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『ヘンリー……聞こえる……?』
それは、重度の磁気嵐にパルスを激しく掻き乱された、旧世界の廃ラジオが鳴らすような、掠れたノイズ混じりの旋律だった。どこか数十光年の彼方、超空間の深淵から届いているようでもあり、同時に、俺の鼓膜のすぐ裏側──義眼の神経コンポーネントに直接冷たい爪を立てられているようでもある、奇妙な違和感。音響センサーが捉えた波形は完全に未知の暗号化が施されていたが、俺の有機脳は、この声を、この冷徹でいて妙に甘やかな響きを、確かに知っていると告げていた。
魂の記憶のどこかが、この響きに激しく共鳴している。
『オリガとヴァルターが危ない。急いでハーフスプリットの底へ向かって……』
(お前は一体誰なんだ。なぜ同僚たちの名を知っている。なぜ俺の脳内に直接割り込んでこれる──)
疑問のシグナルが熱を帯びて喉の奥までせり上がるが、声帯までは届かない。俺の意識は、底の抜けた冷え切った電子の海へ、ただ重力に従う宇宙デブリのように沈んだままだ。思考の並列処理すらままならない暗黒の中で、だが、この声の主は、俺の思考ログを完全に先回りして読み取っているかのように、淡々と応えてくる。そのレスポンス速度は、もはや生体のそれではない。
『忘れたの? カサンドラよ。今はあなたの眼球MODの最深層、プロテクト領域に…インストールされているわ。……時間が無いの! 私のディバイブ接続も、限界が近い…』
カサンドラ。その名が脳組織のシナプスに直接触れた瞬間、過去の戦闘行動ログが網膜の裏でフラッシュバックした。
ギレイン不時着時、ふとした瞬間に視界の隅に現れた未定義の演算エラー。死線に立たされるたび、何故か自分の意志とは無関係に導き出されていた最適の回避ルート、敵の弾道予測。恐怖すら感じないほどに研ぎ澄まされていた、あの不気味なまでの冴えの正体はポリーだけじゃなかった、脳をハッキングしていた君の、裏からの並列介入だったのか。俺が俺自身の意志だと思っていたものは、彼女の演算結果のトレースに過ぎなかったのかもしれない。
『当たり前じゃない。大切な私たちの弟だもの』
私たちの、弟──。
その言葉が、凍りついていた俺の精神に、一滴の熱い鉛のように波紋を広げた。プアリーと呼ばれ、過酷な精神防壁試験の果てに魂の器を粉々に割られて生きてきた俺の、あのドブ水を啜るような過去のさらに奥底に、まだ見ぬ忘却の温かみが、家族という名の絆が隠されているというのか。
答えを求める俺の思考パルスを置き去りにしたまま、カサンドラの通信パルスは急速に減衰し、フェードアウトしていった。俺の問いかけは、再び深い電子の闇の底へと吸い込まれて消える。
***
「待ってくれ──!!」
絶叫とともに俺は跳ね起きた。
引きちぎられるように覚醒した俺の鼻腔の奥には、今の一瞬の夢の残滓か、カサンドラのものと思しき甘すぎない、冷えたアップルのパフュームが確かに残っていた気がした。だが、網膜のピントが合った現実の世界に広がっていたのは、そんな感傷的なものではなかった。赤く点滅する診療所の非常灯が、室内に悍ましい血の色を周期的に焼き付けている。空調は完全に停止し、部屋には血と、化け物どもの腐爛した体液の臭いが立ち込めていた。
「ヘンリー! よかった、大丈夫!?」
「ああ…何か悪い夢を見ていたようだ」
涙目で俺の肩を必死に揺さぶっていたのは、サーシャだった。彼女の小さな手が、恐怖のあまり小刻みに震えているのが伝わってくる。
俺の左眼──換装されたカサンドラの義眼が、異常な高熱を帯びてインターフェイスを勝手に書き換えていく。過負荷による警告文字が視界の隅で赤く明滅していた。
「その瞳孔、どうしちゃったの……!? まるでメビウスの輪……深緑色に、禍々しく輝いているわ。何が起きたの?」
サーシャが怯えたように顔を引き攣らせ、俺の左眼から一歩身を引く。俺の視界の片隅では、システムが強制再起動のログを超高速でスクロールさせていた。
『マイアスマ濃度の上昇及び、敵性生物を検知。生体リチャージ完了。レゾナンスネットワーク強制再起動開始』
義眼に搭載されたスピーカーから、聞き慣れた無機質な音声が入力される。次の瞬間、空間に投影された幾何学的なフラクタル構造の光粒子が、歪に収束し、一人の女性のホログラムへと姿を変えた。40代前後の、理知的だがどこか冷徹なオーラを纏った女性の姿。
「やれやれ、眠り姫がやっとお目覚めか。しかもお洒落な女性におめかしまでして。おかえり、ポリー」
俺が乾いた喉を鳴らして声をかけると、ホログラムの女性は小さく首を傾げ、不満気なノイズを微かに鳴らした。
「私は姫に分類される存在ではありませんが、ヘンリー上等兵、あなたが生体反応を維持していることには安堵いたします」
まさか、こんな人工知能の無機質な合成音声に救われる日が来るとは、アカデミーの教官たちも思いもしないだろう。感情の摩耗した俺にとっては、下手に感情的な人間よりも、この冷たいプログラムの方がよっぽど居心地がいい。
「ヘンリーのインプラントの中に、お姫様が眠っていたっていうの……?」
サーシャがパニックを通り越して目を丸くしている。ポリーはその視線を冷徹にいなした。
「お嬢さん、初めまして。私はデブリ型自律式A──おっと、自己紹介のルーチンを実行している暇はありませんね。簡潔に現状を報告します。アクティブスキャンにより、本施設の周囲に多数の飛行型変異生物、および人型の生命反応、および未定義の原生生物群を検知しました。端的に申し上げて、この場所に逃げ場はありません」
「なんだって? 電磁障壁が機能していないのか? やはりこの基地の敷地内に奴らが残っていたか」
「そんな…ほとんど休憩もできていないのに……」
「障壁のジェネレーターはすでに機能しておりません。熱源感知にも引っかからないので推測するに物理的に破壊され、沈黙したものと思われます。そして、外を取り囲んでいる生物群は、我々の生体波動を完全に感知しています。それとこれは余談になるかもしれませんがメディカルポッドで眠るその生物は──」
ドゴォォオオオン。
「キャァア!」
診療所の床全体を強烈に突き上げる地響きが駆け抜けた。衝撃波が可視化されそうなほどの質量。全員の視線が一斉に、ひしゃげた正面入口の鉄扉へと注がれる。ドアの向こうから、ミチミチと肉が擦れ合う不快な音と、あの人間たちの成れの果てが、骨を砕きながら突撃してきている気配が伝わってきた。鉄板が歪み、ボルトが悲鳴を上げて弾け飛ぶ。
「猶予は残り僅かです。すぐに移動の準備を始めてください」
グダグダと議論している暇はない。扉の向こうはすでに、未知の寄生生物に支配された完全なるヘルゾーンだ。
どうやらまた、このサーシャという少女と、ドッグライクの命を、俺のこの割れた器で背負うことになりそうだ。だが、不思議と恐怖はない。俺の心はすでに、いつも通りの凪──解離状態へと移行していた。
「だけど、どこに逃げるっていうのよ! 外は化け物だらけなのに!」
混乱したサーシャが叫ぶ。その声は恐怖で裏返っていた。
「ひとひとまず、旧鉱石採掘場、現発掘場最深部へと向かってください。地下区画に、船と思われる未知のレリックの発掘現場が存在します」
「そんな大昔のレリックが、今さら動くっていうのか?」
「ヘッドクォーターズに残されていた極秘資料の解析によれば、それはただの遺物ではなく、古代の航宙船です。皆さんの言いたいことは演算上十分に理解していますが、確率をどう計算しても、その場所にしか我々の活路はありません」
「そうだ! ゴルドのターミナルに軍の宇宙船があるはずよ!」
「残念ですが、アイボールのログによると、その宇宙船も既に破壊されていました」
「そ、そんな……」
サーシャは失望の色を隠せず涙を流した。
「……わかった、信じるよポリー。サーシャ、これが最善だ」
彼女は涙を滲ませ覚悟を決めて頷いた。
「急いでください──」
ポリーの言葉は、背後から響いたメディカルポットの破裂と肉の爆縮音によって完全に掻き消された。
ズブズブ、ミチミチミチッ!!
それはアイリスの身体から発せられる音だった。そのロイヤルパープルの体毛の隙間から、筋肉の繊維が異常増殖を起こし、重力を無視してのたうち回りながら膨張していく。骨が組み替わる乾いた音が室内に響き渡る。 悍ましい四本の巨大な肉腕が、血に塗れた赤黒い湿り気を帯びて、背中から生い茂るように形成されていく。皮膚が裂け、そこから覗く肉塊は金属のような光沢を放っていた。
「あああ…そんな……」
サーシャはその圧倒的な異形の暴力性を前に絶句し、俺の脳味噌は本能的な危険警告音を最大ボリュームで鳴らし始めた。
『警告。カテゴリー不明の極高危険度生物を至近距離に検知。直ちに超近接戦闘態勢に移行──』
「おいおい、冗談だろ……こいつ、こんな隠し球を持っていやがったのか……」
直後、鼓膜を直接叩き潰すような圧倒的な風圧を伴って、アイリスの口から地獄の底を揺らすような獣の咆哮が炸裂した。衝撃の波が室内のカルテや医療器具を吹き飛ばす。
「アイリス……っ」
サーシャはあまりの音圧に必死に耳を塞ぎ、前屈みになりながらその名を呟く。その瞳には、恐怖ではなく、どこか哀切の色が混じっていた。
俺は硬直が解けると、研究所から帰る時に拝借した心許ないハンドガンを構えた。
『レゾナンスネットワーク検索エラー。該当生物の遺伝子データが存在しません』
ポリーの投影にもノイズが混じる。
アイリスの胸元中央に位置する、あの生々しいレクタングルの異形のアパーチャが、グリグリと独立して蠢き、扉の向こうの気配を完全にロックオンした。
こちらに矛先が向くか、と俺は身構えたが、やつは俺たちを一瞥することすらなく、そのまま正面の鉄扉に向かって、戦車のような勢いで突進した。
ズガァァァァァン!!
鋼鉄並みの密度にまで圧縮された筋肉の塊は、強化プラスチックの壁もろとも、数トンはある防護ドアを紙切れのようにぶち破り、外の闇へと突っ込んでいく。
「うぉおおおおおおおおん──!!」
サウンドバリアを力任せに引き裂くようなショックウェーブの重く鋭い音が、診療所の外にこだまし、その余波で残されていた窓ガラスが粉々に吹き飛んだ。
「衝撃波来ます」
「サーシャ!」
「キャァ!」
ガラスの破片が当たらないようにレイグを瞬時にシールドモードへ移行して全身を守る。
まるで超音速の戦闘機の航空ショーを、ゼロ距離で特等席から眺めているような迫力だ。
「怪我はないか」
「ええ、大丈夫よありがとう」
「俺たちも後を追うぞ」
轟音が止むと、たった今開いた大穴から外へと飛び出した。
外に出ると、そこは言葉通りの地獄のレイブパーティ会場だった。ボトボトと、空から虫どもの千切れた肉片が、蛍光黄色の不気味な体液を撒き散らしながら降ってくる。地面には、アイリスの質量攻撃によって文字通り破裂させられた、寄生人間や原生生物の死骸がそこかしこに散乱し、おぞましい血飛沫のカーペットを形成していた。飛び散った内臓が街灯の赤い光に照らされて、文字通り悪趣味なダンスフロアのようだ。
「アイ! どこに行ったの──!?」
サーシャが暗闇の向こうへ向けて叫ぶが、獣の咆哮と肉が炸裂する音が四方八方の建築物に反響し、正確な位置など全く掴めない。暗闇のあちこちで、寄生生物どもの悲鳴と、それをねじ切るアイリスの駆動音が交錯している。
「ポリー、スキャンであいつの位置を補足できないか?」
「現在、ゴルドの周辺広域で、目標が自律的に敵群を暴れ回りながら粉砕しているのを確認。移動速度がインプラントの限界測定値を突破しています。現在のスペックではこれ以上は計測不能です。しかしながら一番近くにいた我々を攻撃しなかったことから推測するに敵対生物ではない可能性があります」
「くそっ、アイのやつクレイジーにも程があるだろ……」
だが、サーシャはその惨状を見つめながら、妙に冷徹な確信を抱いたような目で呟いた。
「ヨハンを殺したのは……やっぱり、アイリスじゃなかった。あの子は、ずっと私を……守ってくれていたのね……」
彼女の大きな瞳に、溢れんばかりの涙が込み上げる。その涙は、血の雨に濡れてすぐに掻き消された。
「彼──便宜上、対象をそう呼びますが──の進行方向は、ハーフスプリット方面です。物凄い速度で敵の防衛線を文字通り轢き殺しながら、コア方面へと向かっているようです。近くの生物達もそれに惹きつけられて移動しています。我々も移動するなら今しかありません」
「サーシャ! あいつが作ってくれたこの隙を無駄にするな、行くぞ!」
ドッグラヴァーの俺とはいえ、流石に手に余る凶暴さだが、今の俺たちにとっては唯一の救いの神だ。あいつが周囲の化け物を引きつけてくれている今しか、チャンスはない。
「絶対に見つけるから、無事でいてね、アイ!」
「急いでください。更に敵性生物の増加が確認されました」
そこから発掘現場までの道のりは、不思議なほどに何事も起きなかった。アイリスという規格外の怪物が、周囲数キロメートルの化け物の注意とヘイトを完全に引き受け、消し飛ばしてくれたお陰だ。通りには、ちぎれた腕や、寄生されて原型を留めていない多脚生物の死骸が転がっているだけだった。
「ここで合っているのか?」
「ええ、ここは裏口なの。パパに内緒で来たこともあるわ」
不気味な静寂が支配する洞穴の内部へと滑り込むと、入ってすぐの職員専用地下通路へ飛び下りる。埃まみれの階段を駆け下りた先で、俺たちの前に現れたのは、重厚な鉛色に鈍く光る巨大な防壁ゲートだった。
「これは……産業用の大型リフトか。たかが遺跡に大袈裟すぎるな」
シャフトの奥を覗き込むと、大型の輸送用シャフトが、奈落のような暗黒の地下に向けて、延々とワイヤーを伸ばしている。その深さは、義眼のレーザーレンジファインダーでも計測不能なほどだった。
「この先に船があるっていうの? これ、位置的にはちょうどハーフスプリット方面に伸びてそうね」
「おっしゃる通り、ハーフスプリット近くまで続いています」
「ヘルズゲートじゃなけりゃいいがな」
「私が提示した生還ルートを地獄の門呼ばわりするとは、手厳しいですね。信じないとは言わせませんよ」
「ポリーの言う通りにしましょ」
リフトの制御盤を叩き、強制起動した、まさにその瞬間だった。
「警告。危険生物検知」
キィィィィィン──という、耳を、いや脳髄のシナプスを直接金属の針で掻きむしるような、不気味な高周波の共鳴音がさらにそのボリュームを増していく。音圧は物理的な質量となって、産業用リフトを取り囲む施設全体の巨大な鉄骨を激しく震わせ、溶接部分から錆びた粉をバラバラと降らせていた。義眼の警告シグナルが網膜の端で真っ赤に激しく明滅している。
「リフトエンジン始動まであと10分。その間ここを死守してください。あとはなんとか対処します」
「わかった。何か策があるんだな、ポリー!」
俺は吐き捨てるように叫ぶと同時に、右腕の生体外骨格ギミック──『レイグ』の出力を引き上げた。
「下がってろサーシャ!」
『──システム承認。戦闘モード、コンバット・シーケンスへ移行。リミッターを解除します』
ポリーの冷徹なアナウンスと同期して、俺の右腕の肉組織と人工筋肉が嫌な音を立てて膨張し、不可視の質量兵器としての牙を剥く。一歩前に踏み出し、リフトの淵へと殺到する化け物どもの先頭集団を、右腕のレイグで横一文字に切り裂くような軌道で薙ぎ払った。
その一撃は、刃による切断ではない。空間そのものを力任せに圧縮し、叩きつけるような不可視の質量の波だ。直撃を受けたディタッチャーの胸部が一瞬でペシャンコに陥没し、骨の砕ける不快な音が地下空間に響き渡る。それと同時に、俺は左腕の機構を駆動させ、鈍色に輝く重量級のバトルハンマーへとマテリアル変形させた。
返す刀で、変異した寄生体の頭頂部へとその質量を容赦なく叩きつける。
ズゴォォォン!!
凄まじい衝撃波と共に、化け物の頭部が文字通り消滅した。弾け飛んだ硬質な頭蓋の破片と、異常発達した筋肉の塊が超高速の散弾と化し、後方から津波のように押し寄せていた数十匹の身体をズタズタに引き裂き、巻き込んで吹き飛ばしていく。
敵の数は圧倒的だった。暗闇の奥、職員専用通路の天井や壁のあらゆる隙間から、まるでどす黒い油が噴き出すように、次から次へと新しい化け物どもが湧き出してくる。死体を引き踏み、互いの身体を足場にしながら、彼らは不快なクリック音を鳴らしてこちらへ距離を詰めてくる。
「くそっ、これだけの数を捌くには手が足りない! 銃火器はないのか!?」
「ここにあるわっ!」
背後で、ガシャァァンと小気味良いガラスの破砕音が響いた。
サーシャが近くに設置されていたバラエニケプス社製の防衛用ガンケースの強化ガラスを、手近な医療器具で叩き割ったのだ。彼女は飛び散るガラスの破片も厭わず、中に固定されていた軍用のアサルトライフルを引っ掴むと、即座にマガジンを差し込み、チャージングハンドルを引いて初弾を薬室に送り込んだ。
すぐさま、激しい銃声が地下の閉鎖空間に爆音となって反響し始める。
ダダダダダダダダッ!!
銃を構えるサーシャの細い身体は、容赦ない45口径の強烈な反動によって激しく震えていた。ストックが彼女の華奢な肩を無慈悲に打ち据える。しかし、恐怖に涙を滲ませていたはずの彼女の瞳だけは、今は信じられないほど冷酷に、そして真っ直ぐに据わっていた。
「やるじゃないか、奥の奴らを足止めしてくれ!」
「泣いてばかりいられないもの!」
俺は叫びながら、レイグの駆動速度をさらに一段階上げた。リフトの柵へと爪をかけようとするヤツらの頭部を、右腕の質量波と左腕のハンマーで次々とスクランブルエッグのように破壊していく。肉飛沫が舞い、おぞましい脳漿と蛍光黄色の粘着質な体液が、ゆっくりと降下を始めたリフトの金属床をドロドロに染め上げていく。
靴底が体液を吸って滑り、戦いにくいことこの上ない。体勢を崩しかけたその瞬間、レイグの足部インプラントが自動でスパイクモードへと変形し、リフトの鋼鉄の床にガチリと爪を食い込ませて俺の重心を強引に固定した。ポリーのアシストはいつも完璧だ。
「パパの仇よ──!!」
サーシャは驚くべき冷静さを保ったまま、ライフルの銃口を執拗に敵の足元へと向け続けていた。押し寄せる寄生体たちの膝関節だけを、器用なバースト射撃で正確に破壊していく。関節を撃ち抜かれた化け物どもは、勢いを失って次々と床へ転がり、前進能力を奪われていく。そうして這いつくばり、リフトへ向かって無様に手を伸ばす化け物どもの頭を、俺は容赦なくレイグのスパイクで確実に踏み潰し、肉塊へと変えていった。
だが、事態は悪化の一途をたどる。
ジジジ……と空間の共鳴音がさらに一段と大きくなり、鼓膜の奥で血が滲むような錯覚を覚えるほどの振動が施設全体を激しく揺らし始めた。
「あと1分18秒。耐えてください」
ポリーの投影体は何かハッキングでもしているのか波打つように揺らいでいる。
リフトのエンジンは徐々にスピードを上げて駆動し始めているものの、上層の天井に張り巡らされた複雑な配管群には、俺たちの頭上からの落下を狙うディタッチャーたちが、まるで黒い蜘蛛の群れのようにびっしりと群がっていた。数匹がすでに重力に従って、牙を剥き出しにしながらリフトへと自由落下を始めている。
サーシャは一瞬だけライフルを撃ち終えた硝煙の中で、俺の顔を不安そうに見つめた。このままでは、頭上からの質量攻撃でリフトごと圧殺される──誰もがそう直感した瞬間だった。
『──カウント終了。リフト稼動開始。施設コンピューターに接続不可。並列処理のレゾナンスパルス、目標構造体の臨界点に到達。入り口の防壁通路閉鎖ブロック。パラレルプラン実行。二人とも、衝撃に備え、巻き込まれないでください』
ポリーの、一切の感情を排した無機質な音声が空間に響き渡った。
直後──ドン、という短い破裂音に続いて、俺たちの頭上にある頑強な通路構造そのものが、あらかじめ計算し尽くされた内部爆破を伴って、一気に崩れ落ちた。
ズガガガガガガガァァァン!!
鼓膜を叩き潰すような大轟音と共に、何トンもの重さがあるコンクリートブロックや引きちぎられた鉄骨の豪雨が、通路を完全に埋め尽くしていく。上空から落下しかけていた化け物たちも、通路の奥で津波のように押し寄せていた化け物の群れも、その圧倒的な建造物の質量の前に成す術はなかった。
彼らは巨大な瓦礫の文字通り下敷きとなり、プチプチ、ブツブツと、まるで梱包用の緩衝材を乱暴に踏み潰した時のような、悍ましくもどこか軽い音を立てて次々と途絶え、圧殺されていく。肉と骨が凄まじい圧力で一瞬にして粉砕される嫌な音と人間だった頃の断末魔が、立ち込める濃い土煙の隙間から、リフトの降下と共に遠ざかっていくのが聞こえた。
「ポリーが天井も崩したのか……?」
俺は視界の半分を埋める土煙をレイグの手甲で払いながら、ホログラムの彼女へ問いかけた。
「レゾナンスネットワークによる構造解析と、微細振動の共鳴誘導に不可能はありません。あらかじめ崩落のトリガーとなる脆弱な結合部を特定し、パルスを送り込んでいましたので」
「なるほどな。敵を足止めするだけでなく、ミートテンダライズまで出来るとは、なかなかに料理上手なお姫様だ」
「言いたいことはわかります。ヘンリー。ですが、彼らはすでに遺伝子レベルで書き換えられており、法的にも生体機能的にも人間ではありませんでした。だからこそ、躊躇なく実行可能な芸当です」
淡々とした、一切のブレもないその機械的な回答を聞きながら、俺は肺に溜まった硝煙を吐き出し、乾いた笑いを漏らした。その時、サーシャは手にしたライフルの銃口を下げ、何とも言えない複雑な表情を俺に向けていた。かつて人間だった者たちを、まるでベルトコンベアの不良品のように効率的かつ冷徹に処理した機械の合理性と、それを冗談交じりに肯定する俺の態度に、彼女の残された倫理観が微かに揺らいだのかもしれない。
だが、死臭と硝煙が立ち込めるこの極限状態の地獄において、その冷徹さこそが、俺たちを明日へと繋ぐ唯一のアラミドの糸だった。
「あと少しだ、サーシャ! サンキューポリー」
「どういたしまして、ヘンリー」
ようやく最後の一匹を処理し終え、俺たちはリフトの床に背中を預けて一息ついた。硝煙の煙が、ドロドロになった黄色い体液の臭いを僅かに覆い隠している。
「私……卵料理、全部嫌いになりそう……」
青ざめた表情のサーシャが、口元を抑えて力なく呟く。彼女の服は、化け物どもの返り血で酷い斑点模様になっていた。
「まったくだな。俺も当分は、無味乾燥なレーションだけで十分だ……」
「さて、本当に大変なのはここからですよ」
ポリーのその言葉を最後に、リフトはさらに加速した。
上層での惨劇が遠ざかるにつれ、俺の視界の中で深緑色に輝く演算ログが、明滅を繰り返しながら、執拗なまでに俺のシナプスを時化させようとしているようだった。統合の霧が脳内を侵食し、現実感が濃密になっていく。だが、その冷たいリアルの底にこそ、俺たちの進むべき道がある。




