5 第35話「死神を殺す」
人を殺す時、俺は手を見ない。
標的も見ない。
仕事だけを見る。
今は違う。
右手の中に、シオンの身分核。
左手に、シオンの手。
どちらも見る。
「始めてください」
監査官の声。
黒い結晶へ力を込める。
硬い。
死神として百年以上稼働した存在。
人の死を数え、願いを記録してきた機能。
簡単に壊れていいものではない。
「凛」
「何だ」
「信用度」
「今それを聞くのか」
「はい」
シオンの指が震えている。
「百だ」
「以前は四十一でした」
「上がった」
「根拠は」
「俺が決めた」
シオンの口元が少し上がる。
「非合理的です」
「お前に教わった」
さらに力を込める。
ひびが入った。
白い数字が揺らぐ。
四〇七。
それはシオンではない。
赤を選んだ。
味噌汁を二杯飲んだ。
帰宅を待った。
勝手に九重へ会った。
傷ついた手を自分から差し出した。
規則を破った。
番号ではなく、その選択の全部がシオンだ。
「お前を殺す」
初日と同じ言葉。
「はい」
「死神だったお前だけを」
結晶が砕けた。
音は小さかった。
白い光が、シオンの身体ではなく黒い結晶から噴き出した。
数字。
宣告文。
死者の氏名。
百年以上、四〇七号が記録した文字が光になり、読めない速さで消えていく。
シオンの手は薄くならない。
俺の手の中にある。
ただ、力が抜けた。
「シオン」
膝が崩れる前に抱き止める。
接触規則の判定はない。
体重が腕へかかり、呼吸が頬へ当たる。
「凛」
「いる」
「はい」
シオンは空中へ消えていく文字を見た。
「読めません」
「何が」
「私が担当した死者の名前です」
光の中に、最後の一行が浮かぶ。
『案件四〇七――黒崎凛。宣告記録』
それも砕けた。
シオンが眉を寄せる。
「凛。私は、あなたへ何と宣告しましたか」
胸の奥が冷えた。
「覚えてないのか」
「玄関。濡れた靴。凛の顔。私が死神だったことは覚えています」
自分の胸元へ手を当てる。
「ただ、宣告の文言と、受理した願いがありません。死神として記録した事実だけが、抜けています」
赤を選んだこと。
味噌汁の味。
大福の毛。
ミドリ一号が枯れた朝。
俺へ自分から差し出した手。
一つずつ尋ねる。
全部、残っている。
残ったのは私的差分。
制度が不要と呼んだ、シオン自身の記憶。
失ったのは、四〇七号が預かった死者たちの記録だった。
「戻せるか」
監査官が首を横に振る。
「身分核破棄に伴う公式記録の消失です。復元不能」
シオンは目を閉じた。
「覚えているべきでした」
「お前が消したんじゃない」
「私が選んだ結果です」
慰めで、なかったことにはしない。
失ったまま引き受ける声だった。
右手首が熱い。
『残り三十日』
俺の死期も、同時に動き出した。
シオンの手を取る。
触れた。
規則の判定ではない。
ただの皮膚と皮膚。
手首に脈がある。
「生きてる」
「はい」
記録を照合せず、自分の脈で答えた。
「心臓止まるかと思った」
「凛の心臓は稼働しています。ただし」
栞の肩が震えた。
「寒い」
その一言で、やっと実感した。
死神は室温を数値で答えた。
人間は寒さを訴える。
椅子に残っていた赤いカーディガンを取って、栞の肩へ掛ける。
「温度が上昇しました」
「感想は」
栞は襟を握った。
「安心します」
機能名ではなく、感情の名前だった。
シオン――いや、栞が俺の右手首を見る。
「残り三十日です」
「分かってる」
「死神庁の権限はありません。死期を再保留できません」
「分かってる」
「私を殺す願いも達成済みです」
「分かってるよ」
黒い封筒が、何もない空中からテーブルへ落ちた。
中身は四枚。
死神庁識別番号四〇七号、死亡届。
四條栞、人間籍暫定登録。
退職給付――寿命一回分。
担当死者記録、全件消去。復元不能。
欄外にヨミの字がある。
『明日から住民票、健康保険、銀行口座。死神より人間の役所の方が面倒だから覚悟して』
「退職給付が雑すぎる」
「寿命は重要です」
「税金も来るぞ」
「死神庁より厳格ですか」
「種類の違う地獄だ」
栞は少し黙った。
「では、どうしますか」
以前の俺なら、規則の穴を探した。
誰かを殺してでも、自分の死を避けた。
今も死にたくない。
初めて、それを恥じずに認められる。
「死命札を見せろ」
栞が黒い紙片を開く。
『死期確定。残存三十日。再保留不可』
「変更できるか」
栞は、もう死神庁の記録へ接続できない。
紙に書かれた文字だけを、俺と同じように読む。
「できません」
逃げ道を残すための「可能性」ではない。
死神の宣告は、未来予測ではなく確定事項だ。
「三十日を、死なない方法探しだけで使うのはやめる」
「諦めますか」
「違う。死にたくないまま生きる」
探せば何かあると思い込んで、今日を準備期間へ変えない。
誰かの命と交換できる穴が見つかっても、使わない。
「三十日目まで、俺は生きる」
「三十一日目は」
「お前が生きろ」
栞の指が強くなる。
「命令ですか」
「頼みだ。選べ」
長い沈黙の後、栞は頷いた。
「凛が死ぬ日まで一緒にいます。その後も、生きます」
「ああ」
栞は俺の手を握り返した。
死神の接触規則は、もうない。
それでも離れない。
「凛」
「何だ」
「空腹です」
死神だった時には不要だった機能。
「何が食いたい」
栞は少し考える。
「味噌汁。わかめが多い方」
「了解」
立ち上がる。
栞も立とうとして、足がもつれた。
腕を取る。
普通に触れる。
「人間は設計段階で矛盾しています」
「知ってる」
台所へ向かう。
鍋に水を入れる。
茶碗を二つ出す。
右手首の数字は消えない。
過去の死者も戻らない。
それでも、朝食の予定は作れる。
明日の予定も。
三十日後の予定も。
味噌汁ができるまで、栞は椅子へ座って待った。
「手伝わないのか」
「立位維持の成功率が低いです」
「人間一日目としては正しい判断だ」
椀を置く。
湯気が栞の頬へ当たり、すぐ目を細めた。
「熱い」
「冷ますか」
「自分で行います」
息を吹く。
命名日のろうそくより長く続いた。
「呼吸機能の練習になりました」
「来年は一発で消せ」
栞が止まる。
「来年」
「何だ」
「凛の残り時間は三十日です」
「分かってる」
「凛はいません」
「だから、お前が消すんだ」
栞は椀の湯気を見た。
「一人で、ですか」
「誰とやるかは、その時のお前が選べ」
俺がいない未来を空白にして、栞までそこで終わらせない。
「予定へ入れます」
栞は味噌汁を一口飲んだ。
「美味しい」
「知ってる」
「以前より、味が強いです」
「人間の舌になったからだ」
「わかめが多い」
「希望通りだろ」
「多すぎます」
人間になった最初の苦情が、わかめの量だった。
「残せ」
「食べます」
「無理するな」
「選択です」
半分で止まり、悔しそうに椀を見る。
「胃の容量が不足しています」
「昼に回す」
「食品衛生上」
「冷蔵庫へ入れる」
栞はスマートフォンへ初めての人間予定を打ち込んだ。
午前十時、住民票相談。
午前十一時、健康保険。
午後零時、残りの味噌汁。
午後二時、三十日分の予定を決める。
「昼飯が業務みたいだな」
「重要です」
「その下はもっと重要だ」
「優先順位は同じです」
カレンダーを三十日目まで埋める。
一日目、役所。
三日目、洋食店の面接。
七日目、大福を飼い主へ返す。
十五日目、藤森の鍵を置いていた引き出しを空にする。
二十日目、桜の写真をもう一枚印刷する。
二十九日目、味噌汁を作る。
三十日目、一緒にいる。
その下。
三十一日目へ、栞が一人で入力した。
『朝食を食べる』
俺がいなくても、二人分とは書かない。
消えた人間を戻ったことにもしない。
それでも一人分を作って、生きる。
【栞の生活日誌】
死神庁識別番号四〇七、死亡。
四條栞、生存。
「対象」という呼称を廃止。
凛の残り時間、三十日。
死期は回避不能。
担当死者の公式記録を喪失。復元不能。
喪失した事実を記録する。
凛と三十日目まで生きる。
三十一日目以降も、私は生きる。
朝食は二人分。
記録開始。
死神を殺した朝、俺たちは、死なない方法ではなく、死ぬ日まで生きる予定を三十日分書いた。




