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3万年前──。
かつてボルフォン棒渦状銀河の深淵に、ストラクチュアル・アルカディア─構造色の楽園が存在していた。
「ねぇティニー。2周期《年後》後のハイブアップ、本当に楽しみね」
白磁の虚無で満たされた部屋の片隅で、シェルサファ・ラ・パはいつもの優しい微笑みを隣から投げかけてくれた。その響きだけが、暗黒の深海のような日々のなかで、僕の崩れかかった心を繋ぎ止める唯一の錨であり、肉体的な支えそのものであった。
この惑星──〈テラル・パ〉には、厳格にして絶対的な名付けの習慣がある。惑星の全知全能たる存在に準え、正統なる市民の名の末尾には必ず『パ』という尊称をつけなければならない。彼女の名、シェイフェ・ラ・パは、その完璧な血統を証明するものだった。
だが、僕の名はティピニッドだけだ。続く名には『ルー』しか与えられずにいた。それは僕の母が、この星の均整を汚す別の惑星の原住生物であったという動かしがたい事実の証明だった。
僕のような個体は、この社会において『パァウスト(パ無し)』と呼ばれる。言わば庶子、あるいはファルステラなどの排除対象、社会の歯車を狂わせる不穏分子に分類され、徹底的な隔絶や差別を受けるのが常だった。そもそも、僕たちのような混血の不完全個体は惑星上にもほとんど存在しておらず、その過酷な環境と生存拒絶のシステムのなかで、20周期を数える頃には死亡しているケースが大半を占めていた。
「そうだね……。でも、このままだったら僕は、シェフィーと一緒にはなれないかもしれない」
喉の奥から絞り出した言葉には、隠しようのない哀しさや辛さが、ドス黒い澱のように表情へ滲み出していた。
「何言ってるのよ! そんな弱気じゃダメじゃない! 私たちは必ず、一緒にハイブアップできるわ。そう信じましょう」
シェフィーはそう言って、僕の醜い首の根元に、彼女の滑らかな皮膚の首をそっと巻きつけ、慰めるように何度もさすってくれた。一つの体を共有する彼女の温もりがダイレクトに伝わってくる。だが、ティピニッド──僕は、自分がハイブアップされる可能性など、これっぽっちも残されていないことを誰よりも深く理解していた。
このボルフォン棒渦状銀河の頂点に君臨する知的生物の進化形態──『マモワ・パ』は、すでに不老不死や無病、無労働などの神の域に到達していた。そして彼らは、恐るべき最終結論に達してしまったのだ。「肉体などは、ただの物理的無駄、精神の足枷に過ぎない」と。
おおよそ2周後《日後》から正式スタートする、銀河系の全マモワ・パを対象にした大儀式。意識だけを特異点電子殻『クロイゾネキューブ』にハイブアップし、マモワ人の知性を均一に統合する──『ファイナルエヴォルーション』へ、この星系のすべてが移行しようとしていた。
だが、パァウストであり、ノンジェニュイン─非純正である僕が、その全次元的ユートピアの対象外であることは、システムの冷徹な数式がとうの昔に弾き出していた。
そもそも、ハイブアップに向けての一番のバグは、僕たち二人がオルサドゥであること自体だった。
テラル・パ種族の遺伝子は強烈な支配因子を持っており、外見が均整の取れた白磁の肉体に固定され、胎生で産まれることが絶対の規律だった。しかし、僕たちの母の持つ卵生の遺伝子が、何の因果かその支配因子に勝利してしまったのだ。その神秘的かつ呪われた誤算が起因となって、僕たちは『純正』と『非純正』の完全スプリット個体として、この世に生を受けてしまった。
首から下は、完全に一つだった。
下方に広がる無数の触手脚が、二人の意思を曖昧に統合し、せめぎ合いながら、無機質な高分子床を滑るように進む。メビウスの輪を描くようにねじれ、不格好に膨らんだ胴体からは、乾燥を防ぐためのライムグリーンの分泌液が常に微かに滴り、部屋の空気をまるでお香のような甘い湿気で満たしていた。それ自体が、彼らの社会から見れば『汚物』の垂れ流しだった。
そこから上に向かって伸びる二つの首は、あまりにも残酷な非対称を示していた。
右側の首の先にあるシェフィーの顔は、滑らかな大理石のような皮膚と、慈愛に満ちたテラル族の完璧な美を宿していた。対する左側、僕の顔は、母の粗雑な野生の血を引く、忌々しい羽毛に覆われ、先が鋭く曲がった醜い嘴が突き出ている。
「今日のご飯は何にする?」
シェフィーが小首を傾げ、僕の嘴に彼女の艶やかな頬をそっと寄せながら、愛おしそうに小さな声で言った。一つの体を共有しているがゆえに、彼女の首が傾くと、僕の視界も連動して僅かに引っ張られるように傾く。
「ハイブアップまでオーガニックマテリアルが持つかしらね」
だが、そんな他愛無い会話ですら、今の僕の脳にはまともに入ってこなかった。心身ともに、僕はひどく憔悴していた。
いまやこの惑星において、『ご飯を食べる』という有機的な生命活動自体が、著しく前時代的で、不潔で、エネルギーの不当な浪費行為とみなされていた。街を行き交う『パァロウル(パ有り)』の純正市民たちは、すでに神経インプラントを介してナノマシンの微清液を摂取するだけで全ての代謝を完了させており、固形物を咀嚼することも、そこから不浄な排泄物を出すこともしない。
「私ね、ティニーと一緒に産まれてきて、こうして同じものを食べて、同じ体温を分け合って生きてこれて、本当によかったと思ってるのよ」
彼女の言葉と同時に、僕たちの共有するたった一つの胃袋が、キュウと切なく収縮した。それは彼女の胸の奥から溢れ出た温かな感情が、共有された自律神経の束を伝って、直接僕の肉体へと融け込んできた確かな証拠だった。脳は別でも、肉体は彼女の愛を拒めない。
「なんで……なんでそう思うの? 僕が隣にいて、邪魔じゃないの? だってみんなは普通に、単一の美しい存在として産まれてきて、肉体の排損も出さずに、クリーンに一生を終えるんだよ? 僕たちのこの姿は、彼らにとって……」
「何言ってるのよ」シェフィーは僕の言葉を遮るように、さらに首を擦り寄せてきた。「あなたがいたから、私はこの冷え切ったシステムの世界で、記号にならずに『自分』でいられたんじゃない。ティニーは私の唯一の家族で、私の生きる半身なのよ。わかってるでしょ」
「そうだね……」
僕は嘴を小さく開閉させ、それ以上の言葉を飲み込んだ。
かつて、父さんと母さんは、僕たちがどれほど異形なオルサドゥであっても、命を賭して愛してくれた。だけど、そんなパァウストの子供を育てる親を、周りのパァロウルたちが黙って見過ごすほど、このユートピアは甘くはなかった。
白磁のように均整の取れたテラル・パの美しい街並みを、僕たちの無数の触手脚が這うたび、周囲のパァロウルたちはあからさまに嫌悪の視線を向け、自身の空中情報端末を冷酷にタップした。
彼らマモワは高潔で洗練されているがゆえに、決して僕たちを直接殴ったり、野蛮な言葉で罵倒したりはしない。ただ、システムを通して都市景観における不衛生なエラーとして淡々と通報するのだ。
僕たちが通り過ぎた数秒後には、必ずけたたましい電子アラートと共に、白く平べったい自動衛生ボットが背後から飛来した。そして、僕の不完全な皮膚から滴り落ちたライムグリーンの分泌液や、抜け落ちた粗雑な羽毛を、強烈な化学殺菌剤でシュウシュウと音を立てて焼き払った。
ボットが撒き散らすエラー排除剤の鋭い刺激臭は、僕の鳥類の嘴と未発達な呼吸器を激しく痛めつけ、激しい咳き込みを誘発した。そんなとき、隣のシェフィーはいつも涙を流しながら、自分の白い首を僕の頭部に巻きつけ、必死に庇ってくれた。僕たちはただ街を歩くだけで、この汚れなきユートピアを冒涜する、移動式の廃棄物だったのだ。
さらに容赦がなかったのは、僕たちに「食事」──固形物の栄養を与えようとした両親への、静かな社会的抹殺だった。
パァロウルたちの正義において法案が可決される前からあった同調圧力。僕たちの唯一の胃袋に有機的な固形物を詰め込む行為は、惑星エネルギーの不当な私物化であり、醜悪な体内代謝を肯定する大罪、すなわち文明への反逆だった。
近隣住民からの絶え間ない、執拗な通報により、父さんと母さんの市民ネットワークの利用帯域は極限まで制限された。買い物の権利も、移動の自由も奪われ、最終的には彼らのインプラントへの医療用ナノマシン配給が、生存限界の枠まで削られた。
「気にするな、ティニー、シェフィー。お前たちは私たちの唯一の宝物だ」
そう言って、ナノマシン欠乏によって皮膚がカサカサに干からび、見る影もなく痩せ細っていく首を振りながら、父さんと母さんはいつも僕たちを細い腕で抱きしめてくれた。
エネルギーのすべてを、社会から見捨てられた僕たちに回し、文字通り自らの肉体を擦り減らして、両親は40周期を迎える前に静かに逝った。パァロウルたちは、直接手を下すことなく、システムという目に見えない無菌の刃で、両親を緩やかに殺したのだ。
文明の発達は加速を続け、厳格に管理されたユートピアとして、ボルフォン棒渦状銀河のテラルに属する全ての惑星系は、一つの巨大な『カーディアウヴァスキュラ(惑星循環回路)』として完全なネットワークを構築した。
そして、極限まで行き着いた文明のマモワ・パ族の生存必要タスク──すなわち「生きるために必要な全ての肉体的活動」の完全抹消を第一プロセスとして、テラヴァラス立法布告会から当然の如くそれに伴う新たな法律が制定された。それこそが、僕たちの存在そのものを全否定する死刑宣告だった。
【有機個体機能禁止及び精神完全移行法】
(通称:ファイナルエヴォルーション強制執行法)
第一条(エネルギー獲得及び代謝行為の禁止)
すべての個体は、外部からの有機物(栄養素)の摂取、気体の吸引(呼吸)、及びそれに伴う体内代謝行為(以下「肉体的生命維持活動」という)を行ってはならない。
代謝によって生じる排泄、放出、及び排熱行為は、環境空間の汚染およびエネルギーの著しい浪費(物理的排損)とみなし、これを厳級に禁じる。
第二条(恒常性維持及び環境適合の禁止)
個体が自律的に体温、水分量、浸透圧等を調整し、外部環境に抗う行為(恒常性の維持)を禁止する。
外部環境の変動に対し、肉体的な防護措置(発汗、震え、クチクラ層の自己強化等)をとることを禁ずる。すべての個体は、物質としての肉体の劣化および崩壊を拒んではならない。
第三条(自己防衛及び物理的完全性死守の禁止)
外部からの物理的損壊に対する免疫反応、並びに傷口の自己修復(凝固・癒合)など、肉体の完全性を維持しようとする一切の生物学的抵抗行為を禁止する。
脅威からの逃亡、隠蔽、擬態行為を禁ずる。肉体の消滅を不当に遅延させる行為は、星全体の進化プロセスに対する遅延行為とみなす。
第四条(有機的情報受容及び自律的意思決定の禁止)
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚など、有機知覚センサーによる主観的環境情報の受容を禁止する。これらはデータエラーおよび精神的ノイズの温床である。
生物学的脳器官または神経系を用いた、個体特異的な自律的意思決定(本能的反射及び独自の行動選択)を禁ずる。
第五条(能動的移動及び肉体メンテナンスの禁止)
骨格および筋肉を用いた、空間内における能動的な移動を禁止する。
細胞修復および疲労回復を目的とした「睡眠・休眠」を禁止する。意識の遮断および再構成は、第七条に定める完全移行プロセスの過程においてのみ許される。
第六条(遺伝子情報の継承及び新規肉体生産の永代禁止)
交配、産卵、胎生、分割生、その他一切の自己複製行為(生殖)による、新規の有機肉体の生産を永代禁止する。
次世代個体に対する防衛、給餌、及び育生行為は、肉体という「物理的無駄」の再生産および固定化とみなし、極刑に処する。
第七条(ファイナルエヴォルーションの強制履行義務)
・すべての個体は、本法に定める肉体活動の禁止に伴い、速やかにその全意識・精神データを「クロイゾネキューブ」へと完全アップロード(以下「ファイナルエヴォルーション」という)させなければならない。なお、当該ハイブアップの完了を条件として、データ移行元となった有機的実体に係る占有、管理、処分、その他一切の物権的請求権を含む包括的権利義務関係は、テラヴァラスへと当然に承継されるものとする。
・指定期日までにファイナルエヴォルーションを完了しない個体、あるいはアップロードを拒絶・遅延させる個体、または非選別者(パァウスト、ノンジェニュイン等の非純正個体を含む)は、すべて「ミシフィト(不適合者)」と定義し、順次、強制的な肉体解体、および精神データの強制消去処分に処するものとする。
この悪法が世界を覆いつくすと同時に、物流や製造、インフラに至るまでありとあらゆるものが完全なオートメーション化へと切り替わった。僕たちには働く義務すらなく、ただ生命活動を停止するファイナルエヴォリーションのその日まで、余暇だけを与えられて飼い殺される日々が始まった。
「こんなの馬鹿げてる。生活は確かに豊かになったかもしれない。だけど、個性を捨てて、全員が肉体を捨てて一つに溶け合うなんて……まるでそんなの…集団自殺じゃないか……」
「そうね……。でも、これでみんなが争うこともなく、傷つくこともなく幸せになれるのなら、それはそれでいいことなんだと思うの」
「……シェフィーがいれば、僕はどんな世界でもなんとかなる気がしてきたよ」
フゥ、と僕は諦めにも似た、重いため息をついた。
いくら首から下を共有する同化存在とはいえ、僕たちの脳は別物であり、思考を完全に共有しているわけではない。つまり、性格も、物事への捉え方も、全く違っていて別の人間であると言ってもよかった。言葉を選ばずに言えば、僕たちは互いにとって『ストレンジャー』だと……。
いや、そんな冷酷なことを考えるのはよそう。シェフィーは僕にとって唯一の家族であり、この世界で異常とも思えるほどに僕を愛し、優しさを注いでくれる光なのだから。
「ふふふ。実はね、ティニー。私、とってもいい考えがあるんだよ」
シェフィーは僕の嘴の横を指先でトントンと叩きながら、また悪戯っぽく優しく笑った。
「いい考えって、何だい?」
「んー、それは後のお楽しみ! ねぇティニー、気分転換に少し外に出ない? ずっとこの部屋にいたら、暗いことばかり考えちゃうわ」
胸の奥を焦がすような、言いようのない焦燥感や不安を抱えたまま、僕は彼女の快活な声に促されるようにして部屋を出た。
それからの日々は、嵐の前の静けさのように、特に慌ただしいこともなく、ただ滅びへと向かう砂時計の砂が落ちるように、冷徹に時間だけが過ぎ去っていった。
ハイブアップの強制執行まで、あと1周期──。
街の様子は、狂気的なお祭り騒ぎに包まれていた。
「新たな法律が制定されました!」「ハイブアップが各特区で順次開始されています!」「ファイナルエヴォルーション完了まであと僅か♡」「さあ、みんなでひとつに!」
どれもこれも、工場で大量生産されたかのような不自然な笑顔を浮かべた著名人たちのAR広告が、空中交通機関の窓に、超高層ビルの巨大なホログラム看板に、ありとあらゆる街頭の隙間に溢れ、絶え間なく明滅している。
僕は、どこに行っても網膜に強制介入してくるその悪法のコマーシャルに激しい嫌悪を覚え、嘴を固く結んだまま、一言も喋らずに触手脚を動かしていた。
「私たちの住むこの区画が、最後のアップロード区画だってさ。流石にちょっと緊張してきたね」
「シェフィー……僕、ずっと考えていたんだ」
虚ろな看板を見上げる彼女の言葉を引き取るように、僕はようやく、何日も腹の底に溜め込んでいた重い口を開いた。
「何よティニー。そんなに思い詰めたような顔をして、一体どうしたの?」
「……このボルフォン銀河系から、逃げよう」
意を決して、言葉を吐き出した。僕たちの共有するただ一つの心臓が、ドクン、と狂ったように鼓動を速めた。血流が激しく逆流するのを感じる。
「……ティニー。それが、どんな意味かわかって言っているのよね?」
シェフィーの優しい顔から一瞬で笑みが消え、その鋭い目付きが僕を射抜いた。彼女は綺麗な白い歯をギリ、と音を立てて食いしばった。
「もちろんだとも! わかっているさ! このままここに残っていれば、ハイブアップの瞬間に、僕たちは同化存在であることを理由に無理やりセパレーションされる! システムにとって僕は非純正のエラーなんだから! そうなる前に、僕と、港に隠されている最後の有機交易船に乗り込んでここを脱出しよう。外の未開拓銀河へ行けば、肉体を持ったまま、僕たちは死ぬまでずっと一緒だ!」
どれほど絶望的で、辛い選択であるかは百も承知だった。僕たち二人にとって、テラル・パの超文明がもたらす生命維持システムやナノマシンの恩恵は、生存するために欠かせない体の一部であるという事実は変えられない。外の未開拓な暗黒宇宙に飛び出すことは、緩やかな死を意味するかもしれないのだ。
「いつもあなたが思い詰めた顔をしていた理由が、ようやく納得がいったわ。もっと早く言ってくれればいいのに」シェフィーの表情が、少しだけ和らいだ。
「でも、ティニー。私に『いい考えがある』って言ったのを覚えている?」
「うん。そういえば、それはどういうことなんだい? 僕のようなパァウストが、この星のシステムから逃れる方法なんて……」
「以前、私たちが街の裏路地で助けた、あのマモワのお爺さんのことを覚えている?」
「ああ、もちろん覚えているよ。でも、それがどう関係するんだ?」
慈愛に溢れ、その存在自体から聖なる優しさを常に解き放っているシェフィーは、時に異常とも思えるほどに自己を犠牲にして他人を助ける。それは僕にとっては尊く、同時に恐ろしい本能だった。
ちょうど4周期前の外出時、僕たちはボロボロになって倒れている一人の老人を見つけた。事故に遭った形跡があり、体内を維持するための医療用ナノマシンの大部分が外部に流出し、完全に欠乏していた。一目見ただけで、もう助からないと思えるほどの致命的な損傷。
そんな絶望的な状態でも、彼を救う唯一の手立ては存在していた。それは、僕たちの体内を循環しているナノマシンを、直接その老人の体内へと移譲することだった。
もちろん、そんなことは簡単にやっていい話ではない。オルサドゥであり、不完全な肉体を持つ僕たちの命もまた、常にそのナノマシンによる強制的な細胞修復によってかろうじて生かされている状態なのだ。そして何より、そんな高深度の処置が可能な医療設備はこの場にない。
それに、他人に自分たちのナノマシンを分け与えるということは、僕たちの生物学的な『死の境界線』を超えることを意味していた。
そのハイリスクが分かりきっている状態であるにもかかわらず、彼女は「ティニー、ごめんね」と短く謝ると、僕の制止を振り切って、すぐさまナノマシンの移譲を開始したのだ。
僕は、そんな自己犠牲の塊のようなシェフィーを心から誇りに思っていたし、彼女の命の輝きを信じていたから、途中からは何も言わずにその痛みに耐えた。
シェフィーは、テラル族のなかでも極めて稀に発現する『サイコディバイン─精神神聖力』の異能を使って、僕たちの共有財産である体内のナノマシンを強制的に抽出し、瀕死の老人の傷口へと移し替えていった。そのおかげで、老人はかろうじて一命を取り留めた。
だが、その代償として、今度は僕たちが瀕死の重体に陥った。かろうじて現場に間に合った都市救急隊によって、緊急のナノマシン補給を受けなければ、僕たちは間違いなくあの場で絶命して、ただの肉の塊になっていただろう。あのお爺さんの口添えが無ければ補給すらも危うかった。
そんな地獄のような状況を経験したというのに、彼女は治療カプセルのなかで、ずっと『人の助けになれたこと』を心から喜んでいた。そして、その聖母のような笑顔を見た僕もまた、救われたような気持ちになり、嬉しかったのだ。彼女の底なしの優しさこそが、僕にとっても、この冷酷きわまるシステム世界における唯一の救いだったからだ。
「あのお爺さんがね、実は『テラヴァラス』の一員だったらしいのよ」
シェフィーの口から飛び出したその名前に、僕は息を呑んだ。
「本当かい!? テラヴァラスといえば……この星のすべての法律を決定する、最高決定機関の最高幹部じゃないか!」
「そういうことよ。あのお爺さんが、私のサイコディバインの力と、私たちの境遇を知って、裏から手を回してくれるって約束してくれたの。特別に、私たちの同化肉体をそのまま保護し、ハイブアップの対象から外して、別の星の永久管理区域で生きられるように市民籍を書き換えてくれるって。だからティニー、危険を冒して宇宙に逃げ出す必要なんてないのよ。あなたと私は、これからもずっと、この豊かな星で一緒にいられるわ」
「ああ……なんということだ……!」
僕は己の浅はかさを恥じ、隣の半身を首で強く抱きしめた。
「自分勝手で、視野が狭小だった僕を許してくれ、シェフィー。君の優しさが、僕たちの未来を救ってくれたんだね……」
希望が見えた。これで僕たちは引き裂かれることもなく、暗黒の宇宙でのたれ死ぬこともなく、永遠の安泰を手に入れたのだと確信した。
だが、その朗らかな幸福の気分は──一転して、次の瞬間に、底知れぬ暗闇の深淵へと引き摺り込まれた。
ガガガガ、と、部屋の気圧が急激に変化した。
前触れもなく、特殊作戦用メカユニット部隊──『テラリス』が、僕たちの住む無機質なアパートの空間へと転送され、強制急襲を仕掛けてきたのだ。
凄惨な銃声も、ドアを暴力的にぶち破る破滅の足音なども、一切聞こえてこなかった。それが逆に、洗練されたシステムの恐ろしさを物語っていた。彼らが放ったのは、純粋なテラル人の神経系にのみ絶対的な効力を発揮する、気化された無色無臭の特殊麻酔薬だった。
「あ、れ……ティ、ニー……?」
シェフィーの美しい瞳の焦点が急速にボやけ、彼女の首がガクリと力なく垂れ下がった。一瞬にして、彼女の意識が深い闇へと奪われていく。
だが、遺伝子の半分がノンジェニュイン──異星の原住生物の血を引く僕の頭部だけは、そのテラル人専用の麻酔薬に対して奇妙な抵抗力を示し、激しい頭痛のなかで、混濁した意識を狂おしく保ち続けていた。
動かない体を必死に震わせようともがく僕の視界の中で、テラリスの冷徹な鋼鉄の腕が動いた。
パチチチチ、と、極薄のレーザーカッターの青白い光が、僕の瞼の内側を容赦なく照らし出す。
「──重要確保第一検体確認。対象のセパレートを開始する」
機械的な合成音声が、冷酷に空間に響いて間もなく。
「任務完了。これよりテラヴァラス直属のクロイゾネ・コアへと帰還します」
テラリスの手によって、眠るように美しいシェフィーの頭部だけが、肉体から一分の狂いもなく切り離され、深緑に輝く無菌の保護カプセルへと丁寧に回収されていく。
残された僕の頭部と、最愛の主を失って、切り口からライムグリーンの体液をドクドクと噴き出しながら痙攣する巨大な肉体は──用済みの、不潔な医療廃棄物のように、高分子の床へと無造作に蹴り転がされた。
「ぁ……あ、あ……っ!」
声にならない悲鳴が、嘴の隙間から泡となって漏れ出る。
薄れゆく視界の端で、カプセルに収められたシェフィーの、あの嘴のない、滑らかで完璧なテラル族の輪郭が、無音のまま眠ったように静かに遠ざかっていく。
その時、僕の脳裏を絶望的な理解が駆け抜けた。
あのお爺さんも、最初からこうするつもりだったのだ。テラヴァラスの重鎮として、サイコディバインの異能を持つ『純正』の彼女だけをサンプルとして救い、クロイゾネキューブの特異点へと組み込むために。その足枷でしかないパァウストの僕を、最初から肉体ごと切り捨てるために、僕たちの居場所を特定したのだ。
すべては欺瞞だった。彼女の聖母のような優しさすら、惑星システムは利用し、僕から彼女を奪い去った。
「シェ、フィ……──────」
ドス黒い、宇宙のすべてを呪うような激越な拒絶の感情が、僕の脳細胞を焼き尽くす一歩手前で──僕の意識は、光の届かない完全な闇、永劫の憎悪の深淵へと、真っ逆さまに沈頭していった。




