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「Ξ μν──エクソファス・テンソルが非ゼロとして顕現した世界において、時間の矢は意味を失う。そこに遺されるのは、熱も、光も、思考すらも静止した、閉じられた永遠だけだ」
—— ゼルコヴァ・ハイアード博士によるエクソファス理論発表時、異端派による非公式メモ
ヘンリーたちの周囲で、因果の糸が軋みを上げていた。崩れ落ちた時空のほつれが、強引に元通りになろうとする反動で、世界は激しく揺れ動いている。
道を示したAIの大きな共鳴、万能でいて無力なディバイブの軋り、レイグの無機質な鼓動。そして、非干渉の救済者オパカス・ラパカス。クロイゾネの奔流を全身に纏った『真の翼』と、その化身である偽神。
一般相対性理論の枠組みに照らせば、事象の地平線そのものを外殻として纏うミューニューの周辺は、逃げ場のない超重力領域へと変貌している。完全な静寂へと変換してしまう深淵だった。観測者がその圏内から遠ざかれば、内部の時間の進みは停止したかのように錯覚する。ヘンリー達が見つめていたのは、そんな停滞した時間からこぼれ落ちた、鮮明な残滓だった。
「ヘンリー、集中して。私の声を聞いて」
ノイズの向こうからカサンドラの澄んだ声が響く。
「グッドモーニング、カサンドラ。生きていてくれたんだな。感傷に浸る時間はなさそうだが」
「オリガとミューニューが衝突している中心部は、時空が歪みきった特異点よ。ポリーの推測通り、そこでの時間スケールは、私たちの常識から逸脱している。近づけば近づくほど、時間の奔流は重力に縛られて弛緩し、オリガたちの観測する時間軸へと同期していくことになるわ」
「……あの偽神の嘴を折ってオリガ達と帰る準備は整ったってことだな」
ヘンリーの瞳には、死の淵に立った者特有の不敵な光が宿る。
「ええ。ただし警告しておくわ。境界線を越えれば、この62年間、凍結されていた歳月が『ロード・ディレイ』として、一気に私たちを押し潰そうとしてくる」
「ロード・ディレイ……過去のデータが、現代に追い付こうとするってことか?」
「その通りよ。私たちの肉体という繊細なハードウェアに、62年分の細胞代謝と空間変化のデータが、たった1秒という短尺に『強制ロード』されるの。生身の人間なら、キャパシティを逸脱した情報量に細胞が耐えきれず、焼身するより早く灰も残さず消滅するわ」
「それじゃ戦闘が始まる前にジ・エンドじゃないか」
「ええ、中心部に近づくにつれてシワシワになったと思ったらその次には若返って灰になる」
「そんなの…自殺行為じゃなくて自殺よ……」サーシャが誰に言うともなく呟く。
「確かに、でも、生身ならと言ったはずよ」
「引っかかっていたところだ。対策は?」
「ディバイブの多重コーティングで肉体を保護するしかない。突入したら、オリガとの挟撃で隙を作ってそこからヤツに肉薄し、重力法則を強制オーバーライドさせて、肉体を崩壊させる。私にはそれができる。もうそれしか方法はない」
カサンドラの確信に満ちた口調は、迷いを排した冷徹な決意を示していた。
「無茶な賭けだな。だが、オリガにだけ背負わせるわけにはいかない」
「それが、生き残った者たちの義務ね」
「私が言っても足手纏いになるのは嫌。ヘンリー、カサンドラ、私の命を預けるわよ」
ヘンリーたちが負けることがあったら何れにせよ全滅は免れない。サーシャはそのことを分かった上で覚悟に満ちた顔をしていた。
「でも、それなら私は時間に取り残されたままになっちゃうのかな?」
「いえ、ポリーが言っていたようにここも時期に時間の波が到達するけど、あなたにもちゃんとディバイブのコーティングを施すから安心して」
「ありがとう。でも大丈夫なの?」
「なんのこと?」
「そのディバイブってなんだか負担がすごそうだから……」
「大丈夫よ。二人は私が守るわ」カサンドラの力強い口調は安心をサーシャに与える。
「アイを待っていてほしい。あいつはきっと俺たちを探している。犬は主人の元に戻るもんだろ?」
「……ふふっ。アイリスは犬じゃないわよ」
微かに零れた笑みは、残されるという緊張を強いられたサーシャにとって、かすかな救いとなった。
レイグが光速航行形態へと急速に再構成されていく。艦船の機能美と、人の如き流麗さを併せ持つその姿形は、古代のテクノロジーを媒介に、物理的事象を力任せに掻き分けて進める構造にアップデートされていた。
「人間からどんどんかけ離れていくな」
「生きていれば、形などどうでもよくなる瞬間もあるわ」
「ふっ、それもそうだな」
肉体を失っているディバイナーの無慈悲な真理に、ヘンリーは乾いた笑い声を上げた。
「さあ、行きましょう」
「みんなで必ず、戻ってね……」
「ああ、行ってくる」
音もなく浮上したヘンリーの体躯が、ソニックブームの余韻と共に霧散する。一瞬にして戦域へ到達した彼の姿は、まるで時間そのものから切り離されたかのように、空間にピタリと静止した。
その光景を見送りながら、サーシャは自分に言い聞かせるように独りごちた。
「アイを待つだけじゃなく、私も行動しなくちゃ!」
彼女は、アイリスがヨハンを殺したという事実を、心の奥底では信じていなかった。診療所へ戻った折、ヘンリーが微睡んでいる隙に、アイリスの体へ仕込んでおいたGPSトランスミッターが、今、コンソール上で確かな信号を放っている。
「やっぱり近くにいる。……信じていたわ」
リフトで拾い上げたバックパックを背負い、ライフルを握り締める。
信号はヘンリーの向かった地点とは正反対を指している。足場の悪い荒野を突き進むと、巨大な岩陰が視界を遮った。その背後には、金属成分が溶け出した河川が淀み、浮遊する植物とマグマの熱気が混ざり合う、異様な情景が広がっていた。
「アイ!そこにいるの?」
邂逅の瞬間、サーシャの期待は瞬時に凍りついた。
岩陰の向こうには、全身から血を流し、筋肉組織を剥き出しにしたボロボロのアイリスが、何者かと対峙していた。
「大丈夫なの!?」
アイリスが睨み据える先は、明るいようでいて暗い、視覚を阻害するほどの高濃度のマイアスマで満ちている。
「何が、そこにいるっていうの……?」
銃口を向けるものの、サーシャの直感は何の気配も感知できない。その静寂が、かえって恐怖を煽った。
視界の端、一瞬の閃光が走る。反射的に身を屈めた直後、頭上を掠める肉片。
振り返ると、見たこともない白磁の肌を持つ棒状の物体が地面に転がっていた。それは鮮血を滴らせ、元は人間だった一部であることを雄弁に物語っていた。
「吐き気が……」
恐怖を飲み込み、アイリスの元へ駆け寄る。
「ここから逃げよう! アイ、早く!」
腕を引くが、その巨体は岩のように微動だにしない。
「に……にげ…て……」
ガミガミと濁った声が、喉の奥から絞り出される。
「あなた、喋れたの?」
驚愕している間にも、次なる強襲が飛来した。アイリスはサーシャを抱き抱え、強靭な跳躍で弾幕を回避する。
「があさん…こごは…ぎけんだ……」
覚束ない、赤ん坊のような拙い言葉。しかし、その瞳には明確な意思があった。
「あなたも一緒に逃げるのよ!」
「ダメ…あいづ…だおず……」
サーシャを安全な場所へ優しく着地させると、アイリスは再び敵へと向き直る。
地響きとともに、高濃度マイアスマを切り裂いて巨大な質量が姿を現した。複数の美しい白磁の肉体が、不気味な力で縫い合わされた宙に浮くテトラヘドロン。所々から空洞が現れると、その穴から高速で肉片弾が乱射される。
「もう……何がきても驚かないわよ」
震える声を鼓舞し、サーシャはライフルを構える。弾幕を避けながら、四本の腕を持つ怪物が回避する折、サーシャは違和感を見出した。
「あのトライアングルの後ろ、何かに繋がっているわ」
アイリスは身を挺して彼女を守り、無数に連射される肉弾と対峙している。
「アイ、もう少し近づける?」
「ダメ…があさん…にげで……」
アイリスは強引にサーシャを岩陰へと戻し、単身で闇の中へ飛び込んでいく。
「あなたを置いていけるわけがないじゃない!」ヘンリーたちだって怪物と戦っている。
サーシャは岩陰から飛び出し、テトラへドロンへと三点バーストの銃撃を浴びせる。弾丸は正確にヒットボックスを捉え、白磁の肉体を食い破る。だが、敵は即座に肉が盛り上がるようにして自己修復を繰り返す。
射撃をしながらサーシャはさっき違和感を感じた敵の直下に伸びる、脈動する白い血管のような管に目を凝らした。
「あれが……きっと力の源ね」
「があさん!ダメッ!!」
アイリスの叫びが響き渡った瞬間、サーシャの視界が断絶した。
空間が、静止したのだ。手足を動かすことはできない。物体も動いていない。だが、意識だけは明確に存在している。
「あああ、こんなところにいたのね」
その声は、何百人もの声が重なり合い、空間そのものを震わせる変調した響きだった。
ベンタブラックの影──オパカス・ラパカスが、そこに顕現していた。影がテトラへドロンを愛撫する時、その指先には『かつて自分もシェラサファだった』という、遠い昔の痛みが走る。それは過去の文明が残した悲劇的な感傷であり、彼女という概念が抱える唯一の熱だった。
時間が凍結した戦場。サーシャを襲おうとしていた弾丸は空中で停止し、アイリスの跳躍は重力から解放されていた。
「あれから、幾星霜経ったか」
忌まわしくも、不思議と慈愛に満ちた声。その影は、テトラヘドロンを優しく抱擁し、徐々に自身の襤褸の奥へと吸い込んでいく。
脈動する血管が引き出され、奥底から、無数の人体が詰め込まれた巨大なバイオ燃料タンクが露出した。3万年以上の歳月を超え、かつて自身の同胞たちが組み込まれる運命にあったその光景を、彼女は憐れむように眺めている。
ベンタブラックの影は乗算的に広がり、バイオタンクをも自身の内側へ取り込んでいった。
「あああああああ、あっちにはティニーもいるのね!」
ヘンリーたちのいる方向に向かって言い放つと、影はマイアスマの中へ消えた。
時間が再び流れ出す。ドンッという衝撃とともに、サーシャを襲うはずだった肉弾をアイリスが叩き落とす。
「だいじょぶだった……?」
「う、動けるわ……ありがとう、アイ。さっきのは一体、何を見せられたの……」
戦闘が終わり、静寂が訪れる。サーシャは、アイリスの血で濡れそぼる巨体に抱きついてから、応急処置ナノマシンスプレーを噴霧した。ナノマシンが傷口を浸食し、肉体が急激に修復されていくその過程を、彼女は食い入るように見つめる。
かつて暴走した冷徹な殺戮兵器ではない。今はただ、伝わる温もりが、戦場だった場所の冷気の中では奇跡のように思えた。
「……痛い? ごめんね、もっと優しくするから」
「いだぐないよ」
サーシャの手は小さく震えていた。それは恐怖のせいだけではない。この異形な子を、何があろうと守り抜くと誓った、自分自身の重責に対する震えだった。『母さん』という言葉が、サーシャの胸に温かく刺さる。それはかつて彼女が失った数々のもの、あるいはこれから自分が作り上げていく新しい絆の証明だった。
「ねぇ元のサイズに戻れる?」
「うん……」
元の愛らしい犬の姿に戻ったアイリスが、サーシャの腕の中で丸まり、ロイヤルパープルの美しい毛並みの小さな背中を優しく撫で続けた。
なぜ変身できるのか、なぜ言葉を話せるのか、そんな疑問はもうどうでもよかった。
「帰りましょ、アイ」
「うん……」
「少し休んで」
「うん……ありがどう、があさん」
アイリスを抱き抱えたサーシャは踏ん張って立ち上がる。
この小さくも力強い命を何があろうと守り抜くと、彼女は心に刻んだ。ボロボロになった足取りで、ヘンリーたちとの合流地点の古代船に向かって、力強く歩を進めていった。
母であるサーシャの腕に抱かれたアイリスは、その温かさを噛み締めながら、ひとときの眠りについた。




