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「はるか昔から、我が一族がこの世界の剪定を行ってきたのだ。狂乱と獰悪に身を委ね、獲物を狩り、その血肉を貪る。そう、我々は生まれながらの戦士なのだ」
この過酷にして自然豊かな惑星で生態系の頂点に君臨するには、並大抵の遺伝子情報では到底無理な話だった。天を衝くほどの巨躯を誇る獰猛な獣、底なしの沼地から這い出る燐甲の化け物。宿主の肉体を内側から貪り尽くす凶悪な肉食植物群や、毒を使って獲物を昏倒させ子供の苗床にする昆虫ども。それら数多の、悪夢のごときクリーチャーたちのトッププレデター。それこそが、我らガビー部族だ──
広大な漆黒の祈祷洞窟の中央で、巨大な焚き火がパチパチと火の粉を散らし、ゆらゆらと不気味な影を岩壁に投げかけている。その赤黒い炎に照らされながら、部族の長は、皺だらけの厳格な顔を歪めてこう話を切り出した。反響する老いた声には、かつてこの星の覇者であったというプライドと、同時に今まさに潰えようとしている種族の絶望が、重々しく混ざり合っていた。
一族が住まう惑星ガガリスラムダ429が、今、直面しているのは、歴史上未曾有のイントラギルド・プレデーションだった。
その生態系に本来であれば決して存在しなかったはずの、あまりにも冷酷で絶対的な殺戮者が突如としてこの世界に顕現し、ありとあらゆる生命の強制的な刈り取りを繰り返していたのだ。
山頂から巨大な岩石が重力に引かれて転げ落ちるように、質量が重ければ重いほど、その落下速度も比例して加速度的に速くなるのは物理の理だ。侵略者の進化と蹂躙の速度は、まさにその物理法則そのままだった。
いつしか、人々はその七宝柄が細かく刻まれた重々しい金属質な体躯、口のない顔面に不気味な紅い四つの眼球を持った、死そのものの執行者を〈ザリファム─攪乱者〉と呼んで激しく畏怖した。その四つ瞳に見据えられた生命に、明日の朝日は絶対に訪れない。
死の連鎖は、爆発的な勢いで瞬く間に惑星全体の全領域へと広がっていった。緑豊かだった森林は沈黙し、かつて強大な原生生物が闊歩していた荒野は、今や動くもののない静寂の荒れ地へと変貌を果てしていた。
最悪だったのは、我がガビー部族が誇る戦闘力が、史上類を見ないほどに極限まで高められていたという事実そのものだった。今までねじ伏せてきた野生生物達はものの数ではないが、その幾世代にもわたる過酷な環境での淘汰を経て、研ぎ澄まされた戦士たちの遺伝子。それが、この厄災においては最悪の仇となったのだ。
ザリファムは、文字通り我が種族の堅牢さや強靭さ、蓄積された戦闘遺伝子そのものを情報としての糧にし、さらに強大に強化してこちらへ襲いかかってくる。ヤツは不思議なことに生物的な意味での捕食をしない。ただ戦った戦士たちの戦闘スキル、生前の戦術記憶、肉体改竄の経験のすべてを己の肉体に取り込み、リアルタイムで自己アップデートを繰り返しているようだった。強ければ強いほど、優秀な戦士であればあるほど、ヤツの最高最悪の肉々しいパーツとして簒奪される。
昨日まで頼もしかった部族最強の英雄が、ザリファムに屠られた次の瞬間には、その英雄の得意技だった超高速の踏み込みと、鋼鉄をも引き裂く爪の変異能力をヤツが完全に再現して襲いかかってくるのだ。これほどの絶望が他にあるだろうか。
ただ殺すために殺す。
たった、1個体。
そう、世界を滅ぼしつつあるのは、大軍勢などではなく、たった1個体の化け物だった。
数億年の歴史を持つ惑星の全生命が滅ぼされようとしていた。
どこから来たのか。何が目的なのか。
行商の遊牧民は「天からの光輪が大地を焼いたときに産み落とされた」と嘯いた。
流浪の吟遊詩人は「はるか北の氷が全て溶け、その最深部に封印されていた太古の闇が解き放たれたのだ」と唄った。
学都の最高権威たる学者は「事象の彼方が物理法則を纏ってこの世界に突き刺さった、次元のグリッチだ」と狂言を流布した。
しかし、実際の正体が何かは誰も知らない。分かっているのは、ヤツが歩いた歩数だけ、この世界の生命の灯火が確実に消えていくということだけだった。
絶望的な状況の中で、僕は、部族が誇るべきサベージング、すなわち苟且の肉体進化の能力を、どうしてもコントロールすることができずにいた。肉体を強制的に変異させ、一時的に凶暴な戦闘形態へと移行する一族固有の恩恵。ある者は皮膚を岩石より硬く硬質化させ、ある者は筋肉を爆発させて音速で駆ける。それがガビー部族の強さの源泉だった。
しかし、それを行おうとしても、僕の細胞は激しい拒絶反応を起こすばかりで、高熱を出して吐血し、蹲ることしかできない。いつまで経っても最下層のラスバガクラスのままで停滞している。実質的なウォッシャウト、それが私に対する、周囲の冷酷にして妥当な評価だった。
戦えない者は、この部族において生きていく価値を持たない。狩りに出ることもできず、集落の防衛にも貢献できない者は、単に貴重な食糧を消費するだけの荷物でしかなかった。それが他にどんな仕事をしていようともだ。だからこそ、なぜ今日のこの時、僕が族長の前に呼び出され、参謀である大婆たちの冷ややかな視線に晒されているのか、その理由は身を持って十分に理解しているつもりだった。用済みとなった出来損ないを、どう処理するか。口減らしのために追放するか、あるいは別の冷酷な役割を与えるか。話はそれだけのはずだ。
「〈ファロ・ラ・ガビー〉よ、この世界は弱肉強食だ。それはお前も、これまでの人生で十二分にわかっていることだろう」
族長は、燃え盛る焚き火の向こうから、射抜くような鋭い視線を私に向けた。その眼光は、衰えたりとはいえ、かつて数多の巨獣を屠ってきた猛者のそれだった。
「しかし、このままでは部族内での序列競争ですら、お前が生き残ることは到底叶わない。ましてや……あの忌々しきヤツが我らの王都ガラムを急襲し、すでに戦える生者はほとんどおらぬと聞く。王都の精鋭たちが、ヤツの糧にされてしまったのだ。この集落とて、いつヤツに見つかり、完全なるデッドゾーンになるやも知れぬのだ。昨今では周辺の生物もザリファムを恐れて逃げ出し、食糧調達もままならない状態が続いておる。限界の時は近い」
薄暗い洞窟の壁に映る族長の影が、まるで巨大な怪物のようにつぶれて揺れる。
「逃亡すれば死あるのみ。されど、この戦時において戦えぬ者もまた、同じように死ぬ運命にある。戦わずに飢えて死ぬか、ヤツに見つかって無残に引き裂かれるか。いずれにせよ、お前のような者に残された時間はもうないのだ」
ついにこの時が来てしまった。部族から切り捨てられるには遅すぎたほどだ。むしろ、今まで劣等種である自分をここまで生かしておいてくれたこと自体が、この部族にとっては奇跡的な慈悲だったのかもしれない。
家を出る時、いつものように台所に立っていた母への最後の言葉が脳内で反芻される。「すぐに戻るよ」という、あまりにも他愛無い会話だったことを激しく悔いる。それが今生の別れになると知っていたなら、もっと伝えるべき言葉があったはずなのに。
「……ファロよ。お主、我が部族に伝わる禁忌の儀式、アウェイクオーバーを試しては見ないか?」
族長から厳かに告げられたその言葉は、死の覚悟を決めていた僕の耳に、まさに青天の霹靂に他ならなかった。
だが、その言葉は、一見するとチャンスを与えているかのような優しげな響きを帯びてはいたが、実質的には僕に対する洗練された死刑宣告[#「死刑宣告」に傍点]に他ならなかった。
背後に控える参謀の大婆たちは、座布団の上に身を縮こまらせたまま、私を一瞥するだけで、その瞳には何の興味も哀れみも浮かんではいなかった。ただの石ころを見るような、あるいはすでに死んでいる死体を眺めるような無感動。彼女たちにとって、私がここで死ぬのが今か、あるいは儀式の最中かの違いでしかないからだ。
アウェイクオーバー。それは、自らの遺伝子の鍵を強引に破壊し、眠っている潜在能力のすべてを狂気的に引き出す禁断の秘術だ。
「……覚悟は、とうに出来ています。この出来損ないの命、我が部族のために捧げましょう」
母から、〈テンクァ・ドラ・ガビー〉と言う唯一、試練から生き残ったとされる英雄の話を聞いたことがある。
僕と違うのは儀式に志願したということ。
その男は洞窟から帰ってくるなり戦に参加した。そして七輪断界紋の鎧を纏し光輪の使者として殉国した。
一縷の望みを仰々しく伝えるバカバカしい口伝だ。でもそれがもし本当だとしたら……
僕は恭しく頭を垂れ、細い声を絞り出した。
成功率、わずか、0.0002%。それが、古代の石碑に残る肉体改竄法の冷酷な現実だった。失敗すれば、肉体は遺伝子レベルで内側から崩壊し、原形を留めない肉の塊となって融解する。分の悪い賭け、という言葉すら生温い。ただの自殺行為だ。
だが、僕に拒否権など最初から存在しなかった。この弱肉強食の星に生きる我らにとって、強さとはすなわち生存そのものを意味する。現状、弱者が無条件で生存を許されるほど、このガガリスラムダの環境は易しくはない。人類そのものが存存亡の危機に立たされているのだ。これ以上、今の落ちこぼれの立場に甘んじていても、たちまち飢えに食われ、環境に淘汰されるか、ザリファムに殲滅されてヤツの一部にされるだけだった。それならば、万に一つの可能性に賭けて消滅する方が、戦士の血を引く者としての最低限の誇りを守れる。
「─名を武神に捧げよ。身を闇に委ねよ。さすれば顕現せりし解放の時─お主に、星々の大いなる祝福があらんことを……」
族長の底暗い優しさ、そして諦念は、その短い言葉だけで十分に伝わってきた。生き残る見込みのない、生贄として捧げられる哀れな子羊への、それが彼なりの精一杯の葬送の言葉なのだろう。婆さま達はついぞ最後まで口を開くことは無く、僕が出ていくより早く、すでに死者を送り出すための呪術的な祈祷を低く始め、洞窟の空気をさらに重く沈めていった。
「母さん、俺……アウェイクオーバーの儀式を受けるよ」
仄暗い祈祷洞窟を辞し、夜風が吹き抜ける集落の小道を通り抜けて、粗末な泥造りの自宅へと戻った私は、土間で私の帰りを待っていた母に向かって、決意を込めてそう事実を伝えた。
その瞬間、私の言葉を聞いた母は手に持っていた─数少ない滋養のある硬い実を、病床で何時間もかけて擦り潰して焼いてくれた─干菓子が入った器を床に落とした。土の床に鈍い音が響き、菓子くずが広がる。母は激しく狼狽え、その両目を信じられないというように大きく瞠目させた。その顔からは一瞬で血の気が引いていた。
「ファロ……そんな……嘘でしょう……!? あの儀式が何を意味するか、お前だって知っているはずでしょう!」
「ああ、好物の干菓子が台無しじゃないか」
「これならまた焼けばいいわ!」
動揺が怒りに変わりかけているのがわかる。これは説得に骨が折れそうだ。
「この集落がデッドゾーンになる日も近いんだ。王都が落ちた今、次はここが襲われるかも知れない。今のままの、肉体変異すらできない落ちこぼれの俺じゃ、とても母さんを守り切ることなんてできないんだ」
「何を言っているの! ファロに守られなければならないほど、私は弱くないわ!」
母の言葉は力強かった。かつては、彼女も部族の第一線で名を馳せ、巨大な猛獣を単独で仕留めてきた凄腕のハンターだったからだ。その背中を見て、僕は育った。
だが、それも過去の話だ。数年前、高名な戦士であった父がザリファムとの戦闘中に戦死し、同行者でもあった母は命からが逃げ延びた。魂の片割れを無くした、その精神的ショックからか急激に体調を崩していった。かつての強靭でしなやかだった体格は見る影もなく衰え、今ではすっかり病気がちになり、冷たい床に伏せる日の方が多くなっていたのだ。激しく咳き込み、細くなった腕で私の服を掴む母が、いくら昔の威厳をもって虚勢を張っても、そこには何の説得力もなかった。その事実が、私の胸をさらに痛めつけた。
「それでも、僕は行くしかないんだ……!」
「アウェイクオーバーに挑んで、無事に戻ってきた者なんて、この何百年の部族の歴史の中で一人だっていはしないわ!あの伝承は嘘っぱちよ! 今まで、どれほどの才能無き戦士たちがその絶望に耐えかねてそれを試して、狂い死に、命を落としていったか……お前だって知っているはずでしょう! あそこは試練の場じゃない、ただの処刑場なのよ!」
母の悲痛な叫びが、狭く暗い部屋の天井に虚しく響く。涙が彼女の皺の刻まれた目元から溢れ出ていた。
僕はそれ以上、どんな言葉を尽くしても母を納得させることはできないと悟った。だから、言葉で返す代わりに、ゆっくりと腰を落とし、両の拳を握り締め、頭上で合わせた。それはガビー部族における最も神聖なる、そして一度行えば決して取り消すことのできない誓いのウィービングポーズだった。
「ファロ・ラ・ガビーがここに誓います。必ず、あの暗黒の試練を乗り越え、新しき強靭な名を得て、母さんの元へと戻ると!」
この誓いは、単なる慰めの口約束ではない。己の魂の全質量、そして全血統を賭けた決意の表れであり、確固たる意志を示すガビー部族の最も厳格な習わしだった。一度この作法をもって立てられた誓いは、神や先祖に対して立てられたものと同義であり、決して破ることを許されぬ絶対の掟となるのだ。もし破れば、魂は永遠に迷い子となり、星の循環に戻ることはできない。それが例えどんな存在だったとしても。
僕のその迷いのない姿、そしてとられたポーズを見た母は、洞窟で族長たちとの間にどのような会話があったのか、その全てを察したように細い肩をがっくりと落とした。
そして、長い沈黙の後、震える腕をゆっくりと同じように形作った。
「……バラミド・リ・ガビーが、ここに誓います。お前が戻ってくるのを、何年でも、何十年でも、ここで待ち続けると……」
母は静かに、大粒の涙をその痩せた頬に流した。
幼い頃から、どんな過酷な狩りでの負傷でも、どんな不条理な部族の決定の場でも、我が部族の誰よりも強く、決して弱音を吐かないと信じていた母が、僕の前で涙を流したのは、これが生まれて初めてのことだった。その涙の持つ絶対的な重みが、僕の細く未熟な胸を容赦なく締め付けた。引き裂かれるような痛みが走ったが、私はもう目を逸らさなかった。
お互いの腕を胸の前で交差させる誓いのクロスが終わると、それ以上言葉を交わさず、即座に明日の試練に向けた最低限の準備に取り掛かった。
その日の夜、星空が村を照らす中、母とは別に神贄の洞窟へと向かう前。
集落の中央広場には、夜の闇を押し返すように、巨大な部族の紋章がものものしく彫られた漆黒の結晶柱がそびえ立っていた。高さは優に十メートルを超え、太陽の光を浴びても一切反射することのない、光を吸い込むような異様な黒さを放っている。
その黒い柱は、部族がこの地に定住するはるか昔、数千年前からそこに存在していると言われている。
誰が造ったのか、正確に知る者は誰もいない。ただ一つだけ、部族の歴史の中で確実に守られてきたことがある。
アウェイクオーバーへ挑む者は、必ずこの柱の前で『一度死なねばならない』、ということだ。
それは肉体的な死ではない。社会的な、そして存在そのものの死。ファロという人間がこの世界から完全に消滅することを意味していた。
集落中の真の戦士たちが、一言の私語も交わさず、無言で広場を取り囲んで見守る中、結晶柱の前へゆっくりと進み出た。かつて僕を蔑み、落ちこぼれと呼んで鼻で笑っていた同年代の戦士たちも、今日ばかりは嘲笑を消し去り、厳粛な面持ちで私を見つめている。
巨大な黒い表面には、いつの間にか無数の同心円の輪が浮かび上がり、まるで生き物の心臓のようにドクン、ドクンと一定の周期で脈打っている。
不思議と恐怖はなかった。いや、正確に言えば恐怖に全身がガタガタと震えそうになっていた。ただ、それ以上に、母と交わした誓いと、自分の運命を受け入れる覚悟が勝っていた。
「手を置くのだ……」
広場の中心に立つ族長の低い声が響く。
俺は言われるまま、震える右手をその冷徹な結晶柱の表面へと押し当てた。触れた瞬間、氷のような冷たさが皮膚を突き抜け、直後に全身の神経を焼き尽くすかのような、激しい痺れにも似た衝撃波が駆け抜けた。
「うわあぁぁぁぁ!」
思わず絶叫が漏れる。結晶の内部に、稲妻のような無数の光の筋が走り、複雑に交錯し始めた。それは見たこともない幾何学的な文字列であり、この星の言語ではない何かだった。そして、脳内に直接、知らないはずの過去の光景や、見知らぬ人々の顔が濁流のように流れ込んでくる。その中には、数年前にザリファムに敗れて帰らぬ人となった亡き父の堂々とした姿や、まだ若く健康だった頃の優しい母の姿もあった。
何世代にも渡るガビー族の戦士たちの生きた証、戦いの記憶が、その光の中に浮かび上がっていた。まるで、この柱が僕たちの血そのものを記録し、保管している巨大なデータベースであるかのようだった。
「血の道標が応えたか……」
見守っていた古参戦士の一人が、驚きを隠せないように小さく呟く。これまで多くの選抜者が手を触れても、結晶柱はここまで激しく反応することはなかったからだ。
族長が一歩前へ出る。その目は私を見据え、儀式の最終段階を告げる問いを静かに投げかけた。
「お前は誰だ……」
「ファロ・ラ・ガビー」
僕が答えると、結晶柱がさらに低く、重々しく唸りを上げた。周囲の大地が微かに震え、足元の小石が跳ねる。
再び、さっきよりも威厳を増した問いが飛ぶ。
「お前は誰だ」
「ファロ・ラ・ガビー」
紋章の発光がさらに強くなり、緑色の禍々しい光が広場全体を照らし出す。柱の内部から、無数の視線が自分に向けられているのを感じた。それは歴代の祖先たちの霊魂か、あるいは柱そのものの意思か。そんな錯視にも似た幻視が頭を支配する。
そして、三度目の、最も重い問いが響いた。
「お前は誰だ!」
族長の最後の問いが終わると、沈黙が広場を支配した。風の音さえ消えたようだった。
答えはわかっていた。いや、この儀式に臨む前から、最初から決まっていたのだ。
このアウェイクオーバーという死の儀式に挑む者が、最後に口にしなければならない唯一の言葉。それを受け入れることは、過去の自分を完全に捨てることだった。
ゆっくりと目を閉じた。脳裏に、涙を流しながらも自分を信じてくれた母の顔が浮かぶ。不器用に肩へと乗せてくれた父の大きな手の感触が蘇る。幼い頃、足手まといになりながらも戦士に憧れて野山を駆け回った記憶が、走馬灯のように過ぎ去っていく。それらすべての愛おしい過去に、僕は今、別れを告げる。
そして、静かに、しかし引き返せない決意を込めて答えた。
「……俺はジェ・ラロだ!」
ジェ・ラロ。それは我が部族の古い言葉で、〈存在しない者〉を意味する祝福の言葉だった。
刹那、結晶柱が爆発的な眩さで発光した。表面から浮き出た七つの輪が一斉に開花するように広がり、大地の奥底から何かが目覚めるような巨大な地鳴りが鳴り響いた。光の奔流が柱の内部を激しく駆け巡り、私の右手を通じて脳内へと逆流してくる。
頭の中から、自分を形作っていた大切な何かが、強引に引き剥がされる感覚があった。自分という存在、ファロという個人のアイデンティティを支えていた一本の大きな主柱が、根元からゴソリと抜き取られたような空虚。言葉にできない圧倒的な喪失感と孤独に襲われ、私は思わずその場に両膝をついた。視界が急速に色を失っていく。
「ファロは死んだ」
見守っていた群衆の中から、誰かが厳かに呟いた。
その声に続くように、周囲の戦士たちが次々と声を重ねていく。
「ファロは死んだ!」
「ファロは死んだ!」
「ファロは死んだ!」
戦士たちの地を這うような唱和が広場を埋め尽くしていく。
それは決して、私の死を悼む弔いの言葉ではなかった。これは明確な決別であり、部族の法が下した残酷な宣告だった。ここにいる者は全員、俺の顔を知っている。俺の過去を知っている。それでも、彼らは俺をもうファロとしては扱わない。ただの動く死体、あるいはこれから消え去る影に過ぎないのだ。
母も、その群衆の最前列に立っていた。病を押して、杖にすがりつきながら、必死にそこに立っていた。彼女はボロボロと大粒の涙を流し、唇を激しく震わせながら、胸を引き裂かれるような思いを堪えているのがひしひしと伝わる。
それでも、部族の絶対の掟に従い、彼女もまた、その冷酷な言葉を口にした。
「ファロは死んだ……」
母の口から放たれたその言葉が、俺の胸をまた締め付けた。意識が遠のきそうになるほどの絶望が襲う。だが、俺はもう何も言わなかった。叫び出すことも、母の名を呼ぶこともしなかった。いや、言ってはならないのだ。今この瞬間、この世界において、ファロという少年は確かに死んだのだから。俺はもう、名もなき器に過ぎない。
族長がゆっくりと振り返り、広場の奥を指し示した。その先には、集落の最果てに位置する、神贄の洞窟へと続く暗く深い入口がぽっかりと開いていた。その闇は、まるで巨大な飢えた獣の口のように、私を飲み込むのを待っている。
「行くのだ……」
族長の発した言葉は、その一言だけだった。広場を埋め尽くしていた唱和が止み、再び不気味な静寂が戻ってくる。
「帰還したならば問おう。お前は誰だ、と。その時、もしお前が新たな名を掴み取っていれば、道は開かれん」
冷たい夜風の名残が頬を吹き抜ける。そして最後に、族長は周囲の誰にも聞こえないほど小さな、微かな声で、俺にだけ聞こえるように呟いた。
『必ず戻るのだ、ファロよ……』
その一瞬だけ、直視した彼の老いた瞳に宿っていたのは、部族の長としての冷酷さではなかった。一人の子供を死地へと送り出す、老人としての儚い表情、そして痛切な期待の光だった。
生きて戻る確率は絶望的だが、もし、もしも万が一、その試練を超えて戻ってきたならば。その時は、ザリファムに対抗しうる、部族の歴史を塗り替えるほどの別の何か、真の覚醒者になっていろと、彼の目が語っていた。
俺はそれに応える言葉を持たなかった。
頷いてから、ただ一歩一歩、冷たい大地の感触を足裏で踏み締めた。
見送る母の号哭が遠くで聞こえる。
手に持った松明の明かりを頼りに、暗黒の洞窟へと歩みを進めた。
集落の明かりが遠ざかり、完全に闇が私を包み込んでいった。ただ、一心不乱に、歯を食いしばって、血の涙を呑んだ。




