付き合いたて編5『姉上来襲(前編)』
「私よ。今、部屋の前にいるの」
スマホのスピーカー越しに聞こえたその声に、俺は文字通り跳び上がった。
電話の主は、我が実の姉である夏美姉。
隣県で会社員として一人暮らしをしているはずの彼女が、なぜこのタイミングでここにいるのか。
「お母さんから『引っ越してから渚ちゃんが毎日のように入り浸ってるから様子見てきなさい』って言われてねー。鍵、開けて?」
冷や汗が噴き出す。あわてて玄関に向かい、鍵を解除して扉を開けた。
そこには、キャリーケースを引き、長旅の疲れなど微塵も見せないギラギラとした目を光らせた姉貴が立っていた。
「へぇ、結構綺麗で広そうなマンションじゃない。……で?」
靴を脱ぎ捨てるやいなや、ズカズカとリビングへ侵入していく夏美姉。
そして――リビングのソファに当たり前のようにちょこんと座り、エプロン姿で俺にお茶を出してくれていた渚を見て、ポカンと口を開けて完全にフリーズした。
湯気が立つ湯呑みを両手に持ち、首を傾げる渚。
「……渚ちゃん」
「あ、夏お姉ちゃん! いらっしゃい、じゃなくて、お邪魔してます……!」
渚がぺこりと可愛らしく頭を下げた、次の瞬間。
夏美姉が、ニッコリと――悪魔のような恐ろしい笑みを浮かべて言った。
「一発殴らせて」
「助けてお兄ちゃん! 夏お姉ちゃんが怖いよぉ……っ!」
渚が涙目で俺の背中に隠れ、着ていたスウェットの袖口をキュッと掴んで助けてと訴えてくる。俺は咄嗟に渚を庇うように両腕を広げ、完全な防御体勢をとった。
「おい姉ちゃん! 落ち着け、急に押しかけてきて何言い出すんだ!」
「黙りなさいッ! 我が弟ながら……こんなキザなことできるヤツと思ってなかったんだけどッ!?」
姉貴が肩をいからせ、悔しそうにフローリングの床をドンドンと力任せに踏みつける。
「なにが『ここが渚の部屋。本格的に一緒に住むのは大学卒業してから』よ!
なにが『預かってほしい』って合鍵手渡しよ!
渚ちゃんからLINEで自慢話聞いたとき、私、羨ましすぎて夜中にベッドで転がり回ったんだからねッ!?」
(姉貴もか! 渚……! どこまで詳細に、どんな熱量で報告してんだよ……!)
「私もスマートに合鍵渡してくれる彼氏ほしいー!!
なんでアラサーの私を置いて弟が先にこんな最高なシチュエーションやってんのよーッ! 爆発しろーッ!!」
「痛い痛い! 姉ちゃんクッション投げるな! 落ち着けって!」
ドスドスとリビングを暴れ回り、ソファーのクッションを俺めがけて連射してくる夏美姉。
もはや説教でも怒りでもなく、ただの独身アラサー女子の猛烈な嫉妬と羨望の大暴れである。
「お兄ちゃん! 夏美さんに『今度すごく素敵でいい人紹介するから』って言ってなだめて!」
「無茶言うな! 俺にそんな、姉ちゃんを満足させられるハイスペックな男の知り合いなんているかよ!」
「ああっ!? 今『ハイスペックな男じゃないと夏美姉には無理』って失礼極まりない顔したわね!? 許さん!
渚ちゃんもそんな見た目だけキザな男に引っかかってないで目を覚ましなさい!」
「やだ! お兄ちゃんは私のだもん! 絶対渡さない!」
涙目になりながらも、俺の腰にぎゅっと抱きついて絶対に離れようとしない渚。
暴れるアラサーの姉と、俺にしがみつく可愛い彼女。
新居の防音性能を試すには、あまりにも早すぎる、そして重すぎる試練だった。
(……誰か……誰かこの暴走超特急な姉貴を止めてください……!!)
俺は天井を見上げ、心の中で激しく悲鳴をあげたのだった。
◇◇◇
「飲めコラ」
夏美姉が一升瓶をドカンとテーブルに置いた。
大人しく帰ってくれる気は、最初から微塵もないらしい。
コップになみなみと日本酒を注ぎながら、姉上はギラギラとした目つきで俺をロックオンした。
「んで。いつから渚ちゃんを可愛いと思ってたんだ。包み隠さず答えなさい」
「……」
拷問のような尋問が始まった。隣の渚は「お酒の匂いすごーい」とどこか他人事のように目を丸くしているが、俺にとっては一歩間違えれば社会的に死ぬ質問だ。
俺は小さく咳払いを一つして、この場を切り抜けるべく大真面目な顔で答えた。
「……生まれた時からです。初めて見た赤ちゃんに、この世にこんな可愛い存在がいるのかと思いました」
「赤ちゃんの時の渚ちゃん、本当に天使みたいに可愛かったもんね。うんうん。ぷくぷくしてて、ほっぺたなんかお餅みたいで――」
夏美姉が一瞬、遠い目をして感心したように頷く。
よし、幼少期の思い出に訴えかけて情を刺激する作戦が効い――
「――ってごまかすな!!」
ドカン、とテーブルが揺れた。
「『妹として可愛い』じゃなくて!『一人の女の子として可愛い』と思ったのはいつからかって聞いてんの! 誤魔化して逃げ切れると思うなよ!」
「ちっ。ダメだったか」
「『ちっ』じゃねぇよ!! 舌打ちすんな!!」
思わず口から漏れた舌打ちを逃さず拾われ、夏美姉の追及がさらに激しさを増す。
隣で渚が、上目遣いで俺を見つめていた。
その瞳には、「で、実際いつからなの?」という、甘く重いプレッシャーと溢れんばかりの期待が満ち満ちている。
(しまっ……! 姉ちゃんの尋問をかわすことばかり考えてたら、渚にも真横で聞かれてる状態じゃねぇか……!)
「ほーら、渚ちゃんも瞳を輝かせて気にしてるぞー? ほら言え! 中学生の時か!? 高校の時か!? それとも『俺はロリコンじゃない』って必死に葛藤しながら理性と戦ってた頃か!?」
「なんでそこまでピンポイントで当時の葛藤を察してんだよッ!?」
「姉の観察眼を舐めるな! ほら飲め! 吐いて楽になれ!!」
「完全に警察の取り調べじゃねぇか!」
なみなみと注がれた日本酒を突きつけてくる暴走アラサー姉貴。
「……私も、知りたい♡」と頬をほの紅く染めてねだってくる年下彼女。
新居での酒盛りは、一升瓶が空になるまで終わらない地獄の尋問大会へと突入していったのだった。
◇◇◇
「……俺が高校生で、渚が小学生高学年くらいの時かな。『お兄ちゃん、彼女いるの?』って突然聞かれたことがあって」
一升瓶を前にした過酷な尋問の最中、俺はついに観念して昔の記憶を掘り返した。
「いないって答えたら、そのあと『じゃあ、好きな人は?』って聞かれたんだよな」
姉貴がおつまみのあたりめを噛みちぎりながら、ニヤニヤと意地悪く笑う。
「ふーん? で、その時あんたはどう思ったわけ?」
「渚も、そういう甘酸っぱい話題に興味を持つ年になったんだな、と思った」
そこまでは、ごく普通の健全な兄としての感想だった。
「……正直、ドキッとした」
隣で息をのんで聞いていた渚が、ぱっと顔を輝かせた。
「やっぱり!」
「え?」
「ドキッとしたんだ!」
「そりゃするだろ。突然そんな真っ直ぐな目で目を見て聞かれたら」
「やった……!」
渚が両手を胸の前で握りしめ、小さくガッツポーズをした。
「私、あの時すごく勇気を振り絞って聞いたんだから」
「そうだったのか?」
「うん」
嬉しそうに何度も頷く渚。
「ずっと、聞き流されたと思ってた。でも、ちゃんと効果あったんだ」
「効果って……」
「だって、お兄ちゃんをドキッとさせられたんでしょ?」
渚は心底嬉しそうに、花がほころぶような笑みを浮かべた。
夏美姉が面白そうに、肘をテーブルについて口を挟んだ。
「それで? あんたはなんて打ち返したのよ?」
「渚はどうなんだ、好きなヤツとかいないのかって」
「ほう」
「そしたら……」
俺は当時の部屋の空気、夕暮れの光、そして渚の表情を鮮明に思い出す。
渚は少し俯いて、自分の膝の上で小さな手をぎゅっと握りしめていた。
そして、今にも泣き出しそうな、寂しそうに、切なそうに言ったんだ。
『好きな人はいるよ。でも、全然気づいてくれないんだ』
スパーン――!!
部屋中に快音が響き渡った。
「いったぁぁあ!!? 何すんだよ姉ちゃん!?」
頭に激痛が走り、俺は悶絶した。
姉貴の手加減なしの平手打ちが後頭部を捉えていた。
「告白同然じゃねーか!!! この超絶ポンコツあんぽんたんがぁッ!!」
「痛い! 痛いって!!」
「渚ちゃん、ごめんね……ッ! うちの弟がアホすぎて本当にごめんねぇぇッ!!」
涙目で渚の手を両手で包み込み、怒涛の勢いで平謝りを始めた。
渚は「ふふっ、昔からお兄ちゃんはこういう人ですから」と、なぜか誇らしげにクスッと微笑んでいる。
「いや待てよ! あの頃の渚はまだ小学生だぞ!? まさか俺相手のことだとは……」
「『まさか』で済ませたんだぁぁッ!?」
姉上の絶対零度のような冷たい視線が、俺の眉間に突き刺さる。
「……はい」
「小学生だろうが何だろうが、その健気な空気感で察しなさいよ! 乙女の純情を踏みにじりやがって!」
「でも……お兄ちゃん、ちゃんとその時の私の顔、覚えててくれたんだね」
揉める俺と夏美姉の間に、渚がそっと割り込んできた。
俺のスウェットの袖口をキュッと掴み、上目遣いで覗き込んでくる渚の瞳は、酒の熱と感情の高ぶりも手伝ってか、とろりと甘く潤んでいる。
「『寂しそうに、切なそうに言ってた』って……私の表情まで、ずっと覚えててくれたんだ。……それだけで、私、すっごく嬉しいよ」
「渚……」
「あーーーもう! 目の前で二人の世界作って甘い空気醸し出すんじゃないわよ! 飲むわよ! 今日は朝まで付き合いなさいッ!!」
夏美姉が叫びながら、俺たちのグラスに容赦なく日本酒を加減なしで注ぎ足していく。




