第31話「死神庁、家庭訪問する」
死神庁の監査官は、靴を脱がなかった。
正確には、靴のまま玄関を通過した。
床へ足跡はつかない。
「一般住居への入室作法を守れ」
「死神庁個別化監査室に、土足禁止規程はありません」
灰色のスーツを着た女。
顔立ちは整っているのに、記憶へ残りにくい。
個人ではなく機能。その見本だ。
監査官は部屋を見回す。
「案件四〇七。対象宅への居住、六十三日」
「はい」
「規程上必要な居住設備は」
「ありません」
監査官の視線が動く。
赤いカーディガン。
二つの茶碗。
窓辺のミント。
桜の写真。
「不要物が多い」
「人間の住居です」
「あなたの私物について述べています」
シオンが一瞬黙る。
「赤い衣服は潜伏に不適。植物の管理は担当外。画像保存は業務無関係。食器二人分の常設も不要」
「味噌汁を飲む」
「対象に質問していません」
「俺の家だ」
「監査対象の発話を優先します」
こいつも人の話を聞かない。
死神庁では標準仕様らしい。
監査官は冷蔵庫を開けた。
「味噌、豆腐、卵、作り置き二食分。梅干し」
「梅干しまで違反物みたいに読むな」
「監査対象の嗜好と一致しない食品です」
シオンが横から覗き込む。
「私が選びました」
「不要な嗜好の発生を確認」
「必要かどうかは私が決めます」
空中に文字が一行増えた。
――自己決定傾向、進行。
監査官は次に押し入れを開け、赤い服だけを三枚抜き出した。
「同色の衣服が複数」
「洗濯中に困るので」
「潜伏効率に寄与しません」
「気に入っています」
また一行。
――非合理的執着、固定。
「おい。好きな服があるくらいで犯罪者みたいに書くな」
「あなたはすでに犯罪者です」
正論の使いどころが悪い。
監査官は窓辺の鉢へ目を向けた。
「植物個体名、ミドリ二号」
「一号は」
俺が答えるより早く、シオンが言った。
「枯れました」
「喪失反応は」
「ありました」
監査官の指が止まる。
「回復不能な損失を理解し、なお別個体の養育を選択」
「はい」
「死神業務には不要です」
「私には必要でした」
三行目。
――生への継続的関与。
何を答えても人間化の証拠になる。
この監査、最初から勝たせる気がない。
監査官が手を差し出す。
「黒札を提出してください」
シオンが渡す。
白い文字が空中へ浮かぶ。
第一話からの公式記録。
殺意維持。
味覚なし。
任意行動なし。
私的配慮なし。
それから、未送信追記。
毛布をかけた主体。
味噌汁の塩分。
帰宅十一分前。
既読回数。
俺を殺したくないと記した嘘。
「未送信も読めるのか」
「死神庁の記録です」
シオンの指が握られる。
「報告の不一致、二十七件。意図的虚偽、九件。私的代名詞『私たち』の使用、一件」
「誤差です」
シオンが言った。
「九件を誤差と主張しますか」
「はい」
「根拠は」
「私がそう判断しました」
監査官の目がわずかに細くなる。
「その回答自体が、個別化の証拠です」
罠だった。
「監査結果。基準値を超過。識別番号四〇七は、即時初期化処分の対象となります」
「七日後のはずだ」
「虚偽報告による緊急監査です」
監査官が黒札を閉じる。
「異議申立ては」
シオンが聞く。
「一度のみ。二十四時間以内」
「その間の初期化は」
「停止します」
「申立てます」
「却下見込み九十九・四%」
「残り〇・六%があります」
俺より先に答えた。
監査官は薄い紙を一枚出した。
「案件終了後の退職審査を希望する場合、対象の願い放棄署名が必要。ただし対象の死期は再始動します」
俺はペンを取る。
シオンが紙を押さえた。
触れた手が、俺の手を止める。
「まだです」
「時間がない」
「だからこそ、順序を決めます」
監査官は俺たちの重なった手を見る。
「私的接触、成立」
「数えるな」
「監査項目です」
端末へ一件追加された。
腹が立つが、シオンの手は離れない。
「二十四時間後、異議審理を実施します」
監査官は玄関へ向かう。
「靴は」
「最初から着用していません」
見ると、足元は黒い靄だった。
本当に何なんだ、死神庁。
監査官が消える。
静けさが戻った。
「シオン」
「はい」
「〇・六%を取りに行くぞ」
「はい」
監査官が残した異議申立書には、理由を三百字以内で書けとあった。
「死神庁も文字数制限するのか」
「審査効率のためです」
「人間一人を三百字で説明できるか」
「私は人間ではありません」
「その反論、今は不利だぞ」
テーブルへ座り、下書きを始める。
『四〇七号の個別化は故障ではない』
「根拠」
「自分で選択できます」
「死神には不要だと言われる」
「対象の願いを正確に理解するには、個別の判断が必要です」
「業務改善で押すのか」
「死神庁は効率に弱いとヨミ先輩が」
「あいつの助言を全面的に信じるな」
二行目。
『味覚、嗜好、愛着は、対象理解の精度を向上させる』
「赤い服で何の精度が上がった」
「凛の視線移動を検出できます」
「書くな」
「なぜ」
「監査より先に俺が死ぬ」
三百字はすぐ埋まった。
読み返すと、業務上の利点ばかりで、シオンが何を望むかがない。
「全部消す」
「提出期限まで三時間です」
「書き直す」
新しい紙へ、シオンが一行書いた。
『私は、私が選んだ記憶を保持したい』
「それだけか」
「はい」
「却下されたら」
「その制度が、私を機能としか見ていない証明になります」
俺は次の行へ書く。
『対象である俺は、同一番号の初期状態を同一人物と認めない』
「凛」
「何だ」
「百三十四字余っています」
「余らせろ」
「非効率です」
「必要なことが短いなら、それでいい」
シオンは申立書を折らず、桜の写真と並べた。
「写真は添付できますか」
「業務との関係を聞かれるぞ」
「ありません」
「即答か」
「関係がないから、残したいのです」
勝率〇・六%の申立書に、業務価値ゼロの写真を添えた。
制度に勝つ書類としては、たぶん最悪だった。
俺たちの主張としては、それでよかった。
今度は、重なった手をどちらも先に離さなかった。
【個別化監査 暫定記録】
初期化処分、二十四時間停止。
異議申立て予定。
対象との私的接触を一件追加。
不利な記録である。
削除はしない。




