒子を遮断・浄化する電磁フィールドが空を覆う。
周囲15キロ圏内には哨戒基地や観察ベースが点在し、学者、軍人、そしてその家族を合わせて約4600人の魂が、この辺境の揺りかごの中で息を潜めて暮らしていた。
「ママ、今日ハイスクールが早く終わるから、エミリーの家でパーティーがあるの。行っていい?」
「もちろんいいわよ、サーシャ。でも、わかっているわね? 21時以降はマイアスマの濃度が跳ね上がるわ。電磁フィールドがあっても外は危険だから、絶対にそれまでに帰ってきなさい」
ヴァルヴァラはにっこりと微笑み、その綺麗なブロンドを揺らした。彼女の身体からは、いつもお気に入りのマリーゴールドのみずみずしい香りが漂っていた。
「ありがとう、ママ!」
サーシャは嘘をつくことに鋭い罪悪感を覚えながらも、笑顔を返した。
放課後、彼女は親友のヨハンとともに、基地外の未踏森へ生物調査に赴く手はずになっていた。本来、壁外の探索には厳格な許可証が必要だが、手続きには数週間を要し、何よりティーンエイジャーにそんな許可が下りるはずもない。黙って行くしかなかった。
研究所で原生生物の最高責任者を務める父・スピリドンの背中を見て育ったサーシャは、幼い頃から未知の生態系に異常なほどの憧れを抱いていた。凶暴な原生生物が跋扈するギレインの深緑は、彼女にとって恐怖ではなく、胸を躍らせる冒険の舞台だった。
「サーシャ、そろそろ行かないと遅刻するわよ。今日はパパも研究で遅くなるみたいだから、あなたの好物のシチューを作って待ってるわね」
「やったあ! 楽しみにしてる! 行ってきます!」
見送る母親に手を振り返し、サーシャは家を飛び出した。
錆びついたトタンとプレハブが並ぶ街路を進むと、背後から緊張した声が上がった。
「おはよう、サーシャ! ……ついに、今日決行だね!」
「ちょっとヨハン! 声が大きいわよ!」
サーシャは素早く周囲を見回し、人差し指を唇に当てた。狭い開拓街だ。どこに監視の目があるか分からない。
「ごめん、ついつい興奮しちゃって……」
口を尖らせて肩をすくめるヨハンは、叱られたばかりの子犬のように見えた。
「それにしても、最近急にマイアスマが濃くなったのは何でだろうな? 入植したての頃は、こんな不気味な霧なんて無かったってグランマが言ってたよ」
「21時前ならフィールドの内側は安全よ。それに、いざとなったらこれがあるし」
サーシャはポケットの小型O2フィーダーを指で弾いた。
「昔のバックパック型に比べたら、今じゃこのマウスピース型だもんな。技術の進歩ってやつ?」
ヨハンが顎を突き出し、ふざけた顔で口を窄める。
「おじいちゃんみたいな口ぶりね。アハハ!」
二人は笑い合った。退屈な授業、他愛のない流行りの遊び、配給食の味への文句──いつものように、ハイスクールでの時間は記号のように過ぎ去っていった。
放課後。サーシャは事前に調べておいた、警備の手が最も薄れるタワーへとヨハンを誘導した。監視員の交代時間は信じられないほど隙だらけだった。凶暴な肉食獣の襲撃など滅多にない平和ボケが、彼らの警戒心を完全に狂わせている。
「今よ、行きましょう」
息を潜め、二人は無人のタワーを難なく駆け上がった。死角に向けて用意していた縄梯子を垂らし、重い重力に引かれるようにしてゴルドの街を脱出する。
幅5メートルのトレンチは、衣服の靴底に内蔵されたショートブースターを一瞬だけ点火させ、鮮やかに飛び越えた。
鬱蒼と生い茂る森の境界線に到達すると、二人はバックパックの中身を最終確認した。
「ヨハン、準備は?」
「ああ、バッチリ。食糧、水、ポータブルスキャナーに生態調査キット、それからマルチツールまで二人分揃ってる」
ヨハンは満足げに笑い、首をひょこひょことボブルヘッド人形のように動かした。
「妙な動きをしないでよ、ふふ。私はね……じゃーん!」
サーシャが鞄から引き抜いたのは、手のひらサイズの金属球だった。
「フィールドが閉じるまでに帰れるように、パパの研究所から『ダートバギーポッド』をくすねてきちゃった!」
「嘘だろ!? そんな軍用グレードの探査機、よく持ち出せたね……」
「ナイショよ」
悪戯っぽく目を細めるサーシャに、ヨハンは引き攣った笑いを浮かべた。
「サーシャはいつもながら、おてんばが過ぎるよ……」
「さあ出発! 運転はもちろん私ね!」
ポッドを展開すると、内蔵されたナノマシンが瞬時に構造を再組織し、重厚なツインプレスのダートバギーが組み上がった。駆動音とともに、二人は基地の加護を完全に振り切り、束の間の自由が待つ未踏の深緑へと突き進んだ。
渓流にかかる古びた鉄橋をいくつか越え、現在は稼働を停止している無人の採掘ベース付近へと到着する。
「サーシャ、かなり奥まで来た。この辺りは大型の草食獣ムバントスの生息域のはずだけど、どう?」
「うーん、サーモグラフには何の反応もないわね。ガスソナーに切り替えてみる」
サーシャがスキャナーのディテクターモジュールを操作する。
「ダメ。不自然なほど、何もいない」
「バギーのオシレイションソナーとか、ウェーブバイアス測定は?」
「ちょっと待って……。今、信じられない規模の大群が検知された」
サーシャはバギーのエンジンを完全にカットした。
訪れた完全な静寂の中、地響きのような、悍ましい足音が地殻を揺らしながら近づいてくるのが分かった。
「あ、あれを見ろよ……」
ヨハンが息を呑み、木々の隙間を指差した。
凄まじい地鳴りとともに、森の奥から無数の原生生物が津波のように湧き出してくる。成体のムバントスはその巨躯を支える6本の強靭な脚を激しく狂わせ、30メートルに達する巨体で巨木をなぎ倒しながら疾走していく。その足元を、無数の小動物たちが踏み潰されぬよう必死の形相で駆け抜けていく。見上げれば、空は飛行生物の黒い群れで埋め尽くされていた。
「グレートマイグレーション……」
動物たちは、何かから逃れるように西から東へと狂ったように移動していた。
「大移動? でも、おかしいわ」
サーシャの顔から血の気が引いていく。
「移動しているのは草食獣だけじゃない。普段は彼らを貪り食っているはずの獰猛な肉食獣まで、牙を収めて一緒になって走ってる。一体、何から逃げているの……?」
嵐のような一団が通り過ぎると、後には死の国のような不気味な静寂だけが残された。
「ああっ!」
「うわっ、なんだよ!?」
突然声をあげたサーシャに、ヨハンが仰向けに転びそうになる。
「ごめん、驚かせるつもりはなかったの。大きさ的にムバントスじゃないけど、すぐ近くに動かない生物反応があるわ。他の群れはみんな消えちゃったし、行ってみましょう」
サーシャが指差す方向を見た瞬間、ヨハンは遺伝子に刻まれたような直感的な嫌悪感に襲われた。この星の植物は地球のそれと分子構造が酷似していると聞いていたが、目の前に広がる光景はまるで異なっていた。ねじれ、脈打つ、奇妙な形状の植物群。
「あっちに行くのかい? ナビにも載っていないデスゾーンだよ、危険だ」
「ちょっと覗くだけ。ナビに載っていない場所を見つけるのが、本当の冒険でしょ?」
強引に突き進むサーシャに、ヨハンはため息をついて従うしかなかった。
「ここからは徒歩だね」
植物が壁のように行く手を阻み、バギーの進行は不可能になった。二人はシートを降り、携帯ライトを片手に暗がりの奥へと足を踏み入れた。
入り組んだ発光植物の群生を抜けると、不意に、歪なシルエットがライトの光の中に浮かび上がった。
立方体でありながら、円形が幾重にも重なり合っている、幾何学的なモニュメント。
「すごい……人工建造物よ。遺跡かしら? ラディクル測定によると、少なくとも2万年は昔の代物だわ」
「嫌な予感しかしないな。この素材、一体何で出来てるんだ?」
「あそこ、入口が開いてる!」
ジメジメとした暗がりの奥、苔に覆われた直線的な超古代の通路が口を開けていた。
「マッピングドローンを先行させるわ」
サーシャが放った小型ドローンが奥へと滑り込み、彼女のコンソールに流線型の不気味な内部詳細図を投影していく。
「足元に気をつけて」
長い通路にはいくつも強固な扉があったが、どれも腐食しているのか、びくともしなかった。
「何よ、全然開かないじゃない」
思うように探索が進まず、サーシャが苛立ちを募らせる。ヨハンは彼女の機嫌を直そうと慌てて話題を変えた。
「そういえば、さっきの生物反応はどこだい?」
「まだ奥よ。……ねえ、何だかすごく臭わない?」
「ああ……かなり酷い臭いだ。引き返した方がいいんじゃないか?」
「センサーに有害毒物質の反応はないわ。行くわよ」
さらに最奥へと進むと、油圧の抜けたような、半開きの重い扉が見つかった。
「ここね。マルチツールでこじ開けるわよ」
火花を散らしながら、強引に隙間を広げて中へと滑り込む。
部屋の中はさらに臭気が強く、埃っぽい胞子がライトの熱線の中で白く舞っていた。
「だれかいるの……?」
サーシャがライトを振ると、正面に頑丈な鉄格子のような、ケージ状の構造物が現れた。
「檻……?」
「しっ! 何か聞こえる」
ヨハンが耳を澄ます。湿った細いうめき声が、暗闇の底から漏れ聞こえていた。
「どこにいるの? 出ておいで」
「やめなよ、サーシャ! 未知の凶暴な生物だったらどうするんだ!」
少しだけ破れた鉄格子の奥で、ライトの光線がヌルリと反射した。何かがいる。
「うわあぁあああ!」
ヨハンが短い悲鳴を上げて飛び退いた。
「ちょっと、よく見て。これ……犬?」
ライトの円の中にいたのは、真っ黒に塗りつぶされたような三つ眼を持った生物だった。尖った口吻に鼻。前肢と後肢が2本ずつあり、短く濡れそぼったロイヤルパープルの毛並みは、確かに地球の犬に酷似していた。その原生生物は檻の隅で丸くなり、酷く弱っているように見えた。
「すぐに出してあげるわ。待っててね」
「ビックリした……それにしても、凄まじい悪臭だ。でも、よく見ると可愛いなこいつ」
それは、腐り落ちた肉を古びた機械油でソテーしたかのような、内臓を掻きむしる悪臭だった。
サーシャは臭いを無視してマルチツールを鉄格子に噛ませ、人が入れるほどの大きさに焼き切った。
「さあおいで。動ける?」
サーシャが近づき、その小さな頭を優しく撫でる。生物はぐったりとした様子で、甘えるように鳴いた。
「キュゥゥゥ……」
「あら、良い子ね。自分から入ったのかしら? 何かから逃げて来たのね可哀想に」
「そう、なのかな。でも、親も見当たらないし、はぐれちゃったみたいだね」
「この子、おとなしいわ。でもパパの研究所のデータでも見たことがない種類ね」
「新種発見かな! サンプルだけ取って、街に戻ったら詳しく調べないと」
知的生命体の終着駅と呼ばれるこの星系。入植してからも、今だに未知の種の発見が報告されており、決して珍しいことじゃなかった。
「この子、連れて帰る!」
「え!? 無理だよ! 君の家も僕の家もペットは厳禁だろ? それに生態が分からないのは危険すぎる」
「でも、こんな寂しい場所に置いていけないわ。そうと決まれば名前をつけなきゃ!」
サーシャの頑固さを知るヨハンは、観念して肩を落とした。
「うーん……綺麗な色の毛並み……そうだ! アイリスの〈アイ〉はどうかしら!」
「地球の花の名前なんて、安直すぎないかな……」
「エルヴィンさんの家のニューファンドランドなんて『スウィートレインボー』よ? 長すぎるし、あの子だってその名前で呼ばれるのを嫌がってるわ」
「どっちもどっちな気が……」
「何か言った? それより、アイはお腹が空いてるんじゃないかしら。私もお腹が空いちゃった」
サーシャはバックパックから携帯用レーションを取り出し、加熱パックを起動させた。ヨハンはとてもじゃないが、あの腐肉のソテーのような悪臭の中で食事をとる気にはなれず、呆れて口を半開きにしていた。
「君は食べてて。僕は他に何かないか、少し周囲を見て回ってくるよ」
「アイ、これ食べる?」
サーシャは温まった肉を差し出したが、アイリスは一切興味を示さず、ふいと顔を背けた。
「キュウン」
違う、と拒絶するように鳴くアイリスの唇の隙間から、可愛らしくも鋭利な、ハサミ状の裂肉歯が微かに覗いた。
不思議に思いながらも食事が終わる頃、ヨハンが戻ってきた。
「さて、これからどうする? 街の中に連れ込むのは無理だから、壁のすぐ近くにある放置された観測小屋に一旦隠そう。僕たちで交代で面倒を見るんだ、どうだい?」
「そうね! 原生生物ならマイアスマも平気でしょうし、それが一番いいわ」
二人と一匹は、バギーへ乗り込み遺跡を後にした。
出口を出た瞬間、アイリスがそれまでの弱々しさを一変させ、歓喜の咆哮のような高い鳴き声を上げ、バギーのシートから飛び出して走り出した。
「あ、待って! アイ、元気になったのね!」
「ちょっとサーシャ、危ないよ!」
すぐにバギーを止めてもらって、先にアイリスを追いかけた。
「キュワワワ!」
立ち止まったアイリスをサーシャが抱きかかえる。激しく興奮した様子で、何度もその漆黒の瞳を夜空へと向けていた。
「やっと追いついた……。帰りは僕が運転するよ。アイをしっかり抱きしめておいてね」
バギーが発進すると、アイリスは名残惜しそうに、暗闇に沈む遺跡のシルエットをじっと見つめていた。
「洗ってあげないと、僕の鼻の機能が完全に麻痺しそうだよ」
「そうね、私たちも消臭スプレーが必要かも」
二人は、あの不気味な『グレートマイグレーション』の恐怖をすっかり忘れ、楽しげにバギーを走らせた。
やがて、ゴルドの開拓初期に使われていたという、古びた木造の観測小屋が見えてきた。
「まだ雨風は凌げそうね。アイをここに寝かせて、一旦街に戻りましょう。もうかなり暗くなってきたし、電磁フィールドが展開される時間よ」
「最大の問題は、この子のエサだね……」
ヨハンはバギーを止め、空を見上げた。そこには、息を呑むような満天の星空が広がっていた。人工の光も、化学物質の混ざった排気もない、ギレイン本来の澄み切った虚空。
「キュウゥン」
アイリスを抱くサーシャの横顔に、ライトの余光が当たって綺麗に輝いていた。
「あ! 流れ星!」
サーシャが声を弾ませる。一筋の鋭い光が夜空を裂いた。地球の古い迷信では、消える前に願い事を3回唱えると叶うというが、科学がすべてを解き明かした現代では、とうに形骸化した文化だった。
「お祈りをしましょう」
サーシャは素直に目を閉じた。リアリストのサーシャと、ロマンチストのヨハン。ヨハンは自分たちのその決定的
な違いこそが心地よく、彼女に強く惹かれている理由だと確信していた。今なら、言えるかもしれない。
「サーシャ。僕は、君が好──」
その瞬間、サーシャの腕の中からアイリスが猛烈な力で跳ね起き、夜の闇へと飛び出していった。
「アイ! もう時間がないのに、どこへ行くの!」
サーシャは慌ててナイトビジョンを起動し、森の奥へと走り出した。
「待って、サーシャ! あと10分で見つからなかったら諦めよう! フィールドが展開されたら締め出される!」
ヨハンもその後を追う。焦る彼女の背中を見ながら、彼の胸の鼓動は激しく高鳴っていた。
ガサガサと、濡れた草木が激しく蠢く音がして、二人は足を止めた。
「ねえ……ヨハン、見て……。アイが、何かを食べてる……?」
「アイ、変なものを口にしちゃダメだろ……」
ライトの光線が動くものを捉えた。
振り返ったアイリスの口元からは、夜の闇の中でも悍ましく発光する、『鮮やかな黄色の液体』がドロドロと大量に滴り落ちていた。全身を痙攣させるように細かく震わせ、まるであざ笑うかのような表情で、何かをぐちゃぐちゃと咀嚼している。
「キュうぅあああああああ!!」
鼓膜を強烈に引き裂くような、金切り声の咆哮が響き渡った。
「ア…イ………?」
ぐちゃり、と、内臓を握り潰したような湿った音が響く。
アイリスのロイヤルパープルの皮膚が内側から生々しく波打ち、まるで無数の蟲が皮下を這い回っているかのようにボコボコと隆起し始めた。
ヌルリ、とした目が異常な長さまで突き出し、口元は耳元まで引き裂かれ、そこから黄色い粘液が滝のように溢れ出る。
アイリスの肉体は風船のように膨張し、骨格がパキパキと音を立てて組み替わりながら、後肢だけで立ち上がった。前肢だった部位は二股に分かれ、筋肉が異様に肥大化した『4本の太い腕』へと変貌していく。
そして何より悍ましいことに、その胸部の中央に、巨大なレクタングル─長方形の眼球が割って入り、ギョロギョロと上下左右に狂ったように動き始めた。
「なんだよこれ……バケモノ……」
ヨハンは完全に金縛りに遭っていた。身体が、一歩も動かない。
──刹那、耳を圧する風切り音と突風が二人を通り過ぎた。
ヨハンは、自分の身体に奇妙な『違和感』を覚えた。
「サーシャ……逃げ……ろ」
メリメリ、と、乾燥した太い枝をへし折るような鈍い音が響く。サーシャが隣のヨハンを一瞥した。
ヨハンの左腕が、あり得ない角度にねじ切られていた。目が合う。彼は何かを言おうと必死に口を動かしたが、そこから溢れ出たのは、言葉ではなく大量の黒赤い血液の塊だった。
ズルっ。
「ザ……ジャ……」
まるで行き過ぎた冗談のように。別れを惜しむかのように。ヨハンの両腕、そして胴体が、ゆっくりと、しかし確実に離別し、滑り落ちていった。
ドサリ。
バラバラになったヨハンの肉体が、地面の泥を自身の血で脈打つように染め上げていく。
「いやあああああああああああああッ!!」
破滅的な悲鳴がサーシャの喉を裂いた。涙が視界を遮り、心臓が爆発しそうなほどの動悸が襲う。
「そんな……嘘……何が起こったの……!?」
驚愕と苦悶の表情のまま、光を失っていくヨハンの上半身を抱き抱える。彼女の両手、そして衣服が、見る間に親友の生温かい血で汚染されていく。
「ヨハン……嫌、嫌よ! なんで!!」
狂ったように周囲をライトで照らすが、そこにはすでにアイリス──いや、あのバケモノの姿はなかった。ただ、底知れない夜の闇が広がっているだけだった。
逃げなきゃ。殺される。
震える脚に鞭を打ち、サーシャはヨハンの遺体を残して、狂ったように街へと走り出した。
「これは夢よ。きっと悪い夢。アイ、どこへ行ったの……」
譫言を繰り返しながら、血まみれの手で涙を拭う。放心状態のまま、縺れる足取りで走り続け、電磁フィールドが展開される直前のゴルドの総門へと滑り込んだ。
門をくぐった瞬間、彼女は異様な違和感に気づいた。街には人っ子一人いない。それどころか、昼間まで平穏だった開拓街は酷く荒れ果て、散らばったゴミや生活用品が不気味な風に吹かれて宙を舞っていた。
だが、ヨハンの死と恐怖で脳が飽和していたサーシャは、その異常さを深く考える余裕もなく、ただ救いを求めて我が家へと走り続けた。
我が家のドアを開けると、エントランスホールにママの特製シチューの、あの温かい匂いが漂ってきた。その香りに、サーシャの心はほんの一瞬だけ救われた気がした。
ママになんて説明すればいい。ヨハンの家族には……。とにかく、警察やパパに連絡をしなければ。
涙を必死に堪え、右側の廊下を進む。ママのいるダイニングキッチンへ、よろよろと向かう。
薄暗い廊下に足を踏み入れた瞬間、シチューの匂いに混じって、強烈な「血生臭さ」が鼻腔を突いた。
キッチンの奥から、トントンと包丁で何かを刻む規則正しい音が聞こえる。ママはそこにいる。
「ママ、ヨハンが、ヨハンが──」
溢れ出そうになる言葉は、その『後ろ姿』を見た瞬間に、喉の奥で氷結した。
声にならない、根源的な恐怖。
お母さんのあの美しいブロンドヘアーは、跡形もなく消え去っていた。そこにあったのは、黄色くブヨブヨとした無毛の表皮と、その表面に点在する大小の不気味な「黒い斑点」だった。さらに旋毛のあったあたりからは、萎びた昆虫のような触角が2本、ピクピクと不快に垂れ下がっている。
「ママ……?」
違う。これはママじゃない。ママの形をした、何か別の悍ましいものだ。
「あラ、おかエリなさイィィィ。もうスコしで、シぢゅーができるワよョョょ」
笑いながら振り返ったソレの声は、確かに母ヴァルヴァラの音波をなぞっていた。しかし、その声はまるで壊れたサンプラーのように不自然に歪み、途切れていた。
お母さんの顔だった場所からは、左右に3本ずつ、樹木の枝のような肉質の触手が顔面を覆うようにして伸びている。両眼には、真っ黒に膨れ上がった膜のようなものが張り付き、眼窩から今にも飛び出しそうにギョロついていた。
「ずいブンおおオオおそかったじゃないの、ままはとってもジンパいしたのよぉおょ」
顔の皮膚だけがヴァルヴァラに似たその怪物は、口を耳元まで裂き、そこから黄色い粘液と血を流しながら叫んだ。
「あんた何よ!!ママをどこへやったの!!」
サーシャは恐怖を怒りに変えて叫んだ。
「なニをいいぃってイルの? わた死が、ままジャないの」
ヴァルヴァラだったモノは、愛用していた超音波キッチンナイフを逆手に握り、駆動音をキィィィンと響かせながら、笑顔のまま近づいてきた。
(殺される。何か武器は── )
パパの言葉が脳裏をよぎった。『何かあった時は、寝室の箱を使え』。あそこには、護身用のプラズマテーザーガンがある。
「あぁぁぁぁああ!」
怪物が超音波ナイフを振り下ろして襲いかかってきた。サーシャは本能的な反射でその鼻先を紙一重で躱す。勢い余った怪物は、ステンレス製の食器棚に猛烈な勢いで突っ込み、ガラスを派手に破壊した。
かつて母から漂っていたマリーゴールドのみずみずしい香りは跡形もなく、今のソレからは、鼻腔を破壊するような腐肉と機械油の悪臭が猛烈に放たれていた。
もたついている。今しかない!
サーシャはコンロへ走り、グツグツと沸騰している特製シチューの重い鍋を両手で掴んだ。そして、振り返った怪物の顔面に向けて、熱いドロドロとした黄色い液体を豪快にぶちまけた。
「ギャァぁやゃゃああ!! 熱い、熱いィィィ! 待て! どコにいくノヨォおぉおお!!」
皮膚の表面をドロドロと融解させ、爛れた顔面を掻きむしりながら、怪物は奇声を上げて追いかけてくる。顔面の触手が死にかけの虫のようにピクピクと蠢く。
サーシャは両親の寝室へ飛び込み、内側から鍵を閉めた。クローゼットの奥を狂ったように漁り、鋼鉄製のセーフティボックスを引きずり出す。
「これよ……開いて、お願いだから開いて!!」
その時、凄まじい衝撃とともに寝室のドアが破砕され、ナイフを持った怪物が躍り込んできた。
「サーシャァァあああ!!!!」
揉み合いになり、戸棚が崩落する。人間離れした怪力で吹き飛ばされたサーシャは、激しく壁に激突した。
「うぅ……」
後頭部を強く打ち、視界がぐにゃりと歪む。生温かい血が髪を濡らしていく。意識が遠のきかける中、不用心にもロックがかかっていなかった箱の隙間から、鈍く光るプラズマテーザーガンのグリップが覗いているのが見えた。
サーシャは残った力を振り絞り、銃を掴んで両手で怪物へと向けた。
怪物がナイフを振りかざし、彼女の胸元へと飛びかかってくる。
同時に、サーシャは引き金を全力で絞り込んだ。
バチバチバチィッ!!
目も眩むようなプラズマの蒼白い電撃が怪物の顔面に直撃した。
次の瞬間、ヴァルヴァラの顔をしていたソレの頭部は、内側から限界まで膨張し、パンッ!と小気味いい音を立てて爆ぜた。
鮮やかな黄色のドロドロとした体液が、壁や天井、そしてサーシャの顔面へと容赦なく降り注ぐ。怪物の身体はグルンと白目を剥き、膝から崩れ落ちて物言わぬ肉塊へと変わった。
「いやぁぁぁぁぁぁぁ!!」
肉の焦げる悍ましい悪臭と、一面を汚染した黄色い粘液の光景に、サーシャは激しく嘔吐した。
「ママ……ママ……」
なぜ。どうしてこんなことが。
アドレナリンのおかげで麻痺していたが、限界を迎えた脳に、強烈な「激痛」のシグナルがようやく到達した。
見ると、彼女の左手は、あの超音波ナイフによって手首から先を骨ごと綺麗に切断されていた。
夥しい流血。サーシャは悲鳴を噛み殺し、右手で左腕の動脈を必死に圧迫した。
「ち、血を、止めなきゃ……死んじゃう……」
ママだったものの亡骸を跨ぎ、キッチンへと這うようにして戻る。常備されていた鎮痛剤入りのメディカルジェルを、狂ったように傷口へと擦り付けた。激痛の後に、冷たい感覚が走って出血が止まる。
だが、止血だけでは手遅れになるのは明白だった。
(メディカルセンター……あそこの最新医療ポッドなら、肉体を再構築できるって、パパが言ってた)
ぐちゃぐちゃになった我が家を飛び出し、サーシャは朦朧とする意識の中でメディカルセンターへと走った。
センターの受付に滑り込んだが、ここにもやはり、受付係も医師も、誰一人としていなかった。
「そんな……みんな、どこへ行っちゃったの……?」
世界から自分一人だけが置き去りにされたような絶望。しかし彼女は心を奮い立たせ、医療棟の奥へと進んだ。
そこに見つかったのは、上部が透明なガラスハッチになっている円筒形の医療ポッドだった。サーシャは血と黄色い液に汚れた服のまま、ポッドの中へと転がり込み、ハッチを閉じた。
内部のタッチパネルを操作すると、電子的な起動音が響き、ポッドのAIが起動した。
「どのような医療行為をお望みですか?」
『左手のリジェネレーション』を入力する。機械的な、無機質な音声が、今は唯一の救いだった。
「再構築シークエンスを開始します。処置完了まで約3〜4時間です。それでは、処置が終わるまでリラクゼーション音楽をお楽しみください」
スピーカーから、あまりにも凄惨な現実とは不釣り合いな、陽気で呑気なポップミュージックが流れ始める。
細い針が肉に刺さり、DNAと血液のサンプリングが開始される。立体復元機が駆動し、左手の断面に人工原子が少しずつインポートされていく。
極限の疲労と安堵が押し寄せ、サーシャはもう何も考えたくないと、深く目を閉じた。
その直後。彼女が入ったポッドの外部コンソールに、小さな赤い警告灯が明滅し始めた。
【警告:システムエラー。コールドスリープ設定を解除してください】
しかし、その無情なエラー画面に気づく者は、静まり返ったセンターの中には誰もいなかった。




