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時層剥離 ── The Detachers ──  作者: 高槻全壱
CHAPTER 5 [ Jet Lag ]
15/22

3

 ポイント・オブ・ノーリターン──回帰不能点。

 地上に引き返すことはできない場所まで、俺たちは来てしまっていた。


 加速していく産業用リフトの重厚な駆動音が、奈落の底めがけて容赦なく響き渡る。頭上を完全に埋め尽くした何トンものコンクリートと鉄骨の瓦礫は、地上の地獄を切り離す防壁であると同時に、俺たちをこの暗黒のシャフトへ閉じ込める棺桶の蓋でもあった。


 流れる壁面を、太い高圧ケーブルや錆びついた配管が目まぐるしく上方へと通り過ぎていく。時折、リフトの金属床が激しく軋み、サーシャはそのたびにアサルトライフルのストックを強く抱きしめて身を硬くした。彼女の小さな身体には、化け物どもの黄色い体液と、硝煙の煤が痛々しいほどこびりついている。


 沈黙が、耳鳴りがするほど重かった。俺は網膜の端で明滅する義眼のシステムログからあえて視線を外し、乾いた喉を鳴らして声を絞り出した。


「……この呪われた惑星から無事に脱出できたら、どこか行きたいところはあるのか?」


 不意に口から出た唐突な問いかけに、サーシャは一瞬だけ丸い目を大きく見開いた。それから、ひび割れた唇の両端を無理やり吊り上げ、ひどく儚い、今にも壊れてしまいそうな笑顔を浮かべた。


「私はね、ここで生まれたのよ。このギレインが、私の世界のすべてだったわ……。だから、ここ以外の場所なんて、私、何ひとつ思い浮かばない。想像もつかないの」


 彼女の声は、細い糸のように震えていた。生まれ育った入植地が異形の怪物たちに蹂躙され、地獄へと変貌していくさまを特等席で見せつけられたのだ。故郷を失った少女の絶望は、俺のような最初から孤独だった人間には、本当の意味で推し量ることはできないのかもしれない。


「全てが終わったら……地球へ、行ってみないか」


 俺は、自分の口から出た言葉に少しだけ驚きながらも、言葉を続けた。


「地球……ヘンリーの生まれ育った星なの?」


「ああ。……俺にとって思い入れのある故郷ってわけじゃないんだがな」


 俺は自嘲気味に笑い、暗闇の奥を見つめた。


「──『The Land of the Rising Sun(日出づる国)』。そう呼ばれる、信じられないほど美しい極東の島国があるんだ。そこには明確な四季というものがあって、春には薄桃色の花が咲き乱れ、夏には眩しい緑が山を覆う。秋には木々が炎のように赤く染まり、冬にはすべてを白く包み込む雪が降る。海には牙や触手のない、本当に美味い魚たちが群れをなして泳ぎ、夜になれば、寄生生物のクリック音じゃなく、静かで優しい波の音だけが聞こえる場所だ」


「薄桃色の花……。炎のような、木々……」


 サーシャは俺の言葉を一つひとつ確かめるように呟いた。彼女の脳裏に、かつて父親が語ってくれたかもしれない、あるいは古い電子書籍で見たかもしれない、お伽話のような地球の情景が結ばれていっている。


「綺麗な響きの国ね。本当に、そんな天国みたいな場所があるの?」


「ああ。ただ、俺も実際の景色を見たことはないんだ。産まれてからすぐに親元から離れてハイエナに育てられた。そこを抜け出して入った軍の使い捨ての駒として、宇宙の最果てまで送り込まれてきたからな。いつか、この目で見てみたいと思っていた」


 クスクスと、サーシャの喉から小さな笑い声が漏れた。その瞬間だけ、彼女の顔を覆っていた強硬な恐怖の仮面が剥がれ落ち、本来の年相応な少女の表情が戻ったように見えた。


「ふふ、ヘンリーって不思議な人。自分で行ったこともない国を、そんなに自慢げに話すなんて」


「ハハ、まあな。だが、約束しよう。ここを生き延びたら、その『日出づる国』へサーシャを連れて行ってやる。レーションじゃない、本物の美味い魚を一緒に食おう」


 そう言って俺が肩をすくめると、彼女の表情はさらに和らいだ。しかし、その微かな暖気が地下の寒気に溶けて消える前に、俺の左眼──換装されたカサンドラの義眼が、不吉な高熱を帯びて微振動を始めた。

 ジジ……ジジジ……。

 幾何学的なフラクタル構造の光粒子が、俺の左眼から出番を待っていたかのようにホログラムとして空中へ投影され、歪に収束していく。現れたのは、あの40代前後の理知的で、どこか冷徹なオーラを纏った女性の姿。ポリーだ。彼女のホログラムは、リフトの激しい揺れと同調するように、細かなノイズの横線を走らせていた。


「お二人とも。少し、論理的な話をしてもよろしいでしょうか」


 その静かで抑揚のない、だがひどく厳かな声のトーンに、俺の背筋に冷たいものが走った。


「ポリー、急に改まってどうしたんだ? また上から化け物でも降ってくるのか?」


「どうかしたの、ポリー?」


 サーシャもホログラムを見上げる。ポリーは感情を一切排した機械的な視線を、まっすぐにサーシャへと向けた。その視線の冷たさが、これから語られる事実の重さを予感させた。


「私が再起動してからここに来るまで気の抜けない状況でした。今も同じ状況とはいえ、差し迫る脅威は感知されていません。そこでサーシャ。あなたは、メディカルポッドにて欠損した腕の再建手術を受けたと発言していました

ね。そして、その後にヘンリーがサーシャを起こした、と」


「ええ、そうよ。この通り、傷跡ひとつなく元通りになったわ。パパの会社の開発した最新鋭のポッドだったから」


 サーシャは自身の右腕を動かしてみせる。滑らかな肌は何の異常もないように見えた。そしてどうも要領をえない話だと思い始めた時、俺はサーシャを起こす前のことを思い出した。


「私が起動した時に、診療所の施設コンピューターと同期した際、そのメディカルポッドの深層稼働ログをサルベージ、および解析しました。そこから導き出された確定的な事実を伝えます。──あなたの右腕の再建手術が完了した前の話ですが、当該施設はレベル5の深刻なバイオハザードを検知。施設全体のロックダウンが実行される前に何らか人為要因により強制シャットアウトを受けていました。そして、サーシャ、あなたがポッドの使用をコンソールに入力したことにより再接続されたとあるプロトコルが発動しました。再建手術と同時に、ポッドは被験者──つまり、あなたを未知の汚染から保護するため、自動で『長期コールドスリープモード』に移行したのです」


「コールドスリープ……? マイアスマからの保護?……どういうこと?」


 サーシャの眉が不審げにひそめられる。ポリーは容赦なく、その電子の唇から数字を紡ぎ出した。


「計算は極めて単純です。現在、あなたがポッドに収容されてから、ギレインの地表時間で【62年と4ヶ月】が経過しています。ヒト族の一般的な寿命、および新陳代謝の限界値から換算すれば、これはかなりの年月です。現在のギレインの完全なる荒廃状況、および生存可能領域の消滅を鑑みても、あなたの知人、同級生、そして──」


 ポリーの言葉が、そこでわずかに途切れた。いや、意図的に演算を止めたのだ。だが、それ以上の言葉は不要だった。


「……え?」


 サーシャの呼吸が、ぴたりと止まった。

 彼女の顔から、文字通り急速に血の気が引いていく。血色の失われた肌は、まるで出来の悪いガラス細工のように不自然に強張り、目元が大きく見開かれた。

 頭の中で、点と点がおぞましい速度で結びついていく。


 診療所がなぜあそこまで土埃に塗れ、荒廃しきっていたのか。軍の施設がなぜ放棄されていたのか。そして──彼女が大事に持っていたホログラフィ写真の中で微笑む父親が、なぜ自分の記憶よりも、やけに白髪混じりで年老いていたのか。

 彼女にとってのついさっきは、この惑星にとっては半世紀以上も前の過去だったのだ。


「パパは……。パパは、私が眠っている間に、あんなに、おじいちゃんになっちゃって……。それで、みんな、もう……いないの……?」


 サーシャは口元を両手で抑えたが、そこから漏れ出る悲鳴を止めることはできなかった。


「う、嘘よ……嘘よポリー! だって、パパは、私の腕を治して、ポッドに隠れていなさいって、そう言って笑ってくれたのよ!? そんな、60年も経ってるなんて、そんなの、おかしいわ……!」


 彼女は崩れ落ちるように床に膝をついた。激しい過呼吸が彼女の胸を痛めつけ、小刻みに、そして狂ったように五体が震え始める。床の冷たい金属面に、彼女の目から溢れ出た大粒の涙が、ぽたぽたと染みを作っていった。


「残念ですが、サーシャ。これが客観的な現実です。データは嘘をつきません。それによるとそもそも当時、あの場にはあなた一人しかいなかったはずです。おそらくコールドスリープのアフターエフェクトで記憶の混同があるようです──」


 ポリーの声には、慰めも同情もなかった。それが人工知能の限界であり、同時に彼女の誠実さでもあった。


「……クソッ!」


 俺は血が出るほど強く拳を握りしめた。天涯孤独の寂寥《せきりょう》なら、俺は物心ついた時から嫌というほど知っている。誰もいない暗闇に取り残される恐怖も、頼れる背中がこの世界に存在しない絶望も、ドブ水の中で嫌というほど味わってきた。だが、それを今、この瞬間に、前触れもなく突きつけられたこの少女に、かけるべき言葉を俺の壊れたボキャブラリーから見つけ出すことはできなかった。


「俺たちが出会えたこと自体が、奇跡だったんだな……」


 絞り出した俺の声は、リフトの駆動音に虚しく吸い込まれて消えた。それ以上の言葉は、今の彼女にとってはただのノイズでしかなかった。

 サーシャが声を押し殺して泣き続ける中、リフトはさらに深く、地殻の奥深くへと沈み込んでいく。冷たい静寂を破り、ポリーのホログラムが俺の正面へと移動した。


「ヘンリー上等兵。あなた自身も、置かれている状況をよく論理的に思考してください。サーシャのケースは特異ですが、あなた自身のタイムログにも、深刻なエラーが記録されています」


「そうだろうな……」


「あなたの所属する第十七哨戒部隊The Fewのオリガ軍曹、およびヴァルター少尉は、通常通りTDEの制御によってこの惑星ギレインの重力圏に降下し、作戦行動を開始しています。作戦開始からの経過時間は、彼女たちの主観時間、および軍の標準時において、まだ【数時間から十数時間】の枠内です」


「……二人は脱出艇で、俺より前にエリシオンから射出されているはずだ」


「あなたとサーシャが今、同じ時間軸に存在し、この会話を行っているという事実は、物理学的な矛盾を示しています。つまり、あなたはギレインへの大気圏突入時のトラブル──あの激しい断熱圧縮と重力異常──によって、時空の位相が激しくスライドし、あの二人とは【全く異なる時間軸】、すなわちオリガたちのいた時代から数十年も未来のギレインに着陸してしまっているのです」


「……やはりか」


 改めてポリー言われて、感じていた取り返しのつかないジェットラグの事実を認めざるをえなかった。いつもの軽口や皮肉を飛ばす余裕すら、脳の演算から完全に消え失せた。俺がジャングルで目を覚まし、化け物どもと戦い、ここまで歩んできた時間は、オリガたちの時間とはまったく繋がっていなかったというのか。俺たちが生きている時間そのものが、この呪われた惑星の歪んだ質量によって、完全に狂わされていた。


「お二人に、この事実を伝えるのが遅くなったことを、システムとして謝罪します」


「いいのよ、ポリーありがとう……」


 サーシャが、涙に濡れた顔をゆっくりと上げた。その瞳からは、先ほどまでの激しい取り乱しが消え、代わりに底寒いほどの諦念《ていねん》と、小さな覚悟の光が灯っていた。


「薄々……わかってたから。あの診療所のボロボロさを見たときから、何かが変だって、胸の奥でずっと冷たい音がしてたの。パパが、あんなにおじいちゃんになっていて、おかしいって本当は……分かってたの……」


 彼女はライフルのバレルを強く握りしめ、立ち上がった。


「ですが──」


 ポリーのホログラムが、一瞬、青い光を強く放った。


「その歪んでズレてしまった時間を、物理的に『元に戻せる』としたらどうしますか?」


「元に戻せる? どういう意味だポリー。時間を巻き戻せるっていうのか?」


「タイムリープによって過去を改変し、死者を蘇生させるわけではありません。我々の存在する時空の位相をスライドさせ、現在も生存している『オリガたちの時間軸』へ、こちらの時間を強制的にキャッチアップさせるのです」


「そんなことはアストリ─連合軍科学技術研究所の最高技術者ですら不可能だ。演算にノイズでも入ったか?」


「レゾナンスネットワークの深層スキャンにより、この惑星のハーフスプリット最深部、私たちが向かっている発掘現場のさらに奥に、未知の『シンギュラリティ・ポイント』が確認されました。それはブラックホールの事象の地平線に極めて近い現象であり、その座標の向こう側に、今まさにリアルタイムでオリガとヴァルター、そしてミューニューの生体反応が、時空の残差として観測されています」


「え?それってどういう……」


 サーシャが目を細めて仮説を反芻している。


「つまり、その特異点に近づけば近づくほど、俺たちとあいつらの間の“数十年の時差”がなくなっていくってことか」


「端的に演算結果を伝えればそうなります。私たちの時間が、彼女たちの時間に追いつく。ですが、その境界線は物理法則が完全に崩壊しているヘルゾーンです。侵入すれば、二度と通常の時空には戻れないリスクがあります」


「簡単じゃないか」


 俺はポリーの警告を鼻で笑い、右腕の変形機構を軽く鳴らしてみせた。


「どっちにしろ、オリガとヴァルターを迎えに行くのは仲間として当然だ。地獄の底だろうが、時空の果てだろうが関係ない。あの二人を置き去りにして、この星を脱出することは出来ない。そこまで人間性を捨てちゃいないさ──サーシャ、お前もそれでいいか?」


 俺が視線を送ると、サーシャは一瞬だけ目を見張り、それから強く、力強く頷いた。


「もちろんよ、ヘンリー。パパの愛したこの星のすべてが狂ってしまったとしても……私はもう、逃げない。その二人を一緒に迎えに行って、今度こそ、みんなでこの最悪な星から脱出しましょう!」


 ドン、と重い衝撃と共にリフトが完全に停止した。

 俺たちが辿り着いたのは、気の遠くなるような奈落の底──坑道の最深部、古代発掘現場だった。


「ここが発掘現場のようだな……」


 リフトを一歩踏み出すと、そこは人類のいかなる建築様式とも異なる、不気味な空間だった。剥き出しの無機質な岩肌は、まるで氷のように冷たく、街灯の届かない完全な闇が支配している。とてもこの先に、宇宙船が存在するとは思えないほどの、死に絶えた静寂。

 だが、その静寂は一瞬で引き裂かれた。


『レゾナンスネットワーク更新。これより、全システムを転換。ディバイブへと強制移譲開始』


 脳内に直接、ポリーのクリアな音声が響き渡った瞬間、俺の左眼の奥を、文字通り爆発的な衝撃波が突き抜けた。


「ぐあぁぁぁッ!?」


 あまりの激痛に視界が真っ白に染まり、俺はその場に膝をついた。眼球の裏側の視神経に、数万ボルトの電流を直接流し込まれたかのような激痛。だが、その痛みに呼応するように、暗黒の地下空間全体の床、壁、天井に、網の目のように細かく冷徹な機械的な光の七宝の線が、脈動しながら走り始めた。


「ヘンリー!大丈夫!?」


「ああ…なんとかボイルドブレインは避けられた……」


 ズウゥゥゥゥン──ズウゥゥゥゥン──。

 地殻そのものを激しく震わせる、重低音の始動音。発掘中と思われる巨大な岩盤の裂け目から、周囲の岩石を文字通り熱で溶かすようにして、一隻の巨大な構造体が静かに浮上してきた。


「これが……パパたちの見つけた、船なの……?」


 サーシャが息を呑み、その光景を見上げた。

 それは、人類のいかなる航宙船とも似ていなかった。金属のようでありながら、どこか黒い鉱石のようでもあり、その表面は生物の皮膚か液晶組織のように、静かに、そして禍々しく七宝に波打っている。

 その時、俺の身体にさらなる異変が起きた。


「おい、なんだこれは……!? 腕が、俺の腕が!」


 両腕を仮構成していたレイグの生体外骨格マテリアルが、俺の意思を無視して、みるみるうちに深緑色の光るミストとなって空気中に霧散し始めたのだ。外骨格が消滅していくにつれ、かつて大気圏突入時に失った両腕の肉の断面が剥き出しになっていく。


「私にも詳細な演算は不可能です。ですが、ヘンリー上等兵のプロテクト領域にあるカサンドラの意思とレゾナンスを果たしたようです」


 ポリーの声が、頭の芯でエコーする。


『ディバイブ・コネクト完了。古代航宙船テラシェファの全操作系、カサンドラ・プロトコルにより完全掌握。──航行可能状態へ移行』


 船体の中央部が、生き物の口のように有機的に開き、内部へと続く通路が現れた。まるで俺たちを歓迎し、捕食しようとしているかのような不気味さだったが、躊躇している時間はなかった。


「行こう」


「そうね」


 覚悟を決めてハッチへと飛び込み、直接船の心臓部──操縦席へと滑り込んだ。


「知らない船なのに既視感がある。不思議な感覚だ」


「船の構造自体は人類のものと似てるわね……」


 生体組織でできたシートに座った瞬間、再び激痛が俺を襲う。レイグによって強引に肉体を補完され、止血されていた両腕の切断面の傷口が、船のインターフェイスと神経接続された衝撃で一気に開き、どっと鮮血が溢れ出したのだ。


「ヘンリー!? 嘘、傷口が……! すぐに止血するわ、耐えて!」


 サーシャが顔を青くしながら、リフトから持ち出していたメディカルキットの止血スプレーを俺の両腕に吹き付ける。激しい灼熱感が痛覚を焼き切ろうとする。


「私の……私の意識の連続性も、この船との接続により…急速に希薄化しています……」


 操縦席の傍らに立つポリーのホログラムが、まるで壊れかけたホロテレビのように激しくブレ、砂嵐のノイズを撒き散らし始めた。


「カサンドラのディ…バイブによってこの船のOSは制御…されているため、航行そのものに支障はあり…ません。行き先もハーフスプリットのコア近くにロック…しました。ヘンリー上等兵、霧散し…たレイグのニューロン残差を通して、船の操舵のコントロールを、あなたの脳…波で直接行ってください。すでに、ヘンリー上等…兵の脳波パターンをマスターとして登録完了しま…した」


「両腕がなくても、頭が操縦桿になっているってわけか。随分便利な代物だな」


 俺が思考の中で全速前進のシグナルを叩きつけた瞬間、船体が音もなく滑り出した。

 船は信じられない速度で加速する。


「キャァッ!? 嘘でしょ、前方の岩壁に衝突するわ!!」


 正面の大型メインモニターに映し出されたのは、迫り来る巨大な岩盤だった。激突まであと数秒。サーシャは悲鳴を上げて目を背けたが、ポリーの声がそれを冷徹に否定した。


「安心し…てください、サー…シャ。この船は──地中を…も【飛行】可…能な機体です」


 ズゴォォォォォン!!

 激突の衝撃はなかった。船体は、約12,000 kg/m³という超高密度の地殻、文字通りソリッドな岩盤の中を、まるであたたかいナイフがバターを切り裂くように、スムーズに滑空し始めたのだ。

 人類の既存のテクノロジーを数百光年は凌駕する古代の超科学。岩盤を物理的なドリルで掘り進んでいるのではない。船体の最外殻に特殊な位相空間を展開し、前方の物質の分子結合を一時的に拡散させて流体化し、船体が通過した後に再び元の硬度へ再構築しているようだ。メインモニターには、岩石や鉱石がまるで静かに波打つ液体のようになって船体の脇を通り過ぎていく、異常な景色が映し出されていた。飛行速度はすでに時速200マイルを突破し、なおも加速している。


「しっかりして、ヘンリー! 目を開けて!」


 傷口の応急処置を終えたサーシャが、俺の顔を覗き込み、必死に声をかけていた。俺の意識は、神経接続による情報過多でいまにも消し飛びそうだった。


「問題……ない集中してしているだけだ。レイグが手足になって、自分の意思で自由自在に動かせていた方が、どうかしていたくらいだ」


「確かに。こ…れまでの戦闘行動ログを逆算して解析しま…したが、ヘンリー上等兵のここまでの実質生存率は、わ…ずか【3.57%】でし…た。通常のヒト族の個体であれば、すでに十回は死亡してい…る計算です」


 ポリーがノイズ混じりの声で、淡々と冷酷な統計を告げる。


「タイトロープを渡るのだけは、昔から得意だったんだ。伊達に手足を失っちゃいない。それよりもポリーは少し休んでいてくれ」


 俺は不敵に笑ってみせたつもりだったが、顔の筋肉が強張って、引き攣った醜い笑みしか作れなかった。


「はい、またリソース…不足になる前に、スタンバイモー…ドに移行します」そう言って目の中に引っ込んでいった。


「全然笑えないジョークよ、ヘンリー……。でも、まだそんな軽口を叩く余裕があるなら、大丈夫そうね」


 サーシャが安堵の息を漏らし、俺のシートの隣に座った、その瞬間だった。

 ドガァァァァァンッ!!

 船体の底面から、これまでの地中飛行の滑らかさを完全に破壊する、凄まじい衝撃が突き抜けた。


「キャァァァッ!?」


 激しい揺れによって、シートベルトを締め忘れていたサーシャの華奢な身体が派手に吹き飛ばされた。彼女は剥き出しの制御盤の金属ボックスに頭から激突し、そのまま床へ崩れ落ちる。


「サーシャ! 大大丈夫か! 聞こえるか!?」


 叫ぶが、返事はない。完全に意識を失っている。


「くそ、今度は何が来やがった! この深さまで奴らが追いつけるわけが──」


 その疑問に答えるように、俺の有機脳内の義眼インターフェイスに、直接3Dの広域サーチレーダーが投影された。船体の真下、超高密度の地殻の向こうから、船の数倍もの巨大な質量が、狂暴な速度で接近してくるのが見えた。


「なるほどな……。地上の人間だけじゃ飽き足らず、地中に潜む巨大な原生生物にまで、あのゴミ虫どもは寄生してやがるのか」


 メインモニターの超音波映像に映し出されたのは、全長160フィートはあろうかという、悍ましい多節構造の巨大寄生ワームだった。その全身は寄生体の蛍光黄色の粘液で濡れそぼり、岩盤を強引に噛み砕きながら、信じられない質量速度で船体に何度も体当たりを仕掛けてきている。

 ゴオォォォオオオン!! ズズズズズッ!!

 二度、三度と続く激しい衝撃。船内の非常警報が鳴り響き、俺の脳震盪は限界に達し、意識が暗転しかける。だがその瞬間、左眼のセーフティ・オーバーライドが脳髄に直接、強烈な電気シグナルをブチ込み、俺の意識を強制的に覚醒させた。


「何か、こいつを消し飛ばす武装はないのか!」


 霧散した両腕の神経残差を通して、船の兵器システムを狂ったように検索した瞬間──。

 ドクン、と脳の奥で何かが弾けた。カサンドラの過去の戦闘行動ログと、この古代船の真のOSプロトコルが、濁流となって俺の有機脳へ滑り込んできたのだ。情報量が脳のキャパシティを超え、鼻からタラリと熱い血が伝い落ちる。だが、理解した。

 両腕のない俺の、剥き出しの殺意と生存本能に応えるように、船体の武骨な前面装甲がガチガチと機械的な変形を遂げ、先端の複合ドライブが超高熱のプラズマを帯びて赤色に爆ぜた。

 前方の岩盤を一瞬で超高温の熔岩の奔流へと変え、敵を分子レベルで消滅させる、古代の熱核兵器──『マグマ・ヴェイン』。


「焼き尽くせ!!」


 脳内の演算ログに従い、俺は思考の引き金を全力で引き絞った。

 極大のプラズマ熱線が、船の前方に展開されていた。超高密度の岩盤が一瞬にして数千度のドロドロのマグマへと融解し、船の推進力と連動して、追撃してきていた巨大ワームの頭部めがけて爆発的に噴射された。


 ギィィィィィィィィ──ッ!!!


 地殻の隙間から、耳を完全に破壊するような巨大ワームの断末魔の咆哮が響く。ワームは自らが突き進んできた熔岩の奔流に巻き込まれ、その巨体を内側からドロドロに焼き溶かされながら、押し潰された地殻の底へと生き埋めにされ、圧殺された。

 怪物の肉体と骨が凄まじい熱と圧力で焼き潰れる悍ましい感触が、ディバイブしたニューロンを通じて、俺の脳へ直接フィードバックされる。脳髄が直接焦げるような強烈な全能感と、激しい吐き気が同時に咽喉の奥を突き抜けた。

 だが、安堵したのも束の間、レーダーにはさらに別の敵影が、別方向から高速で突進してくるのが映った。


「まだいやがるのか!」


 身構えたが、次の瞬間、その怪物が船体の最外殻シールドに衝突した瞬間──その怪物の頭部から全身が、光の塵となって綺麗に消滅するのが見えた。


「まさか……さっきはわからなかったがこの船に近づいただけで消滅しているのか?」


 そうか。航行時に船体を覆っているあの物質拡散システムそのものが、この船にとっての絶対不可侵の防御障壁となっていたのだ。超低周波の振動領域に触れたものは、いかなる有機物であれ無機物であれ、すべて分子レベルでバラバラに分解される。


「ハハハ、とんでもない機体だな、これは……。だが、衝突時の運動エネルギーまでは相殺しきれていない。中にいる俺たちの肉体が持たない」


「う、うう……」


 床でサーシャが微かに呻き、頭を押さえながら身を起こした。


「サーシャ! 気がついたか! 起き上がれるなら、すぐにそのシートのハーネスを締めるんだ!」


 俺の声に、彼女はよろよろと立ち上がり、操縦席の副座に座って身体を固定させた。


「頭が……割れそうに痛いわ。ヘンリー、私たちは……どうなったの?」


「地中の化け物は片付けた。安心しろ」


 ドォォォン──。

 次の瞬間、正面のメインモニターを満たしていた暗黒の岩盤が、唐突に消失した。

 視界が一気に開けると同時に、船体が強い慣性Gを伴って、ピタリと完全静止した。ハーネスのおかげで、俺たちはフロントガラスに叩きつけられずに済んだ。


「デッドエンドか……」


 船の減速と停止に伴い、空気中に深緑色の霧として漂っていたレイグの光粒子が、再び俺の両腕の切断面へと呼び戻され、元の生体外骨格の形状を再構築していく。神経が再び繋がり、両腕の感覚が戻ってきた。


「空間が……歪んでいるの? あれは、一体……」


 サーシャが息を呑み、コントロールパネルにへばりつくようにして前方の景色を見つめた。

 俺たちはついに、ハーフスプリットのコア近く、時空の臨界点へと到達したのだ。だが、そこに広がっていた情景は、およそこの宇宙の物理法則を冒涜するものだった。


「あれは……オリガなのか?」


 俺は義眼の超高倍率ズームレンズを最大まで起動し、歪んだ時空の裂け目の向こうを凝視した。

 そこにいた。

 右腕を振り下ろし、全身から熱情の闘気を放っている。七宝の鎧を纏った、オリガ軍曹。そして、それと対峙し、同じく七宝の外骨格を纏い顔面が大きく歪んでいる偽神ミューニュー。

 だが、その光景はあまりにも異常だった。


「……止まっている?ヴァルターはどこだ」


「探していた部隊の人なの? あそこに、変な船みたいなものも見えるけど……」


 サーシャの言う通り、彼らの背景には見慣れないのブリンプの残骸が浮かんでいた。だが、俺たちの視界の中で、オリガが放ったと思われる渾身の光輪が、空中でピタリと凝固していた。

 それは、スローモーションなどという生易しいものではなかった。オリガの額に光る汗やミューニューの触手の先端から今まさに滴り落ちようとしていた悍ましい体液のひと雫までもが、まるで透明な琥珀の中に閉じ込められたかのように、完全にその運動を停止している。光さえもがその場に留まっているかのように、空間全体が歪なプリズムのように虹色に屈折していた。

 物理法則が悲鳴を上げ、時空の因果律がへし折れている、絶対不可侵のタイム・スタシス。


『スタンバイ…モード解除』


 目の前にポリーの像が輪郭を結ぶ。


「もういいのか」


「報告。視界内…の戦闘が微動だにしないのは、私たち…が彼女たちの時間軸から完全に離脱しているためで…す。エントロピーがさらに増大を始めました。程なく、この船もその〈領域〉に…完全に囚われ、永…遠に固定されます」


「いくらなんでも、時空の薪をくべすぎじゃないのか?想像以上だ」


「夢でも見ているなら、どんなに良かったか……」


 理解の追いつかない超現実的な光景を前に、俺の精神は奇妙なほど凪いでいた。いつもの凪──極限状態における解離状態が脳を支配し、冷徹な思考だけがクリアになっていく。


「あなたが…ギレインへ大気圏突入した際、重力圏の歪みによって生…じた『数十年の時差』。そしてサー…シャがコールドスリープで眠り続けた『数十年の冬眠期間』。それらすべ…ての、本来なら『この世界で経過するはずだったの時…間』のエナジーが、今、この一点において物理…的に再構築され始めています。あそこで時間が静止して見えるのは、重力速度の違い…によるものではありません。私たちが『これまでに失ってきた時間』のすべてが、この…瞬間、物理的なタイム・シールドとして、目の前に…展開されていると──【思われます】」


 ポリーの口から初めて飛び出した「思われます」という不確定な推測の言葉。それが、この状況の異常性を何よりも雄弁に物語っていた。スーパーAIの演算能力を遥かに超えた、時空のバグが目の前に具現化しているのだ。


「警告。時空…座標の、致…命的…な、不安定…化を…確認……」


 ポリーの音声が、いよいよ限界を迎えたように途切れ途切れになり、ホログラムの輪郭が激しくブレ始めた。


「……つまり、あの中に突っ込んで、あいつを引きずり出して決着をつけろってことか。だが、あんな不用意に時空爆心地に近づけば、俺たちの身体ごと細切れの時間の中に固定されちまうぞ。どうやって侵入する?」


「そこは……安心して……ください……」


 ポリーのホログラムから、ボロボロと光の破片が零れ落ちていく。


「強力な……助っ人が……目覚めてくれました。もう……私のプログラムの出番は……なさそうです……」


「おい、しっかりしろポリー! どういうことだ、説明しろ!」


「私のシステムの奥底に眠る……カサンドラ姫が、あなたの脳波と同調し、やっと完全に覚醒しました。ここから先は……彼女の、時空をディバイブする能力が……必要不可欠に、なり……ます……。二人で、力を……合わせて……この局面を……」


「お姫様交代、か。……ここまで助かったよ、ポリー」


 俺は静かに右目を閉じ、それからホログラムの彼女をまっすぐに見つめた。


「お前には、ジャングルで目を覚ました時から、助けられてばかりだ。お前がいなきゃ、俺はとっくに化け物の餌になってた。──約束する。これが終わって生きて帰れたら、軍の型落ちのインプラントじゃなく、地球のハイパースケールサーバーをどこかからぶんどって、そこへアップロードするからな。そこなら、ノイズもエラーもない。……だから、少しだけ待っててくれ」


「最……高級に……してくだ……さいね……。楽しみに……期待して……います……よ……」


 名残を惜しむかのように、実体のない光粒子のポリーが、ノイズを撒き散らしながら俺に向かって一歩、また一歩と近づいてきた。その顔には、プログラムのはずの彼女の表情には、微かな、だが確かに温かい微笑みが浮かんでいるように見えた。


「あなた……たちなら……大丈夫。ゴッド……ブレス……ヘンリー。──(さ…………な……ら)」


 目の前に立ったポリーの、光粒子の腕が、俺の身体を優しく包み込むようにして、そのまま静かに、細かな光の塵となって揺らいで消えた。

 何故だか物心ついてから感じたことのないはずの、母の温もりを覚えた。


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