第34話「開いた手」
死神庁の審理室は、俺のリビングに現れた。
壁が白くなり、窓の外が消える。
テーブルの向こうに監査官。
その隣にヨミ。
手続き上は異界らしいが、ミントの鉢だけは窓辺に残っている。
「異議申立てを確認」
監査官が読む。
「申立人、識別番号四〇七。希望処分、身分核破棄による退職」
「人間界名称、シオンです」
監査官の目が上がる。
「公式識別ではありません」
「本申立てでは、私が選んだ名称を使用します」
シオンは譲らない。
「死命札隠匿を認めますか」
「認めます」
「存在消去相当の違反です」
「理解しています」
「対象の命を優先した理由は」
「私が望んだからです」
模範解答ではない。
個人の答えだ。
監査官が俺へ向く。
「対象・黒崎凛。願い『お前を俺の手で殺す』の達成方法として、担当死神の身分核破棄を希望しますか」
「希望する」
「結果として、あなたの死期は残り三十日から再始動します」
「分かってる」
「担当個体が人間として残存する保証はありません」
声が出なくなる。
シオンを見る。
ここで「やめる」と言えば、また俺が決める。
失いたくない。
消えてほしくない。
俺より生きてほしい。
全部、本音だ。
「シオン」
「はい」
「俺は、お前を失いたくない」
「はい」
「だから止めたい」
「はい」
「でも、選ぶのはお前だ」
右手を、テーブルの上へ置く。
掴まない。
引かない。
掌を開いたまま、待つ。
「俺と生きる方を選んでくれ」
命令ではない。
願いだ。
シオンは自分の手を見る。
初めて触れた肩。
傘の柄。
傷ついた掌。
その右手を、俺の掌へ重ねた。
触れる。
すり抜けない。
「私は、凛と生きる方を選びます」
指が絡む。
監査官が無感情に告げた。
「任意接触、成立。支配・殺傷意図、基準値未満。退職意思の相互非強制性を確認」
「そんな確認方法なのか」
「接触規則は、死神庁の制度です」
初めて、この規則が役に立った。
「最終条件を確認します」
監査官が黒札を開く。
「四〇七号は死神としての耐性、移動権限、記録閲覧権を失う。人間としての法的身分、収入、住居は現時点で存在しない。対象・黒崎凛の死期停止は解除され、残存三十日から再開する」
「承知しています」
「身分核に保存された担当死者の公式記録は、人間人格へ移管されません。破棄と同時に消失します」
「承知しています」
「寒さ、飢え、疾病、老化、死を受け入れますか」
「受け入れます」
ヨミが横から書類を一枚差し込んだ。
「暫定身分と就労支援は私が申請する。住所はここ。保証人は――」
「俺がなる」
「それ、支配じゃない?」
「選べ」
シオンは俺を見た。
「お願いします」
監査官が書き込む。
「人間名」
「四條栞」
俺が勝手につけた姓と、彼女が選んだ名。
「姓は借りたままでいいのか」
「嫌ですか」
「聞く相手が逆だ」
「では、私が使いたいです」
今度は俺が答える番だった。
「使え」
ヨミが小さく笑う。
「あとは身分核」
シオンが左手で黒札を胸元へ当てる。
黒い光が集まり、小さな結晶になった。
夜を固めたような、黒い石。
中に白い数字、四〇七。
「これが、死神としての私です」
シオンが俺の開いた手へ置く。
冷たい。
「破壊すれば、戻せません」
監査官の確認。
「戻らない」
シオンが言う。
「凛」
「何だ」
「殺してください」
初日に俺が言った台詞が、返ってきた。
今度は、命を奪うためではない。
「分かった」
黒い結晶を握る。
シオンの手は、俺の手から離れない。
監査官は最後に、異議申立書を読み上げた。
「申立人・四〇七号。希望処分、死神身分のみの終了。希望存続、私的人格・記憶」
「はい」
「対象・黒崎凛。希望」
俺へ視線が来る。
「本人の希望と同じだ」
「あなた自身の死期再開を伴います」
「知ってる」
「後日、撤回はできません」
「知ってる」
「四〇七号が人間化に失敗し、全消滅する可能性があります」
知っている、と言いかけてやめた。
知っていても怖いものは怖い。
「それでも、シオンが選んだ」
監査官は黒札へ記録する。
「対象、結果ではなく選択の尊重を表明」
「俺の発言を役所の言葉へ変えるな」
「記録形式です」
ヨミが壁際から口を挟む。
「四〇七。本当にいいのね。人間になれば、凛くんが三十日後に死ぬところを見るかもしれない」
「はい」
「一人で残るかもしれない」
「はい」
「死神に戻りたいと思っても戻れない」
シオンの指が俺の手の中で強くなる。
「それでも、結果を知らないまま選ぶことを、人間は生きると呼ぶのでしょう」
俺はシオンを見る。
「誰に教わった」
「凛です」
「そんな立派なこと言った覚えはない」
「発言ではなく、失敗から学びました」
教材として最悪だ。
監査官が小さな印を押した。
「異議を暫定承認。実行後の存続保証なし」
成功ではない。
処刑の許可証かもしれない。
「開始前に、申立人から対象へ伝えることは」
シオンは考え、首を横に振った。
「ありますが、生存後に伝えます」
「消えたら言えないぞ」
「だから生存します」
根拠のない断言だった。
俺はそれを笑わなかった。
【最終業務記録・下書き】
識別番号四〇七は、本日をもって死亡予定。
人間界名称シオンの残存可否は未確定。
恐怖あり。
後悔なし。
対象の手を離さない。




