10. 夜空に光り輝くもの
「月の、女神さま……?」
空に浮かぶ月と交互に見やって聞き返すと、彼女――ルーナは「ええ」と頷いた。
「本体はあの月で、この身体は現身だけどねー」
「……イツキと同じような?」
「そーそー。そんな感じ」
軽く答えた彼女は、のんびりとした動きで立ち上がる。岩の上に立って大きく伸びをすると、なにを思ったか「えいっ」と掛け声を上げて水面に飛び込んだ。
「あっ、」
派手な水しぶきが上がり、わたしの顔と頭を濡らす。
潜水したルーナは水中でぐるりと身体を翻して仰向けになると、そのまま水面に浮かんできた。
手足を伸ばして大の字になり、ぷかぷかと水面を漂う。
金と黒の混合した髪の毛が、水の中で生き物のように揺らめいていた。
「ちょっとルーナ。そういう子供じみた真似はやめなさいと言っているでしょう」
「えー? これだけ広いんだから、ちょっとぐらいはしゃいだってべつにいいじゃん」
サクラの苦言に、ルーナは天を仰いだままで口を尖らせる。
「ひとりのときならね。他に誰かがいるときは自重なさいよ」
「はいはーい。わっかりましたぁ」
気の抜けた声でルーナは答えるが、どう見ても改めるつもりがあるようには思えなかった。
サクラの溜め息の音が聞こえる。
ちらと横目で見れば、その顔には諦めの感情が色濃く表れている。
おそらく、いつものことなのだろう。
「それから、今のネコは他者に裸を晒すことに抵抗があるようだから、この子ひとりで入浴しているときは今みたいに乱入するんじゃないわよ」
「ええー? でもでも、お空からネコちゃんのお風呂シーンを見つけたら、私テンション激マックスでちょっかい掛けたくなっちゃうよ?」
「この子が、嫌がっているの」
不満そうなルーナへサクラがそう言ったのと同時、空気がぴぃんと張り詰めて、
「これは警告よ。――わかるわよね」
何度か感じたことがある、あの底冷えのする気配が放たれた。
周囲に広がる不可視の圧に、自然と身体が竦む。
しかしサクラと同じ神的存在であるルーナにとってみれば大したことではないのか、その様子に変わりはなかった。
手足を軽く動かすと器用に水面をスイーッと滑り、仰向けのままこちらに向かって移動してくる。
そうやってサクラの顔の真下あたりまで流れてきたルーナは、水面からサクラの氷のような顔を見上げると「おけおけー。気をつけまーす」と気の抜けた声と表情で返答した。
「……はぁ。まったく、あなたはねえ」
そんな彼女の姿を目にして、サクラの発する空気が緩んだ。
盛大な溜め息がその口から漏れる。
それでもルーナは意に介せずといった調子のままだった。緩んだ顔つきで、ふんふんと鼻歌を奏でている。
そこに、登場したときの幻想的な雰囲気は微塵も感じられなかった。
子供のわたしが言うのもなんだけれど、無邪気というか、天然というか、ふわふわとしていて掴みどころのないひとだった。
「でも、そっかー。今のネコちゃんは裸を見られるのがイヤなんだねえ」
ルーナは身体の向きを変えて、今度はこちらに滑ってくる。
顔をじろじろと見上げてきて、居心地の悪さを感じたわたしはついっと視線を逸らした。
「きっと、まだ警戒心が解けていないんだろうね」
「…………」
「恥ずかしい――っていうわけじゃなくて、不安なんだよね?」
「…………」
「裸ってさ、生まれたままの、ありのままの姿だもんね。衣服っていう鎧を脱いで本当のネコちゃんを曝けだすには、まだまだ時間が必要といったところかなー」
「…………」
「ネコちゃんを攻略するには、まだまだわれわれの好感度が足りないわけですなー。うししー、これは意外と難易度が高いのではないのですかな、サクラどのー」
ルーナの言葉に、サクラは呆れたように肩を竦めるだけで答えなかった。
わたしも、沈黙を保った。
なにも言えることは、なかったのだ。
「まあ、今後ともよろしくね。夜は私の世界。気が向いたときは遊びに行ったりするから、かまってちょーだい」
「……うん」
正直なところ、掴みどころがなさすぎて対応に困るというか、苦手に思う気持ちがなかったわけではない。
けれど、やっぱり悪意とかそういうものは感じられなかったし、悪いひとではなさそうだった。
これも、いずれ慣れるのかもしれない。
「素直でよろしい。そういうところポイント高いよー」
満足そうに笑った彼女は、次いでその腕を伸ばすと夜空を指差した。
「それで、あの空に浮かぶ星と月だけどねぇ」
唐突に切り替わった話題に、一瞬頭が混乱する。
しかしすぐにそれがわたしのそもそもの問いに対するものだと思い至る。
――あの月や星って、本物なの?
最初に姿を現したときは、抽象的なことを口にしていてよく理解できなかったけれど。
「あーいうのは全部、実体があるものじゃないんだよ。空の向こうには無限があるだけで、あなたの世界のように宇宙があって天体があるわけじゃないの。だから、そこにあるように見えても、決して触れることも、近づくこともできない」
ルーナは言う。
「近づいた分だけ遠ざかり、遠ざかった分だけ近づく。そういうものなの。手を伸ばしても決して届くことがない、手にすることができない輝き」
「…………」
「なぜなら、あれはもう失われてしまったものだから。たしかにあったはずなのに、もうここにはない、かつてあったもの」
「…………」
「だから、残照。残光。そういうところは、あなたの世界の星々と似ているよねー」
その意味を、本当の意味で理解できたわけではない。
けれど、似ているという言葉には頷けるものがあった。
地球上から見える星の光は、いまではなくずっと昔の輝きなのだと本で読んだことがある。
あまりにも距離がありすぎるから、光の速さでも届くまでに長い時間が経ってしまうのだと。
この世界の星々も、かつての輝きだと言う。
それが具体的になにを指すのかはわからないけれど、でも、この星空を見上げてわたしは思うのだ。
「……きっと」
言葉が、口からこぼれ出る。
「きっと、そのかつてあったというものは、すごく綺麗なものだったんだろうね」
ルーナの、サクラの、息を呑む音が聞こえた。
「……どうして、そう思うの?」
サクラの声に、視線をそちらへ向ける。
真剣な眼差しが、わたしを見ていた。
それに、わたしは両腕を広げる。
天を示して、答える。
「……だって。残った光でさえあれだけ綺麗に輝くのなら、失われる前のそれは、きっともっと綺麗だったんだよ」
どんな宝石よりも眩く、光り輝いて。
とても、美しいものだったのだと思う。
「……ちがうの?」
わたしとしては、ごく当たり前のことを口にしただけだった。
なのに、サクラもルーナも、軽く目を見張って、わたしを見つめていた。
その反応に、わたしは途端に不安になる。
もしかすると、なにかおかしなことを――。
「――――」
けれど、それはわたしの考え過ぎだったらしい。
すぐにふたりは、微笑んだのだ。
やわらかく、やさしく。
わたしに向けられた瞳が、細められる。
眩しいものを見たというように。
「……ええ。その通りよ、ネコ」
サクラが言った。
「失われてなお輝き続けるあれらは、かつて、比べ物にならないほど眩いものだった。その証として、今もああして夜空で輝いている」
誇ろらしげに笑って。
「やっぱり、あなたはどれだけ幼かろうとこの世界の主なのね」
そう告げるのだった。
お風呂から上がったあと、サクラはルーナと晩酌しながらたくさんのことを語り合っていた。
わたしも途中まではそばで聞いていたのだけれど、気づけば寝室の布団に寝かされていた。
結構な時間お昼寝をしたはずなのに、身体はもっと睡眠を求めているようだった。
いや、正確には身体というよりは心なのだろう。
今日は、いろいろなことがあった。
サクラからこの世界のこと、わたしのこと、その役割を説明され。
白銀の髪に赤眼、黒角が生えたウサギという女の子がやってきて、彼女に連れられて空を飛び、星神樹という大木の中に入り、その天辺に導かれ。
そこでイツキという星神樹の化身と出会い、さらに空の上へ。
この大陸を一望できる遥かな高みにのぼり、そこからこの世界の説明を受けて、おいしいジュースや果実でお腹を満たし。
露天風呂ではとても綺麗な夜空を見上げて、月の女神様と遭遇し、会話を交わした。
これだけ新しい出来事が一気に押し寄せてくれば、自分の中に取り入れて消化するのも一苦労だ。
心が疲れてしまうのも納得である。
でも、決して嫌ではなかった。
地球ではありえない物事に遭遇するたび、ドキドキして、ワクワクした。
未知と、冒険があった。
ここはあの場所ではないのだと深く実感できた。
この世界は次にどんなものを見せてくれるのだろうという期待が、常にわたしの中にはある。
もっとたくさんの不思議と出会いたいと思う。
この世界のことを知りたいと願う。
明日をこれほど待ち遠しく感じるのは、きっと生まれて初めてのことだった。
早く明日になればいいという気持ちを抱きながら、わたしの意識は薄れていった。
――その日、わたしは悪い夢を見た。
施設のベッドの上で、ひとりで目を覚ます夢。
そこには、わたしをここではない何処かへ連れていってくれる誰かはいなくて。
わたしに笑いかけてくれる人なんてひとりもいなくて。
わたしは世界の異物のままで、誰にも理解されず、独りだった。
悪い、夢だった。




