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22: ヴェッテスクのながい夜③

 テーブルの向かい側で、机に突っ伏した少女が規則正しい寝息を立てている。

 がらにも無く酔っぱらった頬は真っ赤で、いつもの大人びた雰囲気は鳴りをひそめ、年相応どころかむしろ幼い印象さえ受けた。


 クラウスは、どうにも今夜は眠れなさそうだという予感を覚えていた。そしてそれは、今まさに目の前ですやすやと眠っている少女との消化不良な会話を原因とする予感にほかならない。

 ボトルを逆さにしてぽつぽつと垂れる紅い雫をグラスに落とす。最後の一杯になってしまったが、大半は自分でなくそこで爆睡している少女の胃に収まっている。彼女がそこまでガブガブ飲んで盛大に酔っぱらうタイプの人間だと思っていなかったので、少しの申し訳なさと、珍しいものを見たことへの小さな喜びとが同居した何とも言えない気持ちになった。


『私はクラウスさんにとって大事な人じゃないのかって聞いてんです!』


 酩酊した彼女の問いを反芻せずにはいられない。

 あれはいったい、どういう含みを孕んだ問いかけだったのだろう。一定のリズムで微かに動くみどりの黒髪が魔法の照明できらりと輝いているのを見つめながら、クラウスは答えの見つかるはずもない疑問にただひとり悩まされていた。


 クラウスに食ってかかる少女の半ば裏返った声。酔いですわった彼女の瞳には孤独や不安の念が垣間見えるだけでなく、扇情的な色彩をも帯びているように思われた。

 そして、長いまつ毛に覆われたその目で見つめられた時、どういうわけか心臓の鼓動がどくりと大きく跳ねたのを、彼は内心で認めざるを得なかった。彼女の瞳に見たあの蠱惑的な煌めきは、ほとんど軍隊生活しか知らないクラウスにとって初めて接するものだったし、深い混乱と動揺をもたらすには十分な威力を伴っていた。


 クラウスは思わず濃紺の軍服の胸の辺りをぐっと鷲掴みにした。もともとほとんど酔わない彼にとって、この動悸を酒のせいにするには限界がある。彼は無理やりにでも意識を逸らそうと考えて立ち上がり、窓のそばまで歩いて冷たいガラスに額を押し付けた。

 夜の冷気を吸ったガラスが身体の熱を取り去ってゆく。大きく息を吸って吐くと、少しだけ胸の締め付けが緩んだ気がした。


「俺のことが、何だって言うんだ……」


 ガラスに額を押し当てたまま、困りきった声を漏らす。曇った窓に辛うじて反射する彼の瞳も、また澱んでいる。

 テスタは話の途中でいきなり寝てしまったから、結局何を言おうとしたのかは分からない。ふだんの彼であれば後日改めて尋ねることに決めて気にも留めなかっただろうが、今回に限ってそうはいかない。考えたって仕方がないことだと分かっているものの、それでも考えることをやめられないという、にっちもさっちもゆかない心境に陥ってしまった。


 恨めしげな面持ちで振り返ってテスタを見る。彼女は相変わらず心地よさげに寝入っていて、目を覚ましそうには思えない。クラウスはしばしそのさまをじっと見つめてから、諦めたようなため息を一つ吐いてベッドに広げられた毛布を掴み、テスタに羽織らせた。もう春も終わりとは言え、ルヴェール王国の夜はいつだって冷える。風邪を引かれてはたまらない。クラウスは努めてそっけなく聞こえるような弁明を絞り出して、心の中で繰り返し唱えた。

 ……そうしていると、だんだんと自分のことが情けなく感じてきてしまった。


「……何を考えてるんだ……」


 眉間にしわを寄せ、クラウスは自己嫌悪の念を抱いた。

 この少女は自分と比べものにならぬような険しい過去を生きてきた人物であり、自分の個人的な感情を差し挟むべき相手ではない。

 そもそも一緒にルヴェール王国に渡った旅の同行者にして戦友であるから、向こうもそういう意味において自分のことを大事だと言ったのだろう。それを曲解してあらぬ想いを寄せるなどとなれば、栄えあるルークイ軍人の名折れではないか。何より彼女に対して申し訳が立たない。

 深い罪悪感がクラウスを襲った。


 故郷を棄ててルヴェール王国軍に出仕するにあたって、学会からテスタの身を預けられた時はほとほと困ったものだったが、それは自分自身が彼女のことを何も知らなかったゆえに抱いた一種の傲慢な感情だったのだ、と旅の中でつくづく思い知らされた。

 恐らく学会にも学会なりの思惑があり、テスタやクラウスそれぞれに期待するところがあるに違いない。そうでなければ、あの吝嗇で知られる学会がたかだか二十そこらの若造の出奔にいろいろと便宜を図ってくれるわけがない。


 テスタが自身の過去を打ち明けた時、クラウスは心の底から尊敬の念を抱いたのだ。

 彼はこの戦争で己の誇りを喪ったと感じていたが、それ以外には何も奪われていなかった。戦死した友人は多いが、戦時の職業軍人にとって死は免れ得ないものだ。軍に属していない友人や両親は健在だし、身分も保障されていた。鬱屈とした思いを日々募らせていたが、翻って言えばそういう不平不満をため込んだまま生きていける環境があったとも考えられる。

 しかし、この少女は違った。理不尽な罪、理不尽な虐殺、理不尽な暴力――理不尽づくめの仕打ちを受けて、文字通りすべてを喪った。……それでも、自らの過去を直視して、清算しようとしている。彼の目にはその姿がまばゆいものに映ったし、共に戦う理由として十分だった。


 だからこそクラウスは、自身が彼女に対してついうっかり抱いてしまったけしからぬ感情を許せなかった。彼女の過去に対する冒涜とさえ思った。


 少女の小さな身体が呼吸で上下に動くのを一瞥して、クラウスは椅子に深く腰掛けた。


 やっぱり、今日は寝られそうにない。


 ……いや。見張り役なのだから、寝ないくらいでちょうど良い。

 クラウスは自分にそう言い聞かせて、腰の剣の柄を軽く握った。


 ヴェッテスクの長い夜は、静寂に彼ひとりを残し、とっぷりと更けていった。

お世話になります。

お読みいただきありがとうございます。


TS娘とのかかわり方に困惑する人間が好きです。


以上!

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