3
混迷する意識の濁流。精神を内側からドロドロに融解させ、都合の良い操り人形へと変えようとする、偽りの神による致命的なマインドコントロール。
──その絶対的な暗黒の檻を、ヴァルターの魂が内側から強引にブチ破った。
かつて惑星ガガリスラムダの神贄の洞窟で、数千、数万回に及ぶ無限の惨殺ループに耐えきったあのジェ・ラロの強靭極まる精神と泥臭い忍耐は、神の呪縛すらも容易く断ち切る絶対的な拒絶の刃へと新生していた。
二度と同じ過ちは繰り返さない。
かつて、ザリファムによって最初の母を失った。あの時の痛切な悔恨と、激しい誓いの咆哮がヴァルターの喉を震わせる。過去のすべての絶望を、彼は今、目の前で消えかけようとしている大切な仲間──オリガを救うための、純粋で爆発的な熱量へと変換した。
「オリガ……ッ!!」
彼の叫びがハーフスプリットの亀裂の壁面に反響した瞬間、地底の底を埋め尽くしていた濃密な大気が、目に見える破壊的な衝撃波となって爆ぜた。
遥か上空、まるでこの星の二つの太陽の光をすべて吸い込んだかのような、緻密な七宝柄の光輪──〈クロイゾネハロ〉──が、激しいソニックブームを伴って、地底の闇を垂直に真っ直ぐ貫いて飛来する。
その猛烈な暴風は、空間を侵食していた偽りの神の、形なき不気味な輪郭を強引に引き裂いた。遅れて戦場に降り注いだのは、あらゆる色彩を万華鏡のように凝縮した、神々しいまでの残光。闇を焼き払うその絶対的な光の輪は、絶望の淵に立たされていたヴァルターとオリガの二人を、この星のどんな太陽よりも鮮烈に、そして優しく照らし出した。
続いて、七宝の閃光が空間を奔った。
物理法則を完全に無視した超加速で飛来する光輪は、大気を金色の摩擦熱で激しく焼き焦がし、空間に残留していた偽神の精神干渉の波を、文字通り物理的に断ち切っていく。
「うぅうう…ヴァルター……」
拘束が解け、オリガが微かに意識を取り戻し始めた。
しかし、事象の地平線すらその手中に収める偽神は、この程度で消滅するような生易しい存在ではなかった。光輪に引き裂かれ、あやふやになっていた霧状の身体が、再びおぞましい質量を持って中心へと収束し、元に戻っていく。
〈ディアリティテ、カエテ、シンドリフティテ、ペザネテ〉
偽神の口から、世界の根源を揺るがす不気味な言霊が深淵に響き渡ると同時、この空間の因果律が完全に逆転した。
ヴァルターの足元から、まるで現実という名の布の織り糸が一本ずつ解けていくように、彼の肉体の細胞のひとつひとつが、青白い光の塵となって空間へ霧散を始める。
「ぐあああぁぁぁぁぁああ !!」
逃げ場のない、魂を引き裂くような絶絶叫。
ヴァルターの見つめる前で、赤く燃え上がる両手は、単に炎に焼かれているのではなかった。存在そのものの全質量が、高熱の純粋エネルギーへと強制的に変換され、世界から消去されかけているのだ。視界を埋め尽くすのは、自らの肉体が灰にすらなることを許されず、分子レベルでパチパチと分解されていく、絶望的なまでに美しい輝きだった。
さらに追い打ちをかけるように、彼の体内で異様な、凄惨な音が鳴り響く。
この星の逃れられぬ呪縛を無理やり断ち切る代償のように、全身の骨が、目に見えない巨人の不可視の両手によって握りつぶされたかのごとく、グシャグシャと、容赦なく砕け散っていく。それは単なる肉体の崩壊の音ではなかった。彼がラスバガと蔑まれながらも必死に積み上げてきた「過去」の歩みそのものが、世界の方から完全に否定され、押し潰されている拒絶の音だった。
だが──今のヴァルターの魂は、世界ごときに否定されるような矮小なものでは到底なかった。
強靭な彼の精神は、崩壊していく自らの肉体をむしろ逆手に取り、全存在を純粋なクロイゾネのエネルギーへと昇華させていく。
「ようやく……長い旅が終わる。一族の意思と、俺の魂の結晶だ。──受け取れ、オリガ!」
分子レベルで霧散していくヴァルターの身体の欠片が、眩い七宝の光となって、オリガの冷え切った冷徹な外殻フレームへと激突した。
それは破壊の衝撃ではない。混じり気のない、純粋なる『命の譲渡』だった。受け継がれた光は、彼女の全身で絶え間なく、より煌々と輝きを増していく。
「母さん…俺もやっと、星の元へ……」
そこに、もはや物理法則は存在しなかった。轟音も、激しい衝撃波もない。
ただ、ヴァルターの肉体は、澄んだ水に一滴のインクを垂らしたかのように、静かに、透明な空間の奥へと溶けて消えていった。まるで、最初からこの世界に「ファロ」という男など存在していなかったかのように、あまりにも儚く、美しく。
***
その頃、偽神の精神支配の濁流に揉みくちゃにされていた、無意識の底のオリガもまた、必死にその支配に抵抗し続けていた。
おい、みんな、アタシを置いてどこに行くってんだよ……?
思い出すのは、灰色のアカデミーや泥臭い部隊での孤独な日々。
『ジンクス─疫病神オリガ』それが、どこへ行ってもアタシに付きまとう蔑称だった。周囲で起こる不幸な出来事は、全部アタシの呪われた血のせいだと誰もが指をさした。ドボゴラに捕まった時もそうだ。メラが私を庇って……
だけど──あの部隊は違った。
無骨なボスも、妹のようなカサンドラも、そして戦士ヴァルターも、そんな疫病神のアタシを「家族」として当然のように受け入れてくれた。あいつらは、アタシの不幸のジンクスなんて笑い飛ばして弾き返すほど、純粋に、圧倒的に強かった。
(期待のルーキーも……みんなきっとどこかで無事で生きているはずさ。何故か、そう確信してる……)
だけど、心のどこかで『また、アタシの大切なみんながいなくなる』という不吉な予感だけは、出会った最初からビンビンと肌に張り付いていたのだ。
「置いて逝かないでくれ!!」
鬼気迫る悲痛な形相で、オリガが現実の暗闇に向かって叫んだ、その時だった。
彼女の開かれた瞳の前に、美しく、儚く、それでいて妖艶で神々しい光を淡く放つクロイゾネハロが、中空で優しく、愛おしそうに回転していた。
「なんて……綺麗なんだ……」
ヴァルターの最期の言葉──「受け取れ!」──が彼女の脳細胞に響くと同時、オリガの肉体を縛り付けていた、ただの重い鉄の枷であり〈呪いの檻〉でしかなかった強化フレームが、彼の命の全エネルギーを燃料にして、爆発的な黄金の輝きを放ち始めた。
パキパキと音を立てて、フレームが「真のクロイゾネアーマー」へと瞬時に再構築されていく。
「これが……アンタの力か、ヴァルター。確かに、受け取ったよ!」
かつては重く皮膚を侵食していた鉄の骨格が、今は黄金の光回路を血管のように走らせ、オリガの意思よりも先んじて、羽毛のように軽く超高速で駆動する。それはもはや冷徹な機械などではない。ヴァルターの魂が、命が、確かに宿った、オリガ自身の新しい『身体』そのものだった。
何をすればいいのか、どうやってこの力を振るえばいいのかが、まるで本能のように手に取るように解る。
「おのれっ! クロイゾネの力が、この私に敵対するというのか……!」
美しき七宝の紋様が刻まれた強化アーマーの背後で、あの絶対的な光輪が煌々と輝きを増す。オリガは、背負った光の輪の輝きを通じて、目の前の偽神の「深淵」に触れていた。
「すべてが、わかるよ……。あんたも、本当は悲しかったんだね。──『シェフィー』と、別れることになって」
「──憐れみなど要らぬ!!!」
その名前を向けられた瞬間、偽神のノイズ混じりの音声に、明らかな激昂と動揺が走った。隠しきれない精神の亀裂。
オリガは黄金のアーマーの腕を掲げた。
光輪はまばゆい光を放ち空高く打ち上がるとその場で静止した。
「お前もアレと同じようにしてやろう!」
その言葉と同時に真っ直ぐと腕を振り下ろすと、光の輪が音速を超えるスピードでミューニューの頭部目掛けて音も無く飛んだ。
「アレじゃねぇ!ヴァルターだ!」
オリガとヴァルターの魂の一撃が周囲の空間をも歪め物体を切り裂いた。
だが、神にも等しいミューニューから発せられ続けている事象の地平線は磁場をも取り込み、時空を歪ませ時間すら超越しようとしていた──。




