第五話 家計簿
楓は僕の部屋に入ってすぐにキョロキョロし始めた。
「そんな面白いものはないぞ、ここに」
「いや面白いもの無さすぎだろ、ここは研究室かよ」
「……研究室がつまらんみたいな言い方だな」
「自分の部屋がつまらないのは否定しないんだな」
「追い出した方が良いか?」
「冗談だって」
楓は僕から借りた大きめの服をぎこちなく着て、腕をパタパタさせている。袖が気になるのだろう。
時計を見るといつの間にか夜の七時を指していた。
さっき食べた肉まんがちょうどいいくらいに腹を満たしていたけれど、さすがに成長期の高校生をあれだけで済まさせるのは気が引けた。
「スーパーに買い出しに行ってくるわ」
「んー」
黒いバッグから一枚のお札を取り出して財布に入れ、家を出ようとしたところで足が止まった。
良く考えればおかしい話である。
見知らぬ他人を家族の一員でもあるかのように信頼して留守番を頼むだなんて。
こいつが、僕がいないスキにお金をかっさらって実家に持ち逃げる可能性だって無きにしも非ずだ。
なんならコソドロを働いて、家のあらゆる財産を盗んで出て行くかもしれない。
そんな身内の「み」の字もない相手を信頼して留守にして良いのだろうか?
楓を買い物に連れて行き、彼を常に監視していれば百パーセント安全だ、という考えももちろんある。
それが完璧な合理的判断だ。
だが、あれだけのトラウマを経た上に、依然として寒そうにしている彼を見ていると、僕の身体はそんな手段を取る気にはならなかった。
間違いなく非合理的な方法だ。
それなのに、僕はドアノブに向かって伸ばす腕を止められなかった。
「まあすぐ戻る」
「うーい」
楓はぎこちない袖をひらひらとさせて見送るだけした。
鍵を閉めて階段を降りながら、僕はもう一度考える。
高校生ならそれくらい考えることもできる。
むしろ合理的に考えれば疑うべきだ。
それでも僕は、部屋に一人で残してきた。
そして、「変なことをするなよ」と警告することもしなかった。
理由は分からない。
ただ、あの顔を見ていると、そういうことをする人間には思えなかった。
……いや。
思えなかった、というのも正確ではない。
単に、そこまで考えるのが面倒だっただけかもしれない。
今そう考えるようにして、思考を振り切る。
今日はいつもより買い物のスピードが速くなる。
必要なものを揃えて早々と店を出る。
そして走り出した。
――家にいる楓が心配で走っているのか?――
頭の中で僕が僕に問う。
余計な考えに囚われたくなかった。
今はあの大金がどうなってしまうのかが心配だと思うようにして足を進めた。
アパートに着いて扉の鍵に手をかけた。
鍵は閉まったままだった。
ドアを開けた途端に襲いかかってくる可能性さえある。
僕は慎重にドアを開けて中の様子を伺った。
……けれど、僕の余計な二つの心配は、あっという間にかき消された。
「お、おかえり。早くね? スーパー近いの?」
「……あぁ。歩いて五分だな」
いや、走ったから五分で着いたんだよ、とまたしても頭の中で再生される。
楓は椅子に座って平然とスマホを見ていた。
さっきまで疑い深かった自分に呆れるほどに、普通だった。
「ワイファイ借りてるわ」
「部屋を漁ったのか?」
「……すまん。ワイファイだけどうしても必要だったから、本体がどこにあるか探した。まあそれだけ」
「そうか」
お金の入った黒いバッグは、家を出る前と同じ部屋の隅にあった。
他の物も、まるで時間が止まっていたかのように動いていない。
楓の髪も、まだ濡れていた。
時計はまだ七時半だった。
スーパーに行き、商品を選んで、会計をして戻ってきたはずなのに。
どう考えても、早すぎる。
「どうかしたか? そんなに怖い顔をして」
「……いや、別に」
楓はいつの間にか取り出した個包装のクッキーをくわえて無邪気に言う。
まだこんなに幼い高校生が、そんな汚いことをするはずがないと考えた方が、今は合理的であった。
「お菓子じゃなくてちゃんとご飯食べろよ。ってかそもそも勝手に食うなよ」
「夜飯、買ってきてくれてるのか?」
途端に楓の目がキラキラと輝く。
クッキーのことはもうどうでもいいようだ。
「まあ、軽く一品作ってあとは惣菜になるけどな」
「おおー! ありがとう!」
「さすがにお礼は言えるんだな」
「二回目だぞ」
楓ははにかみながら小さく笑う。
最初に感じていた緊張感も少しずつ少なくなってきているのが目に見えて分かった。
「何度も言うが、生活費は折半だからちゃんと計算するからな」
「割り勘でいいのか? 作ってくれているのに」
シンプルに言えば割り勘は非合理的だ。
完璧主義の僕からしたら憤ること極まりない。
だが、楓に言われていなかったら割り勘にしていたほどに、この生活に馴染んでしまっているようだった。
彼がなぜこういう時だけ冷静になれるのかが不思議で仕方がないのだが。
簡単な野菜炒めを用意し、実家のおさがりの炊飯器で炊いておいたお米と一緒に机に並べると、楓が感動して涙していた。
よほどしっかりご飯を食べていなかったのだろう。
僕はひとまずご飯を左手で食べながら、右手で家計簿を用意してペンを走らせた。
こういう時に左利きが役に立つんだよなあ、と頭の中の僕が感傷に浸る。
もちろん割り勘にせず、二人で決めた七割三割の割合で出費をメモした。
ちょうど腹も膨れたところで、二人とも眠気が襲ってきた。お互い、長い一日に疲れていたのだろう。
僕は余計な心配は忘れて、歯を磨いてそのまま布団に入った。




