夏休み編3『母の救援』
翌日の夕方。
仕事を終えた俺は、渚を迎えに駅へと向かった。
正確には、迎える対象は渚だけではない。
「……おばちゃんまで本当に来てくれたんだ」
「だって、あんまりにも渚が悲惨なLINEを送ってくるんだもの。
心配で居ても立ってもいられなくなっちゃって」
駅前の小さなロータリーに立っていたのは、大きなレジャーバッグを提げた渚と、その隣で上品な夏物ブラウスを着たお隣のおばちゃん――つまり、渚のお母さんだった。
娘からの連日の泣きつきLINEがあまりにも切迫したSOSだったため、心配のあまり居ても立ってもいられなくなり、電車を乗り継いで急遽駆けつけてくれたのだという。
車内に乗り込んできた渚は、助手席に座る俺の後ろで、すっかり実の母親に甘え倒す『実家の末っ子』へと完全に戻っていた。
「だってお母さんぁぁ! 本当に虫が信じられないくらい大きいんだよぉ……! 夜も暗闇の中で屋根裏から『トトン、ドテッ』って怪しい音がするのぉ……!」
「はいはい、分かったから。ねえ、ごめんなさいね、急に押し掛けちゃって。迷惑だったでしょう?」
「いえいえ! 全然そんなことないですよ。俺も渚を一人で留守番させてて心配だったので、すごく助かります」
バックミラー越しに目を合わせると、おばちゃんはクスッと楽しそうに笑った。
「まあ、私も噂の古民家、一度見てみたかったしね。ちょっとした観光気分よ」
そんなわけで、車内に賑やかな女子トークを響かせながら、三人で例の山奥の古民家へと向かった。
◇◇◇
「まあ! すごいじゃない! いいところじゃないの〜!」
古民家に到着し、ガラガラと玄関を開けるなり、おばちゃんはパァッと目を輝かせて歓声を上げた。
広い庭、歴史を感じさせる立派な黒漆塗りの梁、そして打ち水をしたかのように静かで涼しい緑の環境――都会暮らしが長い大人にとっては、この過酷な田舎暮らしの現実も、ただの『風情あるステキな古民家リゾート』に見えるらしい。
まあ、俺たちもほんの数日前まではまったく同じことを思っていたのだが。
「お母さん……」
渚が怨念のこもったような、不安げな声で呼ぶ。
「なあに?」
「ここ、山だよ?」
「知ってるわよ。緑が豊かで空気も美味しいわね」
「大きい虫、いっぱいいるよ?」
「自然豊かなんだから、そりゃいるでしょうね」
「徒歩圏内にコンビニも自動販売機もないよ?」
「あら、余計な買い食いをしなくて健康的でいいじゃない」
完全にポジティブ変換される現実に、渚が絶望した顔になった。
都会の快適さに慣れきった女子大生 vs 過去を生き抜いてきた母親のタフさの差が如実に出ている。
「こういう風情のあるところでお盆を過ごすのも素敵ねぇ」
「お盆……?」
「ええ」
おばちゃんは縁側に腰掛け、庭の青々とした木々を眺めながら、何気なく恐ろしいことを言った。
「今年のお盆、いっそのこと両方の家族をここに呼んだらどうかしら?」
「……両方?」
「そうよ! うちのお父さんたちも呼んで、あっちのお父さんお母さんも呼んで、夏美ちゃんたち子供も全員呼ぶの。ここでみんなで合宿みたいに過ごすの、楽しそうじゃない?」
まさかの『二家族合同・山奥古民家お盆大合宿』の提案である。
「いやいやいや!」
俺は冷や汗を流しながら、慌てて口を挟んだ。
「おばちゃん、ここ、一応会社の社宅なんですよ!?」
「あら、そうなの?」
「はい、緊急の応援社員用に会社が買った宿舎です」
「あらまあ」
おばちゃんはトントンと顎に指を当て、少し考え込むような仕草をした。
「じゃあ、会社の人に聞いてみればいいじゃない。『家族を呼んでいいですか』って」
「いや、聞いた結果『どうぞどうぞ、ご家族で宴会してください』なんて言われるとは思えないんですけど……!」
「まあまあ、ダメ元で聞いてみましょうよ。なんとかなるわよ」
妙に乗り気でノリノリな大人である。
(いやいや! 社宅をそんなバンガローみたいに使うのはコンプライアンス的にどうなんだ……!?)
俺が引きつった笑いを浮かべている横で、一番激しい――そして切実なリアクションを見せたのは、他ならぬ渚だった。
「ヤダヤダヤダッ! おうち帰る〜〜〜ッ!!」
畳の上でバタバタと足を力任せにバタつかせ、完全に小学生並みの勢いでダダをこね始める渚。
「お盆休みはッ! おうちに帰ってッ! エアコンの効いた綺麗で虫の出ないお部屋でッ! お兄ちゃんと二人きりで甘々ラブラブで過ごすのっ! ここで大集合なんて絶対ヤダぁぁぁッ!!」
「こら渚! 年甲斐もなくみっともない声出さないの!」
「だってヤダもんー! お母さんのバカーー!!」
母親の前で恥じらいも何もかもを投げ捨て、本性を全開にして『おうち帰りたがり甘えん坊女児』と化した渚の姿。
俺とおばちゃんの「はぁ……」というシンクロした深い溜息が、古民家の無駄に高い天井へと虚しく響き渡るのだった。
◇◇◇
結局、おばちゃんは二泊もしていってくれた。
お母さんが作ってくれた手料理を食べ、一緒に古いバランス釜のお風呂に入り、夜は三人で雑魚寝をする。
大好きなお母さんと過ごせたことで、渚のすり減っていた精神も多少は落ち着いたようだった。
そして三日目の夕方、おばちゃんが自宅へ帰ることになった。俺たちは車で駅まで送っていく。
「じゃあ、渚。お母さん帰るわね」
「うん……」
渚は少し寂しそうな顔をしながら、駅のホームまで一緒に来ていた。
いざお母さんが帰るとなると、やっぱり名残惜しいらしく、おばちゃんのブラウスの裾を小さく引っ張っている。
「渚」
「ん?」
「一緒に電車に乗って帰ってもいいのよ?」
おばちゃんがクスッと優しく笑いながら言った。
「虫だらけの古い家、嫌なんでしょ?
お母さんと一緒に帰って、お家でエアコン効かせてのんびりお盆を待つ?」
一瞬、揺らぐような素振りを見せた渚だった。
けれど――渚はすぐにぶんぶんと強く、頭が揺れるほど首を横に振った。
「……ううん。やっぱり、私、お兄ちゃんと一緒がいいの。ここに残る」
風が吹き抜ける駅のホームに、小さな、けれどはっきりとした声が響いた。
(――っ、渚……!!)
そのあまりの健気さと愛おしさに、俺は危うく駅の改札前であることも忘れて彼女を抱きしめそうになり、必死で理性を動員して拳を握りしめて耐えた。
虫は大嫌いだし、恐怖で夜もまともに眠れないくせに。徒歩圏内に何もない不便さに涙を流していたくせに。
それでも、彼女は俺と一緒にいることを選んでくれたのだ。
さっきまでの『おうち帰りたがり女児』が、急に世界で一番健気で愛おしい『俺の愛しい彼女』に見えて、胸が締め付けられるように熱くなる。
おばさんはそんな俺たちの甘い空気感をすべてお見通しといった顔で眺めると、改札をくぐる間際に振り返り、ニヤッと意地悪く笑って俺に言い残した。
「渚が我が儘言って邪魔になったら何時でも言ってね? すぐ回収に来るから」
「お母さんっ! 回収ってなに!? ごみじゃないんだから!」
渚が真っ赤になってポカポカと空を叩いて怒る声を背に受けながら、おばちゃんは軽やかに手を振って、滑り込んできた電車へと乗り込んでいった。
ホームを静かに離れていく電車を見送ったあと、夕暮れのホームで渚がそっと俺の服の裾をキュッと掴んできた。
「……お兄ちゃん。私……本当に、邪魔じゃない……よね?」
上目遣いで、まだ少し不安そうに俺の顔を覗き込んでくる渚。
その潤んだ瞳を見つめていたら、俺はもう我慢の限界だった。
周りに誰もいないことを確認すると、俺は彼女の華奢な肩を抱き寄せ、その頭を力いっぱい、撫でまわした。
「邪魔なわけないだろ、バカ。……帰ったら、思いっきり甘やかしてやるからな」
「えへへ……うん! お布団の中で、いーっぱいぎゅーってしてね♡」
夕闇が迫るローカル線のホームで、俺たちは手をしっかりと繋ぎ直し、再びあの怪しげな古民家への帰り道につくのだった。




