全てを滅ぼすもの 04
それに気づいたのは、いつのころだったろう。
彼女が世界を滅ぼしてから、ずいぶんと長い時が経っていた。
三千世界において、いくつもの世界が生まれては滅び消え去ってしまうほどの、とても長い長い時間である。
その永劫にも近い時の間、彼女は飽きもせずに外の世界を眺め続けていた。
それだけが彼女に許された行為であったからだ。
そのように数多の世界を、そこに生きる者たちの営みを遠目に眺め続けるだけの日々において、ふと幾つかの世界で彼女の目に留まる存在があった。
邪神たる彼女――常に光に対する影であり、暗闇の中でのみ存在を許されてきたものとは真逆の、真っ白な毛並みをもった小さき獣である。他に長耳とつぶらな赤い目という特徴を持ったその獣は、神的存在はおろか人よりもか弱く脆い、彼女からすればあまりにも小さすぎる命だった。
それがなんと呼ばれていたのかはわからない。
彼女に可能だったのは視ることまでであって、その音や声を聞くことはできなかったからだ。
それでも、この名も知らぬ、環境の変化や少しのストレスですぐに病に罹りあっけなく命を落としてしまう儚い生き物に、どうしてか彼女の意識は引き寄せられた。
彼らの生きて死んでゆく様を眺めながら、どうしてこれほどに気になるのだろうと彼女は自問する。
自身とは比べようがないほどに脆弱で、まさに次元がちがうという言葉が相応しい存在。
おそらく触れるどころか、彼女の視線を直に感じただけでも壊れてしまうだろう小さきもの。
なのに気がつけば、その生き物の姿を目で追っている。
野では多くの捕食者に狙われ、人のもとでは愛玩物として飼われることがほとんどである弱きもの。
どうして、そんなものがこれほどに気にかかるのか。
彼らを見ていると感じる、この己の内のざわめきはなんなのか。
考えて、考えて、考えて。
そうしてあるとき、唐突に彼女は気づいた。
――己のその思いが、憧れであるのだと。
一度気づいてしまえば、もうその思いから目を逸らすことはできなかった。
彼女は、あの白く小さな獣のようになりたいと思ったのだ。
たとえ数多くの捕食者に追われようとも。
たとえ人に飼われることになろうとも。
たとえ短き生で終わろうとも。
あれほどに脆弱な存在であれば、きっと誰も傷つけずに生きていくことができるだろうと、彼女は思ったのだ。
だがそれは決して叶わぬ憧れであり、願いだった。
彼女はすでに周囲へ滅びしかもたらさぬ邪神であり、この場所以外のどこにもゆくことができないのだ。
この残骸の地で、永遠にひとり、世界を見続ける結末しか残されていなかった。
――或いは、姉のように狂って目に映るもの全てを見境なく滅ぼす存在になってしまえば、楽になるのだろうか。
そんな考えが浮かぶときもある。
しかしそれはあってはならないことだった。
そんなことは絶対にしたくなかった。
だから、彼女はずっとこのまま孤独であるべきなのだ。
それがどれほど苦痛であっても。
なのに。
それは現れたのだ。
どこからともなく、気づけば己以外に誰も存在せぬはずのこの地に、立っていた。
植物で編んだ帽を被り、白い衣に身を包み、大きな箱を携えた人。
仮にも神たる彼女が、しばらくの間意識を奪われて呆然としてしまうほどに美しい少女だった。
己の黒より深く、濃い、闇色の髪に瞳。世界の外に満ちる『無』の如き、原初の色彩。
まるで世界の全てがそこに在るような、そこが世界の中心であるような――そんな底の見えない存在感をもった、人の少女であった。
それほどに美しいものを見たのは、彼女という意識が発生してから初めてのことで。
もっと近くで、もっとそばで見たいと無意識に願ってしまって。
彼女は自身が邪神であることも忘れて、その少女の目の前に姿を現してしまったのだ。
「――――は」
驚きに目を丸くする彼女を、その星のように不思議な煌めきを放つ瞳を見て。
――ああ、きれいだな。
そう、彼女は思ったのだ。
もしもこの身が、あの白く小さな獣のように脆弱な存在であれば。
こんな人と一緒に過ごす日々もあったのかもしれないと。
このとき彼女は、そんなことを考えていたのだ。
**********
「…………」
世界と時の狭間、どこでもない場所いつでもない時間を経由して、わたしは天上世界へやってきていた。
目の前に広がるのは、どこまでも続いていく草原。
視界の端に見えるのは天を突く大樹――星神樹。
風になびきサワサワと音を立てる草花を眺めながら、大きく息を吸って、吐く。
覚えのある匂い。質感。空気。
濃密な力に満ちた空間。世界。
まちがいなく、ここは天上世界アタラクシアだった。
わたしの、故郷。
けれど。
「わたしの知っているアタラクシアじゃ、ない」
ここは、それよりももっと過去の世界。
きっと人の身では実感が持てないほどに遠い昔。
それを肌で感じ取っていた。
「考えてもみれば、当たり前か。わたしが初めてこの世界にやってきたとき、もうそこにはあなたがいたんだもんね」
呟いて、足元の旅行鞄を見やる。
その中に彼女がいる。時空間跳躍するにあたって、決して離れ離れにならないよう一緒に連れていくための措置だった。ポチがわたしに与えられたのは、このためでもあったのだと今更に知る。
「ポチ。もう大丈夫だから、出してあげて」
そう声を掛ければ、ポチは自身を固定していたベルトを外してパカリと口を開けた。
そしてそのままこちらを向く。
「……、……!」
「ん、もしかしてわたしに取り出せって言ってる?」
「!」
「んー……、もしかして中の時間が止まってるから自分で出て来ることができないのかな。ポチに吐き出させるわけにもいかないし……わかったよ」
頷きを返したわたしはポチの前にしゃがみ込んで、その奥が見通せない闇の中に手を差し入れる。
腕を動かして探りながら、彼女をイメージする。
彼女――わたしと出会う前の、大切な友達。
ウサギ。
思い出されるのは、あの滅びた世界で目にした彼女の姿。わたしの知るウサギとは角と翼ぐらいしか共通点がない四足の獣。
最初は、それが彼女であると気づかなかった。
けれど世界の記憶を通して彼女の夢を見て。
その魂に触れて。
わからないはずがなかった。
どのような姿であろうと、ウサギはウサギだったから。
五年前からほとんど毎日一緒にいて、その匂いも感触も、魂の形だって知り尽くしている。まちがえるはずもなかったのだ。
だから、ほら。
今だって、彼女をきちんと探し当てて――。
「あれ?」
闇の中で摑んだものの感触に違和感を覚えて、思わず口から言葉が漏れた。
それはまちがいなくウサギだった。
手を通して伝わってくる魂の形は、これが彼女であると告げている。
けれど、この感触は。
「…………」
ゆっくりと、摑んだものを引っ張り出していく。
闇の中から姿を現すのは、漆黒の巨獣――ではない。
もっと小さく、細く、白いもの。
「ああ――そうか。これが、彼女の望んだ」
わたしが摑んでいたのは、彼女の手首だった。
思い切り力を入れればそのまま折れてしまいそうなほどか細く、華奢な腕。
人の、腕。
さらに引っ張れば肩より先が姿を現す。
白に近い白銀の髪。こめかみの上のあたりから伸びる捻くれた二本の黒角。ほっそりとした首。こぶりな乳房。しっかりとくびれたお腹。意外と肉付きがいいお尻に、太腿。
ちょうど今のわたしと同じぐらいの年頃の、人型の少女。
それはわたしがよく知る、見慣れたウサギの姿だった。
想起されるのは、彼女の夢。あの世界に刻まれた記憶。
滅んだ世界でひとり佇み、決して手が届かないものを眺め続けるしかなかった彼女が、いつしか憧れるようになっていたもの。
――真っ白な、兎。
だから彼女のこの姿は、その憧れが形になったものなのだろう
白くて、目が赤くて、長耳があって、そして人とともに在れる姿。
「これはきっとあなたの願ったもので……わたしが望んだ姿でもあるんだろうね」
わたしにとってのウサギは、こうだったから。
こんなふうに可愛らしい姿をした女の子が、わたしの中の彼女だったのだ。
そんなわたしからの影響と、《無限結界》を抜ける際の弱体化にともなってこのような変化をしたのだと思う。
きっと突き詰めれば卵が先か鶏が先かという話になってしまうのだろうけど。
「…………」
完全にポチの中から引っ張り出したウサギを、一緒に取り出した敷布の上に横たわらせる。
意識はないようだった。ポチの中で時を止められていた影響だろう。
軽く頬を叩いてみると、閉じられていた瞼がピクピクと痙攣し――やがて薄っすらと持ち上がっていった。
「……む」
中から現れたのは、真っ赤な瞳。
その目が、しばし虚空をさまよった末に上から覗き込むわたしを捉えた。
「ネコ……か?」
「うん。無事に天上世界に着いたよ。身体におかしなところはない? 今までとは大きく変わっちゃってると思うけど」
「変わっ、た?」
わたしの言葉に軽く首を持ち上げて自分の身体を見やった彼女は、「――――」と言葉にならない声を上げた。
がばりと身体を起こすと、腕やら胸やら足やらをぺたぺたと触りはじめる。
「これは、人の身体……か?」
「うん。概ねはね」
開きっぱなしだったポチの中に手を入れて大きめの手鏡を取り出すと、ウサギへ手渡す。
それを受け取ってしげしげと自分の顔を見やった彼女は、ぺたぺた頬に触れて感触をたしかめる。
「そうやって見ると、本当に兎みたいな色彩だよね」
「うさぎ……? 吾れのことか?」
首を傾げる彼女に、苦笑する。
「わたしの生まれた世界ではね、あなたがずっと憧れていたものと似た生き物を『兎』って呼ぶの」
それを聞いて、彼女の目が丸くなった。
言葉の意味を考えるように何度かパチパチと瞬きをしたあとでハッとした顔になると、かぶりつくように手鏡を覗き込む。
「白くて、小さくて、赤眼で、長耳があって……あなたのウサギっていう名前はね、そこから取ったんだよ。あなたにぴったりの名前だったから」
呆然と鏡越しの自分を見つめて、彼女は唇を震わせた。
「あのか弱い獣が、兎……? そして、吾れもまた……ウサギ」
「そう。今のあなたは邪神でも、破壊の神でも、災厄そのものでもない。ただ在るだけで周囲の全てを滅ぼしてしまう存在じゃないの。――ほら、まわりを見て」
わたしの言葉に促されて、ウサギはあたりをぐるりと見回す。
わたしたちの周囲にあるのは、生い茂った草花。
それらは枯れるどころか萎れた様子もなく、在るがまま風に揺れていた。
「生きて、いる」
信じられないといった顔で呟いたウサギは、恐るおそる、震える指先を近くの花へ伸ばす。
それは大輪の花ではなく、親指ほどのサイズの小さな白い花。よく言えば慎ましい、悪く言えば地味なその花は、とくに目立つようなものではない。
ありふれた、草木の中に隠れて普段は意識されないような存在だった。
けれど、きっと。
今のウサギにとっては、ほかのどんなものよりも美しく見えているのだろう。
彼女の指が、その花びらにそっと触れた。
「…………なんとも、ない」
花は、枯れなかった。
それまでと変わらずに、そこで生きている。
「これが、花。なんて、きれいな」
ウサギの指がその花びらを、茎を、葉を、ゆっくりとなぞっていく。感触をたしかめていく。
「《無限結界》を超えた時点であなたの力は大きく削がれて、その滅びの性質もほとんど失われてる。だから今のあなたは災厄の神じゃないの。そう望まなければ、決して誰かを傷つけたりすることなんてない」
その言葉に、彼女はこちらへ顔を向けた。
揺れる赤い瞳でわたしを見つめて、言う。
「では、吾れは、なんなのだ。今ここにいる吾れは、なにものなのだ……?」
放心したような表情で呟かれたその問いへ、わたしは答える。
彼女の赤い目を見返して、教えてあげる。
「――あなたはウサギ。ただのウサギ。わたしの大切な、ただのお友達だよ」
ウサギの目が、見開かれる。
口元を戦慄かせて。
その目を潤ませて。
くしゃりと彼女の可愛らしい顔が歪んで。
「――――――ッ」
わたしはその頭を、できるかぎりやさしく胸元へ引き寄せた。
震える小さな身体を抱きしめて、その背中をゆっくりと擦ってあげる。
「今日から、ここがウサギの居場所になるから。もう、あなたはひとりじゃなくていいの」
「――、――ッ」
「ここでは神様じゃなくて、ただのウサギとして、人みたいに自由に面白おかしく暮らしていいんだよ。それが、許されるの」
「――!」
「だってここは、天上世界アタラクシア。原初にして最果ての世界で――神様たちにとっての安息の地なんだから」
――こうして、彼女はこのアタラクシアの住人となった。
兎のように繊細で、可愛らしい彼女の名はウサギ。
わたしの最初の友達で――きっと一番の友達だった。
それから。
わたしの予備のワンピースを着せたウサギの手を引いて飛行することしばし。
わたしたちはアタラクシアの中心――現代ではわたしの屋敷がある、この時代の《玉座》へやってきていた。
大地より高く隆起した台地の中央、切り開かれた木々の中にぽっかりと空いた空間には、記憶と寸分たがわぬ屋敷の姿があった。
日本風の庭園も変わらず、古めかしさもそっくりそのままで、現在に戻ってきてしまったのかと錯覚するほどちがいが感じられない。
「あら、お帰りなさいネコ。見かけない子を連れているわね」
そしてそれは建物だけでなく、彼女もまた同様だった。
陽光にきらきらと輝く黄金の髪。
月のように丸く大きな黄金の瞳。
白地に桜模様が描かれた着物。
縁側に腰掛けた彼女――サクラは庭に降り立ったわたしたちを見て、いつものように薄く微笑みかけてくる。どこか気怠げに見える仕草も、わたしの知る彼女とまったく変わりがない。
「……サクラ、でいいんだよね?」
「なによ突然。わたくしはわたくし、サクラに決まっているでしょう」
呆れ顔を作った彼女はわたしを胡乱な目つきで見るも、すぐになにかに気づいたように首を傾げた。
「あら……ネコ、あなたいつもよりなんだかフレッシュな感じがするわね。心なし小さいし」
「なにそれ。まるでいつもはそうじゃないみたいな言い方」
「だってあなた――」
なにかを言いかけたサクラは、しかしそこで言葉を止めてまじまじとわたしを見やった。かと思えばふいっと視線を外してなにやら考え込む顔つきになり、またすぐにこちらを見る。
「ネコ、あなた今いくつ?」
「……今日、十五になったばっかりだけど」
驚きの声は、前と後ろの両方から聞こえた。
サクラは目をまん丸にして、後ろを振り返ればわたしの背に隠れるようにしていたウサギが、口を半開きにしてわたしを見ていた。
「……なに?」
「十五ってお前、見たまんまの小娘ではないか」
その言葉にむっとする。
「子供扱いしないで。もうわたしは大人なんだから。背だってウサギと同じぐらいあるんだからね」
「いや、背丈がどうのこうのではなくてだな、いまだ成長しきっていない小娘に吾れが縋り付いてたとか、改めて冷静になって振り返ってみるとこう、神としての威厳というかなけなしのプライドが……むぅぅぅぅぅ」
複雑そうな表情で呻き声を上げるウサギに、わたしは溜め息を吐いた。
体ごと振り返って彼女へ向き直る。
「ねえ、ウサギ」
「な、なんだ?」
わたしの改まった態度にビクつく彼女の眼前に、ここに至るまでずっと繋ぎ続けていた手を持ち上げてみせる。
ウサギの視線がそちらに向いて、またわたしに戻ってくる。
その赤い眼をまっすぐに見返して、わたしは口を開く。
「大人だとか子供だとか、男だとか女だとか……そんなの関係ないんだよ。それこそ、人だろうが神様だろうが」
繋がった彼女の手を、ぎゅっと握りしめる。
「わたしとあなたは、こんなふうに手を繋ぐことができるの。あなたのことをウサギって呼んで、あなたはわたしのことをネコって呼んで……わたしたちの間にあるのは、ただそれだけでしょ?」
軽く息を呑む音が聞こえて、彼女の目が見開かれる。
「手を繋いだり、抱きしめたり、抱きしめられたり。そうすることに他の理由なんて必要ないんだよ。だって――」
笑う。
笑ってみせる。
いつか彼女がそうしてくれたように。
今度はわたしが彼女へそうするのだ。
だってこれは、彼女が教えてくれたことだから。
この笑みも、大切な思いも。
潤みを帯びた彼女の目を見つめて、告げる。
「わたしとあなたは、友達なんだから」
「――――」
彼女の顔が、また歪んで。
すぐに俯いて。
肩を震わせて。
ドンとわたしの胸に飛び込んできた。
「……ッ」
ぐりぐりと顔を押し付けてくる彼女の背中をぽんぽんと叩く。
「お前は、卑怯だ……! なんでそんな顔で、そんなことを言う……! 吾れのほうがずっと年上なのに……十五の小娘なんて、赤子みたいなものだというに、どうして、そんな……!」
「人としての経験は、わたしのほうが上ってことなんでしょ。だってウサギは、今日生まれたばかりなんだから」
「…………」
「でもそれはね、きっとすぐに追い抜かれちゃうものなんだ。どうしたってウサギは神様で、わたしは人だから」
「…………」
「だから、いつかウサギが今のわたしを追い越したら。もしもそのとき、わたしがみっともなく縮こまってうずくまっていたら。……手を差し伸べてあげてほしいの」
「……わからん。吾れは、お前がなにを言っているか、わからんぞ……」
もごもごと喋るウサギの頭を軽く撫でて、苦笑する。
「今は意味がわからなくてもいいの。いずれわかるときが来るから。だから、そのときは……ね?」
「……うん」
素直に頷いてくれた彼女にホッとしながら、なるほどあのときの彼女たちはこんな気持ちだったのかと理解が及ぶ。
先のことを詳しく説明するわけにはいかない。過去の人間に未来を伝えることは良くないことであるという確信があるのだ。
『運命的なもの』に逆らおうとすれば、その歪みは三千世界の全てに影響を及ぼす。
きっとわたしならば、やろうと思えばできないことはないのだろう。しかしその果てに待っているのはろくでもない未来であるという予感があった。
世界はあるがままに流れ行く。その流れを大きく変えたりせき止めたりというのは、決してやってはならないことだった。
それが三千世界に共通する絶対のルール。もっとも深きところに在るもの。
だから天上世界にやってきたばかりのころ、彼女たちはわたしに曖昧な言い方しかできなかったのだ。
「あらあらまあまあ。ずいぶんとお熱いものを見せつけてくれるわねぇ」
わたしが過去に思いを馳せていると、背中からサクラの声が掛かった。
……見なくてもわかる。
きっと今の彼女の顔は、これ以上ないほどのにやけ面になっていることだろう。
「なるほど、十五になったばかりということは今日のこれがあなたの初仕事というわけよね。道理で、初初しいわけだわ」
「……知ってたの?」
首だけで振り返って問うと、サクラは頷いた。
意外なことにその顔に浮かんでいたのはにやけ面ではなく、柔和な微笑だった。
「あなたが王としての役割を果たすのが十五からというのは、以前にあなたから聞いているわ」
サクラのその言葉に、その眼差しに「ああ、やはりこの彼女はわたしの知る彼女ではないのだな」と悟る。
その姿も声も、喋り方も仕草もサクラそのものだったけれど、この彼女は幼いわたしを育てたあのサクラではない。
わたしの知るサクラは、いつもわたしを姉や母のような目で見ていた。
けれどこの彼女のわたしを見る眼差しには、対等な存在を相手にするような色があった。
それはたとえば、ウサギがわたしを見るときに浮かべるもので。
或いはきっと、わたしがウサギへ向ける眼差し。
ただ、それは決して嫌なものではなかった。
むしろ一人前と認められているような気がして好ましく思う。むず痒い気持ちになる。
「あなたが初めての役目をしっかりと果たせたのかどうかは……その姿を見れば一目瞭然ね」
サクラがわたしの胸の中のウサギを見やって言う。
「その子が、あなたがこの世界に招いた第一号の神的存在か。可愛らしい姿をしているけれど……もとは邪神の類ね。最初にこんな大物を引っ掛けてくるなんて、さすがはネコと言うべきかしら?」
「この世界のみんなの力を背負っているわたしが、よその神様に負けるわけにはいかないでしょ? これでも王様なんだから」
わたしの中に満ちているものは所詮借り物の力だけれど、それはアタラクシアのみんなから受け取った大切なものなのだ。
その力をもったわたしが、誰かに敗北するわけにはいかなかった。彼らの力をふるうときのわたしは、天上世界の王であり、代表であるからだ。
それが、自分なりの借り物の力に対する責任だった。
「ふぅん……わたしの知っているあなたに比べれば、今のあなたはいささか頼りなく見えるけれどね」
わたしの言葉を受けたサクラは、意地悪げに笑ってそんなことを言ってくる。
その瞳に浮かぶのは、挑発的な光。
「あなたがそう思うのは、そうやって王たらんとするのは、この世界での居場所を失わないため? 権利に対する義務だからなのかしら?」
サクラがどういった意図でそんな問いを投げかけてきたのかはわからない。
未熟なわたしを推し量ろうとしているのか。単なる気分なのか。それとも、この時代のわたしとサクラはこのような言葉を交わす関係性だったのか。
わからないから、わたしはただ素直に思ったことを伝えることにする。
たしかに、現代を発つ前はサクラが口にしたような考えで動いていた。
居場所を失うことを怖がり、二度と戻ってくることができないのではと恐れた。
そういった恐怖を、みんなの期待と信頼に応えなくてはという義務感で抑えつけていた。
為すべきことだから為す。求められているから応える。
全ては自分の居場所を守るために。
ここに居てもいいのだというたしかな証、許しを得るために。
けれど、実際に訪れるべき場所を訪れて。見るべきものを見て。
――彼女の痛々しい姿を目の当たりにして。
そのようなくだらない考えは、一瞬で吹き飛んでしまった。
ごちゃごちゃした余計なものが消え去って、あとに残ったのは至極当たり前で、シンプルな思い。
「あのね、サクラ。そんなのすごく単純なことだったんだ」
たったひとつの、大切なこと。
わたしにとっての唯一の真理。
すなわち――。
「わたしは、この世界に生きるみんなが大好きなの。もしかしたら狂ってしまうぐらいに、愛してるんだ」
サクラの驚く顔が視界に入った。
その反応に、自然と口元に笑みが浮かぶ。
「サクラもイツキもオトヨもルーナもポチも、ウサギだって」
胸の中の彼女を抱く腕に力を込める。
「大好きなの。愛してるの。だから、放っておくことなんてできない。辛い思いをしているなら慰めにいきたいし、ひとりぼっちでいるなら迎えにいきたいし、万が一拒絶されたって無理やりにでも連れてくるよ」
強く、強く。
ウサギを抱きしめる。
知る前は自分のことばかり考えて、怖気づいていた。
けれど知ってしまえば、自分のことなんてどうでもよくなっていた。
必要があるから、そうするのではない。
「わたしがそうしたいから、そうする。本当にたったそれだけのことだったんだ」
そのわたしの言葉を聞いて、サクラは静かに瞼を下ろした。
ただ風の音だけが聞こえる時間がしばらく続いて。
「……あなたはやはりいつだってあなたなのね、ネコ。始まりの第一歩から、あなたはあなただった」
そう言ったサクラは、再び瞼を上げて、眩しいものを見るような目をわたしへ向けた。
その口元が、やわらかく笑む。
「安心したわ。もし未熟なようであれば少し発破をかけてやろうかと思っていたのだけれど、余計なお世話だったみたい。あなたはもう、立派にわたくしたちの王様よ」
その言葉は、なによりもうれしかった。
認められたという実感が、胸の中に広がっていく。
その思いを言葉にしようとして。
「――――あ」
すでに時間切れであることを知る。
わたしという存在そのものが遠い彼方へと引っ張られていく感覚。
時空間跳躍の予兆。
見知らぬどこかではなく、元いた時間、元いた場所へと帰還するための『流れ』が、気づけばすぐそこまでやってきていた。
「そろそろ時間のようね」
わたしの表情で悟ったのか、サクラの顔がどこか残念そうなものになる。
わたしも同じ気持ちだった。戻ればわたしのよく知るサクラが待っているとはいえ、この時代のサクラとももう少し話をしてみたかった。
それに――。
「あとのことは、お願い。しばらくはこの子の面倒をみてあげてね」
いまもわたしの胸に顔を埋めたままのウサギのことも、心配といえば心配だった。
それが要らぬ心配であるということは未来の彼女を知るわたしには理解できていたのだけれど、それでもこの弱った姿を見ていると放っておこうという気にはなれなかった。
「そのあたりのことは任せておきなさい。あなたにとっては初めてでもわたくしにとっては慣れたものよ。これでも代王なのだから」
「よろしく、ね」
そんなわたしたちの会話にこのあとの流れを悟ったのか、ようやくウサギが顔を上げた。
いつも以上に赤くなった目がわたしを見上げて、小さく揺れる。
「どこかに、いくのか……? いって、しまうのか?」
「うん……ごめんね。わたしはわたしのいるべき場所へ、戻らないといけないんだ」
「ど、どうしてだ……!? 吾れをおいていかないと、ひとりにしないと言ったであろうが! あれは嘘だったのか!? 吾れを騙したのか!?」
じわり、とウサギの眦に涙が浮かんで、わたしは慌てる。
「だ、大丈夫だから! あのね、わたしはこの時代の存在じゃないの。もっと先の時間――未来からやってきてるんだ。だからこうしてウサギをアタラクシアに迎え入れてやるべきことをやり終えたら、元の時代に戻らなきゃいけないの」
「ずっとここにおればいいではないか! そうすればいつかはその時間軸に辿り着くであろう!? わざわざ帰る必要などない!」
縋り付いてそう訴えてくる彼女に、わたしは首を横に振る。
「それは、できないよ。これはきっと運命だから。わたしがあなたの前に現れたように、今このときわたしが元いた場所へ戻るのも必然なの。神的存在であるウサギなら、わかるでしょ? それは三千世界全ての根底に流れるもの。たとえ神様だって逆らうことはできないって」
「それは……ッ」
ウサギが言葉に詰まる。
わからないはずがない。彼女が彼女になる以前の神的存在が、それらの干渉を出来得る限り遮断しようとした行為の結果が、彼女の世界の始まりだったのだから。
「大丈夫。いつか必ず、わたしはあなたとまた出会うから。あなたがこの世界に在り続ける限り、そのときは絶対にやってくるの」
彼女の目尻に浮かんだ涙を指で拭って、ゆっくりと身体を離す。
熱いぐらいだった体温が失われて、少し寂しい気持ちになるも顔には出さない。ここでわたしまでそんな素振りをみせたら、余計に彼女が離れがたく感じてしまうだろうから。
わたしから引き離れたウサギは最初抵抗しようとしたが、わたしと目が合うとすぐに諦めたように力を抜いた。
しょんぼりと肩を落として俯いてしまう。
「……いつだ」
顔を上げないまま、ウサギはぽつりとそう言った。
「え?」
「……お前とまた会えるのは、いつなのだ。あとどれぐらい待てば、お前と一緒にいられるようになるのだ」
「それは、えっと……」
正直なところ、わたしにもわからなかった。
サクラに視線を向けるが、彼女も肩を竦めるだけだった。わからないらしい。
「……いつかはわからないけど、でも絶対だから」
「……本当だな」
「嘘なんかつかないよ。だからそれまでこの世界でたくさんのものを見て、触れて、生きてほしい。ここはとても素敵な世界だから」
「……うん」
少しの沈黙のあと、ウサギは頷いた。どうやら納得してくれたようだった。
ただそれでも、ウサギは俯いたままで。
その姿がとても小さく感じられて、寂しそうで。
今すぐにでも戻らなければいけないというのに、わたしはどうしてもそうする気にはなれなかった。
「…………」
どうしたものかとしばらく考えた末に、ふと思いつくことがあった。
被っていた帽子を脱いで、鍔につけられていた缶バッジを外す。
その表面に描かれているのは、デフォルメされた赤眼長耳の白い動物――兎。
「ウサギ。これ、あげる」
帽子をかぶり直して、その缶バッジを目の前の彼女へ差し出す。
そこでようやく彼女は顔を上げて、それを視界におさめた。
軽い驚きがその顔に浮かぶ。
「これは、あの……?」
「そう。兎。あなたの名前のもとになった、あの生き物」
「……可愛い、な」
「そうでしょ。可愛いよね、これ」
少しだけウサギの表情が緩む。やわらかくなる。
そんな彼女の手をとって、掌の上にバッジを乗せた。
「大切な友達からもらった、とても大事なものなの。これをウサギに預かっていてほしいんだ」
バッジをしっかりと握らせて、その上からわたしの両手で包みこむ。
「これはわたしとあなたの、約束の証」
「……やく、そく」
「そう。いつかなにも知らないわたしがこの世界にやってきて、もう一度あなたに出会うまで……失くさずに、持っていてほしいの」
「…………」
重なった手をじっと見つめるウサギに、言葉を重ねる。
「どんなに時間と距離が離れていたって、このバッジがある限りわたしたちは繋がってるんだよ。これこそが、あなたとわたしが再び出会うっていうなによりの証なんだから」
初めてウサギと出会った日。
彼女がわたしにこれをくれた理由が、今ならばわかる。
これは繋がりだったから。
わたしとウサギ――ふたりが友達であるという証だったのだ。
「……わかった」
包み込んだ両手の中で、ウサギがぐっと力強くバッジを握りしめるのがわかった。
はっきりと頷いた彼女はその視線をわたしへ向ける。
そこに先ほどまでの弱々しさはなかった。
強い意思の光が灯っている。
「これは、吾れがたしかに預かっておく。そしていつか必ず、お前に返すからな」
その言葉を聞いて、ようやく胸のつかえが取れた気分になる。
気持ちが軽くなり、自然と笑みが浮かんだ。
「よろしくね、ウサギ」
「任せておけ、ネコ」
ウサギもまた、ぎこちない笑みを浮かべて。
わたしたちは笑い合う。
いつかのように。
いつものように。
――ああ、安心した。
その思いが胸に湧いた途端に、わたしを引き寄せる力が一際強くなった。
今にも呑み込まれてしまいそうなほどの急流が、この身に押し寄せてきていた。
「それじゃあ、わたしは行くから」
足元に擦り寄ってきたポチの取っ手を摑んで、持ち上げる。
「うむ。……また、な」
「うん。また、ね」
ウサギから離れ、サクラへ視線を向ける。
彼女は微笑んで、こちらへ手を振っていた。それに軽く手を振り返して、名残惜しさを断ち切るように強く地面を蹴りつけて飛び上がった。
このときばかりはポチの力ではなく、自分の力を使う。
「いってらっしゃい、ネコ」
真っ直ぐ上に浮かび上がっていくわたしへ、サクラが言った。
「吾れはずっと、待っておるからな!」
ウサギがぶんぶんと大きく手を振って叫ぶ。
そんなふたりに向かって笑いかけて。
「――いってきます!」
そう、わたしは大きく叫んだ。
全速で、天へ向かって飛んでいく。
青空へ。
蒼穹へ。
雲を突き抜けて、それでもなお高く。先へ。
誰の視線も届かぬ場所へ。
そうやって空の果て、絶空へ到達し――。
他者の観測を振り切ったわたしは、その瞬間に世界から消失したのだった。




