第5話「味噌汁の誤報」
朝食は一人分しか作らない。
卵を二つ割った後で、その原則を思い出した。
「見ているな」
台所の入口にシオンが立っていた。
昨日選んだ赤いカーディガンを着ている。
「観察業務です」
「朝から人の手元を監視するな」
「包丁を使用しているためです」
俺が自分を刺さないか見張っているらしい。
味噌汁の鍋へ水を足す。
卵焼きを半分に切る。
茶碗を、二つ出した。
「座れ」
「食事は不要です」
「知ってる」
「では、なぜ」
「作りすぎた」
嘘だ。
シオンは鍋と二つの茶碗を見比べたが、追及しなかった。
向かいに座る。
箸の持ち方は、俺の動きを一度見ただけで再現した。
「いただきます、は」
「摂取前の定型句ですね」
「分かってるなら言え」
「いただきます」
シオンが味噌汁を一口飲む。
止まった。
箸も視線も、完全に静止する。
「おい」
返事がない。
「不味いなら残せ」
「不味い、の反対は」
「美味い」
「では、美味い、です」
「そうか」
胸の奥に、場違いな安堵が落ちた。
シオンはもう一口飲む。
今度は目を閉じた。
「温度を検知しています。塩分、出汁、発酵由来の香気。個別の情報が、一つの評価へ統合される」
「それを味って言うんだよ」
「味」
言葉を舌の上で確かめるように繰り返す。
「死神に味覚はないのでは」
「ありません」
「じゃあ何だ」
「規程にない反応です」
平坦な声が、わずかに硬い。
シオンは黒い札を出した。
報告しようとして、指が止まる。
「書かないのか」
「人間界滞在による一時的な誤差の可能性があります」
「さっき異常って言っただろ」
「再現性を確認するまで、確定できません」
椀はもう空だった。
俺は鍋を取る。
「再現するか」
シオンが顔を上げた。
「もう一杯飲めば分かる」
「合理的です」
差し出された椀を受け取る。
指が触れた。
今度は驚かなかった。
食わせるだけだ。殺す意図などない。
そう思った直後、自分で自分に腹が立った。
俺はこいつを殺すと願った。
なのに、味噌汁のおかわりをよそい、少し嬉しい。
「凛」
「何だ」
「一杯目より、わかめが多いです」
「嫌か」
「いいえ。こちらが、いいです」
また選んだ。
赤の次は、わかめの多い味噌汁。
死神の世界が、ずいぶん安いものから増えていく。
食後、シオンが空の椀を台所へ運んだ。
「置いとけ」
「食事提供への対価として、片づけを実施します」
「対価を取るつもりはない」
「無償提供は収支が不均衡です」
蛇口をひねる。
水が勢いよく出て、シオンの袖を濡らした。
「赤が」
俺は反射で袖をまくる。
指が前腕へ触れた。
シオンが俺を見る。
「服を濡らしたくないだけだ」
「凛が購入したため」
「お前が選んだ服だからだ」
言い直す。
シオンはスポンジを持つ。
洗剤を容器の半分ほど出そうとした。
「多い」
「汚れを除去します」
「味噌汁の椀にそこまで罪はない」
手を添え、量を止める。
また触れる。
「一滴でいい」
「少なすぎます」
「泡立つ」
実際に見せる。
シオンは泡を見て、指先で触った。
「食事は、摂取後の作業が多いです」
「だから一人暮らしは面倒なんだ」
「二人なら」
「何だ」
「作業を分割できます」
二人で食べれば、洗う皿も増える。
効率だけなら悪化する。
「今日はお前が洗ったからな」
「はい」
シオンは二つの椀を並べて乾かした。
同じ形の椀が二つあるだけで、台所が前より狭く見えた。
翌朝、台所から金属音がした。
包丁を掴んで飛び起きる。
シオンが計量スプーンを床へ落としていた。
「襲撃ではありません」
「分かってる。何してる」
「味噌汁を再現しています」
鍋には水。横には味噌、顆粒出汁、わかめ。
材料だけは合っている。
「分量は」
「昨日の摂取記録から推定しました」
「味噌を百二十グラム入れるな」
「色が一致しません」
「濃度が死ぬ」
「死ぬのは濃度ですか」
比喩の解説までさせるな。
鍋を捨てず、湯を足して調整する。
結果、六人分になった。
「共同作業により効率が低下しました」
「お前一人なら兵器が完成してた」
豆腐を切らせる。
すべて一辺一・五センチの立方体になった。
「正確すぎる」
「不揃いの方がいいですか」
「家庭の味は多少不揃いなんだ」
「家庭には品質基準がない」
「ある。作る人間が怒られない程度だ」
シオンは一つだけ斜めに切った。
「不良品を生成しました」
「それでいい」
「不良が許容される理由は」
「食う相手が困らないから」
椀へ盛る。
シオンは自分で作った方を飲み、眉をわずかに寄せた。
「昨日と異なります」
「まずいか」
「塩分が高いです」
「つまり」
「次回は改善できます」
まずいとは言わない。
味が分からないと報告した死神が、改善点を言う。
「日誌、訂正するか」
「公式記録は訂正しません」
「虚偽だぞ」
「味覚発生が一時的な誤作動である可能性を排除できません」
「六人分飲めば確認できるな」
シオンは鍋を見た。
「対象にも協力義務があります」
「俺を巻き込むな」
朝食と昼食と夕食が味噌汁に決まった。
死神の人間化より、俺の血圧が先に問題になりそうだった。
【宣告課・案件四〇七 経過報告】
身体機能に異常なし。
味覚の発生なし。
追記:味噌汁は塩分濃度〇・八%、二杯目が適正。
追記は業務上不要のため、次回削除する。




