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懐かしいメロディが、鼓膜のずっと奥、脳髄の隙間をすり抜けるようにして聴こえてくる。
「ハル、泣き止んでよぉ……」
困ったような、それでいて愛おしげな顔をした小さな女の子が、じっと俺の顔を覗き込んでいた。その瞳には、俺とまったく同じヘーゼルの虹彩が宿っている。血の繋がりを証明するような、薄い琥珀色の輝き。だが、参ったな。いったい誰のことを呼んでいるんだ? ハル? 俺にそんな呼び方をする人間は、知る限りどこにもいない。
ララララ~♪ ラララ~♪ ラララ~ララ~♪
不思議な感覚だった。ひどく心地が良く、境界線が曖昧だった自分という存在の輪郭が、急速にハッキリとしていくのがわかる。まるで澱んだ泥水が濾過されるように、心が静かに、深く浄化されていく感覚。
すると今度は、さっきの少女と同い年くらいの、鮮やかなレディッシュヘアーの女の子がどこからともなく現れた。彼女もまた、俺の顔を覗き込むと、楽しそうにデュエットを始める。
「うふふ、泣き止んだね」
小さな手が、俺の頬に触れたような気がした。冗談じゃない。俺にペドフィリアの趣味はないぞ。一体何がどうなってやがるんだ。身体は鉛のように重く、指先ひとつまともに動かせない。声を出そうとしても、喉の奥が引き攣れてかすれた呼気が漏れるだけだ。それに、ここはどこだ? どこかで見たような、ひどく懐かしい温もりがある気もするが、記憶の霧が濃すぎて何も思い出せない。
「テディちゃん、今からあのお星様のところまで行ってみよっ!」
赤毛の少女──キャシーが、悪戯っぽく微笑みながらもう一人の少女に囁く。
「そんなことしたら、ママに怒られるよキャシーちゃん」
「大丈夫だって。私ねなんでも出来るんだよ」
「う〜ん、でも……本当にあそこまで行けるなら行く!」
二人は顔を見合わせ、屈託のない純粋な笑顔を俺に向けた。
「ハルはお留守番だからねっ」
そう言って笑う少女たちの姿が、急激に遠ざかっていく。強烈な睡魔が津波のように押し寄せ、俺は知らぬ間に、深い深い意識の底へと眠りこけていた。
ふと目が覚めたとき、世界の色彩は一変していた。
視界が異様にボヤけている。つい先刻まで響いていた少女たちの賑やかな喧騒は、嘘のようにどこにもなかった。部屋は一瞬にして、光の届かない完全な真っ暗闇に包まれている。耳を澄ませば、ただひとつ、天井でベッドメリーだけが虚しく回り続けている微かな駆動音と、プラスチックの擦れる気配だけが、冷気の中に残されていた。
「ギャァぁああああああ!」
「ワオーン!」
「やめて、やめてぇぇ!」
突如として、鼓膜を引き裂くような絶叫が狂気とともに響き渡った。人間の喉が壊れる音。それと同時に、地獄の底から響いてくるような、普段の生活では絶対に聞いたこともない不気味な重低音が、家全体の骨組みを、そして俺の鼓膜を激しく震わせる。
次の瞬間、俺の身体は何の予兆もなくふわりと浮遊感を覚えた。重力から解き放たれたわけじゃない。凄まじい衝撃によって、ベッドごと、いや、部屋の壁ごと窓の外へと投げ出されたのだ。
何が起こっているんだ。何が世界を壊している。
暗闇の向こう側で、ミチミチと肉が裂け、骨が粉砕されるような悍ましい音が響く。それに混ざり合って、金属とガラスが超高速で激突し、圧潰していく破壊音が反響していた。山々を駆け巡る不吉なエコーのような、脳を直接かき乱す吐き気を催すノイズが、延々と、執拗に続き、俺の思考を完全にマヒさせていく。
その全ての音がピタリと止んだ、恐るべき静寂の瞬間。
今度は、生温かい何かが、落下した俺の身体を全方位から取り囲み始めた。羊水の中に漂う胎児のように優しく、だが圧倒的な質量を持って、そいつは俺を包み込んでいく。粘り気のある、生々しい肉の脈動を感じる。
直後、耳元で血の匂いが爆ぜた。強烈な鉄錆の臭気。それと同時に、何十人もの人間の悲鳴と、獣たちの悲痛な断末魔が、至近距離から津波となって脳内に流れ込んできた。
気が狂いそうだ。何故、ここには誰もいない? 暗すぎて何も見えない。内臓が裏返るような不快感に襲われ、胃の中にあるものを全て吐き出そうとしたが、胃液すら残っておらず、虚しい嗚咽だけが夜の闇に延々と響き渡った。
その時だった。俺を取り囲む空間の真正面に優しい光を放つベッドサイドランプらしきものが、チカチカと不規則に明滅を始めたのだ。
接触不良のノイズを伴うその僅かな灯りが、最悪のタイミングで、暗闇の中にソレを浮かび上がらせる。
人型の、オブジェクト……?
あれは、一体なんだ?
ボヤける目を必死に凝らし、涙と血の混じった視界のピントを合わせる。見つめた先──そこにいたのは、結合された人間だった。
二人の人間をちょうど真ん中から鋭利な刃物で真っ二つに叩き切り、その半分ずつを無理やり、不格好に、歪に縫い合わせたような、人間の形をした肉塊。それが、崩壊した壁から生えていた。内臓が、血管が、本来繋がるはずのないパズルとして結合され、脈打っている。片方には明らかに乳房もある。
肉塊は苦しそうに、ヒューヒューと笛のような音を立てて呻いている。だが、絶望的なことに、まだ生きていた。脳が、まだ死を受け入れていない。
俺の呼吸が止まった。心臓の鼓動が一気に限界の頂点まで跳ね上がり、胸の内で爆音を奏でる。
「ヘンリー……お前……だけは……」
爛れ、肉汁が滴る肉の隙間から漏れ出たその声は、間違いなく、この極限の地獄の中で俺の安否だけを気遣っていた。
息子をこの不条理から守りたいというただ一心の愛を感じた。
アレは、父さんと母さん。俺の、本物の──。
「おい、テメェはいつまでそこで木偶の坊みたいに突っ立ってる気だ? ああ? 何度言わせればわかるんだよ、この脳足りんが」
荒々しい罵声が、悪夢のヴェールを無理やり引き剥がした。
ぬるい炭酸の抜けたバドとタバコを片手に、擦り切れたカウチに腰掛け、泥だらけの両足をローテーブルの上に投げ出した男が吠えている。無精髭を生やし、ギャンブルの出目表を睨みつける男。いかにも胡散臭く、社会の底溜まりから這い出てきたようなこのクズこそが、今の俺の父親だった。
「感謝祭のターキーですら、もうちょっとマシなオツムが詰まってるってもんだぜ。俺たちはなぁ、国から補助金をせしめるためにガキを一人引き取ったんであって、何も動かねえエアーブレインをもらってきたわけじゃないんだ。働けよ、ウィンプ」
義両親にとって、俺という存在は、行政から振り込まれる児童養育補助金という名のディナーに群がるための、便利な道具でしかなかった。それ以上でも、それ以下でもない。
「それが終わったら、俺のシャツをプレスしておけ。少しでも焦げ目をつけたらタダじゃ済まないからな。いい加減に仕事を覚えろ、この役立たず。お前みたいなプアリーに人権なんかあると思うなよ」
この薄暗い、陰気な臭いが充満した家に、俺の居場所など最初から存在しなかった。母親を自称する女の方も同様だ。彼女の視線が俺の身体に向けられることはなく、その関心は常に、俺の存在によってもたらされる紙切れ──金にしか向いていなかった。
与えられる食べ物は、いつだってカビの生えかけたオートミールが一日二食。それも、家畜の餌のようなボウルに
無造作に盛られたものだけだ。
ただし、保健局の役人が抜き打ち調査にやってくる日だけは、世界がガラリと作り変えられた。俺はあらかじめ綺麗に誂えられた見せかけの子供部屋へ移動させられる。そこは、最新のゲームのポスターが壁に貼られ、ドアには俺の名前が小綺麗に刻まれた悪趣味な木製のネームプレートが掲げられている部屋だった。役人がドアを叩く直前、俺は胸ぐらを掴まれ、笑顔での挨拶を恫喝混じりに強要されるのだ。
「もらえるだけありがたいと思えよ。何をするにも世の中は金がかかるんだからな。お前を育てるコストを考えたら、これでも大赤字なんだよ」
ゴミを見るような蔑みの目と、刃物のように冷酷な言葉が、毎日のように俺の幼い精神に突き刺さる。
水分として与えられるのは、得体の知れない薬品と、劣化した配管の錆が混じり合った、ドブのような悪臭を放つ不味い水だけだった。朝起きると、埃やネズミの糞が当然のように口に入っている。そんな日光の届かない地下室の冷たいコンクリート床で寝る生活を何ヶ月も続けていれば、子供の肉体も精神も、容易に限界を迎える。
「フラついてる暇があったら、俺の靴でも磨いておけ。おい、聞いてんのか」
高熱、激しい嘔吐、視界がぐるぐると回る眩暈、そして意志に関係なくピクピクと波打つ四肢の痙攣。あらゆる深刻な症状が代わる代わる俺の身体を襲っても、彼らが病院に連れて行ってくれるはずもなかった。
「おいおい、また演技かよ。オスカーでも狙っているのか? いい加減にしろ。床にぶち撒けている汚物をてめぇで綺麗に掃除しなきゃ、また一週間穴倉─地下室行きだからな」
彼らの機嫌が良い日が数日間続いたとしても、それは嵐の前の静けさに過ぎない。何かの拍子に一転して、真っ暗な地下室へ容赦なく蹴り落とされる。それが俺の日常だった。
彼らにとって、俺の健康状態などどうでもよかった。たとえ俺がこのまま衰弱死したとしても、死亡保険金か何かの手続きをすれば、彼らの懐が痛むことはなく、食いっぱぐれる心配も無いようだった。
だが、あの日だけは、明確に何かが違っていた。
その日も俺は高熱のせいで意識がぼんやりとしており、足元がふらついていた。そして運悪く、奴が人生の全てを賭けて購入したという宝物──ガレージに鎮座する、トーチレッドのシボレー・コルベットのボディに、持っていたバケツをかすらせてしまった。それが全ての引き金だった。
「てめぇ、何をしやがった……!」
獣のような咆哮とともに、奴の拳が俺の顔面に幾度も滅多打ちに叩き込まれた。鈍い音が響くたびに視界が火花を散らし、鼻骨と前歯が無残にへし折れた。床に這いつくばった俺の気道には、傷口から溢れ出た大量の血が流れ込み、まるで壊れた手押しポンプのようにゴポゴポと不気味な音を鳴らしながら、必死に酸素を求めて呼吸を繰り返した。
倒れてピクリとも動けない俺を冷酷に見下ろしながら、奴はポケットからタバコを抜き取り、咥えた。そして、お気に入りの悪趣味な彫刻が施されたオイルライターに火を灯した。カチリ、という金属音が妙に鮮明に響く。
「フゥ……。そういや、お前の本当の両親、あれがどうなったか知ってるか? 聞くところによれば、木っ端微塵のグズグズのミンチになって、どこの部位だかも分からねえ状態で死んだらしいぜ」
奴は紫煙を俺の顔に吹き付け、ニヤニヤと歪んだ笑みを浮かべた。
「おい、ウォーキンウォレット。クズには、そういうクズ肉の親がお似合いだってことさ。てめぇは金を産むマネーツリーだから生かしてやってるんだ。その分をしっかり体で返してもらおうじゃねえか」
その言葉が、そして奴の醜悪な笑顔が、俺の網膜に焼き付いた瞬間──。
俺の中で、それまで辛うじて人間としての形を繋ぎ止めていた、細い糸のような何かが音を立てて千切れた。
感情の爆発ではない。むしろ、完全な静寂だった。
俺は一瞬の隙を突き、床を蹴って奴の懐へと飛び込んだ。全力の拳を、奴の喉笛へと正確に叩き込む。
「ガハッ……!?」
甲状軟骨を完全に粉砕された男は、まともな悲鳴すら上げられず、グフグフと奇妙な音を漏らしながら喉を両手で押さえてのたうち回った。やがて大量の血反吐を床にぶち撒け、手足を大の字に広げたスプレッドイーグルの姿勢で硬直した。
俺は倒れた奴に冷徹な一瞥をくれると、動揺することなく平然とした足取りでキッチンへと向かった。そして、調理器具のラックから、ずっしりと重いオールアイアン製の“1ポンド・ミートハンマー”を静かに掴み、再びガレージへと戻った。
奴の開いた足の間におもむろに立ち、ハンマーを頭上高くに振り上げる。狙うのは一点。
奴の大切な、ナッツを目がけて、全身の体重を乗せた渾身の力で振り下ろした。
──グシャリ。
硬いアイアンの面が、柔らかな生肉と骨を容赦なく潰す、生々しい手応えが拳を通じて脳に伝わる。
「ギィィィヤァァァアアアアッッ!?」
奴は裏返った甲高い奇声をあげて、まるでバネ仕掛けの人形のように跳ね起きたが、激痛のあまりそのまま白目を剥き、泡を吹いてカウチの横へぶっ倒れた。
これだけでは足りない。薄汚い言葉を二度と吐けないようにしてやる。俺は次の一撃を加えるため、血に濡れた奴の口元を正確に狙い、再びハンマーを高く掲げた。
「もう十分だ。……もういい、終わりだ」
背後から伸びてきた、分厚く力強い腕が俺の手首をがっしりと掴んだ。帰宅していた義母が、パニックを起こして通報していたのだろう。すでに家の中には複数の警官が踏み込んでいた。俺は現行犯で逮捕された。
現場は騒然としていた。担架で運び出されていく、股間を押さえて気絶した義父に、近隣の野次馬たちが憐れみと好奇の目を向けている。そんな喧騒のただ中で、一人の男だけが、俺の虚ろな目をまっすぐに見つめていた。
「人生は、何度だってやり直せる」
オーウェンという名の、皺の刻まれたベテラン刑事が、ひどく心苦しそうな、今にも泣き出しそうな顔で俺の肩を抱き、励ましてくれた。
後になって知ったことだが、彼は、赤ん坊のあの凄惨な惨劇の夜、血の海と化したオブジェから助け出してくれた。
それが彼にとっての罪滅ぼしだったのか、それとも純粋な義務感だったのかはわからない。施設に入ってからも、オーウェン刑事は定期的に俺の元を訪ね、不器用な手土産を持って様子を気にかけてくれた。
だが、俺の心に開いた穴が埋まることはなかった。
「軍に入りたい」
年齢に達した俺は、彼を遠ざけるようにして入隊を志願した。しかし、進学した士官アカデミーの冷たい宿舎でも、俺は本当の意味で周囲に馴染むことはできなかった。同期、教官、すれ違う兵士たち──周りの連中は、俺のことをプアリーと呼んで、どこまで行っても俺にとっては背景であり、記号的な他人でしかなかった。
過酷を極める訓練に必死で食らいつき、極限状態のストレスから夜のベッドで声を殺して涙を流す同期たちの中で、俺はいつも、何に対しても一歩遅れていた。どうしようもない感情の時差が、俺と世界の間に常に横たわっている。
その決定的な異常性が白日の下に晒されたのが、アカデミー卒業後の適正資格を懸けた最終関門、精神防壁適性試験だった。
内容次第ではすぐに前線投入、あるいは士官候補生として上級アカデミーへ、さらに稀有な人材はC・O・Tでのディバイブ訓練生など人生を左右するものだ。
試験会場は、冷徹なインディゴブルーの照明に照らされた円形の巨大なドームだった。中央には何百台もの生体カプセルが並び、それぞれに脳波誘導型のヘッドギアと、無数のコードが接続されている。この試験の目的は、脳に直接、人工的に構築された極限の恐怖と、筆舌に尽くしがたいストレスを流し込み、戦場で兵士が遭遇しうる精神崩壊の臨界点を測定することだった。
「各自、カプセルに入れ。警告しておくが、これはただのゲームではない。脳が『死』を錯覚すれば、現実の肉体も心停止を起こす。プライドを捨てて、いつでもギブアップの信号を送れ」
「ふふふ、たかが試験で死ぬなんて」
「嘘に決まってるぜ」
「私たちは新兵だがバカじゃないだぞ」
みんなが口々に雑談を始める。
「無駄口を叩くな! さっさと整列してカプセルの前に並べ!!」
拡声器から響く主任教官の冷たい声に従い、続々とカプセルの中に身を横たえた。頭部に鈍い金属の冷たさが触れ、視界が強引に暗転する。
「神経接続、正常。ブレインノット、以上なし。エグザムスタート」
機械音声が聞こえた直後、世界が地獄へと作り変えられた。
五感をジャックしたシミュレータが再生したのは、俺の脳の最深部にこびりついていた、あの幼少期の記憶──結合された両親のツリーだった。
ただ、今回はあの夜よりも遙かに悍ましく、執拗だった。崩壊した家々の残骸から、二人の人間を真ん中から切り裂いて無理やり縫い合わせたような歪な肉塊が、何十、何百と地を這うようにして生えてくる。それらが一斉に、ヒューヒューと笛のような呼吸音を立てながら、俺の五体に群がってきた。
肉塊たちは本来繋がるはずのない血管を蠢かせ、ドロドロとした内臓を撒き散らしながら、鋭い歯で俺の肉を噛みちぎり、生きたまま貪り食い始めた。引き裂かれる筋肉の感覚。内臓を素手でかき回されるような激痛。耳元で爆発する、何十人もの人間の絶叫と獣の断末魔。
脳の防衛システムが今すぐ発狂しろと赤色灯を点滅させるような、完全なる精神の処刑場。
だが、俺の心は驚くほどに静かだった。
食いちぎられていく自分の腕を見つめながら、俺はただ、ガラスの向こう側の退屈な映画を眺めているような気分だった。痛覚は確かに信号として脳に届いている。しかし、それが自分のものだという実感がどうしても湧かない。遠いノイズのようだ。かつて地下室の冷たい床で高熱に浮かされていた時と同じ、あの奇妙な凪が、俺の脳味噌をひんやりと満たしていた。
周囲のカプセルからは、次々と異常事態を告げるアラートが鳴り響いていた。
「う、うわあああああッ!」
「出せ! ここから出せぇぇ!」
同期たちが次々と白目を剥いて発狂し、あるいはあまりの精神的苦痛に胃の中のものをカプセル内にぶち撒けてリタイアしていく。モニターの心拍数は全員が危険領域を突破していた。
そんな阿鼻叫喚の中で、俺のカプセルだけが、不気味なほどの静寂を保っていた。
ガチャン、と重々しい音を立ててカプセルのハッチが強制開放された。視界に現実のインディゴブルーの光が戻ってくる。ヘッドギアを外して起き上がると、ドーム内はまさに惨状だった。担架で運び出される同期、過呼吸で泡を吹いているエリート候補生。
その中心で、試験を監視していた教官たちが、全員幽霊でも見たかのような顔で俺のモニターを凝視していた。
「バグか……? いや、生体コンポーネントは正常に機能している。エラーコードは吐いていない」
「バカな。脈拍、脳波、発汗量……すべての数値が、開始から終了まで完全にフラットだ。落ち着いているなんてレベルじゃない。まるで、最初から誰もそこにいなかったかのようだぞ」
うろたえる部下たちを押しのけ、主任教官が、ゆっくりと俺の前に歩み寄ってきた。彼はいつも上官の耳を聾するような怒声で俺たちをシゴいていた男だったが、今その目だけは、明らかな戦慄で小刻みに震えている周りの奴らと同じだった。
教官は俺の肩を掴もうとして、その手を躊躇うように止め、乾いた喉を鳴らした。
「おい、お前……中を見て、何も感じなかったのか?」
「……はい」
俺が淡々と答えると、周囲の空気が凍りついた。教官は信じられないといった様子で首を振り、吐き捨てるように言った。
「……この試験は誰もクリアできないようになっている。クリアできるやつは銀河連合広しといえど何兆人に一人…その多くは精神のタガが外れちまったブレイン・ディタッチャーだ」
教官の言葉がドーム内に重く響く。
ブレイン・ディタッチャー──精神解離者。極限の苦痛や絶望から自己を保護するために、脳が現実との接続を永久に切断してしまった存在。
「そうですか……」
今更何を言われようが何も変わりはない。
「お前は、強靭な精神を持っているわけじゃない……」
教官の視線が、憐れみから、本格的な怪物に対する忌避のそれへと変わっていく。
「最初から精神が壊れているから、これ以上の負荷がかからないだけだ。魂の器が、とっくに粉々に割れてやがる。お前のようなプアリーを、戦場に送り出していいものか……」
この日を境に、周囲の人間は俺を完全に人間ではない何かとして扱うようになった。同期たちは俺と目を合わせることを恐れ、教官たちは腫れ物に触れるように距離を置いた。
だが、そんな周囲の冷酷な視線すらも、俺にとってはただの遠い背景に過ぎなかった。
ただ命じられるまま、淡々と、冷徹に、寸分の狂いもなく標的の眉間を撃ち抜き、敵に見立てた人形の急所にナイフを深く突きたてるだけの、精巧な機械人形。それがアカデミーにおける俺の最終的な評価だった。
アカデミーを過ごし卒業するまで、この凪いだ心が震えることはついに無かった。どれだけ目の前で血が流れようと、どれだけ悲鳴が響こうと、俺の意識はどこか現実から切り離され、ぼんやりと解離している。まるでガラス越しに他人事を見ているかのような、退屈で冷え切った感覚。その奇妙な凪が、ずっと俺の脳味噌を不快に掻き回していた。
──そう、エリシオンでの実戦を経て、ギレインにダイブする、その瞬間までは。




