付き合いたて編4『新しい鍵とふたりの未来』
渚は時々――いや、正直に言えば度々、俺のアパートに泊まりに来るようになった。
週の半ばだろうが週末だろうが、「お兄ちゃん、今夜行っていい?」と上目遣いでねだられれば、男として拒否できるはずもなかった。
だが、そんな甘い生活が定着してくると、ある明確で切実な問題が発生した。
俺が住んでいるのは、本来は学生向けの激安ワンルームだ。
押し入れがついた手狭な6畳間。玄関脇の右手に小さな台所があり、左手に風呂とトイレが一緒になったユニットバス。以上。
一人暮らしでも正直狭いその部屋に、年相応に荷物の多い女子大生の渚が加わると、足の踏み場を探すのすら苦労するレベルだった。
しかし、広さ以上に死活問題だったのが――。
壁が、信じられないほど薄いのだ。
隣の住人の目覚まし時計のアラーム音や、テレビの音が普通に聞こえてくるレベルの壁である。
そんな部屋で、夜な夜な渚と何をしているかと言えば――推して知るべし、だ。
毎回、渚の可憐な声が漏れてしまわないよう手で口を塞いだり、枕に顔を押し付けさせたりしながら、息を殺して愛し合わなければならなかった。
(……もう、限界だ)
渚のあの甘く愛おしい声を、見知らぬ隣人に聞かせてやる気など毛頭ない。
何より、もっと渚を窮屈な思いをさせずに思い切り抱きしめたいし、広いスペースでゆったりと甘やかしてやりたい。
俺はついに、引っ越しを決意した。
「えっ!? 引っ越し!?」
週末、狭い6畳間で俺の膝の上にちょこんと座っていた渚が、スマホの部屋探しアプリを見せる俺の手に跳びついてきた。
「うん。さすがにここ、渚にとっても狭いだろ? それに……壁も薄いし」
「壁が薄いのは……その、ちょっと困るけど……っ」
渚は一瞬で察したらしく、頬をポッと朱に染めた。
それから、アプリに表示された「1LDK」「防音・耐震構造」といった条件を食い入るように見つめ始める。
「じゃあ、じゃあさ! 次のお部屋、私も一緒に探していい? インテリアとかも私に選ばせて!」
「もちろん。渚が少しでも過ごしやすい部屋にしたいしな」
「ほんと!? やったぁ!」
渚は飛び上がるように喜ぶと、俺の首にぎゅっと抱きついてきた。
「実質、半同棲だね……♡ 」
耳元で甘く囁かれ、俺の理性が早くも危うくなる。
新居探しは楽しみだが、引っ越すまでの間、この薄い壁の部屋で俺の理性が保つかどうか……そっちの方が大問題かもしれなかった。
◇◇◇
そうしてあれこれ内見を重ねて選んだマンションは、日当たりの良い1LDKだった。
「おお……広いっ!」
鍵を開けて入った瞬間、渚がパッと目を輝かせた。
前の部屋の『流し台』と呼んだ方がしっくりくる代物とは違う、綺麗で使い勝手の良さそうなカウンタータイプのキッチン。一体となったリビングは10畳ちょっとあり、二人でゆったり過ごすには十分すぎる広さだ。
そしてこだわりポイントの一つが、風呂とトイレが完全に独立していること。
前のユニットバスでは、渚がお泊まりに来たときに色々気まずい思いもしたからだ。今回の浴室は浴槽も広く、小さいながらも清潔な洗面所がちゃんと付いている。
そして――俺の中での最大こだわりポイント。
三畳程度しかないけれどクローゼットがついたもうひとつの小部屋。
「ここが、渚の部屋な」
「……え?」
渚の目が丸くなる。
「私の?」
「そう」
「使っていいの?」
「もちろん」
「じゃあ……今日からここに住んでもいいの!?」
パッと目が輝いた。
「ダメ」
「えーっ!」
即答すると、渚にあからさまに不満そうな顔で頬をぷくっと膨らませられた。
「本格的に一緒に住むのは、渚が大学を卒業してから」
「……」
「その時には、もっと広い部屋に二人で引っ越そう」
「……本当に?」
「ああ」
「もっと広いところ?」
「二人の新しい生活を始めるなら、それくらい必要だろ」
「……うんっ!」
心底嬉しそうな返事が返ってきた。
大学卒業後の未来を、俺が逃げずにはっきりと約束したことが、彼女の胸に深く響いたらしい。
「あと、それから……これ、預かってほしい」
俺はポケットから取り出した、真新しい合鍵を渚の小さく柔らかな手のひらに握らせた。
渚はぽかんと目を丸くして自分の手元を見つめ、それからじわじわと顔を真っ赤にさせていった。
「えへっ……えへへ……♡」
完全にニヤニヤが止まらないらしい。合鍵を両手で大切そうに胸に抱きしめ、何度も何度も指先で愛おしそうに撫で回している。
渚は鍵を握りしめたまま、花がほころぶような満面の笑みをこちらに向けた。
「大事にするね、お兄ちゃん」
「ああ」
合鍵ひとつで、ここまで全身で喜びを表現してもらえるとは思わなかった。
まあ――。
俺だって、決して悪い気はしない。
むしろ、胸の奥がじんわりと温かくなるくらい、たまらなく嬉しかった。
部屋いっぱいに差し込む陽光の中で、俺たちはどちらからともなく寄り添い、真新しい合鍵を挟んで静かに唇を重ねたのだった。




