王妃と名もなき傷兵
王都の北端にある、白亜の巨塔。そこは「ラインハルト王立療養院」と呼ばれ、戦傷病者や原因不明の病に伏す者たちが最後に辿り着く場所だった。
「顔を上げてください。もう痛みはありませんよ」
その声は、戦場の喧騒で耳を傷めた私にとって、泉のせせらぎよりも心地よく響いた。私の視線の先にいたのは、アンナ先生だった。彼女はこの病院で最も優れた治癒魔導師であり、そして――この国で最も「孤高」な女性だった。
私は国境付近の小競り合いで魔獣の毒を受け、この病院に担ぎ込まれた。意識が朦朧とする中、最初に感じたのは、凍りついた血管を溶かすような温かな光だった。目が覚めたとき、私の手を握っていたのが彼女だ。
「アンナ先生?」
「気がつきましたか。あなたの心臓に届く前に、魔力を通して毒を中和しました。もう安心です」
彼女の髪は透き通るような銀色で、その瞳は夜明け前の空のように深い青をたたえていた。アンナ先生は、患者を「診る」とき、決して身分の貴賤を問わない。泥にまみれた兵士の足も、物乞いの子の汚れも、等しくその白磁のような指先で癒していく。
しかし、院内の看護師たちが時折、畏怖を込めて囁き合うのを私は聞いた。
「アンナ様は、本来ならこんな場所にいらっしゃる方ではないのに。陛下も、よくお許しになったものだわ」
そう、彼女の正体は、この国の第三王妃、アンナ・フォン・グリム。この国最高の治癒魔力を持ち、今はその力を民の治療へと注いでいる慈悲深き国母。
ある日の午後、私の治療中にその「影」は現れた。病室の入り口に、衛兵たちの静かな敬礼とともに、一人の男が姿を見せた。彼こそがこの国の王、ラインハルト陛下だった。
アンナ先生は私の胸に手を当て、魔力を流し込んでいる最中だった。陛下はそれを邪魔せぬよう、静かに傍らに立ち、慈しむような眼差しで彼女を見守っている。
「終わりましたよ。もう、魔力の循環も正常です」
アンナ先生が顔を上げると、陛下は自然な動作で彼女の額に滲んだ汗を指先で拭った。
「お疲れ様、アンナ」
「あっ、陛下、公務の合間に、わざわざお越しくださったのですか?」
アンナ先生の表情が、一瞬で「医師」から「一人の女性」へと変わった。その柔らかな微笑みは、私に向けられる慈愛に満ちたものとは明らかに異なっていた。
「君が愛する民は、私が守るべき民でもある。君がここで戦っている間、私も城で戦わねばならないと思ってね。しかし、お互い息抜きは必要だよ。一緒に食事でもと思って誘いにきた」
王はアンナ先生の肩を抱き寄せ、彼女もまた信頼しきった様子でその胸に寄り添った。
「嬉しい」
彼女は王の胸元で笑いながら囁く。二人の間に流れる空気はあまりにも完璧で、不純物が入り込む隙など微塵もなかった。
その光景を横たわったまま見上げていた私は、胸の奥が焼き切れるような感覚に陥った。それは怒りではなく、ましてや王への敵意でもない。ただただ圧倒的な「差」に対する、救いようのない絶望だった。
王の言葉、その手つき、そしてそれに応えるアンナ先生の瞳。
私にとって命を救われた奇跡のような時間は、彼らにとっては日常の一部であり、分かち合われる愛の断片に過ぎないのだ。
「先生」
思わず呼んでしまったが、二人の仲睦まじい様子を前に、言葉が続かなかった。
アンナ先生はハッとして私を振り返り、いつもの優しい微笑みを向けた。
「ごめんなさい、安静にしていてくださいね。陛下、この方は勇敢な兵士なのですよ。国境で仲間を逃がすために一人で残ったのです」
「そうですか、我が国に君のような立派な兵がいることを嬉しく思います。仲間を助けてくれてありがとうございます」
王は私に、対等な人間に対するような敬意を込めた眼差しを向けた。その高潔さが、さらに私を惨めにした。嫉妬することさえ許されないほど、彼はアンナ先生にふさわしい男だった。
退院が決まった前夜、私は中庭のベンチで月を眺めていた。そこへ、一日の仕事を終えたアンナ先生が現れた。
私は思わず、声をかけた。
「アンナ先生、明日、退院になりました。ありがとうございました」
「あら、すっかり良くなられたのですね」
「はい、先生の治療のおかげもあって、この通りです」
と、体を動かす。
「ふふふっ。良かったわ」
アンナ先生は微笑みかける。その笑顔が眩しすぎる。しかし、触れてはいけない人が前にいて、空気中に障壁があるかのようだった。この前の王とアンナのやりとりが想いだされて、
「先生、あなたは、陛下を、心から愛していらっしゃるのですね」
と、呟く。単刀直入すぎるもの言いに、アンナは少し驚いたようだったが、すぐに穏やかな顔で答えた。
「えっ、あっ、そうですか?あの時の陛下を見られていたのですね。お恥ずかしい限りです。
陛下は国民を愛されております。そして、その国民に為に働く私を愛して下さっております。それは、私にとってはかけがえのないものです。
私は傷ついて運ばれてきたあなたを救いたいと強く思いました。その治療により貴方は健康になり、次の新しい目標を実現する為に退院していく。これ以上、嬉しいことはありません」
彼女の眩しい笑顔と裏腹に、私は自嘲気味に呟く。
「あなたは最初から、この国で最も幸福で、最も強い絆の中にいた。私のような名もなき兵士が、入り込める場所などどこにもなかった」
私は自然に涙を流した。それを不審に思った彼女は私の顔を覗き込むように
「どこか、痛みますか?」
アンナは優しく私の頬に触れた。その手は温かさを持っていた。
彼は何も言えず、心で呟く。
”いいえ、あなたへ抱いた気持ちが私の心を責めるのです。計り知れないやるせなさが私のこころを揺さぶるのです。それが、涙を誘うのです”
私は裏腹な気持ちを言葉にする。
「いえ、退院前にアンナ先生に会えたことが嬉しいのです。ありがとうございました」
翌朝、私は病院を去った。
背後にそびえる療養院と、そのさらに奥にある王宮。アンナ先生は王の腕の中に帰り、私は再び泥にまみれた戦場へと戻る。
私は剣を握りしめる。
彼女が愛する王と、王が愛する彼女が、いつまでもあの白亜の塔で微笑んでいられるように。このやるせない想いを、国を守るための狂気じみた忠誠心へと変えて。
ラインハルト王立療養院の扉が閉まる。
私の胸には、決して癒えることのない、切なくも激しい「熱」が、永遠に刻み込まれた。




