16: 六〇八年のクラウス
統一暦五八九年、クラウスはテスタよりも六年早く、ルークイ王国の中部にあるマクデルクという小さな田舎町に生まれた。
軍人として稼いでくることを期待された彼は幼少期から軍に放り込まれたため、イリオス王国との国境からあふれ出てくる革命の暴動を撃退する日々が年少の記憶の大半を占めると言って過言でない。
統一暦六〇三年には都に新設された陸軍士官学校に入校し、恩師シャルトーの薫陶を受けて優秀な成績で卒業した。つまり、彼は親の期待通り軍人として名を立てる道を挫折無く直進する若きエリート将校だったわけだ。
そんな彼にとって初めての挫折は、統一暦六〇七年の帝国との戦いにおける敗走だろう。
六〇六年の末、電撃的に襲い掛かる『怪物皇帝』の軍勢の前に、ルークイ王国軍はひとたまりもなく四散した。当時ルークイ王国の王太子を補佐する副官として出動していたクラウスも、緩むことの無い追撃をどうにかかわしながら残存兵をかき集めて退却を試みたが、とうとう追い詰められて武装解除させられた。
年明け早々、連日の戦闘でぼろぼろになった軍服のままで王太子や麾下の兵と共に帝国の軍営を歩かされた時、周囲の帝国兵はこれみよがしにぱりっとした制服に身を包んでいたのが鮮烈な記憶としてクラウスの脳裏にこびりついている。真っ白なローブの目立つ帝国法官の一人が、何ともいたたまれない表情で彼を見ていた。
しばらくしてルークイ王国が降伏した際、士官でない兵卒たちは帰郷が許されたが、王太子とその副官であるクラウスは帝都に抑留されることになった。
とは言いつつも実際のところは王族向けの待遇である。監獄に繋がれたり館に軟禁されたりするわけでもなく、軽い監視つきの観光と呼んだ方が適切なくらいにのほほんとしたものだったが、一年にわたる長期の抑留であったため、鬱屈した気持ちや苛立ち、帝国への嫌悪を募らせるには十分だった。
◆◆◆
統一暦六〇七年の暮れ。ルークイ王国とイリオス帝国との間で正式に講和が締結され、捕虜交換規定に基づいて王太子とクラウスも帰国が許される運びとなった。
今か今かと待ち望んだ通行証も手元に届き、ようやく出発だと意気込んだ年明けの夜、厄介な相談が舞い込んできた。
「この子を王太子殿下と共にルークイ王国まで逃がしてほしいのです」
監視の連中も引き上げた上、これから出発という夜の出来事である。突然の来訪者が明らかにワケありな少女の身柄を引き受けるように頼み込んできた。クラウスは王太子と顔を見合わせ、首元に手を当ててどうやって断ろうかと考えた。
「殿下も私も正式な捕虜交換規定に基づいて帰国する身。無関係の人間の亡命を手引きするようなことがあれば、王国の権威を失墜することになりかねません」
役人じみた決まり文句で拒絶すると、真正面の椅子に腰掛ける同年代の男――イーノスと名乗った――が眉間にしわを刻んだ。クラウスが機械的に応じたことに立腹している様子だ。
ところが、その隣に座る少女は対照的に身を縮こまらせ、今にも泣きだしそうなのを唇を噛んで耐えている。頬に残る跡を見るに、この館にやって来る途中でだいぶ泣いたらしい。
「クラウス……。話くらい聞いてやっても」
王太子がクラウスにほんの少し非難をはらんだ一瞥をやった。
クラウス自身も、一般的な世間の道徳に鑑みて褒められたものでない発言をしたことは自覚している。とはいえ、彼の直感はこの少女を保護することが極めて危険を伴うものであると告げていた。
「いえ殿下、私は殿下を無事にルークイ王国まで護衛する責務を負っております。そのためにはいくら慎重になろうとも慎重になりすぎるということはありません。わざわざこのような危険を冒すべきではない。……お引き取りを」
いよいよ小さくなってしまった少女を極力見ないようにしながら言い切った。
イーノスは唇をぎゅっと結んで彼の口上を邪魔しないよう黙っていたが、とうとうこらえ切れずに机を拳で叩いて声を荒げた。
「危険なればこそです!」
その言葉の意味が分からず、クラウスと王太子は顔を見合わせる。
イーノスは、焦燥と怒りの混じった目つきで二人を睨みつけて続けた。
「確かにその懸念は正しい。この子を連れていくことは相当な危険を伴う、それは認めます。……しかし、あなた方の目的はただ帰国することではない。帰国して、いずれ帝国への雪辱を果たすことでしょう! この子はきっとその鍵になりうる。だからこそ帝国に――『怪物』にとっても危険なんです!」
イーノスは息継ぎもせずにまくし立て、机の上に一通の封筒を叩きつけた。宛名の付されていないまっさらなそれをクラウスたちに差し出して、イーノスは「ご一読を」と低く唸る。
王太子がそろりと封筒の口を開いて逆さにすると、中から上等な紙が落ちてきた。書簡だ。折りたたまれた書簡を手首の勢いで振って開くと、書面の端に大きな紋章が刻まれている。遥かな大陸に突き立つ大帝エルハルトの剣――。王太子は訝しげに尋ねた。
「これは……、アラグノイア学会の紋章。帝国領内の支部は解体に追いやられたと聞いておりましたが」
「あくまで表向きは、です。と言っても、アラギノの本部と辛うじて連絡を取り合える程度の組織力を残すのみで、確かに現状ほとんど活動休止状態であるのも事実です」
ほのかに苦笑いするイーノスに促され、二人は書簡に書かれた学会からのメッセージに目を通した。
曰く、そこに縮こまる少女は『怪物皇帝』との確執ゆえに身柄を追われているらしい。見つかれば良くて処刑、最悪の場合もっと悲惨な目に遭うであろうこの娘を連れだすことには相応の危険が付きまとうが、学会たっての望みとして王太子一行に同道するかたちでアラギノまで送ってほしいとのことだ。というのも、この少女はもともと魔法の素養に恵まれているうえ、『怪物』の魔法を至近距離に受けて生き延びている。学会としては若き人材を帝国から引き抜ける機会であることに加え、『怪物』の未知なる魔法を調べる手がかりが少しでも欲しいからである。
ルークイ王国の都市アラギノに本部を抱えるアラグノイア学会が露見の危険を冒してわざわざ書簡を持たせたということは、それに見合う価値がこの少女にある――と、学会が期待していることを意味する。その期待の度合いは相当なものだろうが、王太子やクラウスにとってみれば確証が無い限り渡りたくない橋であることも事実。
クラウスが切り出す。
「例えば……この子が帝国の差し金でないことや、もっと言えば味方として十分守るに値すると思わせる証拠はありますか」
イーノスは首を縦に振って「もっともな疑問ですね」と笑った。そして、思いやりをはらんだ瞳で少女を一瞥してから続けた。
「この少女の故郷……あなた方との国境線沿いの町タタラスクは先の戦争の『裏切者』として焼き払われ、住民も皆、殺されました。……恐らくこの子の家族も……」
少女の肩がビクッと跳ね、小刻みにぶれる。その震えは、イーノスの言葉が十分に真実味を帯びていることを裏付けていた。
「そして、『味方として十分守るに値する』とはつまり、魔法使いとしての資質を問うものと思いますが――――」
イーノスは懐からナイフと小ぶりな杖とを取り出した。
即座にクラウスが傍らに立てかけた自分の剣を引き抜く。刀身が鋭い金属音をあげながら鞘の中を熱走し、目にも止まらぬ速さでイーノスの眼前に突き付けられる。少女は涙に疲れた両目を見開いて短い悲鳴をあげた。
「クラウス、大丈夫だ」
一瞬にして場を支配した緊張と静寂を切り開いたのは、王太子の落ち着いた一言だった。
杖を持った魔法使いと敵対した時、最も重要なのは距離を詰めて詠唱を阻むことである。翻して言えば、味方でない魔法使いにそばで杖を持たれることほど恐ろしい状況は無い。クラウスは逡巡したが、主にして上官の言葉なので従うことに決め、剣をしまって頭を下げた。
「頭を上げてください。私としても突然の無礼、申し訳ありません。……魔法使いの資質を確かめる最良の方法は、実際に魔法を見ることです。テスティリス、これを」
男性名で呼ばれた少女は、瞳を潤ませながらもこれからイーノスが何をするのかは分からないという様子で、特に異議を唱えることなく杖を受け取った。クラウスは少女の名を不審に思ったが、目の前で進行しているより重要なことを妨げたくなかったので見過ごした。
イーノスは少女――テスティリス――が杖を受け取ったのを確かめてから、ナイフを逆手に持つ。途端に緊張した面持ちに汗が一滴垂れるのをはばかることなく、彼は自分の腹部に乱暴にナイフを突き立てた。
「か…………ぁ…………!」
喉から声にならない声がひゅうと漏れ、身体が大きなひきつけを起こして床に落ちる。彼の衣服と鋭利な金属との間からねっとりとした赤黒い血がどくどくと溢れだし、床板を染め上げてゆく。
「何をしている!」
「手当を!」
クラウスと王太子が同時に叫んで椅子から飛び出したが、意外にも少女がそれを制した。
「少し離れてください」
先ほどまでの狼狽えた様子からは想像もつかないほど、その声は落ち着いていた。
床に腰をおろした少女は大きく波打つイーノスの身体をぐっと仰向けに寝かせ、頭を太ももの上に置く。眼下に力なく置かれた頭を優しく撫でて顔をあげ、肩から腹部、そして脚部までを見通した。
あたりに濃い血の臭いが充満し始めた。
クラウスがかつての戦地で何度も体験した『死の臭い』と同じ類のものだ。これから死にゆく者が発する臭い。王太子もクラウスも動揺から脱し切れずにいたが、それを差し引いても既に血に塗れたこの男が助かるとは到底思えなかった。
「ホントに何やってんだ、ばか」
少女が悲痛な表情で呟く。
クラウスは初め、それが避けられない死に対する悲しみに由来するものだと誤解した。が、少女は慣れた手つきで杖をイーノスの腹部に向ける。
途端に部屋が暖かい光に溢れた。
少女が施す治癒魔法によるものだ、とクラウスも王太子もすぐに
理解したが、それは同時に驚くべきことでもあった。
少女は魔法を詠唱するそぶりも、魔法陣を描くようすも無い。にもかかわらず魔法が問題なく発動している上、漏れ出た光が物語るように注ぎ込まれる魔力量が尋常でない。
みるみるうちにイーノスの呼吸が落ち着いてゆく。
ミチミチと肉が盛り上がる音と共に、鮮血で濡れた短剣が彼の身体からこぼれ落ちた。床に転がったナイフに目をやった少女は安堵に満ちた息を漏らし、丁寧にイーノスの衣服のボタンを外す。
露出した腹部は血で染め上がっているものの、傷口は一文字に閉じているのが分かる。テスティリスが改めて治癒魔法を施すと、聖母の抱擁のような光が『死の臭い』を追い散らすと共に、傷口がどんどん小さくなって、しまいに見えなくなった。
最後にテスティリスが杖を振ると、飛び散った血がじゅわりと消える。恐らく浄化魔法を用いたのだろうが、やはり無詠唱な上に一瞬のことだったため、クラウスには何が起こったのかよく分からないくらいだった。
「イーノス、ばか! 起きろ!」
少女が太ももの上に寝かせた頭部の頬をぺちぺちと叩く。ゆっくりとまぶたを開き、億劫そうに身体を起こしたイーノスの顔色は出血のせいかあまり良くなかったが、命に別状は無いらしい。安心した様子で頬を赤らめる少女と対照的に、イーノスはやや青ざめた顔でにこりと笑って言った。
「あぁ、ありがとう。……お二人も見ての通り、相当のやり手です。技術は申し分ないし、場慣れしている」
イーノスの言葉を否定する余地は無かった。クラウスと王太子はその場に突っ立ったまま、またも顔を見合わせた。
確かに少女の魔法の腕は大したものだ。詠唱を完全に省略する方法が帝国内で確立しているかと思うと恐ろしい気持ちがするし、それができる人材をルークイ王国に招く、と考えると悪い話ではないようにも感じられる。
しかし、あれほどの大立ち回りを見せられてなお、強烈な違和感がクラウスの頭をもたげていた。彼は巨大な氷の塊が水の流れを遮っているような異物感を覚えながら、イーノスに尋ねた。
「傷が大きい方が腕の見せどころになると考えたのは分かりますが、……助かる確証はあったのですか?」
彼の問いに、イーノスは一瞬きょとんとした表情を浮かべた。そして、ふっと笑みをこぼしながらあっけらかんと答える。
「いえ、そんなものはありませんでした」
「では何故あんなことを……?」
「あなた方も戦場で、常に確証を持って戦うわけではないでしょう。それと同じです」
彼の言葉に、クラウスは心の中の氷が大きなひび割れの音を鳴らすのを感じた。
押し黙る彼をじっと見据えたまま、イーノスが続ける。
「最も優れた将軍が精一杯努力しても、現実では失敗する可能性が常にあります。それと同じです。テスティリスは優れた魔法使いですが、場合によっては治療が奏効しない恐れもあったでしょう。けれど、私は彼……失礼、彼女なら出来るという……『確信』がありました。だから命を賭けることが出来た」
王太子とクラウスはその場にしゃがみ、イーノスの話に耳を傾けた。イーノスは青い顔のまま、声に力を込める。
「……私から切にお頼み申す! この子を連れてゆく旅にも安全の確証が無いのは百も承知。しかし、私も学会もあなた方を無事にルークイ王国まで送り届けるために心を砕いて支援いたします。どうかそのことと、この子の可能性を信じていただきたい!」
彼の熱気に満ちた懇願がクラウスの心を堰き止めていた氷を溶かしてゆく。王太子も想いは同じのようで、クラウスに困ったような笑みを浮かべて言った。
「どうやら、これは一本取られたらしいな」
「そのようですね。……テスティリス殿、先程までの数々の非礼、お詫びいたします。我々が貴女を無事送り届けますので、どうか貴女も我々を信じてください」
かくして、氷は跡形もなく溶けて消え去った。王太子とクラウスはそれぞれイーノス、テスティリスと固い握手を交わし、少女をアラギノまで送り届けることに同意したのである。
◆◆◆
ディスナの野戦築城を目指す途上、クラウスは音を立てて揺れる焚き火の煙が昇るさまを眺めていた。
煙は夜の闇に溶けて消え、その先に星々の青白い光が瞬いている。あの頃のイーノスの顔色もこんな感じだったと思い出し、クラウスはふっと吹き出した。
視線を落として自分の手元を見ると、あの頃よりもずいぶん大きくなった少女が毛布にくるまってすうすうと穏やかな寝息を立てている。
あの時以来の付き合いになる少女が元帝国法官と知ってからはややぎくしゃくした関係が続いていたが、改めて少女の来歴を知って、クラウスの心中での少女に対する気持ちは変わりつつある。
腹部を温めるために置くことを強要された手を放し、少し躊躇ってから少女の頭をそっと撫でる。少女の寝息が気持ち良さげな色を帯びた。
「信じるさ……信じるよ」
小さな呟きに応える者は無く、ただ火が盛んに爆ぜるパチパチという音だけが夜の闇の中で響いていた。
お世話になります。
お読みいただきありがとうございます。
怯え切ったTS娘からしかとれない栄養があります。
以上!




