第10話「笑った理由は不明」
窓を開けたのが間違いだった。
春の風と一緒に、猫が入ってきた。
三毛。小柄。首輪なし。
ベランダの手すりから飛び込み、迷いなく俺のソファへ着地する。
「出ていけ」
猫は俺を見た。
そして、座った。
「命令を拒否しました」
「見れば分かる」
シオンは床へしゃがみ、猫と目線を合わせる。
「人間界の小型捕食者です」
「触るな。引っかかれるぞ」
「殺傷意図は検知されません」
「お前の規則を猫に適用するな」
猫はシオンの指先へ鼻を寄せた。
次の瞬間、すり抜けることなく頬を擦りつける。
「接触成立」
「猫に殺意があるわけないだろ」
俺が抱き上げようとすると、猫は低く唸った。
「おい」
爪が飛ぶ。
俺は反射で避けた。
猫はソファの背へ駆け上がり、俺の仕事用ジャケットへ前足をかける。
「それはやめろ」
袖へ爪が食い込む。
刃物を持った人間なら制圧できる。
銃口を向けられても対処できる。
だが、三キロ程度の毛玉を相手に、俺の技術は役に立たない。
強く掴めば傷つける。追えば逃げる。放置すれば上着が終わる。
「シオン。そっちを塞げ」
「了解」
二人で挟む。
猫は俺たちの間を抜け、ローテーブルへ。
味噌汁の椀を覗き、尻尾で箸を落とす。
「こら!」
俺が手を伸ばす。
猫はひらりと避け、今度はカーテンを登った。
「降りろ! それ賃貸だぞ!」
「凛」
「今話しかけるな」
「対象が人間の場合より苦戦しています」
「分かってる!」
猫はカーテンレールの上から、勝者の顔で見下ろした。
脚立を出す。
あと少しのところで、猫が飛んだ。
俺の頭へ着地する。
「痛っ」
爪が髪へ絡む。
視界を尻尾で塞がれ、俺は動けない。
「シオン、取れ」
「私が接触すると、さらに安心する可能性があります」
「分析はいい。早く」
シオンが両手を伸ばす。
猫は素直にその腕へ移った。
俺の敗北が確定した。
「……何だよ」
シオンの口元が動いた。
ごく小さく。
音が一つ、こぼれる。
「ふ」
笑った。
シオン自身が一番驚いたように、唇へ指を当てる。
俺は頭の傷より、そちらが気になった。
「今、笑ったな」
「不随意運動です」
「声も出た」
「呼気の漏出です」
猫がもう一度、シオンの腕の中で鳴いた。
シオンの口角が、また少し上がる。
「笑ってる」
「原因を解析中です」
「俺が猫に負けたからだろ」
「相関は認めます。因果は未確定です」
ほぼ認めている。
腹は立つ。
なのに、その顔をもう一度見たいと考えた自分には、もっと腹が立った。
猫は夕方まで居座り、味噌汁の具は食べず、俺の上着にだけ毛を残して帰った。
「次に来たら追い返す」
「はい」
「お前がだぞ」
「努力します」
シオンはベランダを見た。
少し、待っている顔だった。
「猫が好きか」
聞くと、シオンは首を傾げた。
「好き、の判定基準が不明です」
「また見たいか」
「はい」
「触りたい」
「はい」
「なら好きだ」
シオンは自分の両手を見る。
さっきまで猫を抱いていた腕。
「凛を見て、同じ反応が出ました」
「何の話だ」
「また見たい。接触を観測したい」
「俺への殺害チャレンジでも始める気か」
「笑いの原因についてです」
助かったような、助かっていないような。
「俺が失敗するところをまた見たいのか」
「はい」
即答。
「趣味が悪い」
「好き、という判定でよろしいですか」
「猫と一緒にするな」
俺は仕事用ジャケットについた毛を粘着ローラーで取る。
一本、二本。取っても取っても残る。
シオンが隣からローラーを受け取った。
「手伝います」
「笑った詫びか」
「再観測のため、対象の状態を初期化します」
「言い方」
二人で猫の痕跡を取る。
最後の一本を見つけたシオンは、捨てずに指へ巻いた。
「何してる」
「標本です」
「捨てろ」
「記録価値があります」
業務に関係ない記録が、また一つ増えた。
猫の飼い主を探すため、マンションの掲示板へ写真を貼った。
翠が題字を書く。
『迷い猫ではありません。勝手に来て勝手に帰りました。情報求む』
「何を求めてるんだ」
「名前ですよ。シオンさんが標本まで取った相手でしょう」
「毛一本に大げさだ」
シオンは写真の猫へ識別番号を付けようとした。
「仮称・猫個体一」
「かわいくない」
「では、毛」
「雑になったな」
三日後、小学生が掲示を見て訪ねてきた。
猫の名は大福。三つ先の棟で飼われているらしい。
「よく脱走するんです。ごめんなさい」
「被害は毛だけだ」
「大福、黒い服の人が好きなんです」
シオンを見る。
「理由は」
「飼い主にも分かりません」
分からないものを分からないまま受け入れる人間を、シオンは不思議そうに見た。
その夜、大福がまたベランダにいた。
窓を開けると当然のように入り、シオンの膝へ乗る。
「飼い主へ返すぞ」
「現在、返却前の安全確認中です」
「撫でてるだけだろ」
「外傷確認です」
喉を鳴らす大福に合わせ、シオンの指が一定の周期で動く。
「笑ったのも安全確認か」
「笑っていません」
「写真に残ってる」
スマートフォンを見せる。
翠が撮った写真。大福の額へ鼻先を寄せ、ほんの少し口元を緩めている。
シオンは画像を拡大し、数秒見た。
「筋肉の偶発運動です」
「削除するか」
指が止まる。
「業務記録として保存します」
「猫は業務に関係ない」
「では、端末の動作確認用です」
理由だけが次々変わる。
「好きなんだろ、その写真」
「好き、の判定基準が不足しています」
「消したくないなら、それで十分だ」
シオンは削除ボタンを閉じた。
大福がくしゃみをした。
シオンも一拍遅れて真似をする。
「今のは何だ」
「学習です」
「そこを学ぶな」
笑いかけて、今度は俺が顔を背けた。
【宣告課・案件四〇七 経過報告】
小型捕食者の侵入あり。
対象は制圧に失敗。
当該光景を視認中、顔面筋と呼気に異常。
原因は猫と推定する。
対象ではない。




