夏休み編1『転勤命令』
甘く穏やかな毎日は、唐突に中断を余儀なくされた。
「……えっ、転勤……!?」
会社からの辞令を受け、帰宅早々そのことを伝えると、渚は夕食の準備で手にしていたおたまをポロリと落としそうになりながら、目を見開いてオロオロと狼狽し始めた。
「待って待って、お兄ちゃん! 転勤ってどこ!? なんで急に!? 引っ越したばっかりなのに……っ!」
半泣きになりながら、エプロン姿のまま俺の胸元に飛びついてくる渚。
俺は慌ててその華奢な肩を抱きかかえ、落ち着かせるように背中をトントンと優しく叩いた。
「落ち着けって渚! 転勤と言っても、地方の支社で急に入院しちゃった社員の穴埋めに入るだけなんだよ。期間もあらかじめ決まってて、たったの2ヶ月間だ」
「2ヶ月……」
渚は涙目で俺を見上げ、頭の中で計算を回すようにパチパチと大きな目を瞬かせた。
俺だって、せっかく新居で渚と付き合い始めた矢先に離れ離れになるのは、胸が張り裂けそうなくらい寂しい。
けれど、たった2ヶ月だ。長い人生の中ではほんの一瞬――。
「じゃあ、私もすぐ準備するね」
「待て」
俺の胸からすっと離れた渚の腕を思わず引き止めた。
「なんの準備だ?」
「旅行の準備」
「旅行じゃない。仕事の転勤だ」
「だから、ついていくの」
何を当たり前のことを言っているんだ、と言いたげな純粋な瞳で見つめ返される。
「ちょっと待て!!」
俺は間一髪で渚の両肩を掴んで引き留めた。
「2ヶ月だぞ!? お前、大学はどうする気だ!
2ヶ月も講義を休んだら単位落として留年するぞ!」
俺の至極真っ当な社会人としての正論。
しかし、渚は呆れたように「はぁ……」と深いため息をつくと、細い腰に手を当ててジト目を向けてきた。
「お兄ちゃんこそ、何かすごく大事なこと忘れてるでしょ?」
「え? 何を……」
渚はドヤ顔で人差し指をピンと立て、自信満々に言い放った。
「大学の夏休みはね、まるまる2ヶ月間あるんだよ!」
「…………あ」
そうだった。
すっかり社会人の感覚に染まりきっていた俺は、大学生という生き物には『約2ヶ月間の膨大な夏休み』という特権が存在することを完全に失念していたのだ。
「フフン! 8月頭から9月末まで、講義は一切ナシ!
つまり、お兄ちゃんの穴埋め転勤の期間と、私の夏休みは……ピッタリ完璧に被ってるの!」
「……マジか」
「マジです! というわけで、見知らぬ土地での期間限定二人暮らし決定〜♡」
腕にギュッと抱きついてきて、嬉しそうにすりすりと頬を寄せてくる渚。
かくして、遠距離恋愛の切なさにお互い涙するはずだった展開は一瞬で崩れ去り、俺の2ヶ月間の単身赴任生活は、「見知らぬ土地での甘々同棲夏休み」へと、強制的に変貌を遂げることになったのだった。
◇◇◇
会社が用意してくれた住居について、俺はてっきり「ビジネスマン御用達の家具付きマンスリーマンション」あたりを想像していた。
せっかく新居に引っ越したばかりなのに、またあの狭いワンルームのような部屋に逆戻りして、夜な夜な渚に息を殺させなきゃいけないのか……と、密かに懸念していたのだ。
だが、現地に到着した瞬間、俺と渚は目の前の光景に絶句した。
「……ここ、ほんとに社宅なのか?」
そこに建っていたのは、まさかの重厚な日本家屋――一軒家だった。
種明かしを聞けば、この支社には繁忙期や緊急時に本社や全国から多数の応援スタッフが入ることがあるらしい。その都度ホテルやマンションを手配するより安上がりだということで、会社が思い切って状態の良い古民家を一棟丸ごと買い取ったのだそうだ。
今回は他の応援社員もおらず、完全な貸切状態。
「すごーい! お兄ちゃん、ここ本当に借りていいの!?
まるで映画に出てくるおうちみたい……!」
渚がまるで宝物を見つけた子どものように、パァッと目を輝かせている。
敷地に入ると、周囲は青々とした深い林に囲まれていた。車通りもほとんどなく、聞こえるのは風に揺れる葉のざわめきと、遠くで鳴くセミや鳥のさえずりだけ。
山の中にポツンと佇むその家は、どこかレトロで温かみがあり、庭までついている。
「……避暑地の高級ペンションを一棟借りするくらいの贅沢かもしれないな」
林に囲まれた一軒家。
都会の騒音から完全に切り離された静寂。
夏の盛りだというのに、木々の間を抜けてくる風は驚くほど心地よい。
2ヶ月の転勤というより、ちょっと長めの避暑旅行に近い感覚だった。
もちろん、俺は明日から仕事なのだが。
「贅沢すぎないか?」
「贅沢だね!」
渚は満面の笑みだった。
「楽しそう!」
「お前、完全に旅行気分だろ」
「だって夏休みだもん」
「俺は仕事」
「私は夏休み」
「……その理屈、強いな」
渚は俺の腕にギュッと抱きついてきた。
「ねえ、お兄ちゃん。ここなら……お隣さんもいないし、林に囲まれてるから……」
渚は頬をポッと朱に染め、上目遣いで俺を見つめると、爪先立ちになって耳元で甘く囁いた。
「……どんなに大きな声を出しても、誰にも聞こえないね♡」
(……俺の理性が2ヶ月間耐えられるかこれ!?)
ドクンと跳ねた心臓を誤魔化すように咳払いをすると、渚は嬉しそうに玄関へ駆け出していった。
「早く中見よう!」
◇◇◇
「スゴーイ、掘りごたつだぁ!」
ガラガラと重厚な引き戸を開けて居間に入ると、大きなちゃぶ台の下が掘りごたつになっていた。夏場だから本来の出番はないものの、足を下に伸ばして座れる構造は、イス生活に慣れきった俺たち現代人にはありがたかった。
「見てお兄ちゃん、縁側!
ここに並んで座って、スイカ食べたり花火したりしようね!」
庭に面した長い縁側からは、青々とした庭の木々を揺らした涼しげな風が吹き抜けていく。畳の匂いと、どこか懐かしい木の香りが鼻腔をくすぐった。
「ねえねえお兄ちゃん、この『瞬間湯沸器』ってどうやって使うの? ボタン押してガチャンってやるやつ?」
「あー、種火を点けてからダイヤル回すタイプのやつだな。待て、古いお風呂の種火もちょっとクセがありそうだぞ……」
二人で肩を寄せ合い、スマホを覗き込んで検索しながら、レトロなお風呂やガスの点火手順を確認する。
どこを見ても新鮮で、まるで時が止まったかのようなカントリーライフ。これから始まる甘くて特別な2ヶ月間に、俺たちは胸を膨らませていた。
そう――この時は、二人とも気づいていなかったのだ。
なぜこの広大な敷地を持つ古民家が、会社にとって都合がいいほどに破格の『激安物件』として手に入ったのかを。




