夏休み編2『古民家の恐怖』
夜。
昼間の爽やかな風景は一変し、窓の外は街灯ひとつない完全な暗闇に包まれていた。
昼間はあんなに綺麗に見えていた林の木々が、夜の闇の中で不気味に蠢く巨大な化け物の影に見える。
ガサガサッ……ゴソゴソッ……。
「ヒャアッ!?」
庭とつながった林の闇の中から聞こえた怪しげな気配に、渚が跳びあがるようにして俺の腰に抱きついてきた。
「く、熊……ッ! 熊とか出ないよね……!?」
「た、たぶん大丈夫だと思うけど……山の中だしな……」
「怖いから、早く2階で寝よう! 2階なら安全だよッ!」
すっかり怯えきった渚の手を引いて、俺たちは逃げるようにギシギシと鳴る階段を上り、2階の和室へ向かった。
布団を二枚ぴったりと並べて敷き、照明を消して横になった、その直後だった。
ドンドンドンッ……!! ドン、ドンッ!!
頭上――つまり、屋根裏の空間から、明らかに何かが走り回る激しい足音が響き渡った。
「なんかいる〜〜〜ッッ!!!!」
渚が半泣きで叫び、俺の布団の中にダイブしてきた。
しがみついてくる細い体は、本気でブルブルと震えている。
どうやら、古い木造家屋の屋根裏に小動物――イタチかハクビシンの類が侵入して住み着いているらしい。
その時だった。
どんどんどん、ずるっ、ドテッ。
屋根裏の主が調子に乗って走ったらしく、盛大に滑って転ぶようなマヌケな音が頭上から落ちてきた。
「……コケてるよ〜!!」
「ぶっ……」
本来なら、間違いなく笑いどころだ。屋根裏のやつ、絶対に足を滑らせて木材に頭をぶつけた。
だが、極限の恐怖に支配されている今の渚には、そのマヌケな転倒音すらも『恐ろしい怪異の予兆』に聞こえたらしい。
「お兄ちゃん逃げて! 屋根裏の化け物が滑り落ちてくる!!」
「落ち着け渚! あれはただの運動神経の悪いイタチか何かだ!」
「嫌だぁぁぁ! 抱っこして! ぎゅーってしてて!!」
こうして、ロマンチックな防音空間になるはずだった山奥の古民家初日の夜は、恐怖で泣きじゃくる渚を朝までしっかりと抱きしめ続けるという、なんとも賑やかで眠れぬハプニングで明けていくのだった。
◇◇◇
朝。
まぶたが重い。屋根裏の住人が夜中に何度も運動会を開催してくれたおかげで、二人揃って完全に睡眠不足だった。
欠伸を噛み殺しながら、二人でキッチンに立つ。昨夜使い方を確認した古いお湯沸かし器と格闘しつつ、目玉焼きとトースト、それにコーヒーを準備して向かい合って食べた。
渚の可憐な目の下にも、うっすらとクマができている。
「……じゃあ、行ってくるな」
「うん、いってらっしゃい……気をつけてね」
どこか心細そうな渚に見送られ、車に乗り込む。
会社までは一時間弱。
まあ、地方の通勤としては普通……なのだろう。
そう思っていた。
最初の三十分くらいまでは。
「……遠いな」
山道を抜け、幹線道路に出る。
さらに走る。
信号。また信号。そしてまた信号。
「……まだ着かないのか」
普段は電車通勤の俺にとって、一時間の運転は想像以上に神経を使う。
ようやく会社に着いた頃には、すでにちょっとした疲労感があった。
地元社員にその話をすると、笑われた。
「車で一時間通勤、なかなか堪えますね……」
「でも満員電車に比べたら、車で音楽聴きながら走る方がよっぽど楽でしょう?」
「俺、満員電車の方が楽かもしれません……」
◇◇◇
そんなこんなで怒涛の初日仕事を終えた。
クタクタに疲れて帰宅。ガラリと古民家の玄関を開けると、そこにはすっかり疲弊しきった渚が膝を抱えて座り込んでいた。
「渚……? どうした、大丈夫か?」
「……おかえり、お兄ちゃん」
力なく出迎えてくれた渚に理由を尋ねると、どうやら日中は『巨大な虫たちとの激闘』だったらしい。
山中の古民家だ。網戸の小さな隙間やらどこからか侵入してくるムカデやら大クモやらと、たった一人で命がけの死闘を繰り広げていたのだという。
「それにね……すっごく、ヒマだったの……」
テレビの映りも悪く、スマホの電波も時々怪しい。
さらに徒歩圏内にコンビニどころか自動販売機すら存在しない環境は、生粋の都会人である渚にとって相当なストレスだったようだ。
昨日の「避暑地みたいでステキ!」という輝くような笑顔は完全に消え失せていた。
「ねえ、お兄ちゃん……お盆休み、あるんだよね……?」
渚が俺のスーツの裾を力なくギュッと握りしめ、縋るような上目遣いで見上げてくる。
「家に……帰れるんだよね……?」
「渚……」
「ここ、お兄ちゃんと二人なのは嬉しいけど……虫は怖いし、お店はないし、夜は屋根裏でドテッて聞こえるし……うぅ……っ」
早くも深刻なホームシックである。
「大丈夫だ、お盆休みはちゃんと一緒に帰れるから。
……よしよし、今日は美味いもんでも作って、早く一緒に寝よう」
頭を優しく撫でてやると、渚は「ううん、抱っこして……」と俺の胸に顔をうずめて甘えてきた。
防音バッチリの山奥一軒家で甘々ラブラブ生活――という当初の甘い計画は、自然の猛威と過酷な田舎暮らしの現実によって、早くも「彼女のホームシックケア生活」へとシフトしていくのだった。
◇◇◇
翌朝。通勤がてら、俺は渚を一番近いローカル線の駅まで送っていった。
このまま家で虫と戦わせるより、昼間は電車で街へ出て羽を伸ばしてもらう作戦だ。
「じゃあね、お兄ちゃん! 行ってらっしゃい!」
昨日のどん底の表情が嘘のように、すっかり観光客モードに切り替わった渚は、元気いっぱいに手を振って電車に乗っていった。
そして夜。会社からの帰り道、駅のロータリーで電車から降りてきた渚を拾う。
「おかえり、渚。どうだった?」
「すごく楽しかったよ! 水族館に行ってね、美味しい海鮮丼も食べて……!」
途中のファミレスに入って夕食を食べながら、渚は昼間の出来事をニッコニコの笑顔で話してくれた。
楽しんでくれたみたいで本当によかった。昼間は街へ出て観光してもらうのが大正解だったようだ。
だが、ハンバーグを食べ終えて食後のコーヒーを飲んでいると、渚のテンションがふっと落ち着いた。
テーブル越しに向かい合っていた渚が、すっと立ち上がって俺の隣のボックス席に移動してくる。
そして、俺の腕にギュッと寄り添ってきた。
「……でもね。やっぱり、お兄ちゃんと二人で観光したかったな」
「渚……」
ふわりと甘いシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。
渚は俺の肩に首元をすり寄せるようにして、耳元で小さく囁いた。
「ねえ、お兄ちゃん……。帰りたくないな……」
上目遣いで俺を見つめてくる渚の瞳は潤んでいて、吐息が耳たぶに当たってくすぐったい。
ファミレスのボックス席、夜のドライブ、車で拾ってからの「帰りたくない」の囁き――。
客観的に見れば、これ以上ないほどロマンチックで甘いお誘いのシチュエーションだ。
だが、俺には分かっていた。
この発言は、色っぽい誘惑などではなく、あの古民家の恐怖に対する、切実な現実逃避だということに。
「……気持ちはめちゃくちゃ分かるけどな、渚。ホテルに泊まる予算はないぞ」
「うぅ……分かってるけどぉ……。じゃあ、車の中で朝まで過ごす?」
「身体バキバキになるだろ。ほら、帰るぞ。今日は俺が先に部屋に入って、完璧に虫チェックしてやるから」
甘い夜の雰囲気は一瞬で吹き飛び、俺たちは固い決意と若干の恐怖を胸に、あの屋根裏の住人が待つ古民家へと車を走らせるのだった。




