第25話「鍵を返す日」
藤森紗季は、父親に似ていなかった。
駅前の喫茶店。
紺色のスーツ。疲れた目。鞄を両手で抱えている。
「父の荷物を持っていると聞きました」
九重経由で匿名の連絡を入れた。
名乗るつもりはなかった。
シオンは窓際の別席。
百メートルどころか十メートルも離れていない。
俺は青いイルカの鍵をテーブルへ置く。
紗季の息が止まった。
「これ」
手を伸ばし、触れる前に止める。
「小学生の時、私がつけたものです」
「そうか」
「父は、どこに」
「知らない」
嘘だ。
「あなたは父の知り合いですか」
「仕事で」
間違ってはいない。
紗季は俺の手を見る。
傷。硬い指。一般人とは違うものを、いくつか見つけた顔だった。
「父は、死んでいるんですね」
店内の音が遠くなる。
返事をしないことが、答えになった。
紗季は鍵を握った。
「父が悪いことをしていたのは知っています。母が出ていったのも、それが理由でした」
声は震えない。
「良い父親じゃなかった。何年も会っていない。正直、嫌いでした」
鍵のイルカを親指で撫でる。
「でも、消えていい人だと思ったことはありません」
「そうだな」
初めて、同意できた。
「あなたに何が分かるんですか」
「分からない」
俺が終わらせたから。
「貸倉庫には帳簿がある。狙ってる組織がいる。警察へ行け」
「あなたは」
「行かない」
「なぜ、鍵を返したんですか」
免罪が欲しかった。
少し楽になりたかった。
正しいことを一つすれば、間違ったことが薄まると期待した。
どれも口にできない。
「持っている理由がなくなった」
立ち上がる。
「待ってください」
紗季の声に足が止まる。
「父の最後は」
答えれば、嘘になる。
本当を言えば、この女を壊す。
「怖がっていた」
それだけ告げた。
紗季は目を閉じた。
「そうですか」
俺は店を出た。
シオンが追いつく。
「凛」
「何も言うな」
「免責を得られましたか」
「得られるわけないだろ」
鍵を返しても、藤森は戻らない。
久瀬の電子レンジも鳴り終わらない。
「では、行為は無意味でしたか」
「それも違う」
正しさは、借金の返済じゃない。
一つ返しても、残高が減るとは限らない。
それでも、持ち逃げを続けるよりはましだ。
「甘いものを食べますか」
唐突にシオンが聞いた。
「なぜ」
「翠から、苦い会話の後には甘味が有効と教わりました」
「味が混ざってる」
「拒否しますか」
駅前のたい焼き屋から、甘い匂いがする。
「一個だけだ」
二つ買った。
シオンは頭から食べる。
俺は尻尾から。
「凛」
「何だ」
「甘いです」
「見れば分かる」
「苦いものは消えません」
「ああ」
「それでも、甘いです」
俺も一口食べた。
同じ味がした。
「凛」
「今度は何だ」
「紗季は、凛を疑っていました」
「分かってる」
「真実を伝えないのですか」
「伝えてどうする」
「判断するのは紗季です」
痛いところを突く。
「俺が殺したと知れば、あいつは俺を憎む」
「すでに父親を殺した人間を憎んでいる可能性があります」
「顔を与える必要はない」
「凛が憎まれることを避けたい」
「そうだ」
認める。
「正直ですね」
「今日はな」
たい焼きの袋を丸める。
「警察へ行くべきだと思うか」
「私は法的助言を行えません」
「死神としては」
「死者へ謝罪できる制度はありません」
「人間として聞いてる」
シオンが止まる。
「私は人間ではありません」
「近づいてる」
傷ついた掌。
たい焼きの餡を舐めた唇。
「では、シオンとして」
言い直す。
「凛が真実から逃げ続けることを、望みません」
「捕まれって?」
「それも、凛が選択することです」
「ずるい答えだ」
「選択権を尊重しています」
自分が言われたことを返している。
「すぐには無理だ」
「はい」
「でも、考える」
「記録しますか」
「しない。俺が覚える」
シオンは頷いた。
免罪はない。
答えもまだない。
それでも、次に逃げる時は、逃げていると分かる。
娘は、俺を父親の知人だと思った。
「仕事で一度会っただけです」
「どんな仕事ですか」
「説明できません」
疑う目。
当然だ。
鍵を差し出す。
「どうして持ってたんです」
「あの人が亡くなった日に拾った」
「その場にいたんですか」
シオンは口を挟まない。
俺が答えるのを待っている。
「いた」
「最期を見た?」
「ああ」
それ以上は言えなかった。
言えば楽になるのは俺だけだ。
「父、何か言ってましたか」
標的の最後の声を思い出す。
助けを求めたわけではない。娘の名も呼ばなかった。
ただ、ポケットへ手を伸ばした。
「鍵を気にしてた」
嘘ではない。
全部でもない。
「そうですか」
娘は鍵を握り、泣かなかった。
「父のこと、善人だったとは思ってません。家族より仕事を選ぶ人でした。でも、写真だけは返してほしかった」
許すとも、恨むとも言わない。
「あなたも、父と同じ仕事の人?」
「違う」
そう答えたい。
だが今はまだ同じ側にいる。
「もう、同じでいたくない」
娘は俺の顔を見た。
「なら、そうしてください」
それだけ言って去った。
シオンと二人、たい焼き店の前に残る。
「罰を期待していましたか」
「分からない」
「許しを」
「それも違う」
「では、何を」
「俺が何をしたか、誰かに言ってほしかったのかもしれない」
自白して裁かれれば、選ぶ責任を他人へ渡せる。
鍵を返しただけで、そんな権利はない。
「腹減った」
「逃避ですか」
「そうだ」
たい焼きを二つ買う。
シオンは尻尾から、俺は頭から食べた。
「どちらが正解ですか」
「好きな方を選べ」
「では次回は頭から試します」
次回。
罪を抱えたままでも、次の予定は作れる。
【宣告課・案件四〇七 経過報告】
死者の所持品を遺族へ返却。
死者は復帰せず、対象の罪責も消失せず。
たい焼きを二個購入。
収支は釣り合わない。
釣り合わないまま、記録を継続する。




