09. 星月の夜
脱衣所から出ると、すぐ左手側に湯船が広がっていた。
「……おっきい」
目を見張る。予想していたより何倍も大きい。
大きな旅館にでもありそうな規模の露天風呂だった。
学校の教室ぐらいの大きさがあるだろうか。
自然の岩をそのまま組み合わせたような立派な石垣に囲まれた広々としたお風呂だった。
その周囲には綺麗に形を整えられた石床が広がっており、風呂場全体は背の高い竹垣にぐるりと囲われて外界と仕切られている。
「ネコ、まずはこちらに来て身体を清めなさい」
声のしたほうを見れば、脱衣所から出て真っ直ぐ進んだ先、右手側の竹垣の前にサクラが立って手招きしている。
身体に巻いたタオルが落ちないよう気をつけながら近寄ると、そこには竹垣の上部から突き出た木製の湯口が三つ、人一人分ぐらいの間隔を空けて並んでいた。
湯口からは絶えず水が流れ出ており、不思議なことに床に落ちた水はどこかに流れたり溜まったりすることもなく、石材に吸い込まれるように消えてしまう。
「一番左が水、残りはお湯になっているから覚えておくように。それと、ここに引かれた水は全て水神と精霊神の加護があるから、石鹸など使わずとも浴びるだけで隅々まで清めてくれるわ。もちろん、そのまま直接飲むこともできるから、長湯して水分を補給するときは利用しなさい」
「……すごい」
「わたくしはもう清めたから、先に湯につかっているわ。こちらには背中を向けておくから、きちんとタオルを外して浴びなさいね」
わたしが頷くと、サクラはさっさと離れていく。
その後ろ姿を見ながら、彼女の長い髪の毛がいつの間にか頭の上でとぐろを巻いていることに気づいた。
意外とコンパクトにまとまっている。床に触れるぐらいの長さがあるので、本来ならもっとタワーみたいになるはずなのに。
もしかしたら縮ませているのかもしれない。伸ばすことができるのだから、その逆ができないということもないのだろう。
サクラが実際に湯船に入って、こちらに背中を向けて腰を下ろしたのをしっかり確認してから、わたしもタオルを外してお湯を浴びる。
熱くもなくぬるくもなく、ちょうどいい温度。
頭で受けたお湯が、顔、首、胸、お腹、腿を伝って床に流れ落ちていく。
サクラの説明した通り、ただ浴びているだけで体中の汚れが落ちていくのを感じる。
髪の毛の間に指を通して梳いてみると、なんだか髪質がよくなったような気もする。
腕や顔の肌を擦ってみると、つるつるもちもちしているような。
さすがにこれは思い込みかもしれないけれど。
やがて全身隅々までお湯が行き渡ったかな、というところで湯口から離れた。
髪の毛を絞って水気を抜き、再びタオルを巻いて、湯船に向かう。比較的平らな岩の上に立って、そろそろと足先を湯の中に沈めていく。
やはりこちらも熱くもなくぬるくもない、ちょうどいい湯加減だった。
深さはわたしの膝ぐらい。この程度なら、座ってつかることも十分できそうだった。
「こちらにいらっしゃいな」
あまりにも広すぎてどこに腰を下ろしたらいいか迷っていると、サクラから声が掛かった。自分の左隣を指し示している。
とくに断る理由もなかったため、お湯をかき分けてそこに向かい、彼女の隣、湯船の縁に背中を預けるようにして腰を下ろした。
「……ほふう」
全身がお湯に包まれて、思わず息が漏れた。
気持ちがいい。
広々としていて開放感があるせいなのか、お湯が特別製だからなのか、施設での入浴とは比べ物にならないほどの心地よさがあった。
「ネコ。髪の毛、まとめたほうがいいわね。これも他人と入るときのマナーのひとつよ。ひとりで入るときはそのままでもいいでしょうけど」
言われて、自分の髪の毛を確認する。お湯の中にひたった髪の毛は、ゆらゆらと水面近くで揺れていた。
「……でも、輪ゴムとかピンとか、持ってないよ」
「これを使いなさい。まとめ方は、あとできちんと教えるわ」
言うなりサクラは自分の髪の毛を一本引き抜くと、それを摘んですっと表面に指を滑らせた。
途端、一瞬前まではたしかに髪の毛であったはずのものが、一本の飾り気のない金色の簪に姿を変える。
まるで手品を見ているようだった。
タネも仕掛けもないのだろうけど。
「じっとしていなさい」
サクラはわたしに背中を向けさせると、ほんの十秒程度で髪を結い上げてしまう。
頭の重心が変わってちょっとぐらぐらするけれど、髪の毛が肌に張り付く感じや首筋のうっとうしさがなくなって、気分はすっきりしていた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
わたしお礼の言葉を聞いた彼女は軽く肩をすくめると、また前に向き直る。
わたしも体の向きを戻して、縁に背中を預けた。
手足をゆっくりと伸ばして身体の力を抜く。
そうして、何気なく天を仰いだ。
「――――」
瞬間、息が詰まった。
視界に映った光景に、口を半開きにして、呆然とする。
美しく幻想的な世界が、そこには広がっていた。
暗闇に浮かぶ満点の星空。
まるで宝石を散りばめたように、ひとつひとつが大きく、強く、その存在を主張するかのようにきらきらと輝いている。
しかも、それらは単色ではないのだ。
青、赤、黄、緑、紫。
肉眼でもはっきり見えるほど様々な色の星々が輝きを放っていて、宝石箱をのぞいているかのよう。
そしてそのような綺羅星の中でも一際大きく、煌々と照っているのは、夜の主役――まんまるのお月様だった。
ほとんど白に近い冴え冴えとした光を放つ満月。
わたしが知っている月の数倍の大きさがあるだろう天体。
道理で、明かりもないのに暗さを感じないと思った。
あれだけ大きな月が夜を照らしているのならば、たしかに夜でも不便はないだろう。
あれだけ強く月が輝いているのに、星の光がかき消されずにいるのが不思議なぐらいだ。
「よい眺めでしょう?」
右隣から、サクラの声が掛かった。
天から視線を逸らさず、わたしは頷く。
「これがアタラクシアの夜空。この景色のためにわざわざ露天にしたのよ。こうして、空を眺めながらゆっくりと湯につかることができるようにね」
「……すごく、いいとおもう」
くすり、と笑う気配。
「浴場の周囲には雨風、虫除けの結界が張ってあるから、天候を気にせず入ることができるわ。冬はさすがに寒いけれど、一応ある程度気温を調節する機能もあるし、寒いなら寒いで夏とはまたちがった良さがあるわよ」
「……やっぱり、冬は寒いんだよね」
「アタラクシアにも四季があることは、ウサギあたりから説明されたでしょう? あなたのいた日本と同じよ。夏は今のように暑く、冬は寒い。春は芽吹きの季節で、秋は葉が落ちる季節」
サクラの言葉に、昼間ウサギから説明を受けたときに抱いた疑問を、思いだす。
視線を夜空から外して、隣のサクラに向けた。
「この世界ってどうして地球――っていうか、日本にそっくりなの?」
「うん?」
「一日の長さとか、一年の日数とか、季節とか。それにみんなが話してるのも日本語だよね?」
わたしの質問に、サクラは薄く笑う。
「そうね。まずこの世界とあなたの世界の相似について答えるなら、日本を参考にしているからよ」
彼女は、なんでもないことのようにそれを口にした。
「……そう、なの?」
「そうなのよ」
サクラは、真意が窺えない薄笑いを浮かべている。
……彼女が嘘をついているようには思えなかったが、そのように単純な話ではないという思いが、わたしの中にはあった。
けれどそれを詳しく教えてくれないのは、きっと今のわたしでは理解できないからなのだろう。
だから、あえてそれ以上は訊ねなかった。
彼女に悪意なんてものが一欠片も存在しないことだけは、今のわたしにもわかっていたから。
ぜったいに、口にはしないけど。
「ただ言葉に関してだけ言えば、別よ」
「べつ?」
「ええ。あなたもわたくしも、もちろんウサギやイツキも日本語を話しているわけではないの。あなたにはきっとそう聞こえているのでしょうけど、そう錯覚しているだけで実際はまったく別の言語を使っているのよ」
うまく、理解できない。
わたしはたしかに日本語で話しているつもりだし、聞こえるのもそうだった。
「ここは《天上世界アタラクシア》。原初の世界。ゆえに、ここにはあなたの世界で言うところの『バベル以前』の言葉が残っているの。三千世界で《始原言語》や《神聖言語》、或いは《神言》などと呼ばれる《始まりの言葉》ね。だから、この世界に規定された存在は自然とその言葉で話すようになるし、むしろそれ以外の言葉を語ることはこの世界ではできないの」
「……じゃあ、わたしも?」
わたしの問いに、サクラは頷く。
「…………」
腕組みをして、首を傾げる。
詳しいことはやはり理解できなかったけれど、わたしが日本語を話しているつもりで実はそうではなかった、ということだけはわかった。
けれどそうとわかった今でも自覚はないし、違和感も不便も感じない。
まあ、自動翻訳の魔法みたいなものが常に働いている、とでも考えておけばいいのかもしれない。
「ちなみにあなたとわたしは、外に出てもそのまま《始まりの言葉》を使えるわ。便利よ。どの世界のどの地域に行っても支障なく話が通じるもの」
「……すごい」
「そう。すごいのよ」
つまりもうわたしは、英語を勉強する必要もないということだ。
労せずして、すごい力を身につけてしまった。
そのことに感嘆していると、ふとわたしの中に新たな疑問が思い浮かんだ。
ここは原初の世界で、だから原初の言葉が残っている。
一方で、この世界は日本を参考にして作られているという。――原初の世界よりずっとあとに生まれたであろう、地球という星の日本を。
辻褄が、合わないように思う。
未来に生まれるものを参考にすることなんて、普通はできるはずがないからだ。
或いは、地球誕生以前はもっと別の法則に支配されていて、この世界が今のような姿になったのは(神的存在にとっての)最近のことなのだろうか。
たとえば、わたしのために世界を作り変えた、とか。
それを問おうという気には、ならなかった。
もしそれが真実だったら、今のわたしでは受け止めきれない。
わたしなんかのためにそこまでするという事実は、重すぎる。
その想いに、押しつぶされてしまいそうなほどに。
だから、わたしは口を噤んだ。
口元が湯につかるほど深く沈み込む。
視界の端では、サクラがそんなわたしを薄く笑って見つめていたけれど、その視線には気づかないをふりをした。
それからしばらく、わたしたちは時折会話を挟みながらお風呂を楽しんだ。
そのほとんどはわたしがこの世界に対する疑問をぶつけて、それにサクラが答えるというものだった。
たとえば、屋敷には冷蔵庫や電灯など電化製品とおぼしきものがあるがここには電気が通っているのかとか、すっかりわたしも忘れていたけれど、わたしが王様というわりにはそういう態度で接する相手はいないし、お城みたいなものもない、など。
前者の問いには、趣味で外世界の道具をここでも使えるよう改造する物好きがいる(ちなみに動力は神的存在が保有する力――神力らしい)という答えで、後者には、アタラクシアの王は人間世界のように支配・統治する存在ではないから必要以上に畏まることはなく、よって威を示すための城などもわざわざ建てる必要もない、という答えが返ってきた。
「大体、この屋敷でも持て余すぐらいなのに、お城なんて余計に暮らしにくくなるだけよ」
とはサクラの言葉である。
たしかに、わたしもお城に住みたいとは思わない。
和風のこのお屋敷のほうが、馴染みがあってとても落ち着く。
それからまた会話が途絶えて、わたしは夜空を見上げる。
視界に入るのは、何度見ても感嘆の息が漏れる美麗な天。
大きく丸い白月を中心に、暗幕に散らばる色鮮やかな星々。
「あの月や星って、本物なの?」
ふと、疑問に思ってわたしは訊いた。
星にはたくさんの種類と色があることは知っていたが、地球上では肉眼であれほどはっきりと色づいて見えることはなかったはずだ。月だって、これほど強い存在感を持ってはいなかった。
地球とは物理的な法則が異なっているせいなのか。
或いは、似たように見えるだけで地球で言うところの天体とはまったく別のモノなのか。
そもそも、空の向こうはどうなっているのだろう。
海の果てには、なにもない絶空が広がっていた。大地の下には光も届かない深淵がのぞいていた。
では、空の果てにはなにがあるのだろう。
「夜天に浮かぶ星々は、かつての残照。残光」
――その声は、わたしの左方から聞こえた。
サクラがいるのとは逆の、誰もいないはずの場所から。
「たしかにこの世界に生きたという、彼ら彼女らの証。記録。御印」
驚いて振り向けば、わたしの左後ろの岩垣に、いつの間にか見知らぬ女のひとが腰掛けていた。
綺麗なひとだった。
黒と金の入り混じった不思議な色合いの髪の毛を腰のあたりまで伸ばした、十代後半ぐらいの細身の女性。
無駄な贅肉が一切見当たらないすらりとした身体と、抜けるような白肌を惜しげもなく晒し、微笑みながら天を見上げている。
「そして暗夜照らす月華は、この私」
彼女の顔が、こちらに向けられた。
白銀に輝くふたつの瞳が、わたしを捉える。
それはまるで、わたしたちの頭上に浮かぶ白月の光のようで――。
「私は月の女神。月神ルーナよ。よろしくね、ちっちゃな王様」
彼女は、ふわりとやわらかな笑みを浮かべて、そう告げたのだった。




