第7話「帰宅十一分前」
「仕事だ」
使い捨て端末の向こうで、鷹村が言った。
「今夜。相手は久瀬。組織の金を持って逃げようとしてる」
「資料を送れ」
「了解。ところで、お前の後ろにいる女は何」
振り返る。
シオンが俺の肩越しに端末を見ていた。
「百メートル以内にいるだけだ」
「説明になってないけど、面白いからいいや」
通話を切る。
装備を確認している間、シオンは何も聞かなかった。
ただ、俺が上着を羽織ったところで口を開く。
「帰宅予定は」
「未定」
「前回の平均所要時間は四十七分です」
「何の統計だ」
「凛の生活記録です」
「気味の悪い記録を取るな」
「業務です」
以前なら、それで会話は終わった。
今夜はシオンが続けた。
「味噌汁は冷めます」
「作ってない」
「今朝の残りがあります」
俺は返事をせず、玄関を出た。
久瀬の部屋は、子供のいない家にしては騒がしかった。
壁に小さな靴の写真。
冷蔵庫に、ひらがなのメモ。
電子レンジの中で、カレーが二人分、温められるのを待っている。
「話を聞け」
久瀬は床へ座り込み、俺を見上げた。
「金は返す。今から息子が来るんだ。せめて――」
「依頼に含まれていない」
俺は時計を見た。
その先は、書くほどのことじゃない。
部屋を出る時、電子レンジが予約時刻を知らせた。
誰もいない台所で、三回鳴った。
洗面所で手を洗った。
一度では足りず、二度。石鹸を変えて、三度。
鏡の中の顔は、いつもと同じだった。
帰路、ポケットの中で別の端末が起動した。
藤森から回収した端末だ。
何かの拍子に、未送信音声の再生が始まる。
『紗季。鍵は、いつもの――』
止めた。
声を途中で殺すことには慣れている。
今夜は、やけに指が鈍かった。
予定より十一分早く、自宅へ戻った。
玄関を開けると、味噌汁の匂いがした。
シオンがソファから立つ。
「おかえりなさい」
言われたことのない言葉だった。
「ただいまは」
「強制してない」
靴を脱ぐ。
シオンが俺の袖口を見る。
「血液反応はありません」
「洗った」
「はい。石鹸の香りが三種類します」
俺は袖を引いた。
「何が言いたい」
「何も」
「なら見るな」
シオンの肩を押してどかそうとした。
手が、抜けた。
俺の腕は白い肩を通り、背後の壁へ当たる。
殺すつもりはない。
ただ黙らせたい。こちらを見るなと命じたい。
支配。
規則は、俺がつけた言い訳を採用しなかった。
「今の接触は不成立です」
「分かってる」
「凛」
シオンは逃げずに俺を見た。
「久瀬という人の最期の願いは、聞きましたか」
答えられない。
死神は死者の願いを聞く。
殺し屋は聞かない。
同じ死のそばに立つ仕事でも、俺とこいつは正反対だった。
「味噌汁、温めます」
シオンはそれ以上聞かなかった。
食卓に二つの椀が並ぶ。
俺の前の味噌汁は、湯気で顔を隠してくれなかった。
「食べないのですか」
シオンが向かいから聞く。
「食う」
箸を取る。
味がしない。
「味噌汁の塩分は昨日と同一です」
「測ったのか」
「味で分かります」
死神が味を覚え、殺し屋が味を失っている。
「凛」
「今度は何だ」
「私は最期の願いを聞きますが、すべて叶えられるわけではありません」
「規則で却下するからか」
「時間が足りない場合。本人が途中で願いを変える場合。願いを言葉にできない場合」
シオンは椀を両手で持つ。
「聞いたことと、叶えられなかったことは、別に記録します」
「俺にも記録しろって?」
「命令ではありません」
「なら、何だ」
「久瀬の願いを聞かなかった事実は、すでに凛に残っています」
あの電子レンジの音。
息子が来るという声。
「消し方は」
聞くつもりはなかった。
「ありません」
死神の答えは、慰めではなかった。
「ただし、残っていることを認識できます」
何の救いにもならない。
それでも「作業だった」と押し込むよりは、ましなのかもしれない。
味噌汁を飲む。
少し遅れて、塩と出汁の味が戻った。
シオンは俺の上着を指した。
「右袖に付着物があります」
乾いた灰色の粉。
現場の壁材だ。
「洗えば落ちる」
「血液では」
「違う」
「安心しました」
その語を、死神が使った。
「何に」
「赤色だった場合、処理方法が異なります」
「洗濯の心配か」
「はい」
嘘だと分かる。
公式記録に残せない何かを、実務の言葉へ押し込んでいる。
仕事用端末に通知が来た。
報酬の入金と、処理完了の二文字。
完了。
以前は便利な言葉だった。
そこまでにあった呼吸も、声も、帰りを待つ人間も、全部まとめて閉じられる。
「あの男は、最後に何を願ったと思う」
「私は担当ではないため分かりません」
「死神なら推測できるだろ」
「死神は、願いを聞くまで知りません」
シオンは向かいへ座る。
「凛は聞きたかったのですか」
「違う」
即答した。
接触規則がなくても、自分の嘘くらい分かる。
「聞いたら、できなくなるかもしれない」
「何が」
「仕事が」
口にした瞬間、端末がまた震えた。
次の依頼候補。
画面を伏せる。
「以前の俺なら、味噌汁の味が消えたことにも気づかなかった」
「現在は気づきました」
「お前のせいか」
「因果関係は未確定です」
「便利な答えだな」
「ただし」
シオンは二つの椀を見比べた。
「味が戻るまで、私はここにいました」
慰めではない。
許しでもない。
だから、受け取れた。
端末を電源ごと切る。
今日だけは次の仕事を見なかった。
【宣告課・案件四〇七 経過報告】
対象、予定より十一分早く帰宅。
殺人遂行の事実は、本報告の所管外。
帰宅時刻のみ記録する。
十一分は、短くない。




