全てを滅ぼすもの 05(終)
気づけば、視界いっぱいに茜色が広がっていた。
「…………」
視界の端から端までを占有する赤に近い橙色。
その内には綿あめのようにふわふわとした白いものが浮かんでおり、周囲の茜色に影響されてかピンクに色づいている。
――雲だ、と思った。
そう思って、次の瞬間には今自分が見ているものが空であることに思い至る。
夕暮れの、空。
それが視界の全てを占めるという事実はつまり、自身が空を見上げる姿勢を取っているということで――背中にあたる硬い感触から、わたしは自分が地面に仰向けに倒れているということを知る。
そう認識した途端、それまで意識していなかったものが急に意識された。
匂い。
土と、草と、花の。
それらが入り混じった複雑なもの。
自然の放つ芳香だった。
「……草原」
そこにわたしは横たわっているようだった。
肌を通して伝わってくる独特の空気感は、ここがわたしの居るべき場所であることを示している。
つまり、ここは天上世界アタラクシアでまちがいない。
問題は今がいつかということで――。
「起きたか、ネコよ」
視界の端っこからひょこりと見知った顔が覗き込んできて、わたしの意識はそちらへ逸れた。
短く切りそろえた白銀の髪を垂らしながら見下ろしてくるのは、つい先ほどまで会話を交わしていた相手。
白に近い銀髪、二本の捻くれた黒角、真紅の瞳。
兎のワッペンが縫い付けられた白のタンクトップに黒のショートパンツ。
「……ウサギ?」
だった。
先ほどまで見ていたのと同じ顔。
けれどその表情が、仕草が、身にまとう雰囲気が一変していた。
どこか頼りなさそうで不安の色が濃かった面持ちはふてぶてしいものに変わり、仕草もひどく落ち着いたものになっており――それはわたしがよく知るウサギという少女のものだった。
着ているものも、わたしが貸した予備のワンピースではない。
彼女のその姿を見て、わたしは自分が戻ってきたことを悟った。
こちらを見下ろしたまま、くふんといつもの含み笑いを漏らす彼女へ確認の問いを発する。
「今日は、なんの日だっけ?」
「忘れたか? お前の十五の誕生日だぞ。そして王として初仕事の日でもあった」
どうやら、まちがいないようだった。
わたしはわたしの居るべき時代へ戻ってきた。この夕暮れ空を見るかぎり、それなりの時間は経過しているようだったけれど。
「なんとなくここに居るような気がして足を運んでみたのだが、見事に大当たりだったようだな」
「――ここ?」
含みがある言い方だった。
疑問に思いつつ、ひとまず身体を起こすことにする。お腹の上に乗っていた麦わら帽子をわきに移動させ、そばに擦り寄ってきたポチをほとんど無意識に撫でてあげながら、あたりを見回した。
とくになにかがあるわけでもない、草原の一部である。周囲に広がるのは無秩序に生い茂る草花で、視界の端には星神樹が見える。
ただそれだけの場所だった。
しかし、なんとなく意識に引っかかるものがある。
ごくごく最近にこれと似たような景色を見たような――。
「あれ、ここって、もしかして」
最初に思い出したのは、素っ裸のウサギの身体。
……いや、よりによってなんでそれを初めに思い出した。ウサギの裸なんて数え切れないぐらい一緒にお風呂に入って、飽きるほど見慣れているというのに。
まあいきなり獣姿から人型へモードチェンジしていたから印象深くはあったけれども。
ともあれ、ここはおそらく。
「気づいたか? ここはな、吾れがアタラクシアに降り立った最初の場所よ」
「やっぱり、そうなんだ」
「うむ。なにもないただの草っ原だが……吾れにとっては思い出深い場所だ」
いつもよりやわらかい声でそう言ったウサギは、わたしの隣に腰を下ろした。
こちらには視線を向けず、どこか遠い眼差しで草原の彼方を見つめる。
会話はそれ以上続かなかった。
静かな時間だけが流れる。
暮れていく空。かすかに肌を撫でていくそよ風。なびく草花。
夕日に赤く照らされた彼女の横顔を眺めながら、わたしは自分の中の感情を整理していく。
ウサギは、わたしにとって太陽のようなひとだった。
いつも明るく笑っていて、ひとりでいるわたしを連れ出してくれて、こんなわたしと友達になってくれた。
たくさんのものを、与えてくれたのだ。
けれど先ほどまでの――過去の彼女は、なにも持っていなかった。
太陽のような笑みも、わたしを無理やりにでも引っ張っていく強引さも、なにがあっても揺らぐことがない芯のある心の強さも。
わたしが憧れたなにもかもを、あの彼女は有していなかった。
だから、役割がいつもと逆になった。
なにも持っていない彼女を目の当たりにして、わたしは思ったのだ。
彼女からもらった、たくさんのものを返さなければと。
だから、与えた。
心の奥底から飛び出してきた思いに突き動かされて、わたしが持てる全てのものを捧げた。
笑顔も。やさしさも。居場所も。友達も。生きるための、前に進むための力も。
思えば不思議なものだ。
与えられたから、返した。けれどそれは時を巡り、やがてはわたしにまた戻ってくることになるのだ。
わたしと彼女の関係性は、ひとつの輪になっていた。
いや、或いは彼女だけにかぎらず、このアタラクシアの全ては――。
どちらが先で後だったのか。始まりはどこにあったのか。
そんなことは全部、今のわたしにとってはどうでもいいことだ。
どちらが上とか下とか、そんなことは関係がない。
だってわたしと彼女は、友達だから。人と神であろうと、それ以外になにかであろうと、そこに優劣なんて存在しない。
わたしがここにいて、ウサギがそこにいる。
手を伸ばせばすぐに触れられる場所に。
今はただその事実があるだけで十分だった。
「昔のウサギに、会ってきたよ」
声に反応して、彼女の視線がこちらを向いた。
血のように真っ赤な眼が、わたしを捉える。
「知っておるとも」
やわらかくその口元がほころんで、言葉を紡ぐ。
「縮こまってひとり震えていた幼いお前に出会うずっと前から、知っておったとも」
「……うん」
なんとなく照れくさくなって、視線を外した。
またしばらく沈黙が続いて。
心が落ち着くのを待ってから、改めて彼女を見やる。
一時も離れることなくこちらを見つめていた赤い瞳と、再び交わる。
「わたしは、ウサギからたくさんのものをもらって」
「うむ」
「それで、だから、その全部を返そうって、あげなくちゃって思って……そうしたの」
「うん」
「わたしは、ちゃんとできた? あなたに全部、あげられた?」
少し迷いの含んだわたしの問いに、くふふっとウサギは笑う。
「その答えは、お前が知っておるだろう?」
わたしの胸の中心をトンと軽く指で突いて、言う。
「お前がたくさんのものを吾れから受け取ったというのなら――それが、なによりの答えであろうよ」
すとん、と。
ウサギのその言葉は、わたしの中の深いところに落ちてきた。
他のどんな言葉よりも雄弁な答えだった。
「……………………」
自然と、顔の筋肉が緩んだ。
頬が、少しだけ熱を帯びる。
口元をむにゅむにゅさせてそれを我慢しようとするも、効果はいまいち。
今のふやけた顔を見られたくなくて、麦わら帽子で表情を隠そうと傍らのそれに手を伸ばしたときである。
「――ああ、そういえば。まだお前が受け取っていないものがあったな」
ウサギがそんなことを言った。
なにかと思って視線を向ければ、お尻のポッケに手を差し入れた彼女は、珍しいことにほとんど迷う様子もなくあっさりと目的の物を取り出した。
可愛らしい兎のワンポイント刺繍が施された、白いハンカチ。それに包まれた、手の平に乗るぐらいのサイズの平たい物体だった。
「機会は、何度かあったのだがな。別件でお前が吾れの時代を訪れたとき、幼いお前が天上世界にやってきたとき、初めて吾れに笑みを見せてくれたとき」
ウサギは手の平に乗せたその包みを解いていく。
その手つきは普段の彼女の雑さから考えると、驚くほどに丁寧なものだった。
「だが、どれもちがうような気がしたのだ。本当の意味ではそのときではないと」
ウサギがそれを見つめる眼差しは、ひどく優しげなもので。
彼女がそれほどまでにあたたかでやわらかな目をしているのを、わたしは見たことがなかった。
いったいなんなのだろうと思うわたしの目の前で、ついにその姿が明らかになる。
「――――」
息を、呑んだ。
見覚えがある。よく知っている。忘れるはずもない。
「お前から預かった、大切なもの」
いったいそれには、どれだけの年月が刻まれているのだろう。
ところどころに錆が浮いて、古びて劣化したそれは。
「吾れとお前の、約束の証だ」
――デフォルメされた兎の絵が描かれた、缶バッジ。
わたしがウサギと出会った日にプレゼントされて、遥かな過去に置いてきたものだった。
「どう、して。あの日わたしにくれたのが、あのときのバッジだったんじゃ……?」
絞り出すような声で言ったわたしに、ウサギは笑う。
そうして、わたしが手にする麦わら帽子の鍔にバッジを取り付けながら口を開く。
「あれは吾れがこれを真似て作ったものだ。オリジナルは、これよ」
「でも、だって、再会したのは――」
「きっと、今がそのときなのだ」
わたしの言葉を遮って、ウサギがそう言った。
バッジをつけ終えた帽子を見下ろして満足そうに頷くと、それをいまだ戸惑っているわたしの頭にぽすっと被せる。
「あの日幼きネコと出会い、吾れはお前を知った。今日、お前は吾れに出会って始まりの吾れを知った」
「…………」
「真の意味での出会い、再会というのなら。まさに今この瞬間こそがそうなのだ、ネコよ」
麦わら帽子を被ったわたしを見て、ウサギは目を細める。
眩しいものを見たというように。
そうして、笑う。
ふわりと。
いつもの彼女とは異なる、とても女の子らしい微笑みを浮かべて、言う。
「吾れを暗がりから連れ出してくれて、ありがとう。吾れにこんなにも素敵な居場所をくれて、ありがとう。誰かを傷つけることしかできなかった吾れと友達になってくれて、ありがとう。――ずっと、それを伝えたかった」
照れくさそうに頭を掻いてから、ウサギはぽすりとわたしの胸の中に倒れ込んできた。
そして、その顔をわたしの胸元に押し付けて表情を隠して。
「これからも、よろしく頼む――吾が太陽」
そんなことを言うのだった。
それにわたしがどんな答えを返したかなんて、語らずともわかるだろう。
もしも語ることがあるとすれば。
――日が完全に沈むまで、わたしたちはずっとその体勢のままでいたということだけである。
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家に帰れば、そこにはいつものようにわたしを待っているひとがいた。
そのすぐそばには白目を剥いてピクリとも動かないヌイグルミのような子がいたけれど、それもいつものことだった。
居間の明かりを背に縁側に腰掛けた着物姿のそのひとは、庭に降り立ったわたしと、わたしと手を繋いだ彼女を見て微笑む。
「お帰りなさい」
わたしもまた笑い返して、いつもの言葉を口にする。
「――ただいま」
こうして、わたしの王として初めての仕事は終わりを告げたのだった。
いろいろなことがわかって、けれど同じぐらいいろいろなことがまだわかっていなくて。
それでも日々は続いていく。
いつか終わりが訪れるまで。
この天上世界で、わたしは生きていくのだ。