第23話「触れなかった手」
九重から連絡が来た。
『依頼元を教える。倉庫へ来て』
場所は、湾岸の古い物流倉庫。
罠だ。
「私も行きます」
「留守番しろ」
「百メートル制限があります」
「近くの車で待て」
「凛」
「何だ」
「私は、情報を聞きます」
決定した声だった。
「九重が危険だと言っただろ」
「知っています」
「なら言うことを聞け」
シオンは赤いカーディガンを羽織った。
「聞くことと、従うことは別です」
倉庫内は暗かった。
天井の一部が抜け、風が鉄板を鳴らしている。
九重は二階の通路から俺たちを見下ろした。
「二人で来たんだ」
「依頼元を言え」
「その前に確認」
九重が足元の古い木箱を蹴った。
箱が落ちる。
床へぶつかり、中に入っていた空き瓶が割れた。
「何の真似だ」
「あんたの弱点が、本当に壊れないか」
九重が横のレバーを引いた。
錆びた防火シャッターが途中まで落ちる。
衝撃で、天井近くの窓ガラスが割れた。
自然落下。
攻撃の軌道ではない。
意図を持たない破片は、シオンをすり抜ける保証がない。
「下がれ!」
俺はシオンの腕を掴んだ。
こちらへ引き、俺の背後へ置く。
言うことを聞かせる。
危険を見せない。
百メートルの内側で、俺の管理下へ戻す。
手が抜けた。
「――っ」
シオンの身体が動かない。
落ちたガラスが床で砕ける。
跳ねた一片が、シオンの掌を浅く裂いた。
赤い線。
初めて見る、シオンの血。
「シオン!」
今度こそ肩を抱こうとする。
また、抜けた。
守りたい。
だが、その奥に「俺の言う通りにしろ」がある。
規則は強い方を選ぶ。
「凛」
シオンが自分の手を見る。
血が一滴、床へ落ちた。
「痛い、です」
その言葉で、頭の中が真っ白になった。
階段を駆け上がる。
九重へ拳を振るう。
九重は避けた。
「待って。狙ったのは、傷じゃない」
「結果が出た」
「そう。死神にも、意図を持たない事故なら届く。あんたは守ろうとすると触れないことがある」
九重は、床へ落ちた血を見た。
驚きより先に、値踏みする目になっている。
そこで分かった。
こいつは俺を試したんじゃない。
シオンが、俺を動かす弱点として使えるか確かめた。
胸ぐらを掴む。
「次は、お前が結果になる」
九重の顔から笑みが消えた。
「依頼元は藤森の古い所属組織。娘が帳簿へ触れる前に処理したい。それと、篠塚の口を閉じろって」
「どっちも一般人だ」
「だから、あんたへの最終確認。篠塚を処理すれば、今見たことは報告しない」
「断ったら」
九重の視線がシオンの傷へ戻る。
「次は事故で済む相手が来る」
「二度とシオンへ近づくな」
「決めるのは監査の日まででいい。死神を守るために一般人を殺すか、一般人を守って死神を危険へ出すか」
九重は笑わなかった。
「あんたが何を選んでも、組織には値段がつく」
突き放す。
階段を下りる。
シオンはその場に立っていた。
傷口を押さえる白い指まで赤くなっている。
「帰る」
「はい」
触れないまま、隣を歩く。
守ろうとした手が届かなかった。
殺意ではない。
もっと見苦しいものが、俺の中にあった。
「病院へ行く」
「身分証明がありません」
「俺が処置する」
「接触できません」
「次は」
「先ほど、二回不成立でした」
シオンの声に責める色はない。
その事実が、責められるより痛い。
俺は自分の上着を脱ぎ、傷ついた手へ巻こうとした。
布はシオンへ触れる。
物に意図はない。
だが、結ぼうと手首へ触れた指は抜けた。
「クソ」
シオンが左手で布を押さえる。
「圧迫止血を実行します」
「痛いか」
「先ほどより強くなっています」
「それ以外は」
「恐怖を検知」
足が止まる。
「何が怖い」
「身体が壊れること」
「死神は壊れない」
「昨日までは」
味覚。
体温。
痛覚。
人間に近づくほど、死ねるものへ近づいている。
「俺のせいか」
「因果は未確定です」
「正直に言え」
「凛との生活が始まってからです」
間違いなく俺のせいだ。
「しかし」
シオンは血のついた上着を見た。
「味覚も、笑いも、同じ期間に発生しました」
「傷と一緒にするな」
「同じ変化の一部です」
「だから何だ」
「痛みだけを削除した場合、他も残る保証はありません」
シオンは傷ついた手を胸元へ抱く。
「私は、すべてを異常として処理したくありません」
俺は答えられない。
痛みを知らない死神へ戻せば安全だ。
同時に、味噌汁を美味いと言うシオンも消えるかもしれない。
守る方法が、相手そのものを消すことなら。
それは殺すのと何が違う。
傷口を洗おうとして、また手がすり抜けた。
「動くな」
「凛の意図が成立を妨げています」
「治療したい」
「私を室内へ閉じ込め、行動を管理したい意図が優先されています」
否定できない。
鍵の娘へ会うな。九重に近づくな。外へ出るな。
安全な場所で、俺の許可を待て。
それは保護ではない。
「自分で洗えるか」
「左手では困難です」
「翠を呼ぶ」
「事情を説明できますか」
「ガラスで切ったと言う」
「事実です」
壁を三回叩く前に、玄関が開いた。
騒ぎを聞いていたらしい。
「やっぱり非常時じゃないですか!」
翠は救急箱を持って駆け込む。
俺を押しのけ、シオンの掌を流水へ当てた。
「黒崎さん、何してたんです」
「触れなかった」
「怖がらせたんでしょう」
一般人の言葉が、規則より正確だった。
「傷は浅いです。でもガラス残ってないか病院で見てもらって」
「身分証がありません」
「私が付き添います。自費でも診てもらえます」
シオンが俺を見る。
「行ってこい」
「凛は」
「ここを片づける」
本当は付いていきたい。
だが俺が近くにいれば、シオンは俺の顔色を見て選ぶ。
「百メートルを超えます」
「俺も外まで行く。病院の向かいで待つ」
「診察室には」
「入らない」
病院の駐車場で、位置共有の点を見続けた。
九十六メートル。
これ以上離れたら拘束に引かれる。
一時間後、包帯を巻いたシオンが出てきた。
「縫合不要でした」
「痛むか」
「はい」
以前なら「問題ありません」と答えた。
「帰るか」
「その前に」
シオンは自分から左手を差し出した。
「持ちますか」
触れようとした指が止まる。
今の俺には、まだ管理したい意図が残っている。
「今は無理だ」
嘘をつかなかった。
「承知しました」
断られても、シオンは手を引かなかった。
選ぶ時間を、俺へ渡した。
【宣告課・案件四〇七 経過報告】
右掌に一・八センチの裂傷。
痛覚、出血を確認。
対象による接触は二回不成立。
危険源は第三者だけではない。




