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幕間その6 <紙を漉く勝利>

この話は、題からも分かる通りハイネがメインとなります。

そして、・・・

シャッシャッ、トントン、シャッシャッ、トントン、


濁った水の中を漉く音と、水を切る音が、交互にリズミカルに続く。


腰をかがめ、水の抵抗を受けながら、繊細な繊維を漉きあげ、ならしていく。


冷たい水と、中腰の姿勢、少しずつ少しずつたまっていく地道な作業、

決して楽な仕事ではなく、栄光や欲望を一刻も早く満たしたい人間には耐えがたい作業だろう。


流れる黒髪を後ろで束ね、黒いシャツと細身のズボンという地味な服装でありながら、何かの踊りや作法を見ているかのような、リズミカルで無駄のない動きは、華のあるハッとするような美しさを奏でている。白い首筋に流れる汗が、宝石のようにきらめきながら落ちる。


「ふう・・・・」


一息をつき、竹の水筒から一口水を飲む。


ああ、おいしい。


至福の笑みは、たとえようも無いあでやかさで、見とれて転倒する男性も珍しくない。


ふと、視線を感じてそちらを見ると、窓の外から貧しい姿をした少女がじっと見ていた。ハイネの視線に気づいて、気まずそうに目をそらす。どこにでもいるような、おかっぱの赤茶けた髪をした少女は、11,2歳だろうか、痩せて顔色もあまりよくない。着ている物もごわついたシャツと、同色のスカートに、貧しい人たち用の欠けた木の靴だった。


「あなたも漉いてみたいの?」


ばっと、少女が顔を向けた。


「私は、働きたいの。」


絞り出すような声だった。





『そうか、あの人が言っていたのは、この事なんだ』

ハイネは、少女の声にセイジの言葉を思い出していた。




少女はマーヤと言った。

工房の近くの裏通りにひっそりと身を寄せ合う、貧しい人たちの地区に住んでいる。

よほど一生懸命見ていたのだろう、ハイネがさせてみると、意外に手際は良い。


『しばらく練習させれば、それなりに作れるようになれそうだわ。』


だが、まだまだ商売用にはほど遠い。


「私の紙、売れそうですか?。」

「まだまだね、もう少し丁寧にならさないと、ペンが引っ掛かるわ。使う人がいてこその紙なの。」


悔しそうにうつむく少女に、ハイネは目を和ませた。

優しく美しい慈母の笑み。それを見た者はだれもが胸を打たれる。

だが、過酷な人生を過ごしてきた彼女は、少女の悔しげな顔ににじむ鬱屈も理解していた。

もうすぐこの少女も、己の人生を選択しなければならない年齢なのだ。

手に職をつけるか、己の女を売るか、という2択。しかしマーヤには一つしかない。


田舎なら、百姓仕事を手伝いながら、という選択肢もある。

しかし、このような街中のスラムに近い層になると、百姓仕事どころか、手につける職を学ぶチャンスすら無い。


「あなた、私のそばで仕事なさい。少しだけどお金も出してあげる。紙がちゃんと漉けるようになれば、お金も自分で稼げるようになるわ。」


紙漉きは決して楽な仕事ではない。しかし紙の需要は高まる一方である。働き手はいくらいても良い。けれど、少女の顔は悔しそうに歪み、涙をこらえていた。


「おかあさんが、病気なんです・・・。私しか、家族がいないの。」

「そお、だったらお母さんも働くといいわ。あなた、運が良いわよ。」

「おかあさんは、長く起きていられないの。せきがひどくて、」

「治せるから、安心なさい。」


黒曜石のような黒い深い瞳が、じっと見つめていた。

おごそかな、心からしびれるような声に打たれ、マーヤは茫然とした顔をしていた。



「だけど、嫌な男たちがうろついてます。」


マーヤの家に行こうとするハイネを、マーヤは必死に止めた。なぜ必死になっているのか、彼女自身もわからない。

その連中から逃げるのに、いつも苦労していた。捕まると殴られ、必死に稼いだわずかな金も奪われる。だが、


『だいじょうぶよ』


とハイネが微笑むと、なぜかそれが絶対に大丈夫な気がしてしまう。


少女の家に近づくと、薄汚れた男たちが出てきた。


「マーヤ、金はどうした?」

「そっちの別嬪を売りに来たんだろ?」


怯えながらも、ハイネをかばうように立つマーヤに、優しい声がかけられる。


「マーヤ、だいじょうぶよ。」


ハイネの腕の中にいるグリが、右手をペシッと振ると、男たちはまとめて吹っ飛び、失神してしまった。

もちろん、マーヤには何が起こったのか全く分からない。

そして、隙間だらけのあばら家へ、ハイネは恐れ気も無く入った。


「マーヤ、その人は・・ゲホッ、どなた、ゲホッ。」

「私は、ハイネ・リグマと申します。はじめまして。」


痩せているが優しそうな母親に、ハイネはそっと癒しをかけた。

かざした白い細い手から、淡い光がお日様のように満ち溢れる。

光があばら家に満ち、母親はせきが止まり、息が楽になっていった。


「おかあさん・・・・!」


マーヤは目にいっぱいの涙をため、奇跡の光景に見入っていた。





「なぜ私どものような者に、このような親切をしてくださるのですか。」


母親は、心底申し訳なさそうに聞いた。

医者にかかるだけでも、彼女たちからすれば目の玉の飛び出るような金がいる。

ましてや、このような素晴らしい『癒し』は奇跡のレベルで、医者どころではない。

ここまで貧しい暮らしの人たちは、『黒髪の聖女』の噂など、聞く事すらなかった。

そして、仕事を教えてくれ、お金まで稼げるようにしてくれるという。

昨日まで、病に苦しみながら、どれほど願っても叶わなかったささやかな、そして決して届かなかった願いである。


「あなたと娘さんが、働き、お金を儲け、幸せな暮らしをできるようになる。それは私の勝利だからですわ。」

「勝利?」

「私は、かつて何もかもを失い、女としての最後の誇りまで一切を失いました。」


母親は、目に苦しげな光があった。

この母親も、かつてのハイネと同じように全てを失い、それでもマーヤを必死に育ててきたのだろう。

だが、それを決して娘の前では言うまい。それだけは彼女の誇りなのだろう。


「一人の男性が、地獄にいた私を救ってくれました。そして、私に出来ることを教えてくれました。それは、私の誇りとなっています。その誇りは、娘さんやあなたが、誇りとしてくれるようになれば、それが私にとっての勝利、失った全ての誇りの小さな一片が、少しずつ戻ってくるのです。」


マーヤの母親は、目の前の黒髪の美しい女性が、どれほどの苦難と絶望を積み重ねてきたのか、ほんの少し分かったような気がした。何より、その黒く美しい瞳の深さは、絶望的なまでの深さがあった。まるで闇の深淵をのぞきこんだような、腰が抜けるような恐ろしさがその奥にあった。

そしてもし、マーヤがいなかったら、自分はとっくにどん底に落ちて、今頃はどこかに埋められていた。だがハイネという女性は、彼女のマーヤすらいなかったのだ。


「私たちでも、お役にたつのでしょうか?」

「役に立ってください。」


母親とマーヤは、ハイネの務める工房に住み込みで働くようになり、一生懸命仕事を学んだ。

母親は普通の紙作りとして、マーヤはハイネの側付きとして。


ハイネは、紙作りに関しては、一切の妥協を許さなかった。

怒鳴る事も、機嫌を悪くすることも無い。ただ、


「やり直しなさい」


容赦なく、どこが悪かったか、何がいけなかったか、では無く、ただ一言言うのである。


もちろん、質問すれば教えてくれる。手本も見せてくれる。

だけど、何がいけなかったのかは自分で考えないといけない。


工房は、マーヤの漉いた紙を買い取ってくれる。

でも、それで良いなどとマーヤは欠片ほども思えなかった。


何より、ハイネの漉く紙は、全てを圧倒して輝いていた。

画家たちが奪い合うその紙は、一枚が何と金貨一枚するという。

どんな答えよりも、ハイネの紙の輝きが全てを超えてしまっている。


マーヤは、死に物狂いで挑み続けた。

自分が役に立つには、それしか無かった。

あれだけの恩を受けて、もし役に立てないなら、死んだ方がましだ。

手がガサガサに荒れ、体中が冷えて軋んでも、痛んでも、マーヤは挑み続けた。


母親も何も言わず、ただ励ました。


マーヤを鍛え上げてくれているのだ。

自分たちのようなどん底の者に、これ以上の師はどこにもいない。

この人に見放されたら、マーヤは二度と立ち直れない。


マーヤの漉く紙は、工房が買い取るようにして、実は全てハイネが買い取っていた。

ハイネの漉く紙を、セイジが買い取っていたように、マーヤのそれを買い取り、じっと見続けていた。

どんどん腕が上がっている。そのことをほめてやりたい、抱きしめて励ましてやりたい。

だけど、そこで止まってはいけないのだ。

マーヤのためでもあり、自分のためでもある。



一年後、


 「いいでしょう。よく頑張ったわね。」


ハイネのその一言で、マーヤはしゃがみこみ、そしてワンワン泣いた。

幸せで、胸がいっぱいで、誇りが全ての苦痛を取り去っていく。


それは同時に、ハイネの胸に小さな、しかし美しい輝きの火を灯してくれた。誇りと言う輝き。


『セイジの言っていたのは、これだったのですね。』


自分も涙があふれてくる。

何もかもが許せそうな、温かい喜びの涙が。


『弟子を育ててごらん。自分が誇りにしている物を、受け継げる弟子が出来たら、君はもっと幸せになる。』


山賊たちは目の前で全滅し、あの村長は売国奴として絞首刑になった。

でも、それはハイネの空虚な胸に、何の喜びも満たしてはくれなかった。

憎しみや憎悪を、ただの他人の死が、何一つ解消などしてくれない。

それに喜ぼうとすれば、自分があの山賊や村長と、同じ深さで同じ汚れに染まるだけだ。

そんなことになるぐらいなら、舌を噛んで死んだ方がましだ。


セイジにすがる事だけが、ただ一つの救いだった。暗い、底なしの穴がいつも胸の奥にあった。


セイジがグリとの関係から、紙漉きが合うのではないかと教えてくれ、紙を作る事が彼女の闇をほんの少し照らしてくれた。

そして、今はセイジの言ってくれた事が、一層輝いて心の闇を照らしてくれる。


『幸せこそ、勝利なのですね。』


もっともっと、幸せになろう。多くの人の幸せを感じよう。

それだけが、闇や不幸に勝つ唯一の方法なのだと、ハイネは学んだのだった。



ただ、ハイネは思う。


セイジは、どれほどの闇を苦しんできたのでしょう。


私の苦しみすら理解するあの人は、何という人なのでしょう。


あの人を幸せにしてあげたい。そのためにも自分が幸せにならなければ。


彼女は、心から誓うのだった。

・・・メインのストーリィとは、何の関係も無さそうな話ですが、ある因果を含んでいます。それはまた後のお楽しみに。

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