届かぬ王妃への想い
新アレクサンド国侯爵家の嫡男ルカが、その後の人生を狂わせる「呪い」にかかったのは、新王妃ソフィアの戴冠式の日だった。
その日、ルカは婚約者のエレノアを連れ、王宮の戴冠式に参加していた。楽隊の響きと歓呼の中、跪いたまま、伏し目がちに覗き見るように見つめた先の新しき国王の隣に立つ彼女は、この世のものとは思えないほど神々しかった。
侍従からの掛け声で拝謁の許可が出て、控えている者も一斉に立ち上がり、祝福の声を上げた。それを愉しむかのように、新王と新王女は向かいあい、軽くキスを交わした。そして、新王妃は前を向き、祝祭の魔法を放つ。空中に現れた無数の水の蝶が、陽光を反射して虹色の輝きを街に振りまいた。
新王妃の複雑に編み込まれたプラチナブロンドの髪と瞳と同じ深い蒼色のドレスを纏った彼女が、ゆっくりとほほ笑んだ。
「美しい」
祝福の音楽が演奏され舞踏会が始まった。ルカは息をすることさえ忘れていた。エレノアがダンスを促さなかったら、そこに立ち尽くし続けたかもしれない。ルカはダンスのステップ間違えてエレノアの機嫌を損ね、また、隣で踊っていた男にぶつかり、彼の周り騒然とさせた。男は怒り、エレノアは泣き崩れ、ルカとエレノアは這う這うの体で舞踏会から追い出された。
帰りのマギモービルの中でもエレノアは泣き続けていた。しかし、ルカはエレノアの機嫌をとることは無かった。新王妃ソフィアの笑顔が頭から離れず、他の誰の事も考えることができなかったのだ。それは恋という瑞々しい感情ではなく、手が届かぬ星を仰ぎ見るような、狂信的な崇拝の始まりだった。
それからというもの、ルカは若き侯爵として、あるいは一人の男として、執拗に王妃ソフィアの影を追った。
彼は王宮の夜会ごとに、彼女の好む北方の希少な香油や、魔力を増幅させる伝説の蒼玉を王妃へ献上した。しかし、ソフィアがそれらに心を動かすことはなかった。
王妃の言葉はいつも簡単だった。
「ルカ卿、お心遣いに痛み入ります。ですが、陛下より様々な物を賜わっており、こうした贈り物はお気持ちだけで十分ですのでご遠慮させていただきます」
彼女は、国王から贈られた簡素な指輪や装飾品にそっと触れ、慈しむように微笑む。彼女の操る水魔法が常に澄み渡っているのは、その心に濁りがない証だった。
ソフィアの慈愛に満ちた眼差しは、常に夫である国王へと向けられていた。二人の間に流れる空気は、他者が立ち入ることを許さないほどに完成されており、ルカがどれほど贅を尽くした贈り物を用意しても、それは彼女の視界を僅かに遮る塵にすらなれなかった。
ある月の綺麗な夜、ルカは偶然にも王宮の奥深く、私的な噴水庭園でソフィアの姿を見かける。
彼女は独り、水鏡に映る月を見つめながら魔法を編んでいた。水流は優しく彼女の指先に絡みつき、愛を囁くような調べを奏でている。ルカはたまらず影から飛び出し、胸に秘めた想いを口にしようとした。
「王妃様、私は、貴女のためなら、この命も家名も」
だが、ソフィアはルカの方を見ることさえしなかった。彼女はただ、背後に近づく足音――国王の気配を察して、花が開くような、ルカが見たこともないほど甘い微笑みを浮かべたのだ。
「陛下、お待ちしておりました。今宵の水は、貴方に似て穏やかでございます」
ルカは、自分がそこに存在しないかのような感覚に陥った。ソフィアにとって、ルカという存在は背景の石像と同じ、無機質な風景の一部に過ぎなかった。
数年後、ルカは嫡男の身分を捨て、領地の奥深くにある古城で隠居生活を送っていた。彼の部屋には、かつてソフィアに贈ろうとして突き返された、数々の至宝が埃を被って並んでいる。窓の外には、彼女の魔法を模して作らせた、決して枯れることのない魔法の噴水が常に綺麗な水を吹き上げている。ここだけ、時間が止まっているように。
王妃ソフィアは今も、王の傍らで慈愛の雨を降らせ、国を潤しているという。
今日は窓を伝う雨露を指でなぞり、そっと目を閉じる。彼にとって、世界から色彩が消えたあの日から、時は止まったままだ。届かなかった想いは、流れることのない雨の雫となり、彼のソフィアへの心を永遠に冷たい水の中に浸し続けているのだった。




