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『警告。機体耐久値の臨界突破を確認。警告。直ちに──』
レイグ、持ってくれよ。ただそれだけを念じる。
後方から「何する気だ! やめろ! ヘンリー!」というオリガの裂帛の叫びが追いかけてくるが、俺はその声を置き去りにして、バケモノどもの中枢──ミューニューの歪なトリストに向けてフルスロットルで跳躍を続けた。
体内の微細修復に回しているナノマシンも全てかき集めろ!
脳髄へ思考の電気信号を叩き込む。直後、激烈な痛みがニューロンを駆け抜け、伝令が強制執行されたことを肉体が悟った。視界は一瞬で鮮血の赤に染まり、アドレナリンが電撃となって神経網をハッキングし、痛覚を強引に麻痺させていく。
『戻って! ダメ──!』
カサンドラの悲痛な叫びも、レイグの無機質なアラートも、もはや物理的に破壊された俺の鼓膜には届かない。両耳から熱い血が激しく噴き出す。
だが、不思議と意識はかつてないほどに澄み渡っていた。
この孤独で広大な宇宙に放り出されて以来、ずっと胸の奥で燻っていた揺らぎの正体が、今ならはっきりと分かる。
母となったポリー。守るべきだったサーシャとアイ。背中を預け合える戦友のオリガ、パイロットのヴァルター。俺を庇って戦死したボス。そして、血の繋がりなど超越して俺の魂を支え続けてくれたカサンドラ。
失ったもの、遺していくもの、その全てが今、一つの巨大な因果の波となって俺の胸に押し寄せていた。
「──ララララ~♪ ラララ~♪ ラララ~ララ~♪」
血塗れの唇が、自然とあのメロディを口ずさむ。
恐怖は塵ほどもなかった。目の前では、あのティニーとシェフィーが、まるで全ての呪縛から解放されたかのように楽しそうに笑い、歌い、狂おしく踊っている。俺はただ、そのダークグリーンの歪みの中心へ向かって突き進むだけだ。
光速の領域へと肉薄するにつれ、限界を迎えたレイグが悲鳴を上げ、大気の摩擦で外殻から少しずつ燃え尽きていく。引き伸ばされた一瞬の時間が、まるで無限の階梯のように感じられた。カサンドラが施してくれたディバイブの多重コーティングをもってしても、時空の摩擦負荷は想像を遥かに超越している。
なのに、酷く心地よかった。
かつて暮らした街の雑踏が、喧騒が、激しい耳鳴りと共に脳内で鮮やかに再現されていく。
アカデミーに入りたての頃、まだ周囲の人間が俺を忌避せず、純粋に未来を信じられていたあの日に見た、ひどく美しい世界の景色が網膜の裏を埋め尽くしていく。
(すまない、サーシャ。……約束は、守れそうにない)
偽神の核が眼前に迫ったその刹那、俺はディバイブの出力を限界値まで引き上げ、レイグのナノマシンを媒介にして因果の断絶エネルギーをオーバーロードさせた。
世界が、圧倒的に優しい光に包まれていく。
なんて暖かく、穏やかな光だろう。自分を愛してくれる人に包まれる、そんな安心感を覚える。
「……母さん」
満足感に満たされながら、俺は静かに瞼を閉じた。
***
「なんで、私じゃないんだ……」
胸が、引き裂かれるように苦しい。
純白の光の矢となって地獄の深淵へ突っ込んでいくヘンリーを、私はただ見つめることしかできなかった。過負荷に苛まれた身体は、指先一つまともに言うことを聞いてくれない。
「あの、馬鹿野郎が……!」
やっぱり、みんな私を置いて行ってしまう。
ボスも、カサンドラの奮闘も、ヴァルターが託してくれたこの魂の鎧も、そしてかつてメラが繋いでくれた心も。
私は、これまでの数多の戦場で散っていった全ての同胞、同僚、そして敵味方の魂に向かって、生まれて初めて祈りを捧げた。
頼む、あいつに、あのルーキーに力を貸してやってくれ──!
キィィン、と脳髄を劈く金属音が響いた瞬間、私の肉体を覆っていた装甲が眩い光を放ち、強引に剥離して宙へ舞った。
「ヴァルター……」
鎧を構成していたバラバラのパーツは、空間の裂け目で踊るティピニッドとシェラサファの周囲を囲むように展開し、まるで星の瞬きとなって二人の手向けとなるように激しく輝いてヒビを修復しているようだった。
ヘンリーの放ったディバイブがさらなる大爆発を起こすと、消失したはずのエネルギーの余波が、逆流するように私の元へと激しく突き戻ってきた。
視界の全てが飽和するような暴力的な閃光。その光の渦の中心で、三万年もの間この星を縛り付けていた怨嗟の呪縛が、音を立てて崩壊していくのが見えた。ティピニッドとシェラサファの二つの影が、醜悪な結合を解かれ、本来の美しい魂の形へと還っていく。狂気のダンスも、悍ましい呪詛の歌も、いまや安らかな福音へと昇華されていた。
「──ララララ~♪ ラララ~♪ ラララ~ララ~♪」
聴いたこともないはずの旋律が、私の乾いた口元から自然と溢れ出る。
身体が動く。私はヘンリーが消えた爆心地へ向けて、狂ったように跳躍した。風を切り裂く鋭い風切り音だけが、耳元で激しく鳴り響く。
「ヘンリー! どこだ! どこにいるッ!」
立ち込める濃密な土煙の奥を、力の限り大声を張り上げて探しまわった。
ジャリ、と不格好な肉塊が地面に転がる音がした。
「げ……元気だな……オリガ……」
地面に力なく横たわるヘンリーの姿を捉え、私は張り詰めていた息を吐き出した。
「よくやった……本当によくやったぞ、お前は!」
だが、叩きつけた言葉とは裏腹に、私の声は酷く震え、動揺を隠しきれなかった。
ヘンリーの肉体は、すでに人間の形を留めていなかった。左腕と両足は根元から消失し、顔の右半分はレイグの安全装置が爆発した際の逆流熱によって、ドロドロのガラス状に変貌している。肉と機械が醜く融解し合い、ナノマシンの再構築機能が、虚しいオレンジ色の火花をパチパチと明滅させているだけだ。
どう足掻こうが、現代の、あるいは古代の医療技術をもってしても、彼を繋ぎ止める術がないのは明白だった。
「無理に喋るな。もういい、喋るな!」
ヘンリーの頭をすくい上げ、胸元へきつく抱き寄せる。その瞬間、私の腕に伝わってきた彼の質量は、恐ろしいほどに軽かった。体組織の大半が蒸発し、融解してしまったせいだ。
「ハハ……ツケが、やっと回ってきたようだ……」
「な、何バカなこと言ってんだよ」
ヘンリーを支える私の腕が、ガタガタと震え出す。
──どうして、いつも私じゃないんだ。
視界が急速に歪んでいく。脳裏を過ったのは、血と硝煙に塗れた、あの18年前の戦場の光景だった。
『ジンクス・オリガ』と渾名され、どれほど心を鋼鉄の鎧で覆おうとも、あの日の記憶だけは絶対に色褪せない。眩い光を放つ精霊体のバディであり、誰よりも信頼していた相棒、メラニ。あいつが私を庇い、霧のように消え去った時の、あの圧倒的な喪失感。
ボスも、カサンドラも、ヴァルターも……そして私を庇って逝ったメラも、みんな私に未来という名の消えない重荷だけを押し付けて、勝手に置いていってしまう。
そして今、目の前で、この誰よりも眩しい輝きを放った『期待のルーキー』までもが、全く同じように、私の腕の中で命を散らそうとしている。
「オリガ、一つだけ……頼まれてくれ」
「当たり前だ。なんでも言え。あたしが全部叶えてやる」
死にゆくヘンリーの、ただ一つ残された眼を見据える。常人であればあまりの惨たらしさに目を逸らすであろうその異形を、私は真っ直ぐに受け止めた。
「左眼の、お姫様達と……サーシャを……一緒に連れて、地球へ行ってくれ……向こうに船が──」
「わかった。わかったから、もう喋るな……」
ヘンリーが、キラリと無機質な光を放つ左眼へと、震える指先を伸ばした。そして最後の力を振り絞り──ブチ、ブチブチッ、と、自身の脳髄に直接結合されていた光ファイバーのケーブルごと、アイボールインプラントを引き抜いた。
壮絶な激痛が走ったはずの手元で、ヘンリーの血塗れの口元が、カサンドラの静かな呼びかけに応えるように、かすかに、本当に微かに弧を描いた。
それは冷徹な戦士のそれではなく、最愛の家族に
「もう大丈夫だ」と優しく語りかけるような、ひどく穏やかな、ただの青年の微笑みだった。
私の手に手渡された無機質なインプラントには、引きちぎられた肉片が生々しくこびりつき、まだ熱を持っていた。
「確かに、受け取ったよ。あたしに任せな」
ヘンリーの肉体に激しい痙攣と溢血が始まり、次の瞬間、彼の身体が淡い光の粒子となって、足元からゆっくりと蒸発を始めた。
「眠り姫を……頼んだぜ、オリガ……」
私の腕をすり抜けて、ヘンリーの全身は、ハーフスプリットの裂け目から吹き上げる上昇気流にさらわれていった。
まるで、円形が永遠に連鎖する『七宝』の美しい文様を、崩壊する空へと描くように。
「お前は本当に……最高の、期待のルーキーだったよ……」
こんなに悲しい気持ちになったのは、18年前のあの日以来だ。
堰を切ったように溢れ出し、視界を完全に遮る涙を止める術を、私は何一つ持ち合わせていなかった。




