第八話 善意
だが、それでもやってはいけないことを見逃すことは僕にはできなかった。
けれどそれと同時に、彼を追い出そうという気にもならなかった。
「妹が居るのか。妹のために治療費を払ってやってるんだな? でも、いくら治療費と言えど、許可なく勝手に持って行くのはダメだ」
「だったらどうすれば良かったんだよ」
楓の必死の応えに、僕は何も言えなかった。
何も思いつかなかった。
楓は楓なりに考えているのは伝わった。
けれど、それらはどれも短絡的で、非合理的なものだ。
「悪いが、その治療費をここから出すことはできない」
ただでさえ重い荷物である楓を家で住まわせているのに、その妹の治療費まで肩代わりされるのはどう考えても負担でしかないと考えたからだ。
「半分は俺の金なんだから、俺がどう使おうと自由じゃないのか」
「そのお金を預かっているのが僕なんだ。いや、僕というより、この家がお前のお金を預かっているんだ。だから、好き勝手はするな」
「なんでだよ…………。あ、妹に帰ったって連絡しないと」
楓はそう言って、椅子の上で仰け反り、天井に向けてスマホを見る。
そうか。
ワイファイを探していたのも、妹と連絡を取るためだったのだろう。
財布の中の保険証も診察券も、全て妹のものだったのか。
楓の行動が全て、自分自身だけのために起こされたものではないことに気付かされる。
「俺さ、じいちゃんばあちゃんに対しては病院に居ることになっていて、妹に対しては実家に居ることになっているんだよ」
「それぞれ別の嘘を伝えてるのか。大変だな」
「本当はもう、嘘はつきたくないんだけどさ」
楓は天井を見たままため息をつく。
――だったらどうすれば良かったんだよ――
楓の言葉が繰り返される。
僕にだって分からない。
楓が何をすればいいのかも、僕が何をしてあげればいいのかも。
あの時もし、楓がお金を勝手に持ち出さずに、僕に許可を取って治療費を払おうとしていたら、僕はそれを許したのだろうか?
頭の中で自問する。
それと同時に、「合理」とは何なのか混乱した。
正しいことが何なのか、分からなくなってきた。
「とりあえず、腹減ってるんだろ。買ってくるから、僕がいない間、絶対にお金に触るなよ。帰ったらまた残りのお金を数え直すからな」
「分かった。もうしないから」
家を出てふと思う。
僕も楓も同時に家を出て、それぞれ好きな夜ご飯を買ったり食べに行ったりすればお金は完全に守られるじゃないか。
たいして難しい話ではない。
なのに。
さっきからずっと、その考えに至るのを妨げているのは何なのだ?
――これが善意なのか?――
僕は昔から人助けは好きじゃなかった。
仮に誰かを助けても、返ってくるのはたった少しの言葉だけ。
それも、一時的な感謝に過ぎず、こちらに何も見返りがない。
そんなノミのように小さな恩のために体を動かすことが、心底面倒だったからだ。
そんな僕が、どうして人のことを考えて、配慮して、行動しているのか、さっぱり分からなかった。
そんなことを考えていると、自然と自分の足が早足になっていることに気付く。
息が上がって、火照った頬に、春になったばかりの空気が触れた。
すっかり冬は終わったはずなのに、汗ばんだ額に風が当たって涼しかった。
迷いはあったものの、結局弁当を二つ買ってスーパーを出た。
家に着くと、相変わらず楓はいつも通りの体勢でスマホを見ていた。
弁当を見せると、すぐに目の色が光り、明るい声で「ありがたい」と礼を言った。
だがすぐに、「ブロッコリー貰って」と自分の弁当の中を指さして言った。
「好き嫌いするなよ。栄養バランスが崩れるだろ」
「他の野菜はちゃんと食べるから、ブロッコリーはいらない。何でこんな不味い野菜食べれるんだよ」
「好き嫌いしていられるだけ幸せだと思えよ。世の中には、どんなに苦手なものでも、どんなに不味いものでも、食べなきゃ生きていけない人がたくさんいるんだよ」
僕は筑前煮を口に運びながら諭した。
普段ならすすんで食べるようなものでもない筑前煮も、今だけは特別美味しく感じられた。
「ってかお前、また勝手に風呂に入ったのか。僕が居ない間に」
「うん」
なんだか悪いと思っていなさそうな表情で濡れた髪をポリポリと掻いた。
「ドライヤー使えよ。風邪引くぞ」
「俺は、ドライヤーは使わない人なんだ」
「(僕の喋り方を真似しやがって……)」
すると楓は突然、スマホの画面を見せてきた。
「バイトの面接受かってたっぽい。明後日から働ける」
「へえ、良かったな。時給とか良いのか? そこ」
「時給は千五百円弱くらいだったかな」
なんだよ。
今僕がしているバイトの時給よりちょっと高いじゃないか。
まあでも、僕もバイトの面接はすんなり採用されたし、大して変わらないか。
「やっと、働けるぜ」
「労働って、お前が思ってるより楽じゃないぞ」
「生きるよりは楽だと思ってるよ」
冗談めいたやり取りのはずなのに、さらりと返された意味深な言葉に言いようのない違和感が湧いた。




