2
集落領の最奥、最果ての断崖にひっそりと顎を開く、祈りの台座が据えられた──神贄の洞窟──。
その内部へと一歩足を踏み入れた瞬間、地上の熱気が嘘のように急速に引き、ジメジメとした不快な湿気がねっとりと肌にまとわりついてきた。あたかも、永きにわたり休眠している巨大な超生物の口腔内へ、自ら進んで歩みを進めているかのように、空気そのものがひどく澱み、重く、腐汁の臭いを孕んでいる。
胃の腑から絶え間なく込み上げてくる強烈な吐き気を、俺は奥歯を噛み締めて必死に堪えた。手元にある松明の薄光だけが、漆黒の闇を辛うじて切り裂く唯一の道標だったが、その淡い光すらも闇の濃度に押し潰されそうになっている。
一瞬、気のせいか、洞窟の壁面全体が生き物のようにドクンと大きく、そして深く脈動したのを肌が感知した。
──いや、気のせいではない。この場所そのものが、星の脈動と直結しているのだ。
幼い頃から、この神贄の洞窟への立ち入りは部族の掟によって厳重に禁止されていた。「あそこには底なしの虚無が棲む」と、大人たちは子供を遠ざけた。一体この闇の先に何が潜むのか。未知への狂おしいほどの期待と、内臓を素手で掴まれるような不安が脳内で激しく入り混じるが、今の俺の思考はその恐怖の速度に追いついてすらいなかった。
なぜなら、俺はすでにファロという名さえも結晶柱に捧げ、ただの空っぽの器──ジェ・ラロ──としてここに立っているのだから。
どれほど歩いたろうか。不意に、目の前の空間が行き止まりに突き当たると同時に、視界がにわかに開けた。
ドクン、ドクン、と、その巨大な空間の岩壁全体が、意思を持つかのように煌々と明滅し始める。岩壁のいたるところに刻まれた奇妙な七宝の紋様が、赤黒い光を放ちながら蠢いている。天井の無数の亀裂からは、粘液を帯びた青白い発光体としてまるで巨大な臓器のように垂れ下がり、星の呼吸に合わせるように妖しく揺らめいていた。
──いや、これはかつて民俗学者ウェビ・ワ・ガビーが書き残した、我が部族の歪んだアイデンティティそのもの。
世界を象徴する中央の球体、それを取り囲み互いに重なり合いながら渦を巻く七つの円、誠に最外周で世界を掴み、逃げる獲物を引き裂かんと狂い咲く三本の鉤爪。弱者を世界から切り離すための残酷なるシンボル──《七輪断界紋》。
敵対種族が遠目からそれを見て、巨大な獣の瞳──〈捕食者の眼〉──と呼んで怖れたその呪われた紋章が、今、岩壁の至る所で生々しく脈動していた。
そして、その狂気的な光の中心に、ぽつりと立つ影があった。
影の主は、何十年、何百年前からこの洞窟の一部としてそこに生えていたかのように、いささかの違和感もなく、
静かに佇んでいた。長い襤褸の外套をまとい、剥き出しになった顔全体には、周囲の岩壁の七輪断界紋と完全に同調した幾何学的なタトゥーが仄かに光を放っている。その両の瞳には、白目も瞳孔すらも存在しない。ただ、底のない漆黒の闇──すなわち、紋章の中央に据えられた、あの意思なき瞳そのものだけが眼窩に収まっており、そこには人間的な情愛も冷酷さもない、完全な無の感情が浮かんでいた。
「……お前が、今回の選別者か」
男の声は、洞窟の壁を内側から激しく震わせながら響いた。声というよりは、脳内に直接叩きつけられる固体に近い振動。その主は、無駄な問答など一切不要だと言わんばかりの口ぶりで、ここを訪れた者が何を望み、何を差し出すべきかを最初から見透かしているようだった。
俺は全身の細胞に鋭い緊張を走らせながら、声を絞り出した。
「……そうだ。俺はジェ・ラロ。死に名はファロ。あんたの名は?」
「私の名は……ジェ・ラロ。死に名は……忘れてしまったよ」
影の主は、感情の起伏を一切排した声で応じた。
同じ名。ジェ・ラロ──名無し。つまり、目の前に立つこの怪物のような男もまた、かつて名を捨ててこの深淵に挑んだ、過去の選別者の成れの果てなのだ。
「禁忌の力──アウェイクオーバー──を求める者が、この門を叩いたのは実に60年ぶりか」
影の主の瞳孔なき眼球が、俺の細く未熟な肉体を一瞥する。その視線は、私の絶望的な資質の低さを瞬時に見抜いたようだった。だが、俺は怯まなかった。五指を強く握り締め、言い放つ。
「力を求める。俺はどうしようもなく弱い。出来損ないだ。だが、この残酷な世界を生き延びるため、そして──守るべきもののために、俺にはどうしてもこの力が要るんだ」
「お前は、真の恐怖を知っているか?」
影の主は首をわずかに傾げ、淡々と問いかけてきた。
その問いに、俺は即答することができなかった。
恐怖。そうだ、恐怖なら、俺は生まれたその瞬間から、片時も離れずにずっと首筋に突きつけられて生きてきた。一族固有の肉体変異すら発動できず、高熱を出して吐血するだけの身体。戦士としての素質に決定的に欠け、肉体的にも矮小な俺にとって、恐怖とは呼吸そのものだった。「いつ死んでもおかしくない」「出来損ないのお荷物だ」と周囲から呪いのように囁かれ続け、それでも、その不条理の嵐の中で生き抜くために、俺はただひたすら泥を舐め、必死にもがいてきたのだ。
「知っている。嫌というほど知っている……! 俺には、この過酷な部族において、ガビーとして生きる価値など微塵も残されていないということを。その絶対的な絶望を、俺は誰よりも知っている!」
叫びを聞いた影の主の顔が、微かに歪んだ。それは、嘲笑のようでもあり、あるいは狂気的な歓喜のようでもあっ
た。
「ならば──試練の門は開かれん」
影の主が、細く乾いた指をパチンと弾いた。
次の瞬間、洞窟全体の空間がグニャリと歪み、猛烈に蠢き始めた。大地が底抜けたかのような凄まじい大振動が、俺の三半規管を破壊する。足元の頑丈な岩盤が真っ二つに割れ、その亀裂から、光を完全に吸い込む漆黒の霧が爆発的に吹き上がった。
視界が、重力が、感覚が、完全に反転する。
俺の意識は、底のない暗黒の深淵へと真っ逆さまに墜ちていった。
***
瞼を開くと、俺は「無」の中に立っていた。
そこは、さっきまでいた神贄の洞窟でもなければ、惑星ガガリスラムダのどこの大地でもない。上下左右の感覚は消失し、天井も床も存在しない。ただ、どこまでも果てしなく続く虚無の世界。光の一条すら届かない絶対的な暗黒の宇宙に、俺という存在だけがぽつんと取り残されていた。
どれくらいの時間が経過したのだろうか。
1時間か? 1日か? それとも、すでに10年の歳月が流れたのか? 時間を計測するためのあらゆる事象が停止し、ただただ圧倒的な無が精神を削り取るように支配していた。
ふと、前方の暗闇の奥で、何かがネチャリと蠢く気配がした。一つではない。見えない無数の何かが、確実な殺意を持って、俺の背後、足元、頭上を完全に取り囲んでいる。
──ゴバァアアアッ!!!
唐突に、闇を引き裂いて、巨大な捕食の口が現現した。
その醜悪な怪物の姿を、俺の網膜は強烈に記憶していた。大型肉食植物〈ポルバフ〉。かつて我がガビー部族を幾度となく蹂躙し、多くの戦士を貪ってきた最大の天敵の一つだ。その口腔部には、一度刺されば肉を抉らねば抜けない返し針のような無数の棘がびっしりと並び、喉の奥には粘液に塗れた巨大な眼球が幾つも脈動している。大地から触手のように伸びる太い茎は、それ自体が強靭な筋肉の塊であり、分泌される強力な消化液は、鉄や骨をも瞬時に融解させてすべてを栄養へと変える──まさに暴食の化け物。
喰われる──!
意を決して跳躍した瞬間、ポルバフの巨大な顎が、音もなく俺がいた空間を噛み砕いていた。衝撃波だけで皮膚が裂ける。そのあまりの質量と迫力に、脳の思考回路が恐怖で焼き切れそうになる。
弱者としての本能的な恐怖が、瞬時に全身の細胞を呪縛した。今まで人生の全てで感じてきた、強者に対するあの絶対的な恐れが、俺の精神を内側から蝕んでいく。
バキ、という生々しい音が響いた。跳躍した姿勢のまま、俺の下半身はポルバフの鋭い牙によって、無惨にもひと齧りで噛み千切られていた。
死、死、死、死、死──。
凄まじい激痛が走る間すらなく、自分自身の内側から死そのものが誘発されていく。逃れようのない、不可避の絶対的な死。しかも、それは一度では終わらない。連続して、断続して、狂ったように繰り返される無限の死の連鎖。
「俺は!!! 俺はぁあああああ死ねないんだぁあああ!!!」
悲痛な叫び声を上げるが、その声すらも、冷酷な闇の虚無へと瞬時に呑み込まれて消える。
この世界における対抗手段は、この出来損ないの、己の肉体のみ。
何度も、何度も、大槌で叩きつけられるように粉砕され、肉を引き裂かれ、内臓を破壊された。戦士の能力を持たない俺の命は、ただの玩具のように弄ばれ、蹂躙され続ける。
そして──また気がつくと、俺は何事もなかったかのように、全く同じ闇の中に立っていた。目の前には、再び顎を開くポルバフの姿がある。
アウェイクオーバーの試練。その真の正体とは、精神と肉体を極限まで破壊し尽くす、無限ループの殺戮地獄だった。
最初は発狂のあまり叫び狂っていた俺の精神も、何回目かの死を迎える頃には、奇妙な変質を始めていた。自分の骨が派手に砕ける音を、まるで他人が奏でる不快な音楽のように冷ややかに聞き流し、自らの肉体が消滅していく際の凄まじい熱を、単なる温度変化のデータとして淡々と捉えるようになっていく。
死への慣れ。それでも、俺は諦めなかった。諦めることなど、到底できっこなかった。
誰よりも弱く、誰よりも矮小なはずのこの俺が、今日この瞬間まで生きてこられたのは、一重にあの両親の存在があったからだ。部族の連中からラスバガと罵られ、石を投げつけられても、あの二人の子供であり、ガビー族の一員であるという誇りだけが、俺の崩壊寸前の心を支え続ける最後の楔だったのだ。
ガビー部族の掟は冷酷だ。子供たちは幼き頃より、情愛を排除された過酷な戦士として育てられる。親の甘やかしや、周囲の生ぬるい支えなどそこには存在しない。
ガビー族の赤子は、生まれてすぐにその細い胸を本物の槍で深く刺される。それは〈シューパス〉と呼ばれる残酷な儀式だ。通常であれば、鉄の刃物すら通さない強靭な皮膚と肉体を持って産まれる一族だからこそ、その「強さ」を親が把握し、選定するための試練。
だが──俺の肉体は違った。
赤ん坊だった俺の柔らかな肌を貫いた鋭い槍先は、何の抵抗もなくその肉を容易く貫通し、シーツを鮮血で赤黒く染め上げた。あの瞬間、一生涯消えることのない醜い裂傷が、俺の左脚に痛々しく刻まれたのだ。シューパスに失敗した、生まれついての不良品。それが俺の始まりだった。
しかし、父と母は、そんな出来損ないの俺を、部族の掟を破ってでも、心から愛してくれた。
「ファロ、おいで」
小さかった頃、母さんの温かい胸に抱きしめられる時間が、俺は何よりも好きだった。不自由な左脚を引きずり、拙い足取りで近づく俺を、母さんはいつも優しく包み込み、その絶対的な愛情を注いでくれた。
「私達はお前を愛している。ファロ。それは何があっても、この世界が滅びようとも変わらないわ」
大きな手で俺の頭を撫でてくれた、父さんのあの不器用で優しい笑顔が、今でも鮮明に記憶の底に焼き付いている。
幼少期の俺は、まともな戦士の訓練を受けさせてもらえず、誰もが嫌がる集落の排泄物の掃除や、ドブさらいの雑用をして辛うじて部族の役に立とうとしていた。そんな時、同年代の子供たちから、背後から容赦なく尖った石を投げつけられることも日常茶飯事だった。
「汚いラスバガ! ガビーの恥晒しめ!」
「おい、こっちを見るなよ、汚れが移るだろうが!」
「両親がいなかったらとっくにお前なんて死んでる!」
「ここから出ていけ! 出来損ない!」
心無い少年たちの直接的な罵声と嘲笑が、延々と頭上から降り注ぐ。その度に、俺は両親の顔を思い浮かべ、ひたすらに泥の中に身を縮こまらせて耐えることしかできなかった。悔しくても、同い年とはいえ彼らは俺の何倍もの体格を誇り、すでに大人に混じって巨大な獲物を狩りに出ている本物のハンターたちだったからだ。力で敵うはずがなかった。
「やめなさい!!!」
そんな時、いつだって烈火のごとく怒り狂った母さんが、俺の前に立ちはだかり、少年たちを追い払ってくれた。俺にとっての、唯一無二のヒーロー。
母さんは石が当たって血を流す俺の頬を拭いながら、真剣な目でこう言ったのだ。
「耐えるんだよ、ファロ。その理不尽に耐える経験こそが、いつかお前を本当の意味で強くする。弱いものを虐めて喜んでいるあの子たちは、決して一流のハンターにはなれないわ。自分の弱さを知っていて、それでも理不尽に耐える強さを知っているファロは──実は、誰よりも強いんだよ」
当時の俺には、その言葉の真意が全く分からなかった。ただの、惨めな息子を慰めるための、親の優しい嘘だと思い込んでいた。
──まさか、こんな死の独壇場で、あの言葉の本当の意味を理解することになるなんて。
「母さん、待っていてくれ……俺は、絶対にここを這い上がる……!」
それからも幾度となく肉体をポルバフに破壊され、その度に意識が激痛の中で途切れる。30回、60回、100回──そこから先は、もう数を数えるのを辞めた。思考をシンプルにする。生きる執念だけを脳細胞に叩き込む。
何百回目かの死の果て、俺の肉体に奇妙な変化が起き始めていた。最初は一蹴され、近づくことすらできずに咀嚼されていたポルバフの攻撃に対し、俺の未熟な身体が、次第にその速度と殺意を見切り始めていたのだ。泥臭く、執拗に繰り出した俺の拳が、ついに化け物の太い茎へと届くようになる。
相手の質量は圧倒的だった。俺の一撃など、柔らかな春風が木々を優しく揺らして、一枚の木の葉がひらひらと落ちるが如く、化け物の巨躯は微動だにしない。
それどころか、打ち込んだ俺の右拳はそのままバキリと肉々しい口腔に呑み込まれて消え去り、「ああ、また喰われたのだ」と脳が悟った次の瞬間には──やはり、同じように冷たい闇の中に、五体満足で立っていた。
試練の容赦のなさは、ポルバフだけに留まらなかった。
やがて闇の奥から、ガガリスラムダのどの狩人でも知らないような、見たこともない異形の超越生物たちが次々と這い出てきては、俺の肉体を襲撃した。空中を音速で飛び交う針の群れ、空間そのものを歪める不可視の顎。対抗策など何一つ存在しないまま、俺はただただ無力に、数千、数万回もの惨殺を経験し続けた。
精神がすり減る、という表現はあまりにも生ぬるい。いつからか、自分が何だったのか、自分という存在が何者なのか、その最低限の自我を保つことすら完全に精一杯になっていた。
脳内の暗黒から、無数の幻聴が俺を呪うように囁きかける。
『無駄だ。この試練に耐えられた者など、歴史上誰一人として存在しない』
『お前のようなラスバガが、星の臨界を超えるなど不可能なのだ』
『帰ってきた者はいない。そもそも──この試練に耐えられるような者は、元から強靭な戦士なのだ。お前のよう
なゴミではない』
「黙れぇええええ!!! 否定は、もうたくさんだ!!!」
狂ったように叫ぶが、その絶叫もやはり虚無に呑まれ、直後に現れた異形の一撃によって、俺の首は容易く撥ね飛ばされた。
やがて、無限の死の果てに、俺の中に辛うじて残されていた最後の自我すらも、粉々に破壊され尽くした。
光を失った瞳で闇を見つめる、ただの生きる屍と化した俺は、もはや諦めるということすら、自分の意思で決めることができない絶対的な植物状態の精神に陥っていた。ただ死んでは再生し、また殺されるだけの肉の塊。
そんな、完全な精神崩壊の淵に立たされていた、ある時のことだった。
俺の目の前の暗闇が、ふわりと温かい光を帯びて静かに揺れた。
「ファロ……私の、ファロ……」
その懐かしい声に、俺の死んでいた心が激しく跳ねた。光の向こうから現れたのは、台所に立ついつもの、優しい母さんの姿だった。
母さん──!
枯れ果てていたはずの目元から、大粒の涙が溢れ出た。母さんは愛おしそうに両腕を広げ、俺をきつく抱き寄せようと、ゆっくりとこちらに向かって近づいてくる。
だが──その温かい光の奥底から、ニチャリとした、不気味で醜悪な笑い声が微かに響いた。
いや、あれは本当に笑い声なのだろうか。
母さんの背後の暗闇から、うねるように這い出てきたのは、禍々しい人型の化け物だった。それはかつて父さんを屠り、部族を滅ぼさんとしている死の撹乱者──ザリファム──に酷似していた。だが、さらに歪んでいる。何十本もの触肢のような手足が複雑に重なり合い、その先端はナイフのように鋭く尖っている。その顔面には口がなく、代わりに不気味に開かれた胸部から、凶暴な牙がいくつも覗いていた。
「ああ……これは、悪魔だ……」
強者は常に弱者を弄ぶ。いつの時代、どこの星に行っても、その絶対的な残酷さの心理だけは変わらない。ここには居るはずのない、己のトラウマが具現化した圧倒的な化け物の存在に、俺の魂は激しく畏怖した。これが現実の光景ではなく、試練が見せる悪質な幻影であることは頭では理解できている。しかし、身体が恐怖で完全にすくみ上がり、一歩も動けない。自分という存在のあまりの情けなさに、底のない絶望が押し寄せる。
直後、微笑みながら近づいてきた母さんの頭部が、メリメリと音を立てて、左右に大きく裂け始めた。
「母さんッ!!! 逃げてくれぇえええ!!!」
俺は腕を伸ばて走り出し、声を振り絞って叫んだ。だが、間に合わなかった。
目の前で悪魔の触肢が容赦なく母さんを一閃し、真っ二つに引き裂かれたその身体は、力なくその場に崩れ落ちていった。その倒れ方はあまりにも儚く、まるでこの世界に何の質量も持たない幻のように、静かに、優しく床へ沈んでいく。
「うわぁあああああああああああああああああ!!!!!」
俺は狂乱し、母さんだった肉の残骸を必死に両腕で抱き寄せ、喉が裂けるほどにひたすら叫び続けた。大切なものを、またしても目の前で奪われた。無力な自分のせいで。
その瞬間──俺の魂の最深部で、何かがパキンと、決定的な音を立てて弾け飛んだ。
そこからさらに、何千回、何万回と試練の殺戮は続いた。
──俺の闘い方は、それまでとは根本的に違っていた。
どれほど強大な奴らの攻撃であっても、俺はただ耐えることに全てを集中させたのだ。肉を切り裂かれ、骨を砕かれ、脳を潰されようとも、意識の焦点をただ一点に凝縮し続けた。
ここは現実ではない。しかし、ただの甘い幻でもない。実際に肉体を損なう痛烈な痛みはある。精神を摩耗させる凄まじいダメージもある。
それでも──絶対に挫けない。折れない。諦めない。
なぜなら、肉体変異すらできない俺にとって、この何年間もの理不尽な罵倒と暴力に耐え続けてきたこの泥臭い忍耐こそが、母さんが教えてくれた、世界で唯一の、俺だけの最強の長所《武器》だからだ!
極限状態の中、俺の精神は、かつてないほどに鋭利に研ぎ澄まされていった。痛みを痛みとして認識せず、次の動きへの糧に変える。
その絶対的な忍耐の質量が、悪魔が与える痛みを完全に上回り始めた、その頃だった。
不意に、暗闇に響き渡っていた悪魔の嘲笑が、ピタリと止んだ。
「ギィヤァああアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」
空間に凄まじいソニックブームが垣間見えるほどの、破滅的な咆哮──いや、それは明らかな恐怖の悲鳴だった。
俺の目の前に佇んでいた人型の悪魔が、いつかの母さんと同じように、自らの頭頂部から左右に綺麗に裂け落ち、融解していく。
その悪魔が消え去った闇の向こうから、空間のすべてを切り裂くような、神々しい光を帯びた輪が、俺の元へと超高速で接近してきた。
「あれは……一体……?」
俺はその眩い物体を凝視し、呆然と呟いた。
それは、とてつもない質量とエネルギーを孕みながらも、全くの無音で、一直線にこちらに向かって突進してくる。
俺の眼前、わずか数センチのところで急停止したのは、緻密な七宝柄が刻まれた美しき光輪──〈クロイゾネハロ〉だった。
──待て。この光輪の形状は。
一瞬、脳裏を過ったのは、あの七輪断界紋。中央の瞳を囲む七つの円。だが、このクロイゾネハロには、最外周で世界を切り裂こうとする三本の鉤爪が存在しなかった。それは、弱者を排除するガビーの掟から完全に解き放たれた、純粋なる光の円環。
その絶対的な光が、傷だらけの俺の肉体を優しく、しかし不可逆的に照らし出した瞬間、俺は本能で確信した。これこそが、数千年の時を超えて、このアウェイクオーバーの試練が俺に与えた、真の禁忌の力なのだと。
絶望の果てに掴み取った希望に溢れ、悠然と、七宝のそれぞれの円が波打つように有機的に輝き、永遠に連鎖するように完璧な光輪を形作っている。見惚れてしまうほどの圧倒的な美しさが、俺の全細胞、全遺伝子の中へと直接溶け込んでくるような、強烈な一体感の感覚。
俺は吸い寄せられるように、直感的にその光輪へと右手を伸ばした。この呪われた力を、自分の魂の全てで受け入れようと覚悟を決めて。
「母さん、待っていてくれ! 俺は、この死の試練を完全に乗り越え──」
***
──ハッ、と激しく息を吸い込んだ。
まるで、底のない深い沼の底から、強引に現実へと引っ張り出されるように目覚めると、俺は冷たい石の床の上──あの神贄の洞窟の台座へと戻ってきていた。
しかし、周囲を見渡しても、あの襤褸の外套をまとった影の主の姿はどこにもない。岩壁を明滅させていた異様な灯りもすでに消え失せ、洞窟はただの寒々しい静寂に包まれている。
「何が、起こったんだ……?」
俺は自分の両手を見つめた。しかし、不思議なほどに、さっきまで脳内で確かに感じていたはずのあの圧倒的な覚醒の力──クロイゾネのハロの気配を、今の肉体からは全く感じ取ることができなかった。何一つ、変わっていない。細胞は静まり返ったままだ。
その瞬間、猛烈な焦燥感が一気に脳裏へと押し寄せてくる。失敗したのか? 俺は、何も得られなかったのか?
その時、洞窟の入り口側──遥か遠い集落の方角から、風に乗って、限りなく小さな悲鳴のようなものが鼓膜を掠めた気がした。
心臓がドクンと嫌な跳ね方をする。俺は松明を掴み、神贄の洞窟の元の道を、狂ったように全力で引き返した。
洞窟の狭い出口を飛び出し、集落へと向かう小道を駆け抜ける。だが、何かがおかしかった。
見上げる外の夜空は、異常なほどに重く暗く、そして不気味なほどに静まり返っていた。いつもなら聞こえるはずの夜行性の原生生物の鳴き声も、風に揺れる木々のざわめきすらも、完全に途絶している。まるで、この惑星ガガリスラムダから、すべての生命の存在が根こそぎ消滅してしまったかのような、不吉な静寂。
胸を焦がすような最悪の不安が爆発し、俺は不自由な左脚の痛みも忘れて家路を急いだ。
やがて視界に開けた集落の景色──しかし、そこに人々の営みの灯りは、ただの一つも点いていなかった。なぜだ。いくら夜更けとはいえ、見張りの松明すら消えているなど、あり得ない。
破裂しそうな動悸に胸を内側から激しく殴打されつつ、村の中央広場へと近づいた瞬間──俺の視界に、本物の地獄が飛び込んできた。
「……っ!?」
大地を埋め尽くしていたのは、夥しい数の同胞たちの死体だった。広場のいたるところに散見されるそれらは、どれもが引き裂かれ、押し潰され、人間の原形を全く留めていない。
そして今頃になって、俺の鼻腔を、辺り一面に立ち込める強烈な濃度の死臭が容赦なく貫いた。さらに最悪なのは、これほど凄惨な蹂躙が行われた直後だというのに、周囲には敵の気配が完全に皆無であるという事実だった。
そして広場中央にあった漆黒の結晶柱も粉々に砕け散っていた。
ヤツはもう、ここでの仕事を終えて去ったのだ。これほど強烈な悪臭に今まで気づかなかったほど、そして敵がまだ近くに潜んでいる可能性すら忘れてしまうほど、今の俺の精神は激しく動転していた。
「落ち着け……落ち着け、俺はジェ・ラロだ。一体どれほどの苦痛と死を、あの無限の試練で乗り越えてきたと思っ
ている……!」
自分自身にそう強く言い聞かせ、深く息を吐き出すと、不思議なほどに激しい脈拍は急速に抑え込まれ、混濁していた思考が冷徹なまでにクリアになっていった。ここまで異常に冷静になると、導き出される結論はたった一つ。
俺が試練に挑んでいる隙に──〈ザリファム〉が、この村を急襲したのだ。
「母さんっ!!! 母さん、どこにいるんだ!!!」
俺は叫びながら、我が家の粗末な泥造りの扉を乱暴に蹴り開けた。
当然ながら、暗い室内から何の反応も返ってはこない。松明をかざしても散乱した家財が虚しく佇んでいるだけだ。この外の惨状を見る限り、いくら元凄腕のハンターだったとはいえ、病床に伏せていた母さんが無事で済んでいるはずがなかった。そんな凄惨な現実を、どこまでも冷酷に、計算高く分析している自分自身の脳の冷静さが、心底嫌になる。
「……遅すぎた、というのか」
底のない諦念と失意が、俺の心をじわじわと覆い始める。
家の中を隅々まで狂ったように探したが、母さんの姿はどこにも見当たらなかった。遺体すらない。血痕すら残されていない。まるで、最初からこの家にバラミドという女性など存在していなかったかのような、恐ろしいほどの空虚ささえ感じ始めた。
──いや、まだだ。まだ分からない。
ザリファムの襲撃の際、動けない者を一箇所に集めて処理したのだとしたら、集落の入り口に群がっているあの死体の山の中に、母さんがいるかもしれない。
俺は怒りで我を忘れるのを、理性の刃でギリギリのところで押し留め、再び外の大地へと足を進めた。頭の中には、家を出る前に交わした母さんの最後のあの涙の笑顔が、どうしても離れずにループしている。
(ファ…………ロ………)
不意に、微かに、本当に微かに、風の鳴き声に混じって声が聞こえた気がした。
それはただの、俺の哀れな希望的観測かもしれないほどに、か弱く、今にも消え入りそうな掠れた響き。だが、あたりを見渡しても、転がっているのは完全に物言わぬ凄惨な肉塊ばかりだ。
その瞬間、絶望の器を満たしていた悲しみが、一気に沸点を超えて猛烈な怒りへと変貌した。
憎しみを完全に通り越し、俺の心臓の最深部に、青白い獰猛な炎が宿ったのを確かに感じた。奥歯をこれ以上ないほどに噛み締め、両の拳を血が出るほどに強く握り締める。
俺は、部族最後の生き残りになってしまったのだ。
だが──ここで虚空を見つめ、今は亡き同胞たちの死を悼むべきなのか?
いや、なぜこの俺が、今まで俺をラスバガと蔑み、石を投げつけ、ゴミのように扱ってきたあいつらの死を悼まねばならない?
周囲の死体を観察して、俺の脳はさらに冷徹な事実に気がついていた。死体のいくつかは、肉体が内側から不自然に変異し、細胞が融解した跡がある。
──重なり合う円の渦。それは、祖先から受け継いだ強靭な遺伝子の暴走。
ザリファムは、すでに想定を超える圧倒的な速度で我がガビー部族の強靭な戦闘遺伝子を取り込み、全個体を一つの巨大なハイヴへと昇華させつつあるのだ。この紋章が意味する『戦士が世界を守る』とは、皮肉にもザリファムという捕食者と一体化して星を支配するという最悪の結末を暗示していたのではないか。
このままこの星にただ佇んでいれば、俺という生き残りが淘汰され、ヤツらの最高最悪の肉パーツとして簒奪されるのは、もはや時間の問題。ヤツらの「最終進化」が完了するその時は、すぐ目の前まで迫っている。
それなのに──試練であれほど明確に感じた力の反応は、今の俺の肉体のどこを探しても、やはり発動しなかった。あの美しき、クロイゾネの光輪──。
俺の行き場のない怒りの叫びは、ただ冷徹な虚空へと吸い込まれ、誰の耳に届くこともなく消え去った。
圧倒的な失意と、二度と会うことの叶わぬ母へのちぎれるような後悔の中、俺は天を仰ぎ、届かぬ救いを求めるように、夜空へ向かって虚しくその手を伸ばした。
激しい感情の濁流が脳内へ傾れ込み、俺の唇から、無意識に名前が零れ落ちる。
「……シェフィー……」
その、あまりにも切なく、愛おしげな響き。
だが、その名前を口にした瞬間──俺の全身の毛穴が、恐怖で一斉に逆立った。
シェフィー? 誰だ、それは。
俺の母親の名前は、バラミドだ。そして俺のこれまでの孤独な人生において、シェフィーなんて名前の人間は、部族の中にも、行商の遊牧民の中にも、ただの一人も存在しなかったはずだ。それなのに、なぜ俺は今、この名前を我が亡き母を想う最中に、さも当然のように口にしてしまったのか。
──ドクン。
その時、俺の脳細胞の奥底で、アウェイクオーバーの結晶柱と同じ、あの幾何学的な文字列が不気味に明滅した。
確信する。この冷徹すぎる思考回路も、爪を排除した完璧な円環たる光輪の兆候も、そして今溢れ出た見知らぬ名前も。
〈俺の頭の中に──誰か別の、未知の記憶が、混じっている……?〉
皆が死に絶えてから、この場所にザリファムが二度と現れることはなかった。
俺は壊滅した中央広場の中央に座り込んだまま、2日、3日の間、泥の混じった地面を見つめ続けていた。何も食べる気にならなかった。絶望と悲しみ、間に合わなかったという狂おしいほどの苦しみ、そして──母さんを、あの優しかったヒーローを今度こそ守れなかったという後悔だけが、腐りかけた俺の心臓を無理やり動かしているように思えた。
同胞たちの遺体を処理することすらできないほど、俺の肉体と精神は完全に憔悴しきっていた。
やがて、辺りには鼻を突く猛烈な腐臭が立ち込め、無数の虫が湧き始めた。どれほど凄惨な虐殺が行われようとも、死体は腐り、虫の栄養となり、やがて土へと還る。この星の残酷な自然のサイクルだけが、皮肉なほどしっかりと、そして冷酷に機能していた。
──5日くらいが経過した、ある日のことだった。
いつものように俯き、虚無の闇に沈んでいた俺の鼓膜に、久しぶりに聞く人間の声が届いた。
「ここもやられちまってるのか……それにしても、これはひどい。死体だらけじゃ──っっっ!」
声の主がこちらに気づき、俺たちの目が視線が交錯した。その人物は、生存者などいるはずがないと確信していたのか、俺の姿を見るなり声にならない悲鳴をあげて絶句した。
「おい! あんた、この村の生き残りか!? 他のやつは!?」
「……みんな…死んで…しまった……」
カサカサに乾いた喉から、ようやくそれだけの言葉を絞り出す。
「とにかく、これを飲め! ひどい状態じゃないか!」
その人物は、旅慣れた手つきで腰から皮袋を外すと、この過酷な惑星では何よりも貴重な水を俺の口元へと差し出してくれた。しかし、俺は水を飲み干すよりも先に、ガスガスに掠れた声で、執念だけを燃やして問いかけた。
「ザリファム……は、どこだ……」
「ザリファムは消えた! 正確には──“活動を停止した”だな」
その言葉には、隠しきれない強い怒りと忌々しさが混じっているように聞こえた。
「ど、どういう……」
何を言っているんだ、この人は。活動を停止した? 奴は生き物ではなかったのか? 襲撃のショックと飢餓で、俺の頭は一気に錯乱しそうになる。
「とにかく水を飲め! 話はそれからだ!」
その、マスター世代の風格を纏った妙齢の女性戦士は、〈ヴァルトリーナ・オル・ガビー〉と名乗った。一族の集落に属さない、流浪の戦士だという。
通常、この荒野を女性が一人で旅していれば、真っ先に野盗の餌食になるのが常識だろう。だが、彼女のような本物のガビーの戦士にとって、そんな心配は皆無だった。そもそもこの星の野盗とは、戦士になれなかった最底辺のラスバガたちで構成されており、主な活動といえばせいぜい小柄な草食獣を狩るなど、自分たちより弱い相手を狙うだけの一団の総称に過ぎない。ガビーの正規の戦士が一人でもいれば、どれだけ束になってかかってこようが逆立ちしても敵わないのだ。彼女の背負う大剣と強靭な佇まいが、その実力を雄弁に物語っていた。
彼女は俺を村の中で比較的被害の少なかった清潔な家へと連れていき、手際よく傷の手当てをし、温かい食事を与えてくれた。スープが喉を通り、少しだけ心身が落ち着きを取り戻した頃、俺が改めて口を開くより先に、ヴァルトリーナは静かに語り始めた。
「ザリファムは、止まったよ。つまり、死んだと同義だ。あれは……空からやってきた『星人』たちの言葉を借りるなら、〈サイボーグ〉ってやつだったみたいだね──」
「なんだよ、それ……」
俺の知る世界の常識が、ガラガラと音を立てて崩れていく。
それから彼女は、俺が知る由もなかった世界の現状を色々と教えてくれた。
王都をはじめとする大きな都は、ザリファムの襲撃によってほとんどが壊滅していること。それでも生き残りたちは、絶望の淵から這い上がり、新たな集落や街を築いて必死に暮らし始めていること。そして──ザリファムの正体は生身の怪物などではなく、どこか遠いソラの星から、箱型の船に乗って送り込まれた機械人形だったということ。さらに、奴が完全に沈黙して眠りについたその場所には、二度と目覚めぬよう、封印として巨大な七輪断界墳墓が建設されつつあるということ。
幼い頃、この集落にも稀に星人と呼ばれる異星の人々が訪れていたのを思い出す。彼らが語る異星の発達した文化や、未知のテクノロジー文明の話は、この原始的なガガリスラムダの日常とは完全にかけ離れていて、子供心にとても面白かった記憶がある。あの聡明なソラの人々が言うのだから、ザリファムが機械人形だったという話も、妙に腑に落ちてしまった。
だけど──だとすれば、俺のこの行き場のない怒りはどうなる。母さんの仇すら討てないというのか。あの無限の試練で何万回も死んで、ようやく手に入れたはずの力が、戦うべき相手すら失った今、この胸にぽっかりと空いた空虚な穴の正体は何なんだ……。
「少しは精が出たかい? さて、あんたも手伝いな」
ヴァルトリーナが俺の細い腕を力強く掴み、強引に外へと連れ出した。
「立ち止まってる場合じゃないよ。みんなを星の元へ送ってやろう」
「……わかった」
それから俺たちは、何日もかけて広場に夥しい数の同胞たちの遺体を集め、巨大な薪を組んで火葬した。骨が焼け、煙が重い夜空へと立ち上っていく。だが──その煙の中に、ついぞ母さんと思われる遺体は見つからなかった。やはり、あの家から静かに消え去ったまま、どこにもいない。
ヴァルトリーナが厳かに紡ぐガビーの祈りの言葉が終わり、その日は二人で静かに身体を休めた。
次の日の朝も彼女は朝食を作ってくれた。その慣れた手つきや、背中から漂う微かな温もりが、かつて台所に立っていた母さんの姿に重なって見えた。
「そういや、あんた、名前は?」
スープを差し出しながら、彼女が不意に尋ねてきた。
「俺の名はジェ・ラロ。死に名はファロだ」
「ジェ・ラロだって……?」
彼女は一瞬、驚いたように目を丸くした。俺が神贄の洞窟に赴き、アウェイクオーバーの試練を乗り越えてきたことまでは伝えていない。ただ、すべてを失って名を捨てた出来損ないだと自嘲する意味を込めて、そう名乗ったのだ。
てっきり、またいつものように「ラスバガのくせに生意気だ」とバカにされるか、哀れみの目を向けられると思った。だが、ヴァルトリーナは違った。
「ふっ、でもこんな状況じゃ、アウェイクオーバーも何もあったもんじゃないね」
彼女はカラリと、豪快に笑った。
「……バカに、しないのか?」
「何言ってんだい。ジェ・ラロになるってだけでも、大した覚悟だよ。あんたのその目を見れば、ただの腑抜けじゃないことくらい分かるさ」
「……」
俺は何も言えず、黙って俯いた。やっぱり、どこか母さんに似ている。その強さと優しさが、痛いほど俺の心に染み込んできた。
「さて──あんた、これから行く宛はあるのかい?」
その問いに、俺は首を振った。行く宛など、あるはずがなかった。
「なら、あたしについてきな」
そこから、俺とヴァルトリーナの、果てしない二人旅が始まった。
西の都イルダム、東の都ム・シュバ、そして見渡す限りの熱砂が広がるリーフィン砂漠に、原生生物が跳梁跋扈するププラマ平原。どこを訪れても、かつて星を誇り高く守っていた強靭な戦士たちのほとんどは死に絶えており、かつて蔑まれていたラスバガや、かろうじて生き残った老人たちが、必死に町や村を切り盛りして新しい世界を作っていた。
その長い長い旅の途中、俺はヴァルトリーナと共に、ガビー族の苛烈な肉体鍛錬を日々行い続けた。
──そこで、俺はある異常に気がついた。
旅を始めてから、どれほどの歳月が流れただろうか。俺の肉体が40代に差し掛かった頃から、俺の容姿や細胞は、一切の『老い』を迎えることをやめてしまったのだ。髪一筋も白くならず、皮膚の張りも、肉体の駆動速度も、全盛期のままピタリと停止している。
熟年のヴァルトリーナはそれを、「星が与えてくれた天啓だ」と言って驚き、称えてくれた。だけど、俺にだけは明確な思い当たる節があった。
あの神贄の洞窟──無限の殺戮ループの果てに掴み取った、禁忌の力〈アウェイクオーバー〉。
細胞が老いることすら拒絶するこの絶対的な肉体。そうなると……あの洞窟の奥底で、襤褸の外套を纏って佇んでいた、瞳孔のないあの影の主も、もしかして俺と同じように何百年もの時を不老のまま生き長らえてきた、過去の選別者だったのではないか。あの場所そのものが、星の遺伝子の臨界点だったのではないかと。
さらに月日は流れた。
俺たちはガガリスラムダのありとあらゆる未開の地を旅し、かつては部族の伝承や話のなかでしか聞いたこともなかったような、凶暴極まりない超越的なクリーチャーたちを、二人で息を合わせて次々と討伐していった。俺の肉体は、かつての出来損ないの面影など微塵もないほどに、泥臭く、しかし絶対的な忍耐を武器に、強靭へと新生していた。
そして、俺たちが最後に辿り着いたのは、世界の最果てに位置する、リィナイ樹林の街ロロララだった。
大剣を杖代わりにし、すっかり老いさらばえたヴァルトリーナは、静かにベッドに横たわりながら、俺を見上げて満足そうに微笑んだ。
「……この星には、もう戦士が残っちゃいない。死が広がっている。終わりだ……。でも、あんたは……もう立派な戦士だよ、ファロ……。この街にはね、星人たちが集まるサークルがあるんだ。そこへ行きな。そして、もっと広い世界のソラを旅してきな。あたしは……一足先に、星の元へ行ってるよ……」
それが、彼女の最後の言葉だった。
静かに息を引き取った彼女の顔は、とても穏やかだった。
二度目の、母との別れだった。
だが、数え切れないほどの死の試練を耐え抜き、精神も肉体も絶対的な強靭さを手に入れた俺の目から、もう涙が毀れ落ちることはなかった。ただ静かに、彼女の遺した大剣を握り締め、石碑へ突き刺すと、その魂を星へと送った。
「今までありがとう。母さん……」
ヴァルトリーナの遺言を胸に、俺はロロララの発着場から、未知なる宇宙へと静かに羽ばたく鉄の船へと乗り込んだ。これがこの惑星最後の旅客船らしい。
轟音と共に重力を振り切り、窓の外でみるみる小さくなっていく、俺の故郷の星──惑星ガガリスラムダ。悲しみも、栄光も、理不尽も、すべてを飲み込んで回り続ける哀れな泥の星を、俺は静かに見つめ、想いを馳せていた。
「おい、あんた。見ない顔だな。名前はなんていうんだ?」
宇宙船の無機質な通路で、奇妙な衣服を着た乗組員の男が、俺の風体に興味を示して質問を投げかけてきた。
俺は、かつて俺に忍耐を教えてくれた最初の母と、本物の戦士へと育ててくれた二度目の母の面影をその胸に抱き、静かに、しかし確固たる声で答えた。
「俺の名は、ヴァルター。──ヴァルター・ジェ・ラロだ」




