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ディバイブルームのハッチが重厚な圧力ガスによって閉鎖されると、カサンドラは小さく深呼吸を拒み、代わりに子供の頃の記憶を脳の底から引きずり出した。トラウマという生易しい言葉では到底封印しきれない、痛みの毒に満ちたあの記録を。
***
ディバイブ能力が顕現したのはまだ物心がつくかなじむかの頃だった。
想像しただけで形作られていく大きく精巧な崩れることのない砂の城。イマジナリーフレンドの完全な実体化。空中で歌って踊る、立体的なアニメーション。空から降る食べきれない程のお菓子。魔法のような力は空想を次々と実現させ、まるで御伽話のヒロインになったような心地でいた。
最初はひとり遊びの域を出なかったが、やがて自制の効かない子供は友達の前でも魔法を使いだしみんなで楽しむ事に慣れていった。だけど、本能的に大人に知られてはいけないとも悟っていた。善悪の判断が無く興味本位でアリを殺すくらいの無知で小さな女の子。持つにはあまりにも大きすぎる力だった。
ある日、一番の親友であるテオドラの家にお泊まりにいった。
「あのお星様に行くのは無理だって……ううう……」顔をくちゃくちゃにして啜り泣く。
ベビーベッドでまだ幼いハルも共鳴してるかのように泣き出した。
「お姉ちゃんが泣いたから一緒に泣いてくれたのね。ほら笑って」
生後2ヶ月の小さな赤ん坊を抱き、うろ覚えの歌を歌いながらあやすテディ──カサンドラにとっても弟のようなハル。
「そんなこと誰が言ったの?どこのお星様?」
「同じクラスのジャッキー」そう言ってテディがベッドから差した星空が綺麗だったことをカサンドラは今でも鮮明に覚えている。
「あの宝石みたいなところにいるのね」
「うん、わたし、いつか行ってみたいな」潤んだ瞳は遠い星を想っている。泣き止んだハルをベビーベッドにそっと寝かせる。
「すぐに行ってみようよ!」
自分はなんでも出来る。幼いカサンドラは本気でそう信じていたし、当時の彼女が思いつくことは全て実現可能だった。
「え?キャシーちゃん一体どういうこと?」
当時は世界的に激烈な温暖化が続いていて、気温は夜半でも平均34度だった。ハルは泣き疲れたのか目を瞑り、自分の親指をしゃぶっている。
半ば強引に手を繋ぎ、呆気に取られているテディを喜ばせたい一心でカサンドラは窓から身を乗り出し夜空に向かって文字通り飛んでいった。自動車が加速するにつれてギアを上げていくように、徐々にスピードが上がっていく。やがて音速になりサブソニックからハイパーソニックへと世界が加速する。
「たぶん、すぐに着くと思うよ」自分の力がここまでだとは思っていなかった。大気圏を突破し、星空が間近に迫る。
「わぁ!キレイね」漆黒の闇夜に瞬く星々が煌めきながら広がっている様は宝石を散りばめた無限の砂場ように彼女たちの目に映った。
「キャシーちゃん怖いよ……」テオドラの消え入りそうな声は、加速する劫火の彼方に置き去りとされてしまった。
高度な訓練を受けた、熟練の卓越したディバイナーですら、宇宙空間での活動限界時間はおよそ15分間。それを超える飛翔。
カサンドラのその類稀なるディバイブで本能的に対宇宙コーティングを施し、無意識下で生命維持を行なっていたが、無酸素状態での星間移動は死を意味していた。訓練すらしていない子供に耐えられるレベルを遥かに超えていたし、現在でもその距離を生身で走破できる者など固有の宇宙生物以外存在しない。
テオドラの父のいる星までは約40兆8500億キロメートル。
「なんだか寒いよ。キャシーちゃん……」
「大丈夫よすぐにパパに会わせたげる」
秒速17キロメートルで飛行する中、ディバイブ能力で生命維持を行なっていた。
だが、デスゾーンを超えたあたりでカサンドラはようやく気付いた。
「なんで……あんなに大きいお星様なのに……」
とてつもなく遠い想像すら出来ない場所へ行こうとしている事に。
「テディ……ちゃん……」
成層圏に達する頃には、すでにテオドラの意識は無かったのだろう。高揚した精神状態では、そんなことすら理解できていなかった。
振り返って見ると、繋いだ手に力は無く、ぐったりとしたテオドラがいた。
ディバイブ適性のない一般人のテオドラは、カサンドラの能力で保護されていたものの、気圧の狂いに蝕まれ、その小さな身体は徐々に高地肺水腫、高地脳浮腫に罹患していった。
「やっぱり、もう帰ろっか……」
引き返して家に着くと、テオドラは目を閉じて、飛んでいた時のまま凍りついていた。
「テディちゃん?」
返事の無い抜け殻のテオドラを見て、カサンドラは何故か人形になったのだと思った。
異変に気付いたテオドラの母が家から出てきて、カサンドラを突き飛ばした。
「何をしたの!!あああああああ!!」
我が子を抱え、泣き叫んでいた。
近所の大人達が集まり、カサンドラを取り囲み叫んだ。
「悪魔」「バケモノ」「人殺し」「報復しろ」「殺せ」
「いやぁぁぁ!やめて!」カサンドラは拳を握り締め、目を瞑った。
鋭く純粋な殺意が幼い少女に向けられ、脊髄反射的にディバイブが暴走した。その力は、ありとあらゆる物質に作用した。
時が止まったかのような静寂に包まれ、彼女は悟った。何か取り返しのつかないことをしてしまったのだと。
恐る恐る瞼を開けた。三つの円が重なったキャラクターを思い起こすシルエット。月明かりの中、印象的な影を作り目の前に浮かんでいた。大きく、巨大な塊が……
ポトリとその物体から液体が滴り始め、数秒すると堰を切るようにそこかしこから液体が勢いよく吹き出した。
血液や排泄物、オイルや土などの混じり合った複雑で不快な臭いがあたりに充満してきた。
「いやよ……そんな……」
噴射される液体で勢いがついたのか、結合したミクスチャーオブジェクトは優雅に回転を始めた。
「助けて……」「殺して……」「おぎゃぁぁぁ……」
悲痛な声が微かに聞こえてきた。家や車、裏庭で咲き誇る薔薇、家具家電、そして警備用アンドロイドや液状生物のペット、人間が混じり合った物体。
ちょうどキャラクターの耳部分にあたるところには、隣人のおじさんの顔が引き伸ばされて張り付いていた。電化製品のワイヤーや電子基板がいくつも融合していて、その両目は一瞬大きく見開いたかと思うと静かに瞼を閉じた。
カサンドラの目から、涙が溢れて止まらなかった。
しばらくすると警察や消防がサイレンを唸らせ空から駆けつけた。現着した捜査官達は更地になった場所で右往左往する。中心部にあるオブジェクトを大型ライトが照らすと、壮絶で悲惨な現状を目の当たりにして絶句した。放心状態になっている者も多く、少数は精神に異常を来した。
「この浮いているのは一体……それにここは住宅街のはずだが、この辺りの家はどこにいった?この子がやったのか……?」
「ディテクティブオーウェン。光学スキャンとレトログレードテストの結果ですが、少女を中心とした半径100メートル内の地上にあった物体が全て何らかの力によって複雑に圧縮結合されています……とてもじゃないですがこれは……」そう言って吐瀉物を道端に撒き散らす。
「ディバイブケースか……今すぐコットに連絡してくれ。この子には誰も近寄らせるなよ。まさかこんな小さな街でこんなことが。神よ……」
ノースアメリカ所属のディバイナーが到着すると、すぐさまカサンドラをアンチディバイブケージに閉じ込めて連行した。やってしまったことの重大さや、もう戻ってこない人達のことも考えられず、ただ泣きじゃくっていた。
警察署で取り調べ、生体スキャンなどが行われ、ついにディバイブ能力が露見してしまった。
「浮遊している物体の末端部から迫り出していた少女の司法解剖の結果、肺に水が溜まり溺死していました。この少女だけ死亡時間が合いません。尚、有機体と無機体の癒着が酷く、何名巻き込まれたのか未だ不明です。微弱な生体反応については内部に赤ん坊がいると思われます。透過分析で引き続きオブジェクトの解明・解体を急ぎます」
「赤ん坊だと…なぜそんなことに…」
自分がみんなを殺したという事実と罪悪感に押しつぶされそうだった。彼女はケージの中で放心状態で佇んでいた。
「これは君の両親からのメッセージだ。こんなことになった以上、面会は出来ない……」
アーム装着型コンソールを操作して虚像が浮かび上がる。
「パパとママはお前を愛してるよ」
ケージの中で観たホロメッセージ。
「パパ……ママ……ごめんなさい……」
それが、両親を見た最後だった。
「君はとんでもないことを仕出かした。きっと多くの人から恨まれ疎まれるだろう。しかし、これから行くところはその力を活用できるし、やり直す機会を与えてくれる場所だ。もう二度と両親とは会えないかもしれない……セカンドチャンスにしては若すぎるが…無駄にするな……」そう言って若い男の刑事さんは励ましてくれた。
今思えば、お役所仕事とは思えない程スピーディにコットへと強制送還された。そこで創始者であるバディライト・ソルダーンが言った。
「ディバイブはコットの為に使え」
血反吐が出る程の扱きに、陰惨で悪辣なイジメを耐えた。それがテディちゃんへのせめてもの償いだと思ったからだ。
晴れてディバイナーになり、ロボトミーしてからは救われた気分だったけどやっぱり不安定になる時があった。一度思えば、主要臓器をボイル出来たし、どんなに硬い外骨格もツイストカット出来る。彼女に敵意を示した生物は全て天国へ送った。前線を渡り歩き、敵対生物をディバイブする日々。
制御装置のおかげで心が荒む事はなかった。むしろ殺傷することに喜びを見出そうと努力までしたが、1ヶ月で考えることを止めた。
だけど、あの時の凄惨な事件は心に大きな楔を打ち込んだ。今もその傷は化膿して慢性的な炎症を起こしている。そして思い出してしまった。まだ力の制御が出来ない幼少期に、暴走した力で人々を殺めてしまった場所……
〈ウィッシュカー〉
***
自分の中での疑念が確信に変わりつつあった。ハルを無意識のうちにプロテクトしていたのでは?
そしてヘンリーの愛称は……
「ずっと不安定だ。調整しないと……」制御装置の作用で多少なりとも動揺が抑えられていた。
中央に立つと柔らかく赤みを帯びた壁、天井、床がぶくぶくと膨張していく。持ち上げられ浮かんでいる様な状態になってから、カサンドラにディバイニング増幅生体ケーブルが1本、2本と皮下接続される。さらに後頭部へメインケーブルがダイレクトコネクトされた後、集中率を上げる為の酸素吸引用循環溶液が部屋を満たした。
「暖かい……」
脈を打っているのがわかる。ヌメヌメとした肉の壁に包まれ、まるで子宮の中にいる感覚だった。
「カサンドラ!ディバイブに備えろ!直接叩き込む!」
程なくして、ボスの指示がケーブルを介し、直接脳内に流れこむ。
すぐにアウタースペースのタブリフターの索敵情報をポリーが共有する。
「5315…いや所々で共食いが行われているから今は4968体。まずまずの数ね」
増大したディバイブでニューロンが歓声を上げ感覚が何十倍にも膨れ上がる。敵の一挙手一投足、全てが脳内で情報処理されていく。
敵艦内部の悍ましい光景にも狼狽えることなく、タブリフターに一体一体にピンを刺してマーキングを済ませる。
「これで終わりよダーティドッグズ」
解き放たれたクラスターボムが静かに、そして確実に辺りのタブリフターの頭部へ忍び寄っていた。
「ん?子供?」
何かの生物の子供が乗ったポッドをディバイブで捉えた。その一瞬だけ躊躇いが出た直後だった。
「カサンドラ!直ぐ外に出て!!」ポリーが叫んだ。
炸裂と同時にディバイブルーム付近の船体に穴が開き、壊滅的な電力サージがカサンドラの体内を駆け巡る。
「キャァアァァァァァ!!」
カサンドラの脳は灼かれ、ナノマシンも死滅した。回復速度上昇を促す為のディバイブも出来ない程の深刻な状態になった。その神聖なパワーの大部分が失われつつあった。
体が震え、呼吸は浅く今にも死を待つばかりだ。「任…務…完了……」瀕死状態になってもディバイブは敵をオートトラッキングしていた。研ぎ澄まされた能力が黒いモヤとなって全てのピンに向かって行く。
タブリフターにその力が触れた瞬間。
パンッ!
と湿った皮が爆ける音が響く。気付いた時にはすでに遅い。頭部の破裂音がリズムをとって重なりあう。
パンパンパパンパンパパパン。
逃げ惑うパンッ。
振り返るパンッ。パンッパンッ。
悲鳴が上がる隙すらない。カサンドラの思考速度の加速に追いつけなくなった世界で、因果を無視した破裂音だけが過呼吸気味に連鎖していく。
パンッパパパパンッパンッパンッッッッ。
パンッパンッパンッパンッパンッパンッパンッパンッパンッッッッッッッッ――!
肉を削り、骨を砕く重々しい衝撃音ではない。それはまるで、世界のバグをシステムが強制消去していくかのような、軽快で、無慈悲で、記号的なクリック音だった。
敵船内のすべてが、肉の弾ける音だけで満たされていく。
空間を埋め尽くしていた無数の駆動音も、逃げ惑う足音も、すべてがその乾いた破裂の渦に呑み込まれ、ゲシュタルト崩壊を起こして消えていく。
次々と死にゆく同族に焦りの念を抱いたのは指揮官ただ一匹だった。
奴らは何をしている?我々をどうやって攻撃しているのだ?疑問が浮かんでは消えていき、この攻撃が阻止できないことを悟ると、横にいる副官を殺して食い始めパンッ。
ディラベタイプの頭もパンッ
敵艦は完全に沈黙した。最後には音の輪郭さえ消え失せて、ただただ静かな赤だけが残った。
「カサンドラ良くやりました。ですが、身体は限界を迎えています」
「ねぇポリー……マインドトランスファーをして……欲しいの」
「確かにそれならば可能ではあります。ですが、まだその技術は確立されていません。成功率は6.23%。かつての失われた精神移行テクノロジーの、不完全な再現に過ぎないのです。移植できたとしても十分に機能するかは未知数です」
「アイボールインプラントの中心核にデータを逃がせば……あなたなら可能でしょ……?」
「はい……理論上は。私もあなたを失いたくありません」
「ならお願い……私にはまだやることが残っているの……」
「わかりました。すぐにアップロードを開始するので楽にしてください」
ポリーが意識マイニングを始めてすぐに、カサンドラはゆっくりと項垂れたまま動かなくなった。
辛くも撃破に成功はしたが、俺たちの部隊も大きな痛手を負った。シールドの切れていたエリシオンは汚染ミサイルとドローンの銃撃で大破し、いつ宇宙の藻屑になってもおかしくない程だった。
「この艦はもう保たない。全員、脱出ポッドでギレインの大気圏に突入する!」
ジミーがポーリーに避難警報を作動させる。赤色灯が回る中、ループ放送が繰り返される。
「ヴァルター、すぐにポッドに行くぞ」
「俺のエリシオンが……」
オリガは頭から血を流しながらポッドに向かっていた。
ポッドセクションの扉が開いてヴァルター、ジミーと合流する。
「くそっタブリフターどもやってくれるじゃないか!」
「ボス。ヘンリーとカサンドラはまだ来てないのか!?」
「ポリー!二人の現在地はどこだ!?」
「ヘンリー上等兵はポッドへ向かっており、ディバイナーカサンドラは生命シグナルが消失しつつあります」
「……ブーティーとカサンドラは俺に任せて先に飛べ!これは命令だ!必ず連れていく」
ヴァルターがオリガを促し、ハッチを閉める。二人の乗ったポッドが、ギレインの重力圏へと射出されていった。宇宙服のヘルメットに身を包んだジミーは、悲痛な面持ちで、俺たちのいる区画へと引き返していった。「うぅ……」
俺は呻きながら左眼を押さえ、よろめいていた。タブリフターどもの攻撃で眼球が潰れ、オシャカになったのだ。視界の半分がどす黒く染まる中、通路の先にカサンドラが横たわっているのが見えた。
「おい!カサンドラ!生きてるか!?」
焼けた肉の臭いが鼻を突く。微かに反応はあるが長くは無さそうだ。
「イン…プラント…」
そう言ってカサンドラは手にしていた左眼を俺に渡してから絶命した。
「ヘンリー!インプラントを左眼に接続してください。もう時間はあまり残されていません」ポーリーが焦った口調
で捲し立てる。
船の状況は刻一刻と悪化し、船内区画の半分以上は隔壁に閉ざされ宇宙と同化している。
まだ重力発生装置は稼働している様だが、脱出ポッドまで何とか行かないと結局は宇宙の撒き餌だ。
「ブーティー!カサンドラ!返事をしろ!」ボスのくぐもった声が遠くで聞こえた。
明滅するインプラントからはカサンドラの意識を感じた。深呼吸を繰り返し、意を決する。
スッポリと空いた眼窩に勢いのまま押し込こんでいく。
「ぐあぁああ!」
想像を絶する痛みにのたうち回る。
視神経、脳幹、脊髄に生体光ファイバーケーブルが伸び細胞接続されていく。血が沸騰する感覚と神経への電気信号で意識が飛んでしまいそうだ。
カサンドラの声が脳味噌に直接こだまする。
『リンク完了』
ごちゃ混ぜの記憶と情報が濁流になって頭の中を駆け巡る。
「この子名前は?」
「ヘンリーよ、でもハルって呼んでるのよ」
テオドラと一緒に赤ん坊を眺めている記憶。
「これは…誰だ……」
「大丈夫か!ブーティ!?」
通路の先から駆け寄ってきたボスが、悶える俺の肩を抱き起こす。その傍らで絶命したカサンドラを一瞥したボスの声は、強い悲しみに満ちていた。「カサンドラ……」
大きく揺れる船内にまた爆発音が響く。
「呼吸を止めろ!」
その時、大規模なフラッシュオーバーが通路を吹き抜けた。ボスが俺を庇うようにして、その巨体で覆い被さる。すぐに隔壁が閉じ空気は守られた。
「なんで俺を……」
「よく聞けブーティ。オリガとヴァルターは先に目的地へ向かった……」
「すぐに俺たちも向かいましょ──」
「いや、俺の身体は今の炎でオシャカになっちまった…インプラントの生命維持機能で、辛うじて身体が動いているだけだ……」
「そんな……」 それ以上言葉が出てこなかった。
「お前は貨物室へ行け。レイグ、あれなら単独の大気圏突入が可能だ。賭けだが、それしか方法はない……」
ボスの鮮血が頬を濡らす。
「早く…行け……」見る見る青ざめていくボスの顔は限界に近かった。夥しい量の血がボスの姿を反射している。
ボスは宇宙服の襟元からお気に入りのE-cigを器用に口元へと伸ばし、一口吸い込んで、白い煙をフェイスシールドの内側に吐き出した。一瞬、その煙の奥で、キラリと一筋の涙が溢れ落ちたように見えた。
「次の人生があるならば、今度こそお前を幸せにしてやるからな……」腕の力だけを頼りに事切れているカサンドラを抱き寄せた。
血と炎の海の中にボスとカサンドラを残し、俺は引き返せない通路を貨物室へと歩み出した。
よろめきながら貨物室を目指していると後方からまた大きな爆発音が聞こえた。ボスの居た通路は完全に遮断され無音の中に沈んだ。
「ポリー!いるのか?貨物室までナビをしてくれ!」
「ヘンリー上等兵。あなたが生きていてよかったです。貨物室前の通路は破損により空気がシャットアウトされてい
ます。保護フィルムで一時的に真空空間を通り抜けてください」
少し歩くと丁度隔壁に隔たれた行き止まりについた。「ここの近くにあるバブルフィルムを取り出し全身に塗布してください。数秒程度なら宇宙空間でも生存可能です。急いでください」
「やるしかないな…」
言われた通りに体に塗りたくると、薄い膜が全身を覆い始めた。
「……7秒以内に真空状態から脱してください。これはあくまで目安です。実際のところはもっと短いかもしれません。向こうのエアロックはいつでも開けられる状態で中に入れば、すぐさま酸素をリリースします。どうかご無事で」
頷くと隔壁のロックを解除し扉を両手で押さえつけるような形で足を踏ん張る。これからのことを考えると震えが止まらない。
3、2、1、隔壁ゲートオープン
瞬時に隔壁が開き、宇宙空間へ放出される残り滓の酸素と一緒に通路を駆け抜ける。
1秒、2秒
生身では姿勢制御がうまくいかず前のめりに回転を始めてしまう。
3秒
永遠にも感じられる時間。過去に感じたことのある痛み、孤独、不安、恐怖、負の感情がスコールしてくる。
4秒
このまま俺は死ぬのか…内臓と血液が煮え立つ感覚が指先から伝わってくる。
5秒
『ヘンリー、足を突き出して』誰かの幻聴すら聞こえてきた。ただ何となく懐かしい声。無意識に頷くと次の瞬間そっと足を突き出した。
6秒
船体が攻撃を受け爆発した時に出来た偶然の足場。そこへ必然的に適度な力と角度の衝撃を加え体勢が立て直る。
7秒
隔壁から吸い出された態勢のまま向こう岸の隔壁へ辿り着く。すぐさま貨物室側のロックを解除してエアロック内に入る。すぐさま酸素が補給される。
「短い人生の走馬灯が見えたよ……助かったポリー」
「流石ですヘンリー上等兵。すぐにソウを起動します」
「覚悟を決めるしかないか……」死にそうになったとしても休んでいる暇などなかった。
『オンラインシークエンス正常。パイロット識別完了。装着を開始します』
ナノマシンが俺を包み込み細胞一つ一つを読み取っていく。ディジットフュージョンの電撃が一定間隔で駆け抜ける。
「ぐあぁああああああ!」
皮膚から煙が上がり、精神の臨海点が訪れる。液体と気体と肉体がフラットラインに近づいていく。
痛みに耐えかねて暴れる俺の拳が、厚さ数十センチの鋼鉄の床をゼリーのようにへこませ、破壊していく。
『リンク完了まで残り3工程』
「もう少しです。なんとか耐えてください」ポリーの声もどこか遠くに聞こえる。
インプラントにシェイプシフター適合処理。ダメージソースがデカ過ぎる……
『あなたなら大丈夫よ』カサンドラの声が聞こえた気がした。
眼窩をアイスピックで掻き回すような痛みと、皮膚の焼け付く痛みが和らいでいくのを感じた。優しさと慈愛で包まれている感覚だ。
混濁した精神がハッキリと自我を取り戻し、身体に帰ってくる。
「ヘンリー上等兵。おめでとうございます。確率を超えた奇跡が起きました」
「適合した……のか?」
生きるか死ぬかのフィフティフィフティはどうやら俺に軍配があがった様だ。
「生体スキャン開始。正常。無事なのはきっとカサンドラのおかげです」レイグが話しかけてきたように感じた。
「お前は…ポリーなのか?」
「電力サージでの損傷が酷く、レイグに自身の一部をアップロードしました。バックアップはいつの時代も重要ですね」
「生存能力の高いAIだな」フッと笑う。
「まだ、あなたへのサポートは必要ですからね」
「よろしく頼むよ。早速ここから脱出するか」
「ちょうど近くのジャンプルームから船外へ出られます」
全身をくまなく覆っていたレイグの腕部、脚部、背部がジェットブースターへとトランフォームする。
「これが…シェイプシフターか」
「歯を食いしばってください」
ブースターが点火され、隔壁をそのまま打ち破る。
瞬く間にギレインへと近づいていく。
「大気圏突入する前に行っておくことがあります」
「何か問題があるのか?」
「レイグは長年整備されていなかった為、大気圏突入用フリクションコーティングされていません。その為、生存率は低下。空力加熱に耐えられるか計算するにはデータ不足です。尚、T・D・Eにも多少の誤差が生じる場合があります」
「……リスクは承知の上だ」
ここからはまた大きな賭けになりそうだ。凪いだ心が動き出すのを感じた。
「進入角度、タイミング計算は完璧です。燃え尽きないように、レイグの大部分をよどみ点に集中させます。姿勢制御にまで手が回らないので体勢を崩さないようにバランスをとってください。大仕事になりますよ」
「行こう。ドゥームズデイにはまだ早い」
「大気圏突入プロトコルを開始します。単独ダイブの時間ですよ、ヘンリー」
惑星ギレインの上空に、小さいながらも大きく煌めく、流星群が堕ちて行った。




